四月一日 プロローグ
「……また、か」
豊かな自然に恵まれた王国で暮らす少女―――マリィは、微睡みの中で呟いた声によって、静かに目を覚ました。
陽の光はない。けれど辺りを見渡すと、目当ての背中はすぐに見付かった。私の視線に気付いたのか、小さな翼をぱたぱたと羽ばたかせていた彼は、ひどく驚いた様子で振り返った。
「ま、マリィさんっスか。驚かさないで欲しいっス。びっくりしたっス」
「ごめんね。そんなつもりじゃ、なかったんだけど」
寧ろそれは私の台詞だ。この世界はいつだって唐突に顕れる。間隔は不規則で、連日のようにやって来る時もあれば、数ヶ月間音沙汰なしが続くことだってある。
私の記憶が確かなら、一年間近く前が最後だったはずだ。見事に不意を突かれてしまっていた。
「暫く見ない内に、大きくなったっスね。すっかり見違えたっス」
「背が伸びたからだと思うわ。この一年で、七リジュも伸びたの」
「それに出るとこも出てきて、大人っぽくなったっス」
「……うん。そうだね」
文字通りの成長を実感する一年間だった。背丈は常にクラムの一歩先をいき、身体付きも段々と変わりつつある。できないことが減って、掛け替えのない大切な人達のために、できることが日に日に増えていく。
だからこそ私は、向き合う必要がある。子供のままではいられない。
「正直に、言うとね。怖いの」
「……マリィさん?」
「ねえレグナ。あなたは一体、何者なの?」
この幻想世界には、境目がない。現実と夢がない交ぜになった、そのどちらでもない虚構の異世界。
あり得ないのだ。この世界も、彼という存在も。知らぬ間に彼をレグナと呼ぶようになっていた、私自身も。疑念と惧れが募るに連れて、あったはずの幸せの匂いは立ち消えていき、純粋ではいられなくなる。
「そう構えないで欲しいっス。オイラみたいな存在は、大陸じゃそう珍しくもないっス」
「ああもう。またそうやって嘘を付くんだから」
「嘘じゃないっス。例えばっスけど……最近じゃ、クロスベルで色々騒ぎになってるみたいっスね」
「クロスベル……。んー、あなたにとっては、確かに最近かも。『ベルライン』のことよね?」
クロスベル自治州。いや、既に自治州とは呼べないか。リベールの辺境で暮らしていても、一年半ぐらい前から頻繁に耳にするようになった、大国の東端。私も大枠は把握しているつもりだ。
『クロスベル異変』。かつての『ノーザンブリア異変』を彷彿とさせる異常現象により、クロスベルは姿を変えた。事実上クロスベルはエレボニア帝国に併合されたとされる一方、現実は違う。今でも度々取沙汰されるクロスベルの情勢は、とても不安定な状態で、安定している。
「って、ちょっと待ってよ。いつの間にかクロスベルの話になってるけど、それがどうかしたの?」
「要はそういうことっス。古の盟約と禁忌から解かれ、転生の末に新たな契りを以って、人の仔らに与する……。そういうのもアリってことっス」
「……レグナも、同じなの?」
「どうっスかね。今はただ、同胞を見守ることしかできないっス。何れにせよ―――」
まるで理解が追い付かないまま、レグナは姿を変えた。
爛々と光る優しげな眼。非常識な大きさと力に、吸い込まれていく。忘れ掛けていた、幸せの匂いを感じていた。
「―――全てはそなたの、願いのままに」
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―――四月一日。
どうして私はいつも、ここぞという時にやらかしてしまうのだろう。列車の中で繰り返し何度も自分に言い聞かせたのに、結局この有り様だ。全く笑えない。
『いいかシーダ。俺も初めはそうだった。アヤの案内がなかったら、トリスタには辿り着けなかっただろう。俺達のようなノルドの人間にとって、列車を複数回乗り換えるという行為は至難の業だ。風ではなく、時刻表を味方に付けるんだ。いいな』
今更になって、兄の有難い忠告が脳裏で反芻される。手遅れ感で満載だ。
ガイウスお兄ちゃん。私は独りでトリスタに辿り着くことができたけれど、目的地は全くの正反対だったよ。途中で間違いに気付いても、列車ってすぐには引き返せないんだね。
「はぁ、はあ、はっ……ふうぅ」
駅を後にして、開けた広場に出てから呼吸を整える。汗を拭いながら振り返ると、頭上には『リーヴス駅』と記されたプレートがあった。
漸くここまで来れた。最大の難関は突破できたのだから、残る道のりはあと僅か。呼吸が落ち着くまでの間、少し整理をしておこう。
「宿舎に行って荷物を置いてから、指定の書類と装備品を持って……第Ⅱ分校本校舎の、正面玄関っ」
次に目指すは、第Ⅱ分校関係者専用の宿舎。制服の内ポケットからリーヴス駅近郊の地図を取り出して、周辺の立地と交互に見やりながら照らし合わせる。
成程。分からない、ということがよく分かった。恐らくこれは、時間を掛けるだけ無駄だ。お兄ちゃんやお母さんの助言に従い、現地住民を頼るのが得策に違いない。
「えーと……あっ。あの、すみませんっ」
ちょうど私の目の前を横切ろうとしていた初老の女性に声を掛ける。察するに、昼餉後の散歩といったところか。きっと近所で暮らす住民の一人だろう。
「あらあら、可愛らしいお嬢さんだこと。見ない顔ね、リーヴスは初めて?」
「え?あ、はい。たったい」
「いい街でしょう。この春からトリスタにあるトールズ士官学院の分校が設立されて今朝から続々と生徒さんがって、あら?その服装は……」
「あの、私がそのせ」
「ああはいはい生徒さんの妹さんね。入学式の見学か何か?あたしもあと五十は若かったら嬉々として制服の袖に腕を通すところだけど最近は身体のあちこちにガタがきちゃってねえ。あ、ごめんなさい自己紹介が遅れちゃったわね。あたしはチャミーっていうの。それでねこの間も―――」
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執拗な追撃を振り切り、宿舎の玄関に辿り着いた時点で、時刻は正午過ぎ。当初目標から一時間以上遅れてしまっているけれど、この調子ならどうにか入学式には間に合うだろう。先ずは一安心だ。
「あなたも、士官学院生ですか?」
「え?」
気を取り直して歩を進めようとした矢先に、背後から声を掛けられる。
振り返った私は、思わず声を失った。
「―――!?」
息が詰まり、言葉を発せなくなる。代わりに胸の中で、掛け替えのない家族の名を呼んだ。
(アヤ、お姉ちゃん?)
口を半開きにして立ち尽くしていると、件の女性は訝しんだ様子で、再度言った。
「その制服は第Ⅱ分校の物ですよね。あなたも……どうか、しましたか?」
「っ……ご、ごめんなさい。勘違い、というか。人違いでした」
「はあ」
馬鹿げてる。冷静になれ。こんな場所で、見付かるはずがないだろう。
それによくよく見なくたって、一目で別人と分かる。身長は十リジュ以上低いし―――でもひとつひとつの特徴は、しっかりと義姉を捉えていた。お姉ちゃんの出自から考えて、両親は東方の出身なのかもしれない。
故郷を発って以降、驚かされてばかりだ。先ほどのお婆さんといい、この帝国には様々な人がいるのだろう。それに、色々な物がある。何処も彼処も、人と物で溢れ返っている。まだ学院生活が始まってもいないのに、たった半日間の移動だけで、頭が沸いてしまいそうな気分だ。
「よく分かりませんが。とりあえず私達は、急いだ方がいいのではないですか?」
「あっ」
途端に焦燥感が込み上げてくる。こんな所で立ち話に耽っている場合じゃない。余計なことは考えず先を急がないと、いよいよ初日から遅刻してしまう。分刻みの行動という概念が、ノルドの外では当たり前なのだ。
玄関扉を開くと、やはり人の気配は感じられない。既にほとんどの生徒が第Ⅱ分校へ向かったのだろう。
「私の部屋は二階ですが、あなたは?」
「私も二階です」
途方もなく広い室内を早足で進み、階段に差し掛かる。舎内の見取り図は事前に貰っていたし構造は単純だから、いくら私でも迷いようがない。
「待って。折角なので、名前だけ伺ってもいいですか?」
割り当てられた部屋を見付けると同時に、再び凛とした声が聞こえた。
小さな笑みが浮かんでいた。自然と、私も笑った。
「私はマヤといいます。あなたは?」
「……名前まで、そっくり」
「名前?」
「な、何でもないです。えと、シーダ・ウォーゼルです。宜しくお願いします、マヤさん」
「こちらこそ。じゃあ、また入学式で」
本当に、色々な人がいる。きっと士官学院にも、沢山の人達との出会いが待っている。
これからの学院生活に想いを馳せながら、部屋のドアノブを握る。驚いたことに、扉の向こう側から人の気配を感じた。
(誰か、いる?)
既に私とマヤさん以外は第Ⅱ分校へ向かったと思っていたのに、一体誰が。僅かな躊躇いを捨てて扉を開くと、予想だにしない光景に、私は目を疑った。
「こんにちは」
「……こんにちは」
辛うじて捻り出した声で、挨拶に応じる。
女の子が、椅子に座っていた。恐らくは私と同年代で、背丈も同程度。目が冴えるような銀色の長髪と、黒色の革帽子。そして、士官学院第Ⅱ分校指定の服装。
まさか、彼女も?私のような低年齢の女子生徒が、私以外にも?
「あ……ええっと。もしかして、あなたも?」
「質問の意味が分かりません」
「……あなたも、この部屋の?」
「私がトールズ士官学院第Ⅱ分校の生徒であり今日からこの宿舎に入居するのか、という意味の質問でしたら、イエスです。……大方の懸念通り、苦戦しているようですね。ある意味で、待機した甲斐があると言えます」
抑揚のない言葉が次々に並んでいく。
反応に困っていると、女の子は立ち上がり、右手で三本の指を立てて、数字の三を示しながら言った。
「時間的余裕がありませんので、状況説明は省きます。定刻に間に合うためにも私の指示に従って下さい。質問は一切受け付けません」
「ち、ちょっと待っ……ああ!?」
言っている傍から、遅刻寸前という危機的状況を忘れていた。自己嫌悪の波が一挙に押し寄せてくる。
「書類と装備品をまとめながら指示を聞いて下さい。手は絶対に止めないこと」
「は、はいっ」
考えるよりも前に、不思議と身体が動いていた。
背負っていた荷物を下ろして、必要な書類と新品の筆記用具を手提げ鞄の中に押し込む。得物は入念に手入れをしてあるから、そのまま持って行けばいい。
「詳細は伏せますが、午後に備え補給は必須です。昼食は取りましたか?」
「……まだです」
折角だから現地の食事を味わってみたい、という私の甘々な考えのおかげで、お母さんが持たせてくれた朝餉以来何も口にしていなかった。空腹を感じないのは、それ以上の焦りが先行しているだけだ。
「むっ……ふう。仕方ありません、私の間食を差し上げます。少々不作法ですが、移動中に摂取して下さい」
手渡されたのは、小さな紙袋。中からは食欲をくすぐる甘い香りがした。砂糖菓子か何かだろうか。
「それでは出発です。体力を温存するために、窓から飛び下りましょう」
「はい!……はい?」
「クラウ=ソラス」
開け放たれた両開きの窓枠へ、背中を押される。
有無を言わさぬ強引さに、私は為す術もなく宙を舞って、リーブスの上空を突っ切った。女神様の苦笑いが、見えたような気がした。
初めまして。そしてお久振りです。
思い立ったが吉日、ということで。あまり多くを語り過ぎると自爆しそうなので、細々と続けていこうと思います。