絢の軌跡Ⅲ   作:ゆーゆ

16 / 19
五月八日 歪み始めた絆 ~前編~

 

 まだ死ねない。ほんの僅かでいい、託すだけの猶予を。それだけを願いながら吐き出した息が、恐ろしく冷たかった。

 刻一刻と終焉が歩み寄って来る。背中から体液が漏れ出るに連れて全身の感覚が薄れ、視界が狭まっていく。

 

「駄目だ、いかないでくれ!俺はっ……俺は、まだ」

「……ふふ」

 

 明確な死を突き付けられて尚、男は笑った。

 

「ガイウ、ス」

 

 知らぬ間に、何かを得るよりも、喪うことの方が多くなっていた。刻まれた皺の数が増える一方で、歩みを共にしていた者達が去り、己を慕っていた者達が減っていき―――心の中で、まだ死んではいけないと、彼らがそう叫んでいる。

 ……有り難い。複数の希望に囲まれながら、私は残すことができる。託すことができる。

 『十二』という数は、何時の世も様々な物事の象徴とされてきた。時を示す数字であり、七耀教会では聖数として扱われ―――内のひとつが、ここに在る。

 

「ガイ、ウス。こころ、ざし、を。継いで、くれ」

 

 男は叫んだ。今わの際の擦れ声を以って、獅子の如く心から吼えた。既に世界は闇に染まり、残された者達の悲哀に満ちた表情は映らない。漸く絞り出した声が誰かに届いているのか、それすら分からない。

 けれども、男は吐血と共に言葉を残した。数十年に及んだ己の生を、十二分に噛み締めながら。

 

「トーマ、よ。あにに、かわり……みなを、まもるのだ。おまえなら、ば、きる」

「っ……はい」

 

 段々と、手足すら動かなくなってきた。何もかもが遠退いていく中で、男は最後の温もりを感じた。

 それはとても小さく、華奢な手。少女は末っ子の妹を抱きながら、迷い猫が寄り添うように、すっかり冷え切った老いぼれの血に塗れた手を取り、握った。

 

「シー、ダ。そとの、かいを、しり、みみきわ、め……かの、じょを―――」

 

 憧憬してやまなかった、義姉のように。約束の地でひたすらに願い、幻の聖獣と契りを交わし、寄り添いながら、太陽の如く大地を照らし続ける彼女のように。飛び立ちなさい―――シーダ・ウォーゼル。

 

「誓います。風と、女神様の、お導きを」

 

 やがて、蒼穹の大地にひとつの魂が還った。最期を看取った若人達は、振り返らずに前だけを見据えて歩き出す。

 託された力を鍛造するために。

 戦乱に見舞われる故郷を護るために。

 誰のものでもない、自分だけの道を、見付けるために。

 

___________________

 

 

 五月八日、早朝。

 

「よしっと」

 

 頭上から葉桜が舞い降りる中、石畳みの街路上を歩き出す。朝が早いせいか人通りは少なく、鳥のさえずりや風の音色が一切の淀みなく耳に入ってくる。

 近郊都市リーヴス。異文化溢れるこの街での生活にも慣れたものだ。故郷と比べると若干朝寝坊気味で、湿度が低く乾いた風が頬を撫でる。そこやかしこに設置された導力機器の駆動音も、今では自然の中に溶け込んで、私の一部になりつつある。

 

「おっはよー、シーダちゃん」

「おはようございます。レイチェルさん」

「そろそろシーダちゃんもヴァンテージ・マスターズ、始めない?教官さんは結構のめり込んできてるみたいよ」

「あはは。また今度にしておきます」

 

 街の住民から声を掛けられる機会も、ここ最近は増えてきたように思える。入学当初は奇妙な距離感があり、戸惑いを覚える場面が多々あった。

 クルトさん曰く、あの内戦に起因しているらしい。比較的被害が少なかったこのリーヴスにおいても、少なからず犠牲者は出たのだ。誰かを喪い、悲しみに明け暮れた者がいる。

 やがて平静を取り戻した頃になって新設された、士官学院の分校。私にだって、その複雑な胸中は―――

 

(誰かを、喪い?)

 

 ―――唐突な眩暈に襲われ、声を発せなくなる。夢見の直後のように、世界の境目が曖昧になるかのような感覚。そして耳鳴り。

 

「……っ……、う、んん?」

 

 息を止めて、拳で額を押さえながら、耳鳴りが消え去るのを待つ。段々と鈍い痛みは治まっていき、ゆっくりと呼吸を再開して、冷静さを取り戻していく。

 大丈夫。己に言い聞かせて、ゆっくりと双眸を開いた。

 

(……夢、かな?全然、覚えてないのに)

 

 夢は得てして記憶に刻まれない。他者が触れる余地のない微睡みの世界は、忘れ去れば二度とは戻らない。

 けれども、現実と何かが混濁してしまうかのようなこの感覚は、夢見の直後のよう。私は昨晩、どんな夢を見ていたのだろう。厭な夢の後は、決まって汗に塗れていて不快だ。できることなら、呼び覚ましたくはない。

 

「ふう」

 

 一呼吸を置いて、第Ⅱ分校の校門を通る。鞄を背負い直して本校舎へ向かうと、その道すがら、私は思わず足を止めた。

 

「あら、おはようございます」

「……おはよう、ございます。ミュゼさん」

 

 《Ⅸ組主計科》所属、ミュゼ・イーグレット。普段通りの挨拶を交わしながら、自然と昨日の夕刻の一場面が脳裏を過ぎる。

 

「……どうされました?」

「い、いえ」

 

 遥か上空から見下ろされ、睨まれていたかのような、圧倒的な支配と掌握。過去に近しいものを、クレア少佐から感じ取ったことはあった。しかし根本が異なっているように思えて仕方ない。勘違いではなく、あれは確かに彼女のものだったはずだ。……一体、何だったのだろう。

 

(悪い人じゃ、ないはず。多分)

 

 直感を信じて、私はミュゼさんと一言二言を交わしてから、本校舎の正面玄関を進んだ。

 ミュゼさんの件は保留にするとして、ロジーヌさんとの約束もある。週明けに会いたいと言っていたから、今週中には時間を見付けて訪ねた方がいい。

 問題は、私だけの話ではないということ。私が見誤っていなければ―――私を含む、《Ⅶ組》全員が関わる問題だ。

 

「とにかく今は教官室に……あれ?」

 

 二階に繋がる階段は上らず、身なりを整えながら階段東側にある教官室へと向かう。すると通路の反対側に、大きな欠伸をしながら歩く男子生徒の姿があった。

 

「アッシュさん?」

 

 私は意外そうにアッシュさんの寝惚け顔を見詰めた。私が知る限り、彼は何時だって定刻間際に登校する悪癖がある。時折遅刻しては、ランドルフ教官の怒声が《Ⅶ組》の教室まで届く程だ。

 

「んだよ。お前も教官室に用か?」

「はい。リィン教官から朝一で来るようにって言われていたので。もしかして、アッシュさんも?」

「……マジかよ」

 

 そんなアッシュさんが、まだ朝の八時を回らない時間帯に本校舎に現れた理由。思い付くままに投じた問いを、アッシュさんは表情を歪めながら肯定した。

 私の場合は昨晩。夕餉後にリィンさんから声を掛けられ、明日の朝一番に教官室を訪ねて欲しいとのことだった。

 

「なーんか嫌な予感がしやがるな」

「嫌な予感、ですか……も、もしかして、先月の演習関係でしょうか」

「機甲兵をかっぱらって二人乗りで突貫したあれか?」

「もっと言葉を選んで下さいっ」

 

 心当たりがあるとすれば、先月に南サザーラントで実施された演習の一幕。リィンさんからの指示命令に背き、独断で突貫した際、私とアッシュさんは一時的に行動を共にしていた。とりわけ問題視されたのが、量産汎用型機甲兵『ドラッケン』を無断使用した戦闘行動だった。

 しかしあの一件に関しては、こと細かな報告書を作成し、提出したはずだ。五十枚という膨大な量の反省文も徹夜で仕上げた甲斐もあり、此度に限り不問に付すとされていた。まさかあれが、未だ尾を引いているのだろうか。

 

「考えても仕方ねえ、入ろうぜ」

「は、はい。……コホン、失礼します」

 

 扉を軽くノックしてから、ドアノブを回す。室内には四人の教官の姿があり、すぐにリィンさん、そしてランドルフ教官と視線が重なった。

 

「おはようシーダ。アッシュも一緒だったか」

「おうアッシュ。珍しく時間通りじゃねえか」

 

 想像通りの反応に、思わず笑みが零れた。一方のアッシュさんは辟易とした様子で、二人にその先を促した。

 

「余計な前置きは要らねえッスよ。さっさと済ましちまおうぜ。朝っぱらから何だってんだ?」

 

 案内されたのは、入って右手に置かれていた長机。二つずつ用意されていた座椅子に私とアッシュさんが腰を下ろすと、教官らは私達と向かい合う形で座った。

 

「なら手短にまとめるぜ」

 

 思わず身構える。幾何かの間を置いて、ランドルフ教官が告げた。

 

「昨晩に分校長を介して特別顧問……シュミット博士からお達しがあった。まず一点目だが、来週以降の機甲兵教練に向けて、お前ら二人は今後、極力行動を共にすること」

「あん?」

「……はい?」

 

 口早の説明。特別顧問、お達し、機甲兵訓練、行動を共にする。

 まるで整理が追い付かない。私とアッシュさんが、機甲兵訓練?いやそれより、行動を?

 

「二点目だ。ARCUSⅡについてだが、二人のリンクレベルを規定値以上に持っていくこと。こいつは授業中に専用の時間を設けてやる。しっかりやれよ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。一体何を―――」

「そんで三点目だが、こいつは俺とシュバルツァーで話し合った結論だ」

 

 ランドルフ教官は座椅子に深く背を預けると、隣に座っていたリィンさんが意味深な表情を浮かべながら、私とアッシュさんを交互に見詰めた。凄まじく嫌な予感がして、両手で耳を塞ぎたくなる。

 

「アッシュ。君は今日付けで《Ⅶ組特務科》所属に変更だ。今後共、宜しく頼む」

「……はあああ!?」

 

 私の分まで、アッシュさんは嘆きの声を上げた。

 

___________________

 

 

「―――という訳なんです」

「全っ然分かんないから」

 

 午前八時半前。《Ⅶ組》の教室で一通りを説明し終えた私は、三人の異なる反応を前に、困り果てていた。

 ユウナさんは不満を露わに。クルトさんは大きな疑問符を浮かべ、ティナは小さく首を傾げる可愛らしい仕草を取っている。クラウ=ソラスも何処かにいるのだろうか。

 

「そ、そう言われても、私も何が何やらさっぱりで」

「うーん。機甲兵教練に向けてってことは、機甲兵関係で何かあるってことよね。アル、教官から何か聞いてる?」

「私も把握していません。シーダさんのお話を聞く限りでは、シュミット博士の意向なのでは?」

 

 兎にも角にも、説明不足が過ぎるのだ。来週に予定されている機甲兵教練の内容が不明瞭である以上、判断のしようがない。ティナの憶測通り、珍しく強引なリィンさんの態度の裏には、シュミット博士の思惑があるのかもしれない。

 いずれにせよ、生徒である私達は受け入れざるを得ない。本日からアッシュさんは《Ⅶ組》所属。戦術リンク云々はその時に考えるとして……行動を共にする、の匙加減が今一掴めない。

 

「ああもう、一体何を企んでいるのやら……クルト君はどう思う?」

「僕は……いや、それよりもだな」

 

 クルトさんは若干不機嫌そうな声色で言った。

 

「アッシュ・カーバイド。どうして君は教室でホットドッグを頬張っているんだ?」

 

 当のアッシュさんは、私の隣の席で自由を謳歌していた。ピクルスとマスタードがたっぷりと盛られたパンは、故郷にも存在したパンの概念を根本から覆した『ルセット』の逸品に違いない。

 

「むぐ……朝飯を食いそびれたんだ。別にいいだろ、飲食を禁止されてる訳でもねえし」

「そういう問題じゃない」

「なら何が問題なんだよ?」

「食べながら話さないでくれないか?」

「飯の邪魔すんじゃねえよクソッタレ」

「中指を立てるな!」

 

 噛み合わない会話が繰り広げられる中、不意に教室の扉が開かれる。顔を覗かせたのは、《Ⅷ組戦術科》の面々。一足先にSHRを終えた様子の《Ⅷ組》勢が、好き好きに声を上げた。

 

「あ、いたいた。本当に今日から《Ⅶ組》なんだな」

「アッシュー、シーダに手出すんじゃないよー」

「《Ⅶ組》の皆さん、問題児をどうかお願い致します」

「野次馬はどっか行きやがれ!」

 

 アッシュさんが右手の中指を突き立てる―――この国では様々な意味合いを秘めるとされる行為に及ぶと、集まっていた人だかりが散り散りとなり、一先ずの静けさを取り戻す。

 

「ったく、騒ぐ程のことでもねえだろ。俺からすれば教室やら何やらが変わっただけだ」

「それは……確かに、今はそうですね」

 

 私達が課せられたカリキュラムは多岐に渡る。現時点ではそのほとんどを各クラスが共有していて、《Ⅷ組》や《Ⅸ組》専用の授業は一部に過ぎない。勿論、先々は特化した内容の授業が増えていく段取りではあるらしい。

 

「随分と無頓着ね。強引に所属を変えられたのに、アンタはそれでいいの?」

「特別顧問様が何を企んでいやがるのか知らねえが、先月の演習で好き勝手やっちまったからな。暫くは大人しくしといてやるさ。……つーわけだ、チビっこ」

「は、はい?」

「俺の席は、今日からここだ」

 

 差し出された右手。男性らしさ溢れる逞しいそれを、躊躇いを抱きながら恐る恐る握った。

 不安ばかりが先行するのは、知らないからに他ならない。彼に関する良くない評判は、何度も耳にしたことがある。けれども私は、彼の多くを知らないのだ。

 余計な先入観を捨てて向き合おう。皆が私にそうしてくれたように、私も。

 

「宜しくお願いします。アッシュさん」

「おう。宜しくたの―――」

 

 突然、複数の横槍が入った。見慣れた背中が前方に立ち並んで、自然と握手が切られる。

 

「コホン。アッシュ、彼女の純真さを踏み躙るような真似だけは控えてくれ」

「アル、異常を感知したら焼き払っていいからね」

「教官からも発砲許可は頂いています」

「てめえらには宜しくしねえ」

 

 前途多難ながらも、《Ⅶ組》に新たな一名が加わり、新たな日々が始まりを告げた。

 

___________________________

 

 

(え、えーと。辺AB上に点Cがある場合、……ある場合?)

 

 苦手な科目は何かと問われたら、第一に歴史学がある。中でも帝国史の授業は頭痛の種で、定期的に実施される小テストの成績は目も当てられない。帝国史担当でもあるリィンさんの面目丸潰れだ。

 次いで、この数学が如何ともし難い。入学試験は通過できたのだから、必要最低限の知識は有しているはずなのに、一向に頭が慣れてくれない。こんなことになるなら、長兄と共にもっと勉学を積んでおけばよかった。

 

(アッシュさんは……意外と、普通かも)

 

 今は四時限目の数学。隣で頬杖を付くアッシュさんの授業態度は、意外な程に落ち着いていた。少なくとも目立った問題行動は見られず、数分間の居眠りを咎めるには、私も身に覚えがあり過ぎて気が引けた。

 今も指定された問題を解こうと、図形と睨めっこを―――いや、待て。

 

「あ、アッシュさん?」

 

 視線の先に図形はなく、代わりに口語的な文章の羅列があった。内容が明らかにおかしい。表紙は数学の教科書のそれなのに、中身だけをすり替えていたのだろう。授業中に何をしているんだこの人は。

 

「んだよ、邪魔すんなや」

「だ、駄目ですよ。授業中に、そんな」

「聞きながら読んでんだ、問題ねえって」

「あるから言ってるんですよ!」

「こら、そこの二人!」

 

 思わず声を張り上げた途端、即座にトワ教官の手厳しい叱責が入った。

 

「早速仲良くしてくれてるところ悪いんだけど、そういうのは休憩時間にお願いね?」

「はーい、サーセーン」

「……すみません」

 

 トワ教官の小柄な体躯が一気に巨大化したかのような錯覚に陥る。普段の物腰が柔らかい分、こういった場面での威圧感は教官らの中でも屈指だ。

 気を取り直して、再考。身を縮ませて、眼前の問題と向き合う。

 

(え、えーと。辺AB上に点Cがある場合、……ある場合?)

 

 ……先程と同じ場所で、大きな壁が立ちはだかる。周囲ではペンを走らせる乾いた音が鳴り止まず、奇妙な孤独感と焦りが思考の巡りを掻き乱してしまう。

 

「そうじゃねえ。こうだ、こう」

「え?」

 

 何度目か分からない頭痛が生じたところで、視界にアッシュさんの中指が映る。図形上で中指がなぞった軌跡は、そのまま一本の補助線と化して、一気に視界が広がった。

 

「あー、あ、あー!なるほど!」

「シーダさーん」

「はっ」

 

 両手で口を塞いだ頃には時既に遅く。嘲笑が教室中に広がっていき、皆の肩が揺れ動く。私は息をするのも忘れ、広がったはずの視界を強引に狭めて、白紙のノートを消しゴムで擦るという非生産的な行動に逃避した。

 

「熱心さは買うけど、声に出さなくていいからね?」

「……はい」

 

 そっと右隣を向くと、アッシュさんが煽り顔で中指を立てていた。無性に腹が立ったので、私が中指を立て返すと、アッシュさんはどういう訳か満足気な表情を浮かべていた。

 

___________________

 

 

 正午を回り、程良い空腹感を満たすべく教室を後にした私は、「飯だ、飯」と呟くアッシュさんの背を追った。

 学生食堂へのルートは複数ある。二階の教室からなら、北口を出て中庭を経由するのが最短。一旦屋上に向かい一服した後に、屋上西側の出入り口から下りる生徒もいる。気怠そうに歩くアッシュさんは、一階の正面玄関を出て、そのまま真っ直ぐに歩を進めた。

 

「ど、何処へ行くんですか?」

「飯だって言ってんだろ。外で食うんだよ」

 

 まさかの外出。然も当たり前のように校外へと踏み出したアッシュさんに釣られて、気付いた時には二人揃って規律違反に該当する行為に及んでいた。

 

「校外に出るのは禁止されていますっ」

「いちいち気にすんな。それに、お前も既に同罪だからな」

「うぐっ」

 

 士官候補生の名に恥じぬよう、定められた規則を遵守し規律を徹底して参ります―――先月の演習後、リィンさんに宣言した己の言葉が、脳内で木霊した。

 まだ半日しか経過していないのに、呆れてものが言えない。外の世界では秩序を重んじるのが第一という私の固定観念は、どうやら個人単位では通用しないらしい。リィンさん、ごめんなさい。

 

「おっ。アッシュの兄ちゃんじゃんか」

 

 じんわりとした胃の痛みを感じる最中、幼い声に呼び止められる。見れば、街中で何度か見掛けたことがある少年の姿があった。

 

「よう、ザックか」

「今日もエスケープってやつ?見付かったらまた怒られちゃうぜ」

「クク、見付かんなきゃいいんだよ」

「アッシュさん……」

 

 記憶が確かなら、食材雑貨店を切り盛りする店主のお孫さんだ。アッシュさんとは顔見知りのようで、親しげなやり取りから察するに、遊び仲間か何かだろうか。

 

「……なあ。姉ちゃんも『しかんこうほせい』なのか?」

「え、わたし?」

 

 不意に、ザック君が私の顔を覗き込んでくる。

 

「えーと。うん、そうだよ!」

 

 久方振りとなる、年下から向けられた好奇心に、自然と胸が弾んだ。この感覚は懐かしくて仕方ない。入学して以降、私は何時だって年下扱いをされてばかりいたのだ。

 

「それにしては、小さいんだな」

 

 一転して、冷や水を頭上から浴びせられた。

 

「小さ……小さいって、何の話?」

「『背』とか、『胸の辺り』とか」

 

 下段蹴りから上段に繋げられたかのような連撃。辛うじて踏み止まり、私は文字通りに胸を張った。

 

「そ、そんなことないよ?ほら、私は年齢があれだから、あれなだけで。胸もほらっ」

「アッシュ兄ちゃん、そうなのか?」

「ふふ……クク、どうだろうな。確かに、あれだな。クク、痛ぇ!いってえぇ!?」

 

 気付いた時には手が出ていた。義姉譲りの奇襲、ゼロ距離から脇腹へ突き刺さる打拳。長兄の類稀な打たれ強さを育んだアヤ・ウォーゼルの拳に、少しは手が届いただろうか。

 

「あれ、どうかしました?」

「的確に急所突いて言う台詞かよ!?」

 

 中指を真上に立てるアッシュさん。知らぬ存ぜぬを決め込んでいると、ザック君は挙動不審な様子でアッシュさんの袖口を引っ張った。

 

「お、俺もう行くね。……あ、それとさ。この間貸してくれた本、すっげえ面白いよっ」

「ん、おう。続きもあるから、読み終わったら声掛けろや」

「本当に?分かった、楽しみにしてる!」

 

 脱兎のような勢いで駆け出したザック君は、一度振り返って大仰に手を振った。立ち直ったアッシュさんも同じ仕草を取って応える。

 

(……リリ、元気かな)

 

 リリ。妹の無邪気な笑顔を連想して、知らぬ間に笑みが浮かんでいた。

 まだ五月上旬だというのに、若干色褪せつつある故郷の情景。悪い気はしない。それ程にこの国での生活が充実しているということなのだろう。けれども、家族の声がこの耳に届かないのは寂しいし、物足りない。名前を呼ぶだけで、胸の奥が少しだけ締め付けられる。

 

「あの子とは、この街で知り合ったんですか?」

「ああ、まあな。昔っからああいうのには懐かれんだ」

「……少し、意外です」

「何とでも言え」

「ちなみに、どんな本を貸したんですか?」

「子供向けの冒険活劇だ。なんなら、お前にも貸すか?」

「遠回しに馬鹿にしていませんか?」

「深読みし過ぎだろ……」

 

 どうにも捉えどころのない人だ。飄々としていて、周囲に応じようとしない自由奔放さはとても幼いようでいて、目端が利くし、外見以上に大人びているようにも思える。

 博識な一面があることも確かだ。演習中に行動を共にしていた時も感じたこと。暇を見付けては読書に耽る姿勢が、知識の根源となっているのだろう。こんな男性とは出会ったことがない。

 

「どうした、チビッ子」

「あ……いえ」

 

 それに、どうしてだろう。全く似ても似つかないというのに。ザック君の頭を撫でるその姿が、思い掛けずに一瞬だけ、兄の面影と重なった気がする。昨日の夕刻、ロジーヌさんとの邂逅の影響だろうか。

 ともあれ、振り回されてばかりはいられない。こんな私にだって、女性としての誇りと意地がある。

 

「あのー、その呼び方やめません?私は小さくないです。どこも小さくありません」

「……ちっちゃ」

「ああもう!校内に戻りますよ、ほら早く、急いでっ」

「痛、いってえぇ!クソッタレが、手本みてえな構えから殴りやがって!暴力癖かよ!?」

「姉譲りです!」

 

 私は案外、義姉に似ているのかもしれない。良くも、悪くも。

 

___________________

 

 

「毎日が掃除当番とかやってらんねえ」

 

 放課後。教室内の日常清掃を終えた頃、アッシュさんは愚痴を吐きながら背伸びをしていた。

 各クラスの教室の掃除は生徒らの担当。他のクラスが当番制の一方、少人数から成る《Ⅶ組》にとっては日課なのだ。サボり癖のあるアッシュさんにとっては面白くないらしい。

 

「あのねぇ。言っとくけど、一日でもサボったら殴るからね」

「Ⅶ組の女子は暴力的過ぎる」

「……何のことよ?」

「何でもねえよ。で、これからどうすんだ?」

 

 アッシュさんの問いに、皆が同じ反応を示す。ユウナさんはテニス部、ティナが水泳部、クルトさんもチェス部。全てのクラブが毎日活動している訳ではないけれど、今月に入り本格始動しつつあるらしい。今日の放課後は賑やかになりそうだ。

 

(……どうしよう?)

 

 さて、どうしたものか。生徒会(仮)活動の主としていた意見箱の件はひと区切りが付いたし、今は次の案を模索している段階だ。今日ぐらいはゆっくり過ごそうと思っていたけれど、昨日と今日では状況が変わり過ぎている。

 

「アッシュさんも、部活ですか?」

「まあな」

「……ご一緒してもいいですか?」

 

 返答がない。妙に曖昧な態度に小首を傾げつつ、私は他の三人と分かれ、アッシュさんの背中を追った。

 向かった先はクラブハウスの二階。先月までは空き部屋だった一室が、文芸部用の部室として当てられたそうだ。私は小走りでアッシュさんの歩調に合わせながら問い掛ける。

 

「文芸部って、どんな活動をしているんですか?」

「最近は部室の整備と目録作りばっかだったな」

「もくろく?」

「蔵書室にはハーシェル教官様作の目録があったからな。そいつを基に読み応えのありそうな本を選定して、部室に持ち込んだんだ。俺とタチアナの二人しかいなかったから、相当苦労したんだぜ?」

 

 あまり想像が沸かないけれど、察するにかなりの苦行を強いられたらしい。蔵書室に溢れ返る書物の量を前に、目が眩んだ記憶がある。

 本探しの苦労、これも想像でしか語ることができない。故郷における私にとっての本は、他者から与えられる物だった。能動的に探すという行為自体が私にとっては新鮮で、贅沢とさえ感じてしまう。

 

「よう」

「あっ。お、お疲れ様です」

 

 部室には、もう一人の文芸部員であるタチアナさんが静かに佇んでいた。タチアナさんは慌てた様子で椅子を引いて立ち上がると、対面に腰を下ろしたアッシュさんに続いて、そっと座り直す。

 

「どうも、お疲れ様です」

「……あら、シーダさん?」

「今日は見学といいますか。少しだけ、いいですか?」

「は、はい。勿論です」

 

 アッシュさんの《Ⅶ組》入りは既に皆の知るところで、私が事情を説明せずとも、タチアナさんは概ねを察してくれたようだ。

 私は二人から二席分離れた椅子に座り、一息を付いた。

 室内には中央のテーブルを囲う形で本棚が並んでいて、持ち込まれた書物達が整然と収まっている。蔵書室程ではないにせよ、無数の紙束が特有の匂いを醸し出していて、妙な心地良さを抱いた。

 

(……何だろう、この距離感?)

 

 落ち着きも束の間。二人の文芸部員の間に、重い沈黙が澱み始める。

 読書中は静寂を保つ、という気配りが求められる。近しい習慣は故郷にもあるし、私も理解していることだ。けれどもこれは、全く別の類の静けさに思えて仕方ない。ただ単に会話がない、というだけではないか。

 

(き、気まずい)

 

 耐えかねた私は、音を立てないように席を離れ、周囲を見渡した。

 背後には小型の本棚が置かれていて、色彩豊かな表紙が見えるように数冊が収まっている。上部には『リクエストコーナー』の文字が並んでいた。

 

「アッシュさん。これは?」

「他の生徒や教官から要望があった本を置いてる。蔵書室に埋まってたり、なければ購入したやつもある。一応、活動用の部費は貰ってるからな」

「ふーん」

 

 一際目立つのが、薄着の女性が映る一冊。恐らく導力カメラで撮影された写真だろう。手に取って中を覗くと、傷ひとつない透き通るような白色の肌を露出した女性達が、奇妙な体勢で満面の笑みを浮かべていた。

 

「ふぁ……あ、え?」

 

 常軌を逸した世界。故郷にはない、幻想的な白肌。朝露に濡れた草苺の花弁のような白。白、白、白。私は何を見ているのだろう。何も見ていないことにしよう。

 泳ぐ視線を強引に固定して、隣の一冊へ。

 

「『ゼロから始める貴族令嬢の婿探し』……?」

 

 表題からは全くと言っていい程に内容が見えてこない。誰がこの本を欲しているのかが、分からない。一方では分からないままでいた方がいいような気もする。不思議なこともあるものだ。

 

「探し物かよ?」

「え?あ、はい。あの、あっ。えーと。な、何だっけ」

 

 突然の声に、手当たり次第に浮かんだ言葉を捻り出す。

 

「読書、好きなんですか?」

「は?」

 

 突拍子もない私の返事に、アッシュさんは怪訝そうな表情で私を見詰めていた。無理もないと思う。突然のこととはいえ、何故質問に質問で返してしまったのか。

 

「えーと、アッシュさん?」

「……まあいい。一服だ」

 

 アッシュさんは首の関節を鳴らした後、部室の外へ向かった。クラブハウス二階の休憩場に設置された自動販売機の前で立ち止まり、上着の懐から取り出したミラコインを入れて、ボタンを押す。

 気紛れに、私もアッシュさんに倣った。好奇心に駆られて一度だけ口にしたことがある缶コーヒーを買い、隅の長椅子、アッシュさんの右隣に座った。

 

「で、読書が何だって?」

「ですから、好きなのかな、と。クラブ活動で本を読むぐらいだし、授業中に……昼間にも、ほら。ザック君みたいな子供にも、本を勧めたりしてますよね?」

 

 傍から見ていて、ただ純粋に気になっていたことだ。

 読書。先月の演習中での会話、そして数学の授業中もそうだった。アッシュさんにとっての読書は、単純に本を読むという行為以上の意味合いを孕んでいるように思える。

 

「どうだろうな。ガキの頃から人一倍読んではいたが……。逆に聞くけどよ、ノルドじゃどうなんだ?読書の習慣なんてあるのかよ?」

「同じ読書でも、根本が違いますね。でも昔とは違って、近年は異国の書物も簡単に手に入りますし、勉強になるので読む機会はありました。多分私は、そういう世代なんだと思います」

「時代の流れってやつか。つっても、ジャンルによっては意味不明だったんじゃねえのか?流石に習慣や文化が違い過ぎるだろ」

「……否定はしません。本音を言えば、面白いと感じたことは少なかったです。勿論、一部を除けばの話ですよ?」

「クク、だろうな。しかしまあ、本は読んでおいて損はねえ。『世界が広がる』からな」

 

 世界が広がる。話の規模が突如として膨れ上がり、けれども飛躍し過ぎているとは感じない。

 私にとっても同じことが言える。初めて手にしたのは、導力車や飛空艇の大写真が掲載された、学習書的図鑑だった。戯画混じりの児童向けではあったけれど、世界の広さと深さを堪能するには十分過ぎた。私の世界が広がった瞬間だった。

 

「分かる気がします。私ももっと、この国のことを知りたいです」

 

 素直な胸の内を、口に出したつもりだった。

 ただ、その時、アッシュさんの表情に、陰りが差した。見逃しようのない変化に目を奪われ、一時の沈黙が生まれて、彼は声には出さずに何かを呟いた。

 

(……アッシュさん?)

 

 言葉を読み取ることはできない。変化も一瞬で、アッシュさんは意図的に顔を背けている。

 やがてアッシュさんは立ち上がり、頭上を仰ぎながら私に背中を向けて、途切れ途切れに言葉を並べた。

 

「ひとつ、聞きてえ。お前はどうして、帝国に来たんだ」

「……急に、何ですか?」

「いいから答えろ」

 

 何度も自問自答してきたことだ。私が故郷を発った理由。この帝国を選んだ理由。私がここにいる理由。 

 第Ⅱ分校への入学を決意したあの日、それはとても曖昧で不安定だった。しかし段々と少しずつ、確固たるものへと変わりつつある。

 

「一言では、とても語れません。でも……来て良かったって、最近はそう感じることが多いです」

「……自己欺瞞かよ。どいつも、こいつも」

「どい……え?」

 

 小さな囁き。視線を上げると、既に背中は遠退いていた。慌てて後を追いながら、私はアッシュさんの問いの真意について考える。

 帝国を選んだ理由。彼は私の何を知りたかったのだろう。考えても、答えは見付からなかった。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。