四葉が見守っていると、12時のカウントダウンで布団に寝て目を閉じていた三葉が目を開けた。
「っ…戻ってる?! 私の部屋だ!」
「あ、お姉ちゃんになった」
その動き、口調どれも実姉だと確信できた。
「よかったァ! やっぱり夢だったんだ!」
「……夢にするんだ…」
どんな体験をしてきたのか、とても気になる四葉が質問する前に、三葉は急に丸くなって布団の上で呻いた。
「うぅぅっ…」
「お姉ちゃん?! 大丈夫?!」
「ううっ…はぅう…」
苦しみだして歯を食いしばった三葉の額に汗がういてきている。
「どこか撃たれたりしたの?!」
軍人、戦争という単語を思い出した四葉は心配して姉の頭を抱き上げた。
「しっかりして、お姉ちゃん! お姉ちゃんの身体に戻ってるんだよ! それでも痛いの?!」
「ううっ…あううぐうぅ…た……立たせて、…は……早く…」
「立つの? 大丈夫? どこが痛いの?」
「おっ…」
「お?」
「おしっこ……出そう…」
「………」
四葉が脱力して姉の頭を落とすと、三葉は下腹部を押さえて悲鳴をあげる。
「あああっ…ひ…響くから……そっと……そっと立たせて…ぅううぅ…」
「あの人……お風呂も遠慮したから……あんな涼しい顔して我慢してたんだ」
着替えも目を閉じたと言い、入浴も明白に遠慮した紳士が、三葉の下着を脱がせることになるトイレを先延ばしにしたのもわからなくもない。そして精神力の違いなのか、三葉の呻きようを見ていると妹として少し恥ずかしい。
「お姉ちゃんって淑女とか紳士って存在と1光年くらい離れてるね」
「ううぅ…ハァ…お願い…た…立たせて…で、出ちゃう、漏れちゃう」
「はいはい」
四葉は高齢者を介護するような配慮をしつつ呻いている三葉の肩を抱き、まずは上半身を起こした。
「ほら、私の肩に手をのせて立って」
「ぅうぅ…あ、ありが…ぅう…」
よろよろと三葉は内股で立ち上がると、妹の肩を杖のように支えにしながら歩く。
「ハァ…ハァ…ぅうぅ…自分の部屋から、出るのが、こんなに遠いなんて…」
一歩一歩がつらいようで半歩ずつくらい進んでいる。昨日は一日を狭い士官室の中で過ごした三葉が今は少しでも早く自室から出ようとしている。
「そういえば、お姉ちゃん、向こうの世界って、どうだった?」
「うぅぅ…あぅぅ…」
「……。あとで訊くね」
ようやく部屋を出ると、階段をおりるのは妹の肩ではなく手すりを頼りに一段ずつ進む。けれど、どんどん限界が近づいてきたのか、階段の半分までおりると、もう立つのも苦しいようで、一段一段、お尻をおろして座ってから足をおろし、またお尻を一段おろしてから足をおろすという状態になった。
「ハァ…ううぅ…ハァ…ぅぅう…」
「もうバケツでも持ってきてあげようか?」
先に降りた四葉が問うと三葉は首を横に、ゆっくりと振る。
「い、…要らない……私にも…ハァ…女子高生としての……ハァ…プライドが…あるの…ハァ…し、思春期むかえてない…ハァ…お子様には…ああぁ!」
「お婆ちゃん、寝てるから静かにね」
四葉が見守る中、ゆっくりと階段をおりた三葉は、また妹に肩をかりる。四葉の先導でトイレを目指した。
「ハァ…そっと…ぅぅ…そっと、ゆっくり歩いてよ……うぅ…早くトイレに…、ゆっくり…ハァぅ…早く…」
「ゆっくり早くって、それもう超空間移動だよ」
振り返ると、姉が半泣きの顔で我慢して震えている。もう潤んだ目から涙を流しつつ、鼻水まで少し出ている。姉らしいといえば姉らしいけれど、ほんの数分前までの凛とした美少女とは思えない変貌ぶりで、外見が同じでも中身が変わると人間こうまで変わるのかと感心してしまい、四葉はタメ息をついた。
「はぁぁぁ…、じゃ、超空間移動いくよ。ゆっくり早く」
「あぁぅう…な…何でもいいから…ハァ…お願い…ハァハァ」
「あと1メートルだよ、頑張って」
「うん…うん…うっ…うっ! うわあ! ああっ! ヤダヤダ! 止まってぇ! あああっ!」
「………」
「はああっ! あああうん! ふあぁぁぁぁっ……」
「…………………」
四葉は痛いほど肩をつかまれて、姉が限界を迎えたのを悟った。肩を貸している四葉の頭に三葉の生温かい涙がポタポタと降ってくる。
「うううっうううっ……漏らしてないから…ハァ…これは違うから…。おしっこ…漏らしてないから…ぅう…ぐすっ……、おもらしじゃないもん……だから、四葉、振り返らないで、見ないで」
「………見ないから」
「ううっ…えぐ、うぐ…はぐ…見たら泣くから…えぐえぐ…ううっ…ぐすっ…おもらしじゃないからね……お姉ちゃん、おしっこなんて漏らしてないよ…ううっ…ぐすっ…ひっく…ひっく…ぅうう…」
「………」
もう泣いてるじゃん、認めたくなくても、それはおもらしだよ、と言いそうになって四葉はかわいそうなので振り返らずに風呂場を指した。
「お風呂、まだお湯が残ってるから入ってきて。ここは片付けておくから」
「ううっぐすっ…小学校で友達に喋ったりしないでよ……小さな町なんだから、すぐウワサになって高校まで…ぐすっ…姉妹とか、兄弟とかいて…話が回るから…」
「家の恥を外で言わないから」
「ううぅ……恥って言わないで……お姉ちゃん、おもらししてないから」
「うん、うん、これは花瓶の水が零れただけだから、拭いておくね。早くお風呂に入ってきなよ」
「ぐすっ…うん……ありがとう……ごめんね…」
啜り泣きながら三葉が風呂場に入っていく音がすると、四葉はタメ息をついてからバケツと雑巾を持ってきて床にできた大きな水たまりを拭いた後、点々と風呂場まで続く足跡を拭いた。雑巾とバケツを洗って片付けると、姉から話を聞きたいので祖母を起こさないために二階へあがって三葉の部屋で待つ。しばらくして三葉が揚がってきて、自室に入って妹が待っていたのを見ると、ビクリとしたけれど目をそらして無言で髪をタオルで拭いている。
「………」
「それで、どうだったの?」
「っ…おもらしじゃないから!」
「……」
「あれは汗なの! 汗だったの! あのね、よく聴いて! お姉ちゃん、ヨガやってたの! デトックス的なヨガ! 体内の悪い成分を一気に汗にして、お腹と太腿から出すの! おもらしに見えたかもしれないけど、あれは汗! ヨガの効果だったの!」
「……」
夜中の入浴なのに、ずいぶんと長湯だと感じていた四葉は姉が苦しい言い訳を考えていたのだとわかり、タメ息をつきそうになって飲み込んだ。姉は落ち着きがないわりに恥ずかしがりで、唾液を混ぜた口噛み酒を造ることも強く恥じらっている。もう何度も祭りの度にやっている四葉は慣れていて、たぶん思春期に入っても平気だと思うのに、姉が思春期に入った中学生だった頃は祭りの前夜に家出しようとしたり、練習中に駄々をこねて泣き出したりした姿を覚えている。
「すっごい汗だったでしょ! お姉ちゃんも、びっくりだったよ! ヨガの効果って、すごいね! うん、ヨガすごい!」
「……すごいヨガだね……ちなみに、どんなポーズ?」
「っ…わ、忘れちゃった! お、思いつきでやってみただけなの! どうやったら汗をかけるかなって考えてやってみたら、すごい効果で、びっくり! ポーズは、こう、だったかな、それとも、こう、かな? あはは…」
三葉は寝間着を持たずに入浴したのでバスタオルを身体に巻いただけの姿で思いつくポーズで腕を上げたりしている。ウソをウソで上塗りしているために動揺して汗が噴き出してきていて、腕を上げた三葉の腋に玉のような汗が浮いていたので、四葉は話を合わせて終わらせることにした。
「あ、ちゃんと汗かいてるね。すごいね、お姉ちゃん」
「え…」
言われて三葉も自分の腋を見ると、たっぷりと汗をかいていたので助け船に乗った。
「ほら! 本当だったでしょ! 流れるくらいの汗!」
三葉は嬉しそうに両腕をあげて腋の汗を見せてくる。入浴で身体が温まっている上に激しく動揺しているので、三葉の腋から噴き出してくる汗が玉になって、その滴がくっつきあい流れる。まるで強火で肉を焼いたときに出てくる肉汁のように三葉は腋から汗を流しているし、もっと絞り出そうとして頭の上に両腕をあげて右手で左肘をつかみ、ぐっと力を入れると、三葉の腋の前後が筋肉で壁をつくり、大きく腋が凹んで汗が合流する。こもった体温と室温の差で三葉の両腋から湯気までのぼった。
「こんなに流れてるよ! ほら! だから、さっきのもおもらしじゃないの!」
「………」
「私の腋の汗、すごいでしょ! さっきは、これがお腹と腿から流れたの! だから、おもらしに見えたかもしれないけど、絶対、おもらしじゃないから! っていうか、高校生にもなったお姉ちゃんがおもらしするわけないよね!」
「………」
先刻までの凛とした美少女が、今はウソの上塗りのために自分の腋を見せて熱弁している。嘘から出た誠か、瓢箪から駒で、ウソを重ね塗りできそうな汗が流れてくれたことで喜々として両腋を見せてくる姉の姿に、これが実姉かと思うと四葉は目頭を指先で押さえて涙腺を閉めつつ語る。
「うん、本当にヨガだったんだね。お姉ちゃん、もう腋は見せなくていいから、汗も拭いて。おもらしじゃないって信じるから。学校でも言わないし」
「本当に信じてくれてる?」
「うん、うん。もう、いいからさ。私が訊きたくて待ってたのは、そこじゃないから。訊きたいのは昨日一日、誰かと入れ替わっていた感覚とか、ジークフリード・キルヒアイスっていう名前に聞き覚えはない?」
「え? なんで、四葉が私の夢を知ってるの?」
すっかり入浴中に昨日のことを夢だと思い、誤魔化すための言い訳を最重要視して考えていた姉に四葉は、もう眠いので早めに話を進める。
「お姉ちゃん、ジークフリード・キルヒアイスっていう男の人になってなかった?」
「……あれは夢じゃないのかな……でも、キルヒアイスって人は知ってるけど、ジークフリードって? ラインハルトさんも四葉が知ってる?」
「あ~……ジークフリードはキルヒアイスさんの名だと思うよ。たぶん姓がキルヒアイス。ラインハルトさんはキルヒアイスさんの上官らしいかな」
「情漢って何? どういう関係?」
「今、微妙に変な字をあててない? お姉ちゃん、あっちの世界で一日何をしてたの?」
「う~ん………二度寝して、ご飯食べて、シャワー浴びて、そんな感じ」
「……………。自分が宇宙にいるなぁ、って思わなかった?」
「宇宙………やっぱり、あれは宇宙なのかなぁ……」
「ワープとかした?」
「した!」
「戦争は?」
「戦争? そんなの無かったよ」
「二人は軍人じゃなかった?」
「う~ん……身体は、すごい鍛えて…」
そう言って三葉は真っ赤になった。なんとなく四葉は理解できたし、姉が初日にした行動は次に入れ替わったときにキルヒアイスから訊く方が詳細な気がして、もう眠いので話を終わらせる。
「とりあえず、キルヒアイスさんと入れ替わるの、しばらく繰り返して起きるかもしれないって」
「またあるの?!」
「うん、お婆ちゃんがそう言ってた。だからね、くれぐれもキルヒアイスさんの生活を乱すようなことしないであげてね」
「い……入れ替わり……入れ替わりってことは、私の身体、どうなってたの?!」
三葉が不安になって自分の身体を抱く。見知らぬ男性に一日、自分の身体を操られていたという女性らしい恐怖を覚えている。女子として意識のないうちに、自分の身体を男性から意のままに操られるということは底知れない恐怖と不安がある。怯えて青くなっている三葉を見て、四葉はキルヒアイスの配慮を伝える。
「安心して。絵に描いたような紳士的な人だったから、お風呂も断ってたくらい」
「……おっぱいとか触られてない?」
「そういうことしないタイプだと思う。着替えも目を閉じてしたって。トイレも行ってないはず」
「よかったぁぁ……。………でも、だから、あんなに、おしっこ………」
「次、入れ替わったときはトイレは行ってもらうよう言っておく?」
「…………………。ダメ! 我慢してもらって!」
三葉は鏡で見たキルヒアイスの顔を思い出して、彼が三葉の身体でトイレに入り、脱いだり、拭いたりするシーンを思い浮かべ、ブンブンと首を横に振った。
「絶対ダメ! むしろトイレが一番ダメ!」
恥じらって顔を真っ赤にして拒否している。
「あんなカッコいい人に見られたくないもん!」
「カッコ悪い人ならOKなの?」
「もっとダメ!!」
「キルヒアイスさんは、きっと目を閉じてくれるよ」
「目を閉じてたって触るんでしょ?!」
「……まあ……拭くかな……」
「その前に脱がせるんでしょ?!」
「脱がずにはできないね」
「着替えだけ! 朝の着替えだけにしてもらって! パンツ脱ぐのは絶対ダメ! 着替えでもパンツは替えなくていいから!」
「……生理現象だよ? 夕方くらいに限界きたら、どうするの?」
「……………我慢してもらって……」
「人間、できることと、できないことがあるかもしれないよ? どうしても限界ってときは、どうする?」
「………目を閉じてもらって耳を塞いでもらって、四葉が脱がせて」
「え~………」
四葉は姉の介護をするところを想像する。あまり、したくない行為だった。
「それってさ、拭くのも私?」
「……………ごめん……お願い」
「………。大でも……?」
「…………………ごめん……………お願い……します……」
「妹に? ……お姉ちゃんが?」
「………四葉のオムツ替えてあげたことあるもん……」
「10年前の話でしょ、それ」
「……ぐすっ……ぅっ……ぅっ……泣きそう……。入れ替わりなんて……イヤだよぉ……ぅう…ぅう……女の子には見られたくないところが、いっぱい、いっぱい……あるんだよぉぉ……イヤだよぉ……もうイヤだよぉ…」
座っていた三葉が畳の上に寝転がって手足をバタバタとさせ始めた。四葉は駄々をこね始めた姉の身体に寝間着をかけてタメ息をつく。
「はぁぁ……女の情けで善処してあげるかもしれないけどさ。もう一つの、あれは、どうする?」
「あれって?」
「……私も、そろそろだから小学校で習ったけど、あれ」
「あれ?」
「だから、あの日、月に一回は来るんじゃないの?」
「あ…………」
「………」
「………」
二人は入念に、もしも生理中に三葉がキルヒアイスとして行動した場合について話し合った。
キルヒアイスは目を覚まして木造家屋の天井が見えたので二度目だということを悟った。
「………やはり繰り返すのか……」
静かに和布団から三葉の身体が起き上がると、そばに手紙があった。
キルヒアイスさんへ
はじめまして、宮水三葉です。
もし、またキルヒアイスさんが私になっているのなら、できるだけ私の生活を私のように過ごしてください。周囲から変に思われたくないので苦痛かもしれませんが女の子らしく振る舞ってください。入れ替わっていることも周りに言わないでください。
一度目のとき目を閉じて着替えていただき、ありがとうございます。今日も同じようにしてください。お願いします。私の身体は見ないでください。触るのも必要最小限にしていただけるとうれしいです。お願いします。
読み終えた三葉の手は手紙を机に片付けた。
「返事は夜に書く方がいいか……今日の出来事も含めて」
鏡を見ると三葉の姿が映っている。
「……女の子らしくか……。言葉使いも気をつけた方がいいだろうな……いいのかな」
とりあえず着替えを探した。一度目のときは衣類は散らかっていたけれど、今は着替えがセットにして置いてあるのでわかりやすい。部屋の中も、ある程度は片付けられていて人目を気にしている感じがした。
「着替えるか。なるべく触らないように」
目を閉じて着替えを終えると、一階におりた。
「おはようございます」
「ええ、おはよう。ジークさんなのね?」
一葉が訊いてくるので頷いた。
「はい、ご迷惑をおかけします」
「いえいえ、こちらこそ。向こうで三葉が迷惑をかけていないか、心配でたまらないくらいですよ」
「三葉さんには安全に過ごしていただけるよう上官にも頼んでありますので、どうか、ご安心ください。何か、お手伝いすることはありませんか」
「四葉を起こすのをお願いします。一昨日、夜更かしして昨日は二人とも遅刻したから、今日はちゃんと登校させんとねぇ」
「やはり、ご迷惑をかけたようです。すみません」
謝ってから顔を洗い、再び二階へあがった。
「四葉、おはようございます」
戸をノックしたけれど返事がない。繰り返しノックしていると一葉が台所から言ってくる
「入ってもらって、けっこうですよ」
そう言われたので室内に入ると、四葉は布団で静かに寝ていた。
「起きてください。四葉」
「……ん……」
なかなか起きない。小学生なので長い睡眠時間を必要とするのに、前々日は明け方まで三葉と話していたし、そのおかげで昨夜も睡眠リズムが戻っていない。
「起きてください。……………」
揺り起こそうとして、三葉の手が止まる。穏やかに寝ている四葉が、あと半年で非業の死を遂げるのだ、ということを思い出してしまい、三葉の瞳が潤んだ。ちょうど10歳といえば、キルヒアイスとラインハルトにとっても思い出深い時期なのに、この四葉は人生をそこで終えるのかと思うと、三葉の瞳が涙を零しそうになる。
「…………」
軽く頭を振って顔を引き締めた。
「起きてください。四葉」
「…ん~……あ、お兄さんの方?」
「見ただけでわかるのですか?」
「うん、まあ、姿勢から言葉遣いから、ぜんぜん違うし」
「……そうですか……女の子らしいというのは難しいようです」
「今の方が普段のお姉ちゃんより、よっぽど女の子らしいよ」
会話しながら一階へおりて朝食の準備を手伝い、三人で食べる。
「ねぇ、お婆ちゃん、今の方が女の子らしいよね?」
「そうやね。いいところのお嬢さんという風やけど……ちょっと…」
「ちょっと、どう違うのでしょうか? できるだけ三葉さんに迷惑をかけたくないので、ご教授ください」
「うちの三葉に比べると、ピシっとしすぎなんよ。軍人さんの雰囲気が、しっかり伝わってきて……そうやね、もう少し。たとえば、ジークさんの知っている女性らしい女性を真似されてみてはどうでしょう?」
「私の知っている女性らしい女性……」
アンネローゼ・フォン・グリューネワルトの姿を思い出した。憂いを含んだ穏やかな瞳と、しっとりとした座り姿、後宮に入るまでの微笑みも忘れていない。三葉のまっすぐ正座していた足が少しだけ崩され、背筋もわずかに傾けられると、たおやかな女らしい座り姿になった。
「このような振る舞いでよいでしょうか?」
「「…………」」
あまりに女らしく優美なので、また別の方向で三葉から離れてしまったけれど、もう注文をつけるのは気の毒なので二人は頷いた。朝食が終わり、家を出て通学路を歩くと、早耶香と克彦に出会った。
「おはよう、三葉ちゃん」
「おはよう、三葉」
「おはようございます、サヤチン、テッシー」
「「………」」
「どうかされましたか?」
「また選挙モードなんやね」
「昨日は休憩やったんか。また無理すると明日遅刻するぞ」
「はい、気をつけます。ご心配、ありがとう、テッシー」
ありがとう、ジーク、と言ってくれるアンネローゼを真似して言うと、克彦が真っ赤になった。早耶香が少し冷めた目で言う。
「一昨日より女らしいね」
「そう心がけております」
穏やかに三葉の唇が微笑むと、同性の早耶香でさえ見惚れるような顔だった。学校に到着して授業を受け、昼休みになると柄の悪いクラスメートに野次られた。
「そんなに票が欲しいのかよ、お嬢様」
野次ってきたクラスメートは一昨日、上級生にからまれて金銭を巻き上げかけられたところを助けられる形になったのだけれど、それが気にくわないようでからんでくる。
「いい子にしてないといけないってか。宮水さんちの三葉ちゃんはよぉ」
「私自身まだ未熟で選挙制度のことはよく理解しておりませんが、お父様の選挙につきましては重ね重ね皆様にご支援いただきたいと存じております。どうか、この通りお願いいたします」
座っていた三葉の腰が立ち上がって深々と礼をすると、克彦も立ち上がった。
「からんでやるなよ。親のことで」
「ちっ……」
舌打ちしてクラスメートが立ち去ると、克彦が心配する。
「大丈夫かよ、三葉」
「はい、ありがとう、テッシー」
「……そ、そんな真剣に礼を言われると照れるだろうが……べつに、たいしたことはしてねぇよ」
昼休みが終わり、午後の授業も平穏に受講して、なるべく宮水三葉としての生活を乱さないことを心がけていたのに、放課後になって校門を出ると上級生3名にからまれた。
「おい、宮水、ちょっと付き合えよ。こないだの礼をしてやる」
「………」
ついていくべきか、迷う。明らかに先日の件で意趣返しに来ている。それに対して正当防衛で反撃することが、宮水三葉としての生活に良い影響をおよぼすとは思えないし、戦力的にも3対1で筋力には自信がもてない。しかも、三葉の身体を無傷に、相手も軽傷におさめるとなると、かなり至難の業に思える。そして、たまたま今日からんでくれたことは感謝したいほどの偶然で、この次も偶然に期待するのは危険すぎると判断して、三葉の頭が礼をした。
「先日は一時の感情に身を任せ、大変なご無礼をいたしました。どうか、お許しください」
「あん? ……えらく今日は感じが違うな……」
「こいつのオヤジ、選挙に出てるから、もめ事はヤバイってんじゃないっすか」
「なるほど。それならそれでよぉ、こっちも手荒なことはしねぇから、ちょっと付き合えよ」
三葉の胸に手が伸びてくると、さっと後退った。
「逃げんなよ、コラ」
「どうか、お許しください」
「だからよぉ、詫びなら詫びで、誠意みせろや」
「口先だけじゃなくてよ、口の中で頼むぜ」
「そうそう、白いの吐き出さねぇで、ゴックンしてくれや」
「口技は神業なんじゃねぇか、反吐女」
「………」
三葉の手に、つい力が入って拳になりそうになるけれど、ぐっと我慢して頭をさげていると、克彦が間に立ってくれた。
「先輩、もう詫び入れてるんすから、このへんで勘弁してやってくださいよ」
「うっせぇ! ひっこんでろ眉毛!」
ガッ!
一喝されて克彦が蹴り飛ばされる。
「「テッシー!」」
心配して早耶香と二人で駆け寄った。すぐに克彦は立ち上がった。
「オレからも頼みます、もう勘弁してやってください」
「……ちっ…」
かなり強く蹴ったのに、すぐ立ち上がってきたのは意外だった。克彦は休日に建設現場で手伝いをすることもあるので体格も悪くない。小さな町なので、だいたいの素性はお互い知っている。
「勅使河原のぼっちゃんは、やっぱり宮水とデキてんのか?」
「もう手打ちにしてもらえませんか。お互い、一発ずつ、これで終わりに」
「けっ、足りねぇな」
「これ以上やると、こっちも問題にしますよ」
「あん?」
「オレは、ぼっちゃんっすからね。うちにも若いのが大勢いる。っていうか、声かけたら、あんたらの先輩も就職してますから」
「くっ……家の力に頼るってのか、情けねぇ野郎だ!」
「お願いしてるだけっすよ。これで手打ちに、頼みます」
克彦が頭を下げると、悪態をつきながらも上級生3名が去った。三葉の瞳が申し訳なさそうに克彦を見つめる。
「すみません。私のために」
「おう。缶ジュースおごってくれたら手打ちにしてやろう」
「クスっ……わかりました。おごらせていただきます」
三葉の財布を勝手に使うことは少し気が引けたけれど少額なので缶ジュースを買った。
「………」
この時代の缶ジュースと、私たちの時代のもの、ほとんど形状に変化がないな、よほど人類にとって普遍的な形に完成しているのだろう、と余計なことを考えてから克彦に渡した。
「ありがとう、テッシー。蹴られたところ、痛みは大丈夫ですか」
「もう平気だって」
美味そうに缶ジュースを飲む克彦に、もう一度頭を下げてから帰宅すると、すでに帰宅していた四葉が訊いてくる。
「今日は、どうだった?」
「なるべく普通に授業を受けたのですが、一つ申し訳ないことがあります」
そう言って上級生にからまれた件の顛末を四葉に話した。
「そんなことがあったんだ。お姉ちゃんに伝えておくよ。他には?」
「あとは、お父様の選挙について周囲から言われたとき、どう対応するのが正しいでしょう?」
「テキトーでいいよ。無視でもいいし」
「………ですが、政治的な代表を選ぶものですよね?」
「子供に関係ないじゃん」
「……そうかもしれませんが……」
「私も訊きたいことがあるの、お兄さんに」
四葉は姉の身体が一日どう過ごしたかを訊いた後は宇宙や銀河について訊いてきた。それについて、後の歴史に問題とならない程度に答えながら夕食を終え、三葉へ手紙の返事を書いた。
宮水三葉さんへ
はじめまして。と言いましても、すでに私も、あなたへの手紙を置いておきましたし、これを読まれているときには、もう戻った後になりますから、2通目ということになるのでしょうか、なんだか、ややこしいですね。
ご依頼の件ですが、私の気のつく範囲で努力いたしました。至らぬ点はあるかと存じますが、どうかご容赦ください。とくに、お身体については細心に気をつけたつもりです。
ただ、四葉に話しておいたのですが、少々の揉め事を起こしてしまい、テッシーには申し訳ないこともありました。明日もまた彼をいたわっていただけると幸甚です。
手紙を書き終えると国語辞典で誤字脱字をチェックして、入浴せずに12時を待っているうち、気になったので糸守町選挙管理委員会から各戸に配布されている選挙公報を手に取った。俊樹の公約が書いてある。
ブレない責任ある政治を!
宮水俊樹は責任を果たします。
宮水俊樹の5つの約束
農林業を地域の主役に! 安全で美味しい農作物を提供することで地域の農業を元気にします。
建設業を生き生きと! 地域の雇用は建設業で守られています。建設業の応援団として皆様に役立ちます。
福祉・医療を充実! 皆様が安心して暮らせる町へ、高齢化社会に対応した支援を推進します。
地方創生への挑戦! 歴史的・文化的な資源に光を当て、民俗学者としての知見を発揮します。
子育て・教育は町の責任で! 子供を安心して産み育てられる町へ、教育の機会均等な実現のために奨学金制度を充実させます。
三葉の口がつぶやく。
「……すばらしい……」
共和主義政体については情報を制限されて育ってきたので、俊樹の公約を見て深く感動している。民主主義について、ごく簡単に投票によって代表を選ぶ、ということと腐敗もあり必ずしも善政を敷くとは限らないという程度のことしか知らなかったので、生の選挙公報を読むことができたのは、とても新鮮だった。そろそろ12時という頃になって寝ていたはずの四葉が起きてきた。
「四葉? どうしました?」
「一応、見守りに来たの、お兄さんとお姉ちゃんを。……まあ、今日はお兄さんっていうより、お姉様だった気がするけど」
「ありがとう、四葉」
そう言って布団に寝た。時計を見ると、あと2秒だった。