その男は自殺を考えていた。
大学を卒業し、一度就職するも、男は上司のミスの濡れ衣を着せられてクビを切られ、すぐに無職になった。
それからの懸命な就職活動でようやくつけた仕事は、しかし真っ黒も真っ黒のブラック企業。朝から晩まで安い給料で扱き使われ、さらには上司からの日常的なパワハラに苦しめられる日々。
過労死の三文字がたびたび脳裏を過ぎる、過酷極まりない生活だった。
安い給料ではろくな生活も送れず、幽霊が出ると噂の安アパートに独りで住まい、時折感じる幽霊の気配に怯えながら、虚しく細々と暮らす日々。
男は自分の人生に希望がないように思えた。
いっそ、死んでなにもかもから解放されたい。
死んで楽になってしまいたい。
もう辛い思いはしたくない。辛いと感じる心も、苦しいと感じる心もいらない。
なにもかも投げ捨てて、無にかえってしまいたい。
男は決意し、
そして、首を吊った。
「よぉ」
死んだ男が聞こえた声に目を開けると、目の前には半透明の、金髪の若い男の姿があった。
「えっ? ……あれ、俺、死んだんじゃ?」
「あー、安心しな。お前はバッチリ死んでる。自殺は成功。よかったな」
目の前の男はそんなことを言って、にへら、と笑った。
「あ、あなたは?」
「オレ? オレは幽霊ってやつよ。この部屋に出る幽霊。ほら、十五前にこの部屋で自殺した」
「は、はあ、幽霊さんですか」
「ま、それも今日で終わりよ。オレはもうあの世に行くから。これからはお前がこの部屋の幽霊として頑張ってくれよな」
「え?」
ぽん、と肩を叩き、彼は言った。
「次にこの部屋で自殺するやつがでるまで、せいぜい地縛霊として職務に励んでくれよ。なーに、安心しろって。ちょいとあの世に行くのが遅くなるだけだから」
聞き捨てならない言葉を残し、彼は男に背を向けた。
「んじゃ、お先に」
「ちょ、待ってくださいよ! 俺だってもう楽になりたい! 一緒に連れていってくれ!」
堪らず男が声を上げると、彼は振り返り、冷ややかな目で男を見返した。
「甘えたこと言ってんじゃねーよ。そう簡単に楽になれると思うな。お前はこれからいろんな人間の生き様を見て、自分がどれだけ愚かな選択をしたかを知るんだよ。お前よりも辛い境遇の人間もこの部屋には入ってくる。っつーか、こんなボロアパート、そういう人間しか入ってこねー。でもな、そいつらは、それでも前向きに生きようとして、辛い境遇を耐え抜いて、この部屋から出てくんだよ。早々に人生から逃げたお前は、せいぜいそれを目に焼きつけとけ」
男は何を言われているのか分からなかった。
自分はもう十分に頑張った。耐えてきた。それを、彼は、知りもしないで、なんと言った……? 怒りが男の中に燃え上がった。
「――っ、なにを言って」
「黙れよ。そのうち分かるさ。オレだって分かったんだ。お前もいつか、生きてりゃ良かったって思うようになる。ま、そんときはもう次の自殺者と交代さ。どっちみち生き返るなんざ無理なんだ。死んだことを後悔できるようになるまで、幽霊として頑張りな」
そう言い残し、彼は溶けるように消えた。
男はひとり、その場に立ち尽くすことしかできなかった。