キルヒアイスは気持ちの落ち込みを避けるためにも、夏休みの宿題へ真剣に取り組んでいた。背後にいる早耶香がつぶやく。
「明日から学校やね。とうとう今日でお休みも終わり」
「そうだな。長かったような、あっという間だったような」
もう宿題を終えた早耶香と克彦は布団の上にいて、早耶香は男の腕枕を楽しんでいる。ちらりと三葉の背中を見ても机へ向かって真剣に自由研究を書いていた。
選挙制度の維持と改変について、その権限を議会と分離することの意味
そも、人間は自分たちに有利となるよう規則であれ、法律であれ、設計しがちである。これは公職選挙法や選挙区割りにおいても同様で米国のゲリマンダリングの例を挙げるまでもなく、与党は自らの優位さを維持できるよう選挙区を設定し、また公職選挙法を改変する。
人類にとって血統でなく選挙によって政治的代表者を決定することは最善である確証はないものの、他の方法が選挙に勝っていると立証されない限り、今後も有用であるが、前述のような恣意的な運用によって与党優位のまま政治腐敗が進むことは避けなければならない。
このためには選挙制度の維持と改変については、議会の権限とせず、一般市民から裁判員制度と同様の方法で選出された者に、さらに法律について行政書士程度の試験を課し、これに合格した者へ6年ないし10年の任期をもって選挙制度審議委員にあて、その委員を251名の定数として運用していくことを提案する。
これによって与党が自らに優位な選挙制度を設計することはできず、公正さを保つことが可能となり、また委員の任期途中の罷免については最高裁判所裁判官の罷免と同様に国政選挙のさいに行うことによって、単なる抽選と筆記試験だけでなく国民からの信任も担保できうる。
たとえば、世襲議員の問題についても、父親が多選のベテラン議員であればあるほど、周囲は異議を唱えにくい。世襲議員について父親と同一の選挙区から立候補することを不可とする規則を作ろうとしても、現状の制度では途中で頓挫しやすい。人間は自らに不利となりうる制度改変に賛成しないからである。
しかし、既に述べた選挙制度審議委員を議会と別個に設ける方法であれば、世襲議員が父親の仕事を受け継ぐという家業継承の意味合いもあって、それに幾分かの道理もあるとしても、せめて選挙区を替えるなりの規制によって、まったくの新人立候補者との間に公平性をつくりうる可能性は出てくる。
「三葉ちゃん、頑張るねぇ」
「三葉、それ、もう課題の文字数を超えてるんじゃないか? もう、それで提出すればいいじゃん」
「いえ、もう少し」
一票の格差について
地域の人口によって一票に2倍以上の格差が生じていることは問題である。しかしながら、山間部など人口の少ない地域の民意を無視してもよいことにはならない。この問題を解決するには議決権を議員一人1票とするのではなく、議員の得票数に応じて議決権を付与すればよい。
たとえば、A議員が3万票で当選し、B議員が2万票で当選していても二人の議会における議決権は同じであるが、議決権を得票数に応じて付与する制度を設ければ、Bは2万に比例した議決権をもち、Aは1.5倍の議決権をもつことになる。これによって1票の格差は議決権において、まったく生じなくなる。
また、議員報酬についても得票数と比例させることで、その正当性を主張しやすくなる。
ただし、それでも山間部や離島などの人口希少地区の民意が無視されがちなことは懸念されるが、これに対して、ふるさと投票という制度を創設することで対応できる可能性が増す。
ふるさと投票とは地域出身者が都市部で長年生活していても、一定の登録要件を満たせば、出身地の国政選挙へ住民票がなくても投票できうるという制度である。
「三葉ちゃん、まだまだ頑張りそうやし。テッシー、もう一回、私としよ」
「そうだな。めちゃ真剣だし邪魔しないように声はあげるなよ」
「う~……そんなん言われたら、余計に感じるやん」
もっとも、ここまでに述べたようなドラスティックな国政の改革は第二次大戦後に明治憲法から現状の憲法へ、強権的にGHQ主導で変更されたように、強大な権限が一時的に必要になることは想像されうるが、それでも粘り強い民衆への啓蒙によってなしうる可能性もある。それには全体の民度の底上げが必要となり、教育の充実が重要である。
「……あんっ……テッシーっ……んっ……はうんっ…」
「声を出すなって。三葉の邪魔になるだろ」
「んっ……だって…ハァハァ…気持ちいいの…テッシー、巧くなりすぎっ…ああっ…」
快楽と怠惰に溺れやすい民衆に、いかに規範的な生き方をさせるか、この課題を人類がクリアするには百年、いや千年を経ても困難なのかもしれない。すでに古代ローマにおいてさえ、市民階級はパンとサーカスに浸り、滅びを経験している。より高く、より良く、人類を導く方法はないものだろうか。ないのであれば、やはり選挙による共和制が最善でなくとも次善であり、その制度設計に磨きをかけることこそ、よりよい未来への布石になると結論する。
「はぁぁ……終わった」
三葉の唇がタメ息をつく頃、早耶香の唇も熱い吐息を何度も漏らしていた。
三葉は銀河帝国の実質的な最高権力者として新無憂宮の中で一番憂鬱な部屋に来ていた。豪華なのに陰鬱な自裁用の部屋で、諸将や文官たちとリヒテンラーデが連れてこられるのを待っている。
「はぁぁ……」
キルヒアイスの唇がタメ息をついてから、しっかりしなければ、と思い直して直立不動となった。リヒテンラーデが爵位にふさわしい礼装で儀仗兵に連れられ入室してくる。新たな国務尚書となったフランツが運命の皮肉と繰り返しに対して悲痛な面持ちで読み上げる。
「エルウィン・ヨーゼフ皇帝陛下よりの勅命である」
わずか5歳の皇帝が老人に死ねと命じるはずもないけれど、それでも読む。
「リヒテンラーデ公爵に死を賜る」
「……」
「格別のご慈愛により自裁をお許しくだされた。さらに公爵たる礼遇をもって、その葬礼をなすであろう」
「…………。まさか、赤毛の小僧とはな。帝国騎士でさえない、平民の」
リヒテンラーデに睨まれて、三葉は無表情を頑張ってつくった。ビッテンフェルトが声をあげる。
「キルヒアイス閣下に対し無礼であろう!」
「ビッテンフェルト提督、ここは気が済むまで言いたいことを言わせる部屋だから」
「…はっ…」
「そういえば、赤毛の小僧と、ここで会うのは2度目だったな」
「……そうですね」
「せいぜい勝った気でいるがいい。金髪の小僧とは、ここで1度しか会わなんだ。じゃが、もうじきワシは会える。どれほど悔しがっておることか、ククっ。ブラウンシュヴァイクらに会うのも楽しみじゃ。きっと腹を抱えて笑っておるに違いないでな」
「…………」
ひどいことを言われても、これから死んでいく人だと思うと三葉は反論する気になれなかった。
「赤毛、お前の立っておるところは危ういぞ。下手をすれば、歩みの遅い老人より、お前の方が先にヴァルハラの門へ着くかもしれんくらいにな」
「……………」
そろそろ終わりにして合図を送った方がいいのかな、それともフランツさんが決めるのかな、と自裁執行のタイミングと合図を係の者と決めていなかった不手際を三葉は悔いつつ、やはり人を殺すタイミングは取りにくい、迷っているとオーベルシュタインが部屋の窓を開けた。窓から風が入り込み、陰鬱な空気が少し和らぐ。
「リヒテンラーデ公、最後に空をご覧になってはいかがか」
「………そうしよう」
意外にも素直に窓から老人はオーディンの空を見上げたけれど、諸将はオーベルシュタインの言こそ意外だった。リヒテンラーデは空を見たままつぶやく。
「……ワシは長生きしたな………それに比べて金髪は気の毒に………。キルヒアイス、とかいうたか」
「はい」
「せいぜい気をつけることじゃ。そして権力を手にしたかもしらんが、どう使うか次第でお前の評価は天にも地にもなるじゃろう。汚名を残さんようにな。理想の政治とは何か、よく考えることじゃ」
そう言ったリヒテンラーデは窓の方を向いたまま、腰の後ろで組んだ手の指先をチョイチョイと動かした。それは長年の合図だったので係の者が毒杯を恭しく差し出した。
「…………どうせ滅びるなら……せいぜい華麗に滅びるがよい……か」
その言葉を最後に毒杯をあおり、すぐに倒れて動かなくなった。
「………ごめんなさい」
三葉が頭を下げると、諸将と文官たちも、それに倣った。自裁が終わり宰相府へ戻るために移動する。移動しながら三葉は現在のキルヒアイスの立場を自分が知っている歴史から考えてみた。
「……秀吉か…」
織田信長が天下統一前に倒れ、庶民の生まれであったけれど頂点に立った人物を思い出した。
「……そうなると勝家はいないし……日本史だと……次は朝鮮出兵か………ヤンが李なんとか……みたいな…」
歴史が繰り返すなら歴史からヒントをえようと、考え込みながら歩いている三葉が廊下の角を曲がったとき、一人のメイドがぶつかってきた。
「死ねェ!!」
「っ…」
突き出されたナイフをキルヒアイスの手は反射的に掴むと、白兵戦技の手順通りに相手の手首と肘をひねって、刺客へと突き刺した。
「ぐうっ…」
「女の子っ?! ちょっ……大丈夫?!」
対処してから三葉は相手の容態を心配したけれど、ナイフには毒まで塗ってあったようで、もがき苦しみながら死んでしまった。
「「閣下?! ご無事ですか?!」」
そばにいた士官が駆け寄ってきて、すぐに刺客の身元をケスラーが検めて報告してくれる。
「エルフリーデ・フォン・コールラウシュという女でした。この者はリヒテンラーデ公の姪の娘にあたり、オーディン制圧のさい手配しておりましたが捕らえられず、潜伏して閣下の暗殺を謀ったものと思われます」
「…………」
怖っ、本当にリヒテンラーデさんを追いかけるとこだったよ、と三葉は今さら身震いしてケスラーに命じる。
「私に護衛をつけることはできますか?」
「はい。ですが、先日、私が提案いたしましたとき無用だと。余分な経費をかけるなら民生費にあてよとおっしゃいましたが、よろしいのですか?」
「………」
あの倹約家め、自分の立場を自覚しなさいよ、と三葉は朝令暮改を気にせずケスラーへ厳命する。
「今後、私の気が変わって、また護衛が要らないなんて言い出しても、絶対につけなさい。私の安全をケスラーさんに一任します。あなたの判断で必要と思われるだけ護衛してください」
「はっ!」
「そもそも手配されていた人が、どうして、ここまで入ってくるわけ?」
「おそらくは、かつての知り合いなどを買収し、潜り込んだものと思われます。トイレ内でメイド服へ着替えたさいに落としたと思われる髪飾りも発見しておりますから」
「監視カメラは?!」
「おそれながら、皇居の周囲は無粋な機械によって守られるのではなく、近衛によってこそ守られるべきとの慣習がございますれば、監視カメラの類は一切ございません」
「それで知り合いが買収されてたら意味ないと思わない?」
「はっ、おっしゃる通りです」
「監視カメラを増やして。顔認証システムもあるやつ。カメラの死角が一切なくなるくらいに」
三葉は最近のコンビニと同じくらい、すべての通路や部屋に監視カメラをつけるように命じる。けれど、女子トイレについては迷った。
「女子トイレは………ケスラーさん、どう思う?」
「はっ……無粋とは思いますが、今回の犯人もトイレで着替えております。ここが監視の穴となるは必定かと」
「……………録画もされる?」
「当然に。………ですが、平時において見る者を女性保安員に限るという手もございます」
「たしかに……。けど、その監視室に勝手に出入りする男が……」
「そのような行為に罰金を課してはいかがでしょうか」
「罰金じゃ軽すぎる。極刑で」
「……極刑ですか……」
「女の子が、おしっこしてるとこ見るようなヤツは極刑!」
「…………」
「見たいの?」
「いえ」
「じゃあ、極刑で」
「おそれながら量刑というものがございます。安易に極刑を課すは、逆に法の秩序を乱し治世を混乱させますぞ」
「うっ………う~ん………じゃあ、法律の専門家に、できるだけ重い罰で検討させて」
「はっ」
ケスラーは三葉と別れる前に6人の衛兵をつけた。つけられてから安易に一人言も言えなくなったので、三葉は最高責任者の重苦しさを感じた。
「…………」
思うとおりに国を動かせるって、むしろ大変かも、と三葉は無表情のまま執務室へ戻った。そこへ面会を求めてきた科学技術総監のアントン・ヒルマー・フォン・シャフト技術大将が緊張した顔で告げてくる。
「閣下に今一度、ご検討願いたく具申いたします。どうか、ご再考をいただきたく我が新計画を説明させていただくお時間をくださいますよう」
「…どうぞ」
明らかにキルヒアイスが数日前に却下した案件のようだったけれど、とりあえず聴いてあげるという姿勢で説明を聴いた三葉は椅子から立ち上がった。
「ワープする要塞ってこと?!」
「そ、そうです」
「それいい! 最高! ワープするミサイルなみにいい!!」
「おっ…おお、わ、わかっていただけますか!」
「うん、いいよ! その計画は進めよう!!」
三葉はシャフトに駆け寄ると、強く握手した。そして問う。
「ちなみに、前に私が却下したとき、なんて言って却下してた?」
「はっ、そのような長大な物を建造する費用があれば、500万人の貧しい家庭に援助ができる、と」
「なるほど」
「………」
「そんな小さな問題じゃないよね! この計画は絶対に進めよう!」
「はいっ! 必ずや成功させます!」
「この計画は人類史に残るよ! 歴史を大きく動かすことになる! 指向性ゼッフル粒子といい! シャフトさん、すごいよ! きっと歴史に名前が残ってシャフト技術大賞とか創設されるよ! もう指向性ゼッフル粒子はシャフト粒子になるかもしれない! それで、ただのゼッフル粒子は非指向性シャフト粒子とか呼ばれるくらいに! とにかくワープする要塞計画は頑張って! 応援してるから!」
「ははっ! キルヒアイス閣下、ありがとうございます!」
もともと指向性ゼッフル粒子を使って華々しい戦果を挙げてくれていたキルヒアイスに好感を抱いていたシャフトは強く握手しながら涙ぐみ、歴史に名前が残るかもしれないから、もう汚職はやめようと内心で誓った。そして三葉は、もう計画が成功することを前提にビッテンフェルト以外の主だった提督を集め、再びシャフトにガイエスブルクを移動可能にする計画を説明させた。
「なるほど、たしかに壮大な計画ですが、はたして成功するでしょうか」
ミッターマイヤーが代表して問い、三葉が答える。
「技術部門のことについてはシャフト技術大将さんを信じましょう」
「必ずや成功させます!」
「………たしかに、我々は門外漢ですから」
メックリンガーが頷いた。諸提督もワープについては士官学校で学習しているものの、技術畑にいるわけではないので理論的な限界を詳しく知っているわけではない。三葉がスマフォを知っているからといってスマフォを作れるわけではないように、だいたい知っていて使えることと、開発し製造することはかなり違う。シャフトに対して規模が壮大であること以外に専門的な反対意見を言える者はいなかった。
「それで閣下は我らを集め、いかなる作戦を考慮しておられるのでしょうか? できますれば、先陣は、このファーレンハイトめにご下命ください」
まだ加わって間もないために功績のないファーレンハイトが先陣を求めることに諸提督は微笑ましく感じたけれど、三葉はビッテンフェルトに似たタイプだと判断して慎重に答える。
「まだ詳しい内容は話しません。ただ、この移動要塞が完成したとき大規模な作戦行動があると思っていてください。作戦名は、八百万の黄昏、とします」
「「「「「……………」」」」」
諸提督の反応は微妙だった。およそ実質的な戦闘員が800万人くらいになるからだろうか、と思う程度だった。
「また、この作戦があることは当然に機密です。諜報活動に対する防諜が難しいのはわかっていますが、できるだけ外部に漏れないよう、また内通者や潜入者を発見、取り締まるよう努力してください」
「「「「「はっ!」」」」」
「最後にガイエスブルクは移動可能になった時点で、新しい名称にします」
「「「「「……………」」」」」
それは諸提督も納得するところだった。あの要塞で二人の元帥を亡くしている。不吉な名称を変更することは武人にとって験かつぎの意味合いもあり支持されやすい。ミッターマイヤーが問う。
「して、その名は?」
「三元帥の城、ドライ・グロスアドミラルスブルクとします。三人の霊が私たちを守ってくれ。もう二階級特進で元帥になる人が生じないように」
「「「「「おおっ」」」」」
諸提督がラインハルト、ロイエンタール、そしてノルデンを思い出した。三葉が解散を命じて廊下に出ると、一人ビッテンフェルトが待っていた。
「キルヒアイス閣下、自分も参加いたしたくあります!」
招集されなかったけれど、主だった提督の全員が呼ばれていたことに気づいていたビッテンフェルトが大規模な作戦行動があることを推察するのは容易だった。
「ビッテンフェルト提督には首都オーディンの守りをお願いします」
「留守番など、メックリンガー提督あたりこそ適任です! どうか、黒色槍騎兵に活躍の機会を!」
「………」
「…コホン…」
メックリンガーが咳払いしながら歩み去っていった。
「キルヒアイス閣下、ご命令を!」
「………」
そうやって本人が聴いてるのに口走るあたり先走りそうでイヤなんだよ、と三葉は思ったけれど、顔に出さず優しく微笑んでラインハルトがやっていたようにビッテンフェルトの前髪をいじりつつ、語る。
「内乱は終わったとはいえ、いまだ帝国内が完全に安定したわけではありません。我々の多くが出陣したとき、その機に乗じて不穏なことを考える輩もいるかもしれませんが、首都の番人が名高い黒色槍騎兵であれば、辺境で遠吠えさえしないでしょう。そういう意味なのです、わかってください」
「っ、はっ! ご期待に添います!」
「ありがとう」
礼を言って執務室へ戻った三葉は機密のために日本語で作戦案を書き始める。
「フフン。みていなさい、ヤン。アスターテを再現してやるから」
閃いた作戦をキルヒアイスに承認してもらうため作戦案を仕上げ、日が暮れる頃にシュワルツェンの館へ帰宅した。帰宅途中でケスラーが命じて警備を増やしていたことに満足しつつ、いまだアンネローゼとの関係が進んでいない様子には不満を募らせている。
「おかえりなさい、ジーク」
「ただいま、アンネローゼ」
いっしょに暮らしてるのは立派なんだけど、いっしょに暮らしていて一度もベッドを共にしてないってのが、逆に女には不安を与えるって、わからないのかな、と三葉は美味しい夕食を食べながら考える。
「美味しい……本当に美味しいよ。アンネローゼ」
「ありがとう、ジーク」
微笑んでくれるけれど、やはり悲しげで一日中物思いに耽っていた様子なので三葉はアンネローゼの頬に触れた。
「アンネローゼ」
「……ジーク…」
ごめんね、キルヒアイス、と謝りながらキスをしようとすると、アンネローゼも拒否しなかった。そっと軽いキスをした。
「……」
「……」
やっぱり待ってるよね、今夜決めよう、決めておこう、三葉は決断した。時計を見てからアンネローゼに入浴を勧め、交代で自分もシャワーを浴びて、居間で刺繍をしていたアンネローゼに問う。
「アンネローゼの部屋で、いっしょにワインを飲んでもいいかな?」
「……。ええ、どうぞ」
遠回しなイエスをもらった。ワインは口実に過ぎないので、あまり酔わないうちにキスを繰り返して、そっとアンネローゼをベッドへ寝かせると、またキスを降らせる。キスしながら寝間着を脱がして、お互いに裸となってから、三葉は苦労して男性としての衝動を抑制すると、用意しておいた紙とペンで手紙をベッドの上で書く。
「……ジーク……何を書いているの?」
「おまじない。アンネローゼと幸せになれるよう。ずっと、いっしょに居られるように、おまじないをかけておくから。安心して、アンネローゼ」
「……はい……ありがとう、ジーク」
アンネローゼは見たこともない日本語で書かれている手紙を嬉しく想った。
キルヒアイスは裸でベッドの上にいて、左手でアンネローゼの右手を握り、反対の手には手紙を持っている状況を認識して、激しく驚いたけれど、入れ替わり直後に状況が予想外であることは何度もあったので驚きを表情に出さず、とにかく手紙を読む。
アンネローゼが淋しそうだったから、勝手にキスしました、ごめんなさい。
けど、私も女だから、わかります。
アンネローゼも待ってるって。
だから、男として応えるべきだと想います。
男にはわからないかもしれないけど、五歳も年上というのは、かなり戸惑います。
どうしても積極的になれないの。
それにラインハルトさんが亡くなったのに、自分たちだけ幸せになっていいのか、って二人とも考えるかもしれないけど、逆にラインハルトさんは、どう想ってるか、考えてみて。
二人にこそ幸せになって欲しいと想ってるはず。
そのために頑張ってきたんだから。
そして、アンネローゼが待ってることは目を見れば、わかるから。
抱いてあげて。
ちなみに、この段階から抱かずに部屋を出た場合、今後の関係は絶望的になります。
策謀的で、ごめんなさい。
けど、二人のためには、これが最善だと想うから。
落ち着いて、頑張って。
この手紙は、幸せになるための、おまじない、と説明しています。
夕食後にキスして、いっしょにワインを飲んで、何度もキスして、脱がせた段階です。
ファーストキスだったら、ごめんなさい。
読み終えてキルヒアイスは思わず漏らした。
「三葉……」
「……ジーク?」
「…………」
そっと見ると、アンローゼは裸だったし、自分も裸だった。
「…………。アンネローゼ、ずっと好きでいました。出会った日から」
「ジーク……ええ、私も、あなたが好きでした」
二人が本当のファーストキスをして、抱き合った。
三葉は性欲を持て余していた。
「う~………やりたかったぁ!」
布団の上でゴロゴロと転がる。
「我慢した! ちゃんと我慢した私を誉めてよ、キルヒアイス!」
衝動のままに抱きたかったのを耐えて前戯だけで終えたので、入れ替わっても、まだ興奮が残っている。
「く~っ! 据え膳どころか、蟹で言ったら、殻剥いて、あとは食べるだけまでしてあげたんだからね! あ~……私もエッチしたい!」
しかも、今日は夏休みの宿題を終わらせるためだったのか、女子として抱かれてもいないようで身体が疼く。
「………四葉は、もう寝てるよね」
もう勝手に戸を開けないで、と言ってあるので三葉は自分を慰めてから眠った。そして朝になり、起きたくない。布団を出たくない。
「お姉ちゃん、テッシーくんとサヤチンさん、来てるよ。ご飯も持ってきたから、開けるよ」
「…どうぞ……」
「はい、朝ご飯」
四葉が朝食を置いてくれた。夏休み中は三食、登校しないでも食べさせてもらえた。神社に出るのもイヤだったので、家の中で神事で使う紙飾りや御守りを作ることで仕事をしたと見なしてもらい、働かざる者食うべからずの刑を受けないよう過ごしていた。とくに御守りは一つ一つ祈祷してから中身の和紙に唾液をつけているので、単に全国神道製造組合から仕入れたものを、そのまま売っているわけではない。ずっと自宅内の内職で食事をえて夏休みを生き延びてきた。けれど、今日からは登校しないと、ご飯がもらえないことは、わかりきっている。
「……行きたくないなぁ……」
そう漏らしつつ、仕方なく朝食を食べて制服を着て、迎えにきてくれた克彦と早耶香に礼を言う。
「ありがとう……テッシー……サヤチン…」
「おう。ちゃんと夏休みの宿題、もってきたか?」
「…うん…」
「三葉ちゃん、もっと胸を張って、しゃんとしてれば、もう平気やから」
「……うん……」
学校に行きたくない、学校に行きたくない、と三葉は一歩ごとに重くなる足を仕方なく進めて登校した。
「あ、おジョー様、おはよう。きゃははは!」
「ちゃんと学校、来たんだ。おジョー様」
からかってくる心ない女子に克彦が怒ってくれる。
「おい、お前ら、いい加減にしろよ!」
「きゃははは、おジョー様をおジョー様って言っただけだしぃ」
「おジョー様だもんね。チョロチョロのおジョー様。あ、町長だっけ? チョロチョロ? ジョロジョロ? ちゃんとトイレ行きなよ」
「……ぐすっ…」
おもらしのことをからかわれると泣きそうになる。三葉が泣きそうになると余計にからかわれるという悪循環が始まり、教室で夏休みの宿題を提出してから校庭で校長の長話を聴くために整列すると、さらに苦しくなった。
「宮水、トイレ、大丈夫か? プフっ…」
「また校庭にしないでね。クスクスっ…」
二年生の一部がからかってくるだけで済まずに、三年生や一年生の一部まで三葉の顔を見て笑ったり何か囁いていたりする。整列して立っているのが、とてもつらい。泣くと余計に笑われそうで涙を耐えているけれど、残暑で流れてくる額の汗と涙が混じって、ときどき手で拭かないと頬が濡れてしまう。しかも登校したとき下駄箱には以前にラブレターを送りつけてきた一年生の女子から、幻滅しました、とまで書かれていた。
「……勝手に好きになって……勝手に幻滅しないでよ……」
なかなか校長の話は終わってくれない。下を見ると、三葉の脚に赤いレーザー光線が当てられていた。
「っ?!」
一瞬、狙撃されるのかと勘違いして身を翻して伏せると単に三年生の男子がキーホルダー型のレーザーポインタで三葉の股間から足首まで照らしていただけだった。
「プフっ、なんかビビってるよ」
「暗殺されると思ったんじゃねぇ? 要人の娘だしな」
「きゃはは、自意識過剰ぉ! 逃げ方がプロっぽかったよね」
笑われているのを無視して、また整列して立つと、再びレーザーポインタで股間から足首まで照らされる。赤い光りが、おもらしを再現するように何度も三葉の脚を行き来してくる。克彦も早耶香も名簿の順番では遠いので守ってやることができず、立っているしかない。ようやく校長の話が終わりそうになった頃、盛大に遅刻してきた三年生の男子が校門から入ってきて、三葉の姿を見ると飲んでいたペットボトルの水を校庭に垂らした。その三年生は以前に三葉からハイキックを受けた男子で恨みを晴らすように、ちょうど三葉が我慢できなくなって漏らしてしまった地点に水を垂らすと、わざとらしく手を合わせて祈られた。
「プッ! きゃははは!」
「あはははっ!」
もう小声ではなく大きな声で数人に笑われ出して、三葉は耐えきれず泣きながら走った。走って校門を出ると、克彦と早耶香がついてきてくれるけれど、もう学校には戻りたくない。二人に慰められながら帰宅した。
「…ううっ…はううっ…ぐすっ…ひぅうう…」
「三葉ちゃん……」
「あいつら、ホント最低だよな。人間のクズだ」
「ホントそう! 最低だよ! もうイジメだよ!」
「あうぅう……もう、ヤダよぉ……学校いきたくないよぉ…」
「「…………」」
頑張って登校した二学期初日から挫折するような目に遭った三葉にかける言葉がなくて困っているうちに、四葉も始業式を終えて帰ってきた。泣き声が家の中に響いているので、すぐに気づいて姉の前に立った。
「いつまでメソメソしてるの?」
「っ……あうぅぅ…」
最近、手厳しい妹から逃げるように克彦に抱きついた。可哀想になって克彦が言う。
「三葉は頑張って行ったんだけど、一部のヤツらがひどくてさ!」
「そうだよ! ひどいの! 最低!」
「あいつらはクズだ! 人間じゃない!」
三葉のために言い募る克彦と早耶香へ四葉が視線を送る。
「クズか。そう思うならクズなのかもしれないね」
「ああ、ホントに最悪だ! 三葉がかわいそうだ!」
「なんで、あんな人たちいるんだろう、三葉ちゃんが何したっていうのよ?!」
「おもらしでしょ」
妹に冷たく言われると三葉が、またボロボロと涙を零した。
「ひうぅうう…」
「よ、四葉ちゃん、もう少し優しくしてあげて。三葉ちゃん、すごく傷ついてるから」
「……情けない姉…」
「四葉ちゃん! 怒るよ!」
「………。三人とも、ホントに、からかわれてる理由がわからないの?」
「え……」
「いや、……それは……だから……修学旅行のこと、だろ?」
「違う。本当の理由」
「「……………」」
「…ぐすっ……四葉、変……四葉の言うこと、このごろ、せんぜんわかんないもん!」
「三人も私も、この町の特権階級なのに、その自覚はないの?」
「「特権……」」
「四葉、意味不明!」
「私たちは言ってみれば貴族みたいなものだよ」
「貴族? 四葉ちゃん、また変なテレビでも見たの?」
「私たちは、お金に困ったことある?」
「「「………」」」
克彦は町一番の建設会社の嫡男だったし、早耶香は公務員家系で、三葉と四葉も両親はいないものの、町長である父親から仕送りもあるし、神社そのものの収入もあるので金銭に困った経験はない。
「からかってくるのは貧民だよ。わからない?」
「「「…………」」」
言われてみれば心ない女子や野蛮な男子は、だいたいが恵まれない家庭の子供だった。母子家庭だったり、生活保護家庭だったりする。山間部の町なので現金収入は限られている。小さな田畑と観光収入、そして公共事業くらいしかない。
「この町を小さな帝国だとすれば、皇帝はテッシーくんのお父さん、テッシーくんは皇太子」
「え……オレが? 皇太子? ……いや、その例えだと、四葉ちゃんが皇女で、町長さんが皇帝じゃね?」
「違うよ。お父さんは帝国宰相。だから、お父さんの差配で町政は回るけど、町長も宰相も世襲はされない。でも、一番の権力がある建設会社は世襲される」
「な…なるほど……」
「で、サヤチンさんは中流というか、官吏の娘さんね。で、私とお姉ちゃんは宗教的頂点にいるわけ」
「そう言われると、そうかもしれないけど、それと関係あるのかよ?」
「あるよ。私たちが恵まれた階級だってことは、わかったよね。で、からかってる人たちは貧民。私たちは望めばディズニーランドだって行けるし、USJも長スパも行けるし、連れて行ってもらったことあるでしょ。でも、貧民にとっては修学旅行がかけがえのないチャンスだった。って、ここまで言えばわかる?」
「………そんなこと根に持ってるのか……」
「生まれた頃から恵まれた貴族に貧民の気持ちはわからないよ。あと、私もお姉ちゃんもサヤチンさんも美人でしょ。テッシーくんも眉毛さえ剃ればハンサムだし」
「うっ……オレの眉毛は気に入ってるんだ!」
「ごめんごめん。まあ、自分で言うのも何だけど、たまたま美人に生まれて、何の努力もなく男の子に好きになってもらえたりする。それに比べて、からかってくる女子は、どう? かわいい?」
「……いや……あいつらブスだ。……心も、見た目も」
「じゃあ、ブスで貧民な人たちの視点から見てみて。美人で町長の娘で巫女で、お金にも困ってない。そんなヤツが修学旅行は遊園地じゃなくて広島京都にしようって言ったら、むかつくし。おもらしなんかしたら最高に笑えるよね?」
「「………」」
「ぅぅっ…ひぅぅぅ…」
「お姉ちゃんも、お姉ちゃんだよ。毅然としてればいいのに。いちいちビクビクして泣くから面白がって、からかわれる。ホント情けない」
「っ…情けなくないもん! 私だって頑張ってることあるもん!」
「頑張ってるって何?」
「うっ…ううっ…わ、我こそは帝国軍最高司令官にして帝国宰相なるぞ!!」
三葉がビシッと指先を四葉に向けた。四葉が長いタメ息をつく。
「はぁぁぁ……」
「「…………」」
克彦と早耶香も何を言っていいか、わからない。四葉は向けられた指先を姉へ向け返して告げる。
「あなたは小便たらして不登校になりかけてる女子高生です」
「ひっ……ぃ……違うもん! 違うもん! 私はっ…私はっ…う…うぐっ…あううっ…」
今度こそ号泣し始めたので早耶香が背中を撫で、克彦が抱いてやった。
「四葉ちゃん、お姉さんを叱って何とかしたいのはわかるけど、もう少し優しく言ってあげて。これじゃ余計に傷つくよ。家族だと、ついキツイ言い方になるから、ね?」
「…………そうですね……言い過ぎたかも……」
四葉が深呼吸して、それから泣いている三葉の涙を指先で拭き、舐めてみた。
「まあ頑張ってはいるのかな。そうだね、このまま頑張って。あと少しだと思うから」
四葉は祖母に登校はしたので三食用意してあげようと報告に行った。