「えっと……高海さん、だっけ?」
バシャッ―――
肩を滑り落ちたカバンが、音を立てて水たまりにおちる。飛沫が千歌の足を汚すが今はそんなこと気にしている場合じゃなかった。呆然と、唖然とした顔で、目の前にいる幼馴染の顔を見つめる。
「よう、ちゃん?」
「ふえっ!? あっ、いやー、まさか突然名前で呼んでくれるなんて、曜ちゃん照れちゃうなー」
頬を染めながら、嬉しそうにはにかむ。その笑顔も、照れた時に頬をかく癖も、知っている。
小さい頃からずっと一緒にいた、大切な、大好きな、幼馴染。
なのに―――
「あっ! じゃあじゃあ、私も高海さんのこと名前で呼んでもいいかな? えっとー……あ、あはは。ごめん―――」
そよそよと心地の良い風が、申し訳なさそうに両手を合わせる曜の髪を揺らす。新緑の葉と葉が擦れ合う音は、いつもなら澄んだ朝の爽やかさを運んでくれるのに、今の千歌にとっては不安を掻き立てるだけの雑音でしかなかった。
「―――高海さんの下の名前、なんだっけ?」
――――――
―――大っ嫌い!!
本気じゃなかった。
ただ、歌詞を書いている間に、自分に黙って果南と遊びに行っていたことに、無性に腹が立った。
―――果南が競泳水着を買いたいからそれに付き合った
―――別に目的は遊びじゃない
―――帰りに少しゲームセンターに寄っただけ
わかってる。曜がこんなことで嘘をつくわけがない。
ただ、昨日は歌詞の締め切りが近いのに、全然浮かばなくて、イライラして、それで少し曜にあたってしまったのだ。
『締め切りをちゃんと守らない千歌ちゃんが悪いんじゃん!』
わかってる。曜の言うことが、正しいことくらい。
しかし、正論は時として、暴言よりも人の怒りを駆り立てる。
千歌は何も言い返せない。でも、何か言い返さないと気が治らなかった。溢れそうになる涙をグッと堪え、口を衝いて出た言葉は、酷く幼稚な言葉だった。
『曜ちゃんなんか―――』
――――――
「ほんっ―――とごめん! ほら、私あんまり高海さんと接点なかったからさ! スクールアイドル? っていうの、やってるのは知ってたけど……」
わかってる。たとえ喧嘩をしても、曜がこんな事を言う子ではない。
こんな、自分を、千歌を、傷つけるようなことは、絶対に、言わないということを。
わかってるからこそ、千歌は動くことができない。
わたわたと、手をあちこちに動かしながら言い訳のように喋る曜は、どう見ても演技には見えない。本気なのか、冗談なのか、わかるくらいには、長く付き合ってきたつもりだ。
だからこそ、わかる。
曜は本気で言っている。
本気で、今日初めて千歌に会い、名前を呼ばれたことに照れ、自分の下の名前を尋ねている。
夢であってくれ、と、心の底から思った。
漫画の様に、自分の頬を引っ張ってみたりもした。
頬から僅かに痛みが伝わる。その瞬間、後頭部を思いっきり鈍器で殴りつけられたような衝撃が千歌の脳内で響いた。
(夢じゃ、ない。)
「渡辺せんぱーい!早く行きましょー!」
「あっ、うんわかったー! ごめんね高海さん! また教室でねっ!」
人当たりの良い笑顔で……いつも自分に向けてくれていたものとは違う、今日初めて会話した人に向ける、社交辞令混じりの笑みで、手を振り、先で待つ後輩達の元へと駆け出す。
呼び止めなきゃ、いけない。今すぐ、曜の手を掴んで、名前を呼ばなきゃ。昨日の事を、謝らなきゃ。
わかっているはずなのに、足が動かなかった。それどころか力が抜けてしまい、地面がぬれているにも関わらず、その場にへたり込んでしまう。
雲ひとつ無い青空でさえ、非現実的のように思えた。ショックで真っ白になる頭の中で、先程の曜の言葉が浮かび上がる。
『スクールアイドル? っていうの、やってるのは知ってたけど…』
震える手で、スマホを取り出す。既に解は出ているのに、それを認めたくない一心で画面を操作し、藁にもすがる思いで連絡用のアプリを開く。
画面に表記された文字が、千歌を絶望へと突き落とした。
Aqours (8)