「君の名は。キルヒアイス」   作:高尾のり子

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第14話

 

 キルヒアイスはギリシャ風の玉座に座って、カストロプの生首を前にして、ワインを飲んでいた状況を認識した。

「っ…」

 まるで日本の戦国武将のように生首を前にした酒盛りを装甲服を着用したまま行われていて、周囲では友軍兵士が同じように酒を飲んでいる。

「うっ…」

 少なくとも周囲に危険はないと判断した直後、気持ち悪くなってきた。まだ原爆資料館での余韻が残っていた上、いきなりの生首で、さらにかなりの飲酒をしていたようで、たまらず吐いてしまった。周囲の兵士が12時の5分前から、もう飲めなくなるような勢いで、がぶ飲みしていた総司令官が吐いているのを、まあ、そうなるだろうな、と若さゆえの酒量のわからなさを冷静に見ている。それでも勝利をもたらしてくれた指揮官に対する尊敬と愛着の念は感じられる。

「閣下、いきおいよく飲み過ぎですぞ。まあ、この勝利です、気持ちはわかりますが」

 ベルゲングリューンが水をくれた。さらに、恭しく使用人がタオルを渡してくれる。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 礼を言って受け取る。使用人はギリシャ風の衣服を着ているので、事前に調査していた通りのカストロプの使用人だろうと推測し、ともかく落ち着いたフリをしてテーブルに置いてある羊皮紙を手に取った。ドイツ語で三葉から手紙が書いてあった。手紙というよりメモに近い。

 

 完勝!

 圧勝! 大勝利!

 右のポケットに入っている宝石は伯爵令嬢にあげること。ひどい怪我をさせられていたから、その慰謝料。あと、他の女の子にも十分な補償をさせること。酔った兵士が婦女暴行しないか、注意すること。

 

 読み終わって装甲服のポケットを探ると、宝石が5つほど入っていた。

「…………。ベルゲングリューン大佐」

「はっ! ヒクッ…失礼」

「端末機をお願いします。ヒクッ…ぅぅ…あと、水をもう一杯いただけますか」

 すぐに端末機と水を渡してもらい、今までにないほど酔わされた頭脳で艦隊戦の推移と陸戦の状況などの記録を見て状況を理解した。

「ラインハルト様に報告を……ぅう…ベルゲングリューン大佐、ローエングラム元帥への報告は終わっていますか? ヒクッ…失礼しました」

「はい。ノルデン少将がされたという話です。先を越されてしまい、残念ですな。閣下、自らなさりたかったでしょうに。まあ、こちらが、のんびりしすぎていますから仕方ないかとは思いますが」

「いえ、幸いです。私からも報告してきますから、これ以上の略奪もやめるよう布告してください。飲酒は……節度をもち、決して領民に危害を加えないよう重ねて通告してください」

 本心では飲酒も止めたかったけれど、ここまで盛り上がっている兵士たちへ急に手のひらを返したように水を差すのは忠誠心にも影響すると判断して、キルヒアイスはふらつきそうになる足取りを、なんとか整えつつ艦内に戻って超光速通信でラインハルトと連絡を取る。

「お待たせしました」

「ああ、思ったより遅かったな。フ、酔っているな」

 ラインハルトは12時すぐに連絡をもらえると思い待っていたけれど、もう20分も待たされていた。

「すみません」

「お前が謝ることはない。ミツハめ、よほど嬉しかったのだろう。まあ、見事な勝利だ」

「はい。まさか、あのような勝ち方をされるとは……」

「相手の寝返りに期待して勝つとはな。2000隻の艦隊で出発して帰りは4000隻になるのだから、イゼルローンの魔術師に比肩する魔術だ。凡庸に見えて、案外と魔女だったわけだな。いや、巫女とか言ったかな」

「………」

「浮かない顔をしているな。自分の作戦を無視されたのが残念か?」

「いえ、そうではありません。むしろ、すばらしい結果だと感じています。あのカストロプ公の挑発を見ては私自身も冷静であれたか、どうか、それに冷静に艦隊を後退させていれば伯爵令嬢をお救いすることはできなかったでしょう。その意味でも三葉さんの判断は正しかったと考えます。ただ…」

「ただ? 何だ?」

「私の不明なのですが、まさか、これほど早く占領に至っているとは想定せず、おそらくは艦隊戦の途中で私自身へ戻ると思っていたものですから、占領時に領民への略奪や暴行を強く制止することを作戦書に記していなかったのです」

「そうか……状況は、ひどいのか?」

「クロプシュトック時ほどではありません。三葉さんは婦女暴行と傷害殺人について厳命を出して禁じていてくれますから。ただ、略奪は、ほどほどに、と」

「……ほどほど……か…」

「これを……ご覧ください」

 キルヒアイスは装甲服のポケットから宝石を出して見せた。

「……なるほど、司令官自身が手を染めていては兵士たちも手を出すだろうな。ミツハめ、意外に……いや、凡庸であれば、その程度か……」

「いえ、彼女自身の私欲というよりは、この宝石は負傷された伯爵令嬢と少女たちへの慰謝料に、と」

「慰謝料か……。たしかに、カストロプの財産を帝国の国庫に入れられてしまえば、あまり補償されることはないからな……」

「とはいえ、厳密には横領です」

「……そうだな………困ったな……まだ、続いているのか?」

「一応、制止はいたしておりますが、私が厳命して返却を指示しても、あまりに朝令暮改にすぎ、兵士たちに大きな不満がたまるでしょう。最悪の場合、私が独り占めするために略奪物を吐き出させるのだと曲解されることもありえます」

「そうだな。今までの帝国軍の規律を考えれば、そういう思考になる。クロプシュトック時より、マシということで目をつむるか……」

 二人の信条に合わない結果にラインハルトは複雑な表情をした。三葉がもたらしてくれた結果は一方で素晴らしく、もう一方で遺憾であり、とはいえ彼女を叱責しようという気にはなれない。むしろ、関わりのない戦乱に巻き込んだのに、ラインハルトの野望にそう戦功を予想以上にあげてくれていた。

「ラインハルト様にお願いがございます」

「何だ?」

「兵士たちの酔いが醒める昼頃、通信で私を強く叱責してもらえませんか?」

「……略奪についてか?」

「はい」

「なるほど、その手があるか。……だが、いいのか? お前の不名誉になる」

「このまま見過ごすより、よほど良いです」

「わかった。そうしよう。まずは休め。飲み過ぎた顔をしている」

「はい」

 通信を終わると、キルヒアイスはタンクベッドで酒を抜き、早朝から占領事務を開始して、軍の秩序を取り戻していく。昼前になって手の空いている者は全員が拝聴するようにと命じて、ラインハルトと通信を開いた。大きなメインスクリーンにラインハルトが元帥らしく威厳を持って映った。

「まずは、見事な戦果であったこと賞賛しよう。よくやったキルヒアイス少将。中将への昇進は確実だろう。また、他の士官、兵士諸君も、よくやってくれた。ならびに、カストロプの私兵から帝国軍への編入を望む者も、喜んで受け入れよう。その戦功についても評価する」

 ねぎらいから始まったけれど、叱責へ変化する。

「だが、キルヒアイス少将!」

「はっ!」

「占領時に蛮行があったと聞いている。これは真実か?!」

「……はい……事実で、ございます…」

 認めたく無さそうに認める芝居をした。ラインハルトも芝居をして顔を険しくした。

「カストロプの財産は帝国より、掠め盗られた物、本来国庫に納めるべき、それらを収奪したということであれば、それは新無憂宮が財物に手を出すも同じこと!」

「………」

 直立不動だったキルヒアイスが膝をついて頭をさげた。

「戦果大なりといえど、小なる不正を見逃すことはできぬ!! キルヒアイス少将は自室にて謹慎せよ!! また、他の将兵については、ただちに申し出れば罪は問わぬ! ただし、隠し持って後日に判明したときは厳罰に処する! ラパート星へ降りた艦については憲兵と財務省の調査官が立ち会いのもとに身体検査を行うこととする。以上」

 憲兵だけなら誤魔化しもきく上、もともと占領事務には憲兵も参加していて、その憲兵そのものが略奪に加担していることも多いことを見越して、財務省の名を出したラインハルトの言葉は効果的だった。古来より国家財務にあたる官僚と、国家予算の大きな部分を占める軍関係者とは、良好な関係であったことがない。その財務省官僚が調査に立ち会うと言われ、また戦功大であった総司令官へも容赦が無かったことで、奪われた財宝はその日のうちに返却された。キルヒアイスは謹慎という形で、自室でつかの間の休息をとり、少将であるノルデンに全体の指揮が任されたけれど、ノルデンは何か忘れている気が、ずっとしていた。

「………そうだ。伯爵!」

 令嬢は助けたものの、すっかり誰もがフランツのことを忘れていた。ノルデンの命を受けた捜索により、フランツはギリシャ風の囚人服を着せられて地下牢に閉じこめられているところを無事に発見、救助された。

 

 

 

 勝利の美酒に酔いしれていた気分から、三葉は孤立無援の絶望的な戦いに追い落とされていた。

「……ぅ~………ハァっ………ぅ~………ハァっ……」

 あるはずのヨガマットを入れたリュックサックが枕元に無かった。

「………ぅぅ……」

 布団の中にヨガマットを敷き込んで秘かに、すべてを終わらせるつもりだったのにヨガマットが無いので呻いている。

「……だ……誰か……」

 周りを見ても、大広間で女子全員が寝ているものの、名簿の順番で寝るように指導されていて、周囲に友人はいないし、早耶香とはかなり遠い。そして、ほとんどの女子が前夜は遅くまで起きていたり徹夜したために今は鼾をかいて爆睡している子も多い。誰も起きていない。何よりリュックを取ってきてと頼むにしても、かなり不自然で自分で取ってくるのが普通だと思われるけれど、もう立つことはおろか、起きることもできない。いつもいつも四葉に起こしてもらってヨガマットの上に辿り着いていたのは起きるために腹筋へ力を入れると、もうその瞬間に限界を迎えるためだった。

「……ハァっ………ハァっ……」

 泣きそうになってくるけれど、泣いた瞬間に破綻してしまうことがわかるので、なんとか耐えて次善策を考える。ギュゥウと脚を閉じて、両手でも押さえた。

「………諦めない……こんなときこそ……冷静に………状況の打開にそなえて……機会を待つ………絶望的に思えても………劣勢でも挽回のチャンスを逃さないために……」

 ラインハルトに教えてもらった不利な状況でこそ、冷静に粘り強く耐えよ、という訓辞を胸に、下腹部の絶望的な関門防衛戦を守り続ける。けれど、もうヘトヘトだった。おそらく前夜は徹夜したようで睡魔が死に神のように枕元に立っている気がするし、全身を長時間くすぐられたような疲労感と、昼食も夕食も胃に入っていないような空腹感と、強いショックを受けて弱っているような感覚があり、意識が朦朧としてくる。二食も抜いたなら、その分だけお腹が楽になってもいいのに、思い出してみればビール風味飲料を飲みながらトランプしていたのが今になって攻め込んできている。

「……よ……四葉………た………助けて……」

 お待たせ、お姉ちゃん、そう言って妹が助けに来てくれるかもしれないという荒唐無稽な希望さえ湧いてくる。岐阜から京都まで、小学4年生の妹が長駆して援護に来てくれるまで頑張ろう、だって1光秒も離れてないもん、そんな妄想を布団の中で抱きつつ三葉は睡魔の牙に脳幹を突き刺された。

「…くーっ…すーっ…」

 三葉は夢を見た。

 悪夢だった。

 祭りに巫女として出仕し、口噛み酒を造る夢だった。

 いつも通りにお米を口に含み、それを吐き出す。

 また、心ない女子から、人前でよくやるよね、と言われた気もする。

 それでも咀嚼物を吐いた。

 酒枡いっぱいに吐いた。

 なのに、止まらない。

 まだ、吐き出てくる。

 たらたらと三葉の口から咀嚼物が吐き出てくるのが、止まらない。

 口も閉じられない。

 お姉ちゃん、もういいよ、お祭り終わったよ、と四葉が言ってくれても、まだ止まらない。

 たらたら、たらたら、口から白濁液が溢れ出てきて、止まらない。

 町のみんなが見ている。

 見られている。

 なのに、止まらない。

 口を閉じようとしても開いたままで、どんどん漏れ出てくる。

 祭りが終わっても、深夜になっても、止まらない。

 朝になっても、まだ溢れている。

 白濁液を口から、たらたらと吐き出したまま登校する。

 教室に入って授業を受けていても、止まらない。

 どんどん教室の中が白濁液で浸水していく。

 みんなが汚いと言って三葉から遠ざかっていく。

 浸水が洪水になり、三葉は自分が吐いた白濁液の池にいた。

 生温かい咀嚼物の白濁液に腰まで浸かっていて、感じた。

 これは夢だ。

 見てはいけない夢だ。

 お尻が温かい夢はダメ。

 醒めなきゃ、我慢しなきゃ、きっと、漏らしてる。

 漏らしてるなら、もう醒めなくていい。

 ずっと寝ていたい。

 ずっと寝て、起きたらオーディンがいい。

 きっと次は中将。

 もうすぐアンネローゼさんを助けに行くんだ。

「っ…」

 目が覚めた。

「…………」

 お尻が生温かい。

「……………」

 もう敗北したことはわかっていても、三葉は寝汗かもしれないという希望的観測で、おそるおそる手で触った。

「っ! ……………」

 ぐっしょりと濡れていた。学校指定のジャージも、旅館の布団も、ぐっしょりと、まだピチャピチャと水たまりになっているくらい濡れている。

「………………」

 窓の外が、少し明るい。まだ朝日は昇っていないけれど明け方。

「………」

 何時間くらい寝てしまったのか、これから、どうすればいいのか、三葉は泣かないようにプルプルと震えて過ごした。外が明るくなってくる。早起きな子が、もう起きて顔を洗いに行った。一人また一人と起き出してスマフォをいじったり、今日の自由行動の予定を小声で話し合ったりしている。

「三葉ちゃん、起きてる?」

「………」

 早耶香に声をかけられて寝たふりをした。

「三葉ちゃん、すごい汗……」

「………」

 寝たふりをしている三葉の額を早耶香がタオルで拭いてくれた。それでも寝たふりを続けていると、早耶香は顔を洗いに行った。もう全員が起きている。

「よく寝たわぁぁ」

「朝ご飯、まだかな」

「ここで食べるから、もう布団を片付けないと」

「みんな起きてるし、電気つけていいよね」

 大広間が明るくなった。みんなが布団を片付け始めている。

「宮水さん、まだ寝てるの?」

「………」

 目を開けず、聞こえないフリをする。

「三葉ちゃん、そろそろ起きたら?」

「………」

 早耶香の声も無視する。無視したのに、揺すられる。

「三葉ちゃん、もう7時前だよ」

「………」

 イヤだ、このまま寝ていたい。そっとしておいて。

「起きないと、こうだぞ」

 早耶香が鼻を摘んできた。息ができない。

「「…………………」」

 苦しい。

「………………プハッ!」

 口で息をした。

「ハァ……ハァ……」

「おはよう、三葉ちゃん」

「……うん……おはよう……」

 仕方なく目を開けて挨拶する。

「よく寝てたね。昨日の原爆資料館、そんなにショックやった?」

「……う……うん……そう……みたい……」

「でも、そろそろ起きて布団を片付けないと、ここで朝食だから、すぐに男子も来るよ」

「っ……」

 そういえば、そんな予定だった。旅費の関係で二泊目は女子は大広間で雑魚寝、しかも浴衣もなくて学校指定の体操服を寝間着にしている。そして、このまま京都市内を散策するプランだったのに、ジャージは濡れたまま、布団も濡れたまま、とても起きられない。

「さ、起きて」

「…………」

「どうしたの?」

「…………どうもしないから気にしないで」

「布団を片付けないといけないから起きて」

「………………」

「具合でも悪いの?」

「うん! そう! 具合悪いの! しんどい! 熱もあるかも! 寒気がする! 寒くて布団から出られない! 今日は、このまま寝てるから! 心配しないで!」

 熱があるとは思えない張りのある声で三葉が強弁した。

「このまま寝てるって……旅館だから、そうはいかないよ」

「………。とにかく寝てるの! 寒気がするの!」

「宮水さん、どうかしたの?」

 他の女子も集まってくる。

「うん、三葉ちゃん、具合悪いみたい」

「昨日から、つらそうだったね」

「けど、布団は片付けないと……かわいそうだけど一度、起きてちょうだい」

 そう言って布団をめくられそうになり、三葉は両手を出すと、がっしりと布団をつかんだ。絶対に布団をめくられないように両腕で守るように押さえ、両足でも布団を挟み込んだ。

「寒気がするの! やめて! 寝かせておいて!」

 元気そうな、泣きそうな声で力説しているし、しっかりと布団を握っている。

「ゲロ巫女、またゲロるなよ」

 心ない女子も集まってきた。もう大広間で布団に入っているのは三葉だけになっている。

「……ハァ……ハァ……」

 残っているのは三葉の布団だけになり、それを取り囲むように大勢の女子が集まっている。

「三葉ちゃん、熱は……」

 早耶香が額に触れてくる。あまり体温の差は無かったけれど、びっしょりと汗はかいている。

「あ、先生!」

 ユキちゃん先生が現れた。

「宮水さん、どうかしたの?」

「具合が悪いみたいなんです」

「そう。かわいそうに。昨日、かなりショックを受けていたから」

 そう言ってユキちゃん先生も額に触れてくる。

「熱は無いみたいね。起きられそう?」

「無理です。寒気がして布団から出られません」

 そう言ってギュッと布団を握っているので、心ない女子が笑いながら言う。

「なんか怪しいよね。おねしょでもしたんじゃない?」

「っ…してない! おねしょなんてしてないもん!! 絶対してないから!!」

 泣きそうな声で叫んで、絶対に離すまいと布団を握っているので、もう全員が悟った。

「おねしょしたんだ。キャハハ」

「してないから! してないの! ぅっ…ひっく…してない……してないもん…」

 ぽろぽろと三葉が涙を流したけれど、その涙を拭きもせずに布団を押さえている。見ていて多くの女子は可哀想に感じたし、ユキちゃん先生はからかっている女生徒を睨んで言う。

「宮水さんは調子が悪いようです。騒がないであげなさい」

 普段ほんわかした雰囲気のユキちゃん先生も年齢相応に女性として経験を積んでいるので本気で睨むと、それなりの迫力があり静かになった。

「原爆資料館が、よっぽどショックで体調を崩したのね。かわいそうに」

 嘔吐するほどショックを受けた女生徒が、悪夢も見て夜尿することもありえると慮って、しかも嘔吐より何倍も恥ずかしいだろうと推し量り、絶対に布団から出たく無さそうな三葉への対応をする。

「六人で宮水さんの布団を隅へ動かしますから手伝ってください」

 三葉は布団に入ったまま動かされる。寝ていたところの畳が濡れていないか、とても心配だったけれど、ぶ厚い敷き布団の防壁層は三葉による流体浸透に耐えてくれていたようで畳は無事だった。ユキちゃん先生は大広間の隅へ布団ごと三葉を移動させると、その周囲に女子たちの荷物も移動させるように指示して防壁を築いた。おかげで男子が入ってきても、あまり近づかれることはない。それでも三葉を気にかけている克彦は寄ってきた。

「三葉、具合が悪いって?」

「…うん……」

 布団に入ったまま小さく頷いて顔を赤くしている。ユキちゃん先生が克彦に告げる。

「心配してあげるのはいいことですけど、女の子は調子の悪いときの顔を男子に見られるのもイヤなものですよ」

「…は…はい…」

 そう言われると近づけず、克彦は早耶香と朝食を摂った。全員での朝食が終わり、それぞれに荷物を持って旅館を出て行くと、急に大広間が静かになり、三葉とユキちゃん先生だけになった。ユキちゃん先生が温かい濡らしたタオルとバスタオルを持ってきた。

「着替えて玄関に出てきてください」

「………」

「急がなくていいですよ」

 ユキちゃん先生も大広間から出て行くと、完全に一人になった三葉はおそるおそる布団から出た。

「…ぐすっ…」

 濡れタオルで顔を拭いてから、着替える前に下半身もキレイに拭いて濡らしたジャージはビニール袋に入れてリュックの奥へ片付け、制服を着た。京都での自由行動は田舎育ちの女生徒たちが大都会で盗撮被害に遭わないようにと体操着での行動と決められていたけれど、着る物が無いので仕方なく制服を着た。

「…………オーディン……行きたい……」

 京都よりオーディンが良かったし、高校2年生より中将がよかった。それでも、いつまでも旅館にいられないのでトボトボと玄関に出るとユキちゃん先生と早耶香、克彦が待っていた。

「……………」

「三葉、具合はどうだ?」

「……ちょっと……マシ……」

 克彦に答えてから、ユキちゃん先生に小声で伝える。

「………旅館の人に………布団のこと……」

「大丈夫ですよ。先生から謝っておきましたから」

「…すみません……」

「三葉ちゃん、班の人には先に行ってもらったから、うちらだけで行動しよ」

 もともと6人の班が設定されていたけれど、三葉の調子が悪いということで他の3人には先発してもらっていた。

「三葉の具合が悪いなら、集合場所の近くで、のんびりしようぜ」

「…ありがとう……でも……だいぶ…マシだから…」

「宮水さん、何かあったら連絡してください」

 そう言ってユキちゃん先生は離れていく。早耶香が今日の予定を見る。

「予定では金閣寺から貴船神社、平安神宮、清水の舞台だったけど、どうする?」

「それ回るのは時間的にキツいだろ」

「ごめんなさい、私のせいで……」

「いいよ、気にしないで」

「おう、気にするな。もう原爆のことは忘れろ」

「……うん……」

 男子が鈍くて良かったと思いながら三葉は寝不足で軽い頭痛を覚えた。寝てはいけないと思いながら、ほんの数時間だけ徹夜の翌日に寝た後は、絶望的な気持ちで布団の中にいたので、かなり疲れている。

「まだ顔色悪いな。タクシーで清水の舞台だけ行って、バスターミナルで待ってようぜ」

「そうやね、そうしよ」

「そんなの悪いよ!」

「いいって」

「うん、歩くの面倒だしね」

「……ごめんね……」

 謝って3人でタクシーに乗り、清水寺へ行った。到着して舞台までの坂を登っているうちに少しは気分も晴れてきたので3人で京都の思い出をつくり、名水も飲んで、昼食の頃には猛烈な空腹を覚えていた。昨日のお好み焼きを嘔吐した後、夕食も摂らず、朝食さえ抜いたので目まいがする。焼き団子を食べながら、どこで昼食を摂るか決め、湯豆腐と湯葉の定食にした。

「清水の舞台だけにしてよかったかもな」

「そうやね。一日で名所を何カ所も、しかも市バスと徒歩で巡るのは疲れそうやし、ゆっくり見られへんもんね」

「ごめんね……ありがとう」

「もういいって。な」

「うん、清水寺の周辺コンプリートできたし、これは、これで楽しいよ」

 ゆっくりと土産物の店舗を巡ることができたし、清水の舞台だけでなく地主神社や、横道にそれたところにある由緒はありそうだけれど有名でもない静かな小寺にも入れたので3人とも京都の雰囲気を楽しめた。15時を過ぎると、ぞくぞくと糸守高校の生徒たちが清水寺の麓にあるバスターミナルへ集まってくる。

「そろそろ出発だな」

「私、トイレ行ってくる」

「私も」

 早耶香と三葉はバスターミナルの大きさに比べて、かなり古くて小さいトイレに入って用を済ませると、バスに乗った。もう立ち寄る場所はなく、このまま高速道路で岐阜県へ帰る予定だった。残りのお菓子を食べてジュースを飲みながら、残り少ない修学旅行の雰囲気を楽しめたのは30分くらいで、すぐに三葉は睡魔に抱かれて死んだように眠った。初日に徹夜して二泊目も4時間と眠れていないので寝てしまうと、周りが賑やかでも目が覚めないし、サービスエリアに寄って多くの生徒が出て行って静かになっても起きない、滋賀県を通り過ぎ、岐阜県美濃地方も通り過ぎる。いよいよ飛騨地方の山間部に入り、片側2車線だった高速道路も1車線になり、最後のサービスエリアに寄ったバスが出発してから、やっと目が覚めた。

「ん~……ここは?」

「糸守高原サービスエリア」

 早耶香が答えてくれた。故郷まで、もう10キロもない。

「そっか。修学旅行、終わっちゃったねぇ」

「そうだね。終わると、あっという間だったね」

「………」

 三葉はバスが加速してサービスエリアを出るのを車窓から眺めながら、起きてトイレに行けばよかったと感じて座り直して足を組んだ。京都から一度もバスを降りていないので、少しつらい。けれど、あと10キロなら問題ないと思ったのに、渋滞が発生してバスがノロノロ運転になり、ついに停車してしまうと焦った。

「こんな田舎で渋滞なんかしなくていいのに…」

「事故かもね。1車線しかないから、すぐに塞がるし」

 早耶香が言ったとおり交通事故だった。深刻な死亡事故ではない軽い乗用車同士の玉突き事故だったけれど、タイヤがパンクして自走不能になって車線を塞がれると、ぴたりと停まったバスは動き出す気配がない。

「あと何分かなぁ…」

 また三葉が座り直して組んでいた足を解いて膝と膝を擦り合わせるように座ると、早耶香は察した。

「おしっこしたいの?」

「……ううん……別に平気」

 張らなくてもいい見栄を張ったけれど、急激につらくなってきた三葉は下腹部を両手で押さえたいほどだった。それでも、そうすると周りに丸わかりなので擦り合わせた両膝の上へ両手を置いて我慢する。その三葉の手首が緊張して反っているので、隣にいる早耶香には一目瞭然だった。かなり我慢している様子で、額に冷や汗が浮いているし、手首にも汗が滴っている。手首の汗は三葉の腋から流れ落ちてきた汗だった。半袖の制服から、一滴ずつ汗が流れ落ちてきている。その汗を拭きもせずに微動だにしないので早耶香は限界が近いのだと悟り、お茶の入ったペットボトルの蓋を硬く閉めると、三葉に差し出した。

「三葉ちゃん、これ」

「っ…………………」

 三葉は親友だと想っている早耶香からペットボトルを向けられて絶望的な表情になった。もう見れば自分が何を我慢しているかわかりそうなものなのに、それをわかっていてお茶を飲ませて失禁させようとする謀略だと感じた。同じ男子に好意をもっていることが判明したら、女同士は敵なんだ、ベーネミュンデと同じなんだ、もうお茶を飲まされなくても降りるときに邪魔されたら漏らすくらいだから、私の青春は終わったんだ、と悲壮な顔をしている。あまりにも顔で語っていたので早耶香にも三葉の思考が伝わった。

「違うよ。はしたないけど、これの上に座れば、かなり楽になるよ」

「…そ…それの上に?」

「私を信じて一瞬だけ立ち上がって」

「……うん…」

 三葉は親友を信じることにした。そっと前席の背もたれにある手すりをつかみ、なんとか立ち上がる。早耶香はペットボトルを三葉の席へ、自転車のサドルが股間を圧迫するような位置になるよう上を前に、下を後ろにして中央に置いた。

「ゆっくり座って」

「…うん……」

 三葉はペットボトルへ座る。ちょうど、自転車のサドルがあたるような感覚があった。

「どう? マシになった?」

「……はぁぁ……うん、すごく楽。ありがとう、サヤチン」

 今にも漏らしそうだった三葉をペットボトルの圧迫が救ってくれる。まるで男でいるときのように一物があると心強く、そして楽になった。

「ありがとうね。………ごめんね、疑ったりして」

「いくら何でも、そんな低レベルの嫌がらせしないって。正々堂々いこうよ」

「……うん……ありがとう……」

「けど、動かないね。あ、パトカーが来た」

 路肩をパトカーが走っていく。これで事故処理が進むはずだった。それでも、すぐに動き出してはくれない。

「……ぅぅ……」

 ペットボトルの圧迫があっても、つらくなってきた。早耶香がシートに備え付けられているビニール袋を拡げて、耳元へ囁いてくる。

「いよいよ無理だったら、これにしちゃう?」

「……そんなの……ヤダ…」

 バスの中には男子も乗っているし前席には克彦もいる。嘔吐ならビニール袋へできても女子として絶対にしたくない。ヨガマットも頭上のリュックにあるはずだったけれど、それを出してヨガするのもありえない。もともとヨガマットは夜中に秘かに使うためで、とても見せられない姿だとは自覚しているし、今日まで誰にも言わないでくれている四葉へは感謝している。そもそも犬用な上、なぜ、そんなものを持って修学旅行に来たのか、という話になることは絶対にさけたい。

「……ハァっ……ハァっ……」

「あ、作業車も来たよ。これで動くはず」

 パンクした車も牽引できる車両が路肩を通り過ぎていき、ほどなくバスが動き出した。すぐにインターを降り、バスが高校に向かってくれる。

「……ハァっ………ぁぁ……ハァっ……」

「頑張って、三葉ちゃん、もう学校が見えてきたよ」

 早耶香が優しく背中を撫でてくれる。

「ぅぅ……撫でないで……逆に、やばい…」

「あ、ごめん」

 嘔吐ではないので撫でられると、むしろ生理現象が促されそうになってくる。ようやくバスが高校前に停車してくれた。さっと早耶香が立ち上がって一番に降りられるように通路を確保してくれる。

「ほら、頑張って」

「うん……うん……」

 もう周りに隠している余裕もないので両手で押さえて、ずっとお世話になったペットボトルと離別してバスの通路を進む。三葉の顔色を見てクラスメートたちは先を譲ってくれた。

「……ハァっ………ハァっ………」

 急なバスの階段を諦めずに歯を食いしばって降りて、早耶香に支えてもらいながら校門をくぐり、目指していた校庭の屋外トイレが視界に入った。

「「あ……」」

 屋外トイレには女子が列をつくって並んでいた。バスは組数の順番で走行していたので、先に着いた1組と2組の生徒が校庭に整列していて、一部の女子は三葉と同じ事情で屋外トイレに並んでいる。

「………」

「三葉ちゃん、頑張って」

「…………」

 屋外トイレには個室は2つしかないのに、並んでいるのは20人で、一人60秒としても10分かかる、兵站や補給線の維持、火砲の配置と火力投射量など最近いろいろと状況分析の演習をさせられることが多かったので、瞬時に屋外トイレは間に合わないと判断できてしまった。

「…校舎の……」

「校舎は閉まってるよ」

 屋内のトイレは個室が十分にあるけれど、もう校舎そのものが閉鎖されている時間だった。修学旅行の予定でも、このまま校庭に整列して人数確認が終われば解散という流れになっているので校舎が開いているはずはない。

「……コンビニ…」

「コンビニまで歩ける?」

「…………」

 町に一つしかないコンビニまで歩くくらいなら屋外トイレに並んだ方が早いし、もう歩けない。あと10メートルも歩けないという感覚がヨガの経験でわかる。昨夜も限界まで我慢した筋肉が、フルマラソンの翌日にジョギングをさせられているような悲鳴をあげてきている。

「………もう……無理……歩けない……」

 歩けても、あと7メートル。半径7メートル以内には校門しかない。

「……ぅぅ……」

「三葉ちゃん、とにかく屋外トイレまで」

「……ハァっ…ぅ…」

 5メートル。

「…ハァっ…ぅう…」

 4メートル。どんどん行動可能範囲が狭くなってくる。

「…ハァっ…ハァっ…ぁぁ…」

「三葉ちゃん、しっかり頑張って」

 あと3。

「…ハァハァっ…ぅぅ…ぁぁ…」

 もう2。

「…ぅぅ…うっ…うっ!」

 そして1、三葉は行動の限界点を迎えた。

 

 宮水三葉は闇の中にいた。

 早耶香の姿も、校庭に整列している生徒たちの姿も、彼女の黒色の瞳には映っていない。

 彼女は、ただ、速度と躍動性にすぐれ、さながらアメーバのように拡がる生温かさを両脚に感じていた。

 彼女は漏らした……そう、三葉は、ここで、こんなときに、漏らしてしまったのだ。

 自分のせいだった。キルヒアイスは関係ない、自分のせいなのだ。

「…………」

「三葉ちゃん……」

「…………」

 どうして、私は3組だったんだろう、1組だったら間に合ったのに。

「………」

 どうして、私はバスを降りたんだろう、いっそバスの中でしてしまえば見られたのは数人、お願いして口止めすれば黙っていてくれたかもしれないのに。

「………」

 どうして、サービスエリアで起きなかったんだろう、どうして、どうして。

「宮水が漏らしてるぞ」

「あ、ホントだ。かわいそー」

「きゃははは! 泣いてるよ」

 聴きたくないのに声が聞こえる。学年全員がそろっていて、見て見ぬフリをしてくれる生徒もいるけれど、心ない生徒は大きな声でからかってくる。しかも、ほとんどの生徒が体操着なのに三葉だけが制服なので、よく目立っていた。

「垂れるのはゲロだけにしとけよ」

「あの子、おねしょもしてたよ。ジャージ濡らして制服まで。キャハハ」

「マジで? 町長の娘なのに」

「ゲロ巫女、終わったな」

「おもらし巫女で再スタートだろ」

「きゃははは! それ笑える」

「最近、お嬢様気取りでムカつくし。ザマぁみろって感じ」

「高校生になって人前で漏らしたら人生終わりでしょ」

「いろいろ垂らして、やっぱ、汚い女だよな」

「オヤジは腐敗の匂いがするし、娘は屎尿の香りだな。あとゲロ」

「あいつの酒、絶対臭いよね」

 どうして、私は町長の娘なの。

 どうして、私は巫女なの。

 どうして、私は口噛み酒なんて造らなきゃいけないの。

 そんな立場、そんな目立つ肩書き、自分で選んだわけでも、ほしいわけでもないのに。

 ただ、平凡に、ごく庶民的に生きていたかっただけなのに。

 こんな田舎じゃなくて。

 もう少し都会で。

 歩く人、出会う人、みんな顔見知りで私を知ってる環境は、もうイヤ。

 誰も私を知らない。

 私も平凡なOLで、誰とすれ違っても、誰の名前も知らない都会で生きたい。

 誰のことも知らないところで生きたい。

 知らないところへ行きたい。

 オーディン。

 ラパート。

 フェザーンもいい。

 いっそ、ハイネセンも。

 三葉の心は地球の重力から解き放たれ、遠い未来の宇宙へ旅立ちたがっていたけれど、重力のくびきから脱することはできず、むしろ重力に負けて水たまりの中に座り込みそうになる。それを早耶香が支えてくれて、また克彦が抱きあげた。

「テッシー、どうするの?」

「とにかく行こう」

「そうやね」

 このまま晒し者では三葉が可哀想なので克彦は抱き上げたまま校門を出た。早耶香が三人分の荷物を持って、ユキちゃん先生に点呼を待たずに帰ることを伝えた。本来は全員がそろってから帰宅させる手順だったけれど、事情が事情なので許可がもらえ、宮水家まで帰る。虚脱状態の三葉は抱かれたまま動かない。三葉は重くはないものの人間一人を抱いたまま宮水家まで向かっていく克彦の背中を見て、早耶香は諦めがついてきた。

「テッシーの体力、すごいね」

「ハァ、まあな、ハァ」

 額に汗を浮かしているのでハンカチで拭いてあげた。宮水家に着くと、四葉が姉の姿を見て克彦に礼を言いつつも、やっぱり疑問なので訊く。

「お姉ちゃん、どうして、こうなったんですか?」

「………」

 克彦は汗だくでペットボトルのお茶を早耶香からもらって飲んでいたけれど、答えにくそうに早耶香へ視線を送る。早耶香は、たとえ家族に隠してあげても、どうせ近日中には町のウワサでわかるので、むしろ正確に教えることにした。

「渋滞でバスが動かなかったの。すごく傷ついてるから、からかったりしないであげて」

「はい、わかりました。ご迷惑をかけて、すみませんでした」

 四葉は玄関におろしてもらった姉を風呂場に連れて行く。

「お姉ちゃん、脱いで」

「………」

 三葉は虚脱状態のまま入浴だけはすると、二階へあがって布団に潜り込んだ。

「お姉ちゃん、ヨガマットは使わなかったの?」

「……次は中将………オーディンに帰ったらラインハルトさんに誉めてもらうんだ……私、教えられた以上に頑張ったもん……」

 シーツにくるまって三葉は遠いところを見ている。その目から涙が溢れ出てシーツを濡らしている。今はそっとしておく方がいいと四葉は判断して姉から離れる。一階に降りて姉の制服を洗っておき、それから神社に出た。

「今日も私だけかぁ…」

 神社の掃き掃除と賽銭箱の回収作業を修学旅行中は四葉がやっていた。今日は姉が手伝ってくれるかと思っていたけれど、あの様子では無理そうなので一人で進める。賽銭箱を開けて金額を数え、祖母が管理している金庫の前に置いておき、次は箒をもって神社全体を掃く。落ち葉の少ない季節なので、それほど苦労はしなかった。

「たかだか1リットルに満たない水分を出しちゃったくらいのことが、そんなにショックなのかなぁ」

 姉の様子は、まるで戦場で包囲殲滅され孤立無援のまま殺されかけた兵士か、長征10万光年のあげく銀河の反対側まで行って可住惑星を見つけたときには、もう自分一人しか生き残っていなかったような顔色だった。

「大袈裟というか……おしっこ漏らしたくらいで人生が終わるみたいに」

 四葉は最後の落ち葉をちりとりに入れて、箒を剣のように振る。

「学校で、からかわれたって、それがどうした?! って言ってやればいいのに」

 ちりとりと箒を片付けると、四葉は尿意を覚えた。

「………。おもらししてみようかな。どうせ、たいしたことないし」

 いっそ自分も衣服を濡らして、姉に見せてショックをやわらげられないか、試してみようという気になった。屋外なので土が吸収してくれるし、衣服は洗濯機で洗えば、それで終わる。

「……………。いざ、となると、さすがに、すぐ出ないなぁ……」

 力を抜いたつもりが、やっぱり抜ききれず、むずむずとする。そして、人目が気になって周囲を見た。

「この時間だし、誰もいないんだし、やってみなよ、四葉」

 自分に言い聞かせて、もう一度、力を抜いた。

「……ぅ~……ぅあぁ……」

 限界まで貯めた後ではないので、速度と躍動性には劣るけれど、さながらアメーバのような生温かさが拡がり、四葉の下着と短パンを濡らし、靴下も湿らせた。

「…はぁぁ………おもらし、ホントにしちゃった。………でも、……恐怖は感じない……むしろ、温かくて……安心を感じるとは……」

 四葉は大きく感情を動かされていて、流れそうになった涙を指でぬぐった。

「……お母さん……」

 なるべく想い出さないようにしている早世した母のことを想い出してしまっていた。だんだん冷たくなってくる短パンを四葉は右手で触った。

「…………」

 触った手を見てみると、当たり前だけれど濡れている。

「……この……感じ………なに? ………何かに目覚めてる……私……」

 身体の芯が熱くて、何か新しいことに目覚めているような感覚が湧いてきている。

「………おしっこ………おもらし……気持ちいい……」

 うっとりと四葉は表情をゆるめている。

「じゃあ、唾液は?」

 少し唇を舐めると、自分の左手に唾を吐いた。

「ぷっ!」

 唾液を受けた左手を見つめる。

「………っ……私は………普通の人間じゃない……」

 身体に電撃が走るような感覚があり、目覚めていた。

「………そうだよ……人間じゃない………人間であるはずがない……」

 児童が少年少女へ成長するときに自我や性別に目覚めるよう四葉は何かに目覚めていた。

「………唾液……おしっこ……流体……液状……だから、宮水……水……。その流れに浮かぶ葉っぱ……、それが私たち……。そして、糸の声を……歴史の流れ………歴史の糸の声を束ねて紐にする……宮水の巫女……」

 両手を口元にあて考え込む。

「お母さんの言葉………ティアマトは……きらきら輝くもの……原初の海の女神……私たちは、どこから……」

 亡くなる前に母が言ったことは、ほとんど理解できなかったけれど、断片的に記憶に残っている。そして、四葉は確信した。

「私たちは人間じゃない! 何で気づかなかったの?! ただの人間が時間を飛べるわけがない! 何度も何度も!」

 宇宙空間を1光年ワープすることでさえ、さまざまな条件があり、さらに巨大な機械装置を必要とするらしいのに、まったく何の道具も使わずに時間を跳躍する存在が人とは思えなくなると、答えに近づいた気がする。

「……私たちの使命……。…そして、口噛み酒は………私たちの半分……私たちの生命の半分………そっか。……あれを人に飲んでもらうと……私たちの人間としての残りの寿命は半分に……だから、お母さんは早くに………でも、お母さんは、きっと見ていてくれる……」

 まだ完全には、すべてを掴めたわけではないけれど、四葉は教えられなくても鳥が飛び方を習得するように、自分たちの存在について少しわかったような気がした。急いで部屋に戻って姉へ声をかける。

「お姉ちゃん! 聴いて! 私たちの入れ替わりには使命があるかもしれないの!」

「フロイライン四葉。そんなに慌てて。女の子は、もっと落ち着かないと」

「っ……誰?!」

「忘れたのかい。ボクはジークフリード・キルヒアイスさ」

「……………」

 嘘くさいキルヒアイスになることで現実逃避している姉へ語る気がなくなってしまった。まだ立ち直りに時間を要する様子の姉を置いて、一階で夕食を作ってくれている一葉へ声をかける。

「お婆ちゃん、宮水の巫女が時間を跳躍することの意味ってわかる?」

「……は? 四葉、なんだって?」

「私たち宮水の巫女が時間を跳躍したりすることの意味だよ。お婆ちゃんも飛んだんだよね?」

「………ごめんよ……もう忘れてしまったし……私には、そういうことは一度きり……二葉なら、何か知っていたかもしれないけれど……」

「そっか。いいよ、ごめん。もし、何か思い出したら教えてね」

「はいはい。……ところで、四葉、どうして服が濡れてるんだい?」

「クスっ、おもらししちゃった。テヘっ」

 照れ笑いして四葉は可愛らしく舌を出した。

「三葉を慰めようとしたんだね。本当に、よくできた妹だよ、四葉は。けど、着替えないと風邪を引くよ。お風呂に入っておいで」

「は~い」

 裸になった四葉は湯船に入って、湯に浸かると今まで以上に、流体と身体が一体化することを心地よく感じて、うっとりとしていた。

 

 

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