ピシッ、ピシッ―――
それは、カチカチの氷を水で入れた時の音のように聞こえた。確か、ねつぼーちょーで氷にヒビが入るとか、そんな感じの音。
けど、今部屋の中には水も氷もない。というかこの音は、外からじゃなく、私の内側から聞こえている。まるで他人事のようにその音を聞きながら、私はただぼーっと見慣れた天井を見つめていた。
曜ちゃんが私を忘れてから、一週間が経った。
Aqoursのみんなに色々暴言を吐いたのは四日目で、それからずっと私は学校を休んで町中を駆け回った。曜ちゃんと私の関係を、誰か覚えていないかって、近所の人や中学、小学校の時の友達、幼稚園の先生にまで聞いて回った。
けど、無駄だった。それどころか、聞けば聞くほど私の記憶までもが薄れてきてしまうようで……。
家に何の連絡もなしに不眠不休で自転車を漕いで、コンビニで途方に暮れてた所を志満姉に見つかって家に連行されちゃって、めちゃくちゃ怒られた。「もう今日はゆっくり休みなさい」って言われて部屋に戻ってベッドの上に横になるけど、不思議と眠くもないし疲れてもいない。
スマホを開いてネットで色々調べてみるけど、何の情報も手掛かりも見つかんない。役に立たないくせに、スマホはAqoursのみんなや友達からのメールや着信でうるさくって、電源を切って部屋の隅にぶん投げた。
音が聞こえ始めたのは、その時からだった。
自分の中の何かが、割れてきているような音。この音のおかげで、昨日は一睡もできなかった。いや、もともと眠くなんてこれっぽっちも無いんだけど……。
きっとこの音は、『高海千歌』という人間を構成する大切な何かが、壊れてきている音なのだと、思う。けれど私は、この音を止めようとはしなかった。っていうか止め方がわからない。
……いや、そもそも、私はとっくに壊れているのかもしれない。
なんていうか、何をしていいかわからないって言うよりも、
(私って、どういう人間だったっけ……?)
もう、何が正しいのかも、何が間違ってるのかもわからない。やっぱり、私の中の曜ちゃんは幻想でしかなかったのだと、世界が言っている。それに抗えば争うほど、音は、どんどん大きく、たくさん聞こえるようになっていって。
(もういっそこのまま―――)
「千歌さん……いる?」
そんな時だった。
懐かしい声を聞いたのは。
頭を動かして障子の方を見ると、そこには見慣れたシルエットが障子に浮かんでいる。そう言えば、風邪を拗らせてしまったと誰かが言っていた気がする。お見舞いに来てくれたのかな?自分だって病み上がりなのに、本当名前通りの
いつもの千歌なら「久しぶりっ!」とすぐにでも抱きつくのかもしれない。けど、今は誰とも話したくない。特にAqoursのメンバーだとすれば尚更だった。ベッドの上に丸まって、布団を被る。「帰って」とは流石に言えないけど、それは細やかな抵抗のつもりだった。
「……みんなから聞いたわ。千歌さんのこと」
でも、その声は障子越し聞こえてきて、どうやら私の抵抗は見えていないみたい。耳を塞ごうと思ったけど、やめた。そしたらあの音しか聞こえなくなって、自分がどんどん壊れていくのがわかって、怖くなるから。
もう、いいや。気にしなければいいんだ。
「ねぇ、千歌さん……」
……?
芋虫みたいに布団を被って蹲っていると、声に違和感を感じた。なんだか、心配していると言うよりは、切迫詰まっているような……
「なんで、みんな曜さんのこと忘れてるの?」
何を、言っているのか。頭の悪い私にはすぐ理解する事が難しかった。いや、言葉の意味を言葉のまま受け取る事が、すぐにはできなかった。
だって、それは私がずっと探し求めていた言葉で、それが、なんで……
「みんなに聞いても、不思議な顔されるばっかりで……動画も写真にも写ってなくて……私が、私だけがおかしくなったんじゃないかって、すごく怖かった」
あぁ、もしこれが幻聴なのだとしたら―――
「でも、千歌さんも覚えているんでしょう?他でも無い―――幼馴染の、曜さんのこと」
たとえ、「ドッキリでしたー!」なんてお茶目だとしても―――
「大丈夫よ、千歌さん―――」
今度こそ、私はきっと壊れてしまう―――
「あなたは、おかしくなんてない。おかしいのは―――みんなの方よ」
けど、千歌の鼓膜を揺らすこの声は確かに幻聴なんかじゃなくって……。
その子がイタズラでこんなことをする子じゃないっていう確信が、千歌にはあった。
震える手で障子を開ける。太陽を背にするその女の子の姿を見た時、本当に天使が降りてきたのかと思った。
色白の肌。華奢だけど、自分よりわずかに高い背丈。腰まで伸びた黒髪に、右上にシニヨンを作っている特徴的な髪型。
きっと私は今、酷い顔をしているんだと思う。涙が止まらなくて、顔がぐしゃぐしゃで、鼻水も……もしかしたら涎も出ているかも知れない。とても学生とは言えアイドルがしていい顔じゃないことは、自分でもわかっていた。
でも、そんなこと、どうでもいい。
嗚咽で、全然うまく喋れない。呼吸もままならないまま、確かめるように、その
「っ……よじっ、ご、ぢゃんっ―――」
「……だから、ヨハネだってば」
―――よく一人で、頑張ったわね。そう言って微笑む善子ちゃんは、目に涙を溜めながら私の頬に触れる。その手は小さくて冷たかったのに、大きくて温かく感じた。
私はもう、なんか色々耐えきれなくって、善子ちゃんに飛びついて、大声をあげて泣いた。千歌の方が先輩とか、年上とか、もうそんなのどうでもいい。二人してバランスを崩して倒れちゃうけど、善子ちゃんは文句も言わずに大声で泣きじゃくる私を、優しく抱きしめ返してくれる。
いつの間にか、音は聞こえなくなっていた――。
――――――
「……そう、そんなことが…」
「うん……ごめんね」
「謝る必要ないわよ。寧ろ、私の方こそごめんなさい。もっと早く力になれたかもしれないのに……」
二人で堤防に座って、海を見ながら今までのことを話す。白昼堂々、女子高生がこんなところにいてもいいのか千歌はすこし不安になるが、どうやら今日は日曜日のようだった。部屋に篭りっきりで時間の感覚がなくなっていたようだ。
寄せては返す波を、テレビの中の知らない国の風景のように眺めながら、善子は足をブラブラと揺らす。
「でも、もし千歌さんと曜さんの喧嘩が原因なら、二人が話せば、解決するんじゃないの? 千歌さんが、曜さんに謝るとか……」
「……それも考えたんだけど……今の曜ちゃんと話すのは……怖くって……」
あははと申しわけなさそうに力なく笑う千歌の体は小さく震えている。何かに怯えているようなその姿に、善子はかける言葉が見つからなかった。かつて自分を救ってくれた人がこんなにも苦しんでいたのに、何も知らずに呑気に家で眠っていたことに、自分自身に無性に腹が立つ。
千歌は立ち上がり砂浜に降りて数歩進むと大きく伸びをする。その背中はとても小さく、頼りなく見えた。
「……なんで千歌だけって、もしかしたら千歌がおかしくなっちゃったんじゃないかって……さっき善子ちゃんが言ったこと、私もおんなじように思ってたんだぁ」
(―――おんなじじゃ、無いでしょ……?)
例えば幼馴染である花丸が、親友であるルビィが、自分のことを忘れ、周りもの人間も、世界すらもそのことを覚えていないなんて考えるだけでも身の毛がよだつ。千歌は大切な幼馴染である曜との思い出を、絆を、この一週間の間ずっと否定されてきたのだ。その苦しみは、きっと計り知れない。
「でも、もういいんだ! 善子ちゃんがいてくれて……変なのは私じゃなくて、世界の方なんだってわかったから……」
―――その笑顔は、かつて自分が憧れたものとはまるで違っていた。心が暖かくなり、同時に切なくなる。見るたびに
「……だから、もういいの。もう、頑張るのは、疲れちゃった」
「っ……!!」
「……もう、全部、なにもかも、あきらめ「千歌さん!!」
大声をあげて、千歌の言葉を遮る。それだけは……その言葉だけは言わせてはいけない。千歌の口から、そんな言葉は聞きたくなかった。
千歌はゆっくりと振り返る。ここ数日、千歌はろくに食事も睡眠もとっていない。肌は乾き頬は痩け目の下のクマも濃い。輝きを失ったその笑顔は、まるで自分に問いかけているようだった。
―――じゃあ、あなたになにができるの?
善子は答えることができない。オカルトの知識は人並み以上に持っている。しかし、特定の誰かの記憶が改変される世界なんて、聞いたことがない。持っている知識では、力になれそうになかった。
「いいんだよ、善子ちゃん。善子ちゃんがいるだけで、私は救われたんだから……」
両肩に手を置き、励ますように笑う千歌に、悔しさで善子はぎゅっと唇を噛む。実際、そうなんだろう。この訳のわからない世界で、一人じゃ無いと思えたことだけで、千歌は安心できた。
しかし―――
(だけど、そんなの―――)
だからと言って―――
(―――諦めていい理由にはならない!!)
もし神というものがあるのならば、これが罰だと言うのなら―――
そんなもの、ただの理不尽だ。横暴だ。
たとえ神にだって、誰かの大切なものを―――あの笑顔を奪う権利など、ありはしない。
(そんなの、私が許さない!!)
自分は堕天使ではない。そんなものいないなんてわかっている。
だけど、今千歌の味方でいられるのは、自分しかいない。
救えなくとも、その手伝いができるのは、自分しかいないのだ。
それなら、普段から名乗っている、堕天使のように。
神にだって、反抗してみせる。
肩にある手に自分の手を乗せる。いつか触れた時とは打って変わって細く冷たくなったその手に一瞬驚いてしまうが、それでも離す事なく、優しく包むようにぎゅっと握る。
「……千歌さん。一緒に来てほしいところがあるの」
――――――
ドシンッ!
「ぅぐっ」
「善子ちゃん!大丈夫!?」
地面に尻餅をつく善子に、千歌が慌てて駆け寄る。それに「平気よ」と手で制し、善子は自分の身長より高い位置にある鉄棒へと手を伸ばす。
善子が千歌を連れてきたのは学校の校庭だった。
日曜の午後、校庭に人影はない。何故ここに来たのか、千歌は善子に尋ねるが、帰って来たのは「私、逆上りってできないのよ」というカミングアウトだった。
ポカンとする千歌をほっといて、善子は鉄棒を掴み、足を空中に思いっきり振り上げる。しかし、足は水平よりやや高い位置でその勢いを失い、同じ軌跡を描いて地面についてしまう。
それからはずっとその繰り返しだった。何度も逆上がりに挑戦し、失敗する善子を、ただ千歌は眺めているだけ。正直、千歌には善子が何をしようとしているのか、全くわからない。できないなら辞めればいいのに、とすら思っている。しかし何故か、何度も挑戦する善子の姿から、目が離せずにいた。
何十分経過したか、わからない。肌に触れる風が冷たくなってきた頃、善子は落ちる回数が多くなって来た。おそらく握力が無くなって来ているのだろう。体力だってそろそろ限界のはずだ。それでも、善子は挑戦をやめなかった。
再度、集中して足を上へ。その起動は今までより高く、あと一息で―――
「っ………ぁっ!!」
その瞬間、限界を迎えた善子の手は、鉄棒から離れる。不安定な体制で落下する体は、受け身も取らずに背中から地面に叩きつけられてしまった。今度こそ千歌は善子のもとへ駆け寄る。腰を抑えて悶絶する彼女は「大丈夫だから」と目に涙を溜めて手を振ってみせるが、その掌を見て、千歌は思わず息を飲んだ。
右手も左手も、皮が大きく剥けて赤い肉が見えてしまっている。善子もそれに気づくと慌てて手を後ろに隠そうとするが、手首を千歌に掴まれてしまう。そのまま、傷に触れないように痛々しい手のひらを両手で包む。
「善子ちゃん……もうやめよう?こんなことしたって「やめて」
再び、その言葉を遮り、千歌の両手から逃れるように立ち上がる。睨むわけではなく、ただ真っ直ぐに千歌を見つめるその瞳には強い光が宿っている。
「起こそう奇跡を、足掻こう精一杯。私の知ってる千歌さんは、みんなが下を向いても、前を見続けて引っ張ってくれる。そんな人だった」
「善子ちゃん……?」
「これは、私の勝手な押し付けでしかない。既にボロボロのあなたに、こんなことを強要するなんて酷いことだと思う。でも、それでも私は千歌さんに笑顔でいて欲しい。輝いていて欲しいのっ!」
今度は善子が傷だらけの両手で、千歌の手を握る。生傷が直に触れると、千歌は一瞬、自分が火傷をしてしまうのでは無いかと思うくらいの熱を感じた。もちろん、実際に熱いわけではない。それは善子の千歌への想い。どんなに体を痛めても、千歌に前を向いて欲しいという想いの熱が、生傷を通して千歌に伝わる。
「だから、私は奇跡を起こしてみせる。逆上がりなんて、奇跡と呼ぶには恥ずかしいくらい小さいけど……こんな私でも、少しでもあなたが前に進む勇気を、この世界に、立ち向かう勇気を!今度は、私がっ―――」
『自分のことを普通だって思ってる人が、諦めずに挑み続ける。それができるって凄いことよ!すごい勇気が必要だと思う!』
『そんな千歌ちゃんだから、みんな頑張ろうって思える!Aqoursをやってみようって、思えたんだよ!』
(あぁ、そうだった……)
仕方のないことだった。異変が起きてから一週間、自分がおかしくなってしまったかのように思えた日々は、確実に千歌を追い込んでいた。いつ壊れてしまっても、おかしくはなかったのだ。
実際千歌は壊れかけていた。自分自身を見失ってしまうほどに。自分が壊れる音の幻聴が、聞こえてしまうほどに……。
(そうだった。私は……高海千歌は―――)
気づけば、善子は再び逆上がりに挑戦していた。勢いをつけて足を振り上げるも、あと少しのところで止まってしまい、また地に足をつける。
「もう、一回っ!」
息を切らし、手のひらの痛みに耐えながら、疲労で震える手で鉄棒を強く握り直す。空気を蹴り上げ、鉄棒を体に引き寄せる。足は今までで一番高く上がった。
けど、あと少し、あとほんの少しが届かない。
重量に負けそうになる体をなけなしの握力でなんとか支える。摩擦で手のひらの傷から激痛が走るが、善子は諦めない。
(お願い、届いてっ!私に、千歌さんを、救わせてよっ……!)
しかし、体は必ずしも思い通りに動くわけでは無い。体力はついに限界を迎え、善子の体は―――
クルンッ―――
それは一瞬の出来事だった。腰に何か柔らかいものが当たると、一気に体が軽くなり、視界がグルンと回る。気づけば善子は両手とお腹で鉄棒に乗っかるような体制になっていた。
ポケットに入れていた黒い羽根がヒラヒラと音もなく地面に落ちる。逆上がりが成功したのだと善子は頭では理解していたが、素直に喜べない。自分の腰を押したのが誰なのか、分かっていたから。
下を見ると、やはり千歌がすぐそばで、何かを押し上げた後のように腕を伸ばしていた。その手をゆっくりと下ろす彼女の表情は俯いてて見ることができない。
「……二人なら、簡単にできた」
その言葉の意味を、善子はすぐに理解することができなかった。両手をぎゅっと握りしめ、千歌は言葉を続ける。
「善子ちゃんは、私を誤解してるよ。私が諦めなかったのは……一人じゃなかったから。みんなが居てくれたから、Aqoursっていう奇跡を、起こせたんだよ。私は、結局一人じゃなにもできない普通怪獣だから……」
そんな事ない、と善子は言い返そうとして、口を噤んだ。顔を上げた千歌の目は、悲観的なものではなく、絶望しているものでもなく、瞳に希望の光を宿し、強く真っ直ぐ、自分を見つめていたから。
「でも、一人じゃ起こせなかった奇跡も、二人なら……善子ちゃんと、一緒なら、きっと―――」
それは、望んだ形では無かったのかもしれない。しかし、確かに届いた。善子の言葉は、想いは、千歌の心に前に進む力を、諦めない勇気を思い出させた。
千歌は落ちた黒い羽根を拾い上げ、未だ鉄棒を握り、自分より高い位置にいる善子に向かって差し出す。
「ねぇ、善子ちゃん。……んーん、堕天使ヨハネちゃん。一緒に、
善子はその笑顔に一瞬見惚れてしまった。浜辺で見たものとは違う、自分がいつも見てきた、大好きな笑顔。幼馴染といる時のそれにはきっと遠く及ばないとわかっていながらも、その笑顔が自分に向けられていることが、自分にも彼女を笑顔にできた事が、誇らしく嬉しかった。
鉄棒からひらりと舞い降りて、躊躇なくその手に自分の手を添える。自分を救ってくれた、あの時のように。今度は自分が、千歌を救ってみせるのだと誓うように、握る手に力を込めた。
「……もちろんよ、普通怪獣さん。だって私は、その為に
――――――
浦の星の校庭から、二人は水平線を眺める。眩く輝く太陽はその色をオレンジに変えて、深い闇に沈もうとしていた。
二人は手を繋ぎ、互いに「せーのっ」と目で合図を送ると、夕日に対面して大きく息を吸う。肺の中を冷たい空気で満たすと、その全てを声にして思いっきり叫んだ。
「「がおーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」」
口から光線も炎も出ない。それでも、この世界に確かに存在する二人の咆哮は空気を揺らす。風に揺れる木々は、その叫びに恐れ慄いているかのように騒めいていた。
それは、宣戦布告。
奪われたものを取り戻すため、理不尽な神への挑戦状。
世界から切り離された普通怪獣と堕天使が今、反撃の狼煙を上げる。
「必ず、取り戻してみせるっ!」
―――待っててね、曜ちゃん!!
伸ばした手を、握りしめる。
それが何かはわからないけど、千歌は確かに何かを掴んだ。そんな気がした―――。
「……?」
「渡辺先輩、どうしたんですか?」
「いや、なんか今……鳴き声?みたいなのが聞こえたような気がして……」
「そうですか?私には何も聞こえませんでしたけど」
「う〜ん、空耳かなぁ……?」
(なんだか、凄く懐かしい声だったような……)
「……」
「……やっぱり、邪魔だなぁ」ボソッ
「? なんか言った?」
「なんでもありません。 それより、早く行きましょう! バス停まで競争です! よーいドンッ!」
「あっ、このー!曜ちゃん先輩に挑むとは、いい度胸だー! まてーい!」