絢の軌跡Ⅲ   作:ゆーゆ

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アッシュに焦点を当てた、三年前の過去話になります。


番外編・短編集
一二〇三年二月 アッシュ・カーバイド


 

 

 寒かった。指先から体温が漏れ出て、感覚を失う。

 衣服は用を成さず、四肢の先端が段々と遠退いていく。

 

(……誰でもいい)

 

 誰かの人肌が、唯一の温もりだった。

 冷たくて、冷たくて。愛おしくて。

 どうしようもなく、愛おしかった。

 

___________________

 

 

「――てるの、アッシュ?勝手に上がるわよ」

 

 穏やかさの欠片もない起床。瞼を閉じたまま深呼吸を置いて、安物の壁掛け時計を見やる。

 午前九時過ぎ。今日は二月の何日だったか。起きたばかりで頭が働かない。

 

「……ったく。朝っぱらからうるせえっての」

 

 重い身体を起こして、椅子に掛けていた上着を取り、導力式ヒーターのスイッチを入れる。これも年季物だが、暖を取るには事足りる。買い替える余裕もないし、あと数年は使えるはずだ。

 両手を擦りながら温まっていると、開かれた玄関扉の先には、腰まで届く金髪を揺らす女性の姿があった。

 

「あら。なによ、起きてたの?なら出てくれたっていいじゃない」

「今起きたんだよ。さっさと閉めろや、寒くて仕方ねえ」

「はいはい」

 

 女性の名はジュリア姐さん。界隈では名の知れたバーテンダーで、老若男女を問わず、姐さん目当てで『ハーミット』を贔屓にする人間は多い。年齢は三十を過ぎているはずだが、確かめようにも引っ叩かれて口を閉ざしてしまうのだから知る由もない。

 

「何の用だよ、姐さん」

「差し入れ。モーリーさんのお店に寄ったら持たせてくれたの。……また寒そうにしてるけど、風邪は治ってないの?ちゃんと看て貰った?」

「風邪じゃねえって言ってんだろ。どこも悪くねえって」

 

 医者の診断によれば、身体は健康そのもの。しかし手足の冷えは最近の悩みの種だ。ふとした拍子に四肢を冷水に突っ込んだような冷えに襲われてしまう。所謂冷え性というやつかもしれない。

 今年は暖冬だと聞いていたが、心が折れそうになる。単純な風邪の方が気が楽だというのに。

 

「そう。それで、食事はしっかり取ってるの?育ち盛りなんだから、食べ過ぎぐらいがちょうどいいのよ」

「食ってるっての。つーかまた差し入れかよ?この間の野菜だってまだ残ってんだぜ」

「贅沢な悩みじゃない。最近は野菜だって高いんだから。ここ、置いておくわよ」

 

 大量の野菜が詰まった籠が台所の隅に置かれた。どうやらまた料理の幅を広げる必要があるらしい。このままでは到底処理し切れる自信がない。

 

「……ん。掃除はしてるみたいね」

 

 姐さんは室内を見渡すと、満足気に首を縦に振った。

 すると壁際のデスク上に置かれていた写真立ての内のひとつを手に取り、優しげな表情を浮かべると、抱き包むような仕草で、写真立てを胸に当てた。

 

「おはよう、エレン姐さん。おかげ様で、お店も繁盛してるわ」

「……フン」

 

 あの日。残暑が厳しかった九月のあの日。あれから、二年半の月日が経った。

 その日暮らしが当たり前だったオフクロは、実のところそれなりのミラを積み立てていて、向こう数年間の生活に不自由はないと判断された。

 ひとり残された俺の処遇については、姐さんと食堂『デッケン』の女将が未成年後見人を買って出てくれた。二人の申し出がなければ、教会が運営する施設行きは免れなかったのだろう。当時の俺には、その意味合いが理解できていなかった。

 

(……最近よく、思い出しちまうな)

 

 理由は分からないが、あの日のことを思い出す機会が増えた気がする。特別なキッカケがあった訳でも、家族という存在に対する価値観に変化があった訳でもないのだが。

 血の繋がりが無かったせいか、涙は出なかった。思えばあの時も、ひどい寒気に苛まれたような気がする。唐突に『それ』は訪れて―――手足の指先が、凍えていく。

 

「っ……!」

 

 まただ。油断した傍から、またあれがやって来る。

 寒い。寒い。寒い。どうしようもなく、寒い。

 

「ちょっと。貴方、本当に大丈夫?」

「あ?」

「顔色が良くないわよ。やっぱり風邪じゃないの?」

「引いてねえよ。ただ……いや。何でもねえ」

「でも―――」

「触んな!!」

「っ!?」

 

 差し伸べられた手を無造作に振り払って、ハッとした。気付いた時には、手が出ていた。

 急速に体温が上昇していくのを感じた。冬場らしく室内は乾燥しているのに、全身に浮かんだ汗粒が衣服に纏わりついて、不規則な吐息が妙に熱を帯びている。

 

「……ワリィ。起きたばっかで、テンションがおかしいみてえだ」

「ん……そう。大丈夫なら、いいんだけど」

 

 確かめるように、右手を握っては開くを繰り返す。多少の震えはあるものの、感覚は戻っていた。朝特有の肌寒さは季節を考えれば当たり前。何もおかしくはない。

 

「あ、そうそう。モーリーさんのお店、従業員がひとり休んじゃったみたいで、人手が足りてないみたいなの。貴方ヘルプに行きなさい」

「はあ?何で俺なんだよ?」

「健康だって言ったのは貴方でしょう。それに差し入れのお礼も言わないといけないし、どちらにせよ用があるんだから、四の五の言わず行ってきなさい」

「ちっ……面倒くせえ」

 

 姐さんが窓を開けて室内の空気を入れ替えると、峡谷地帯特有の乾燥したそよ風が、姉さんの金髪を揺らした。その横顔を見詰めていると、再び指先に冷たさを覚えて、俺は誤魔化すように両手を上着にしまい込んだ。

 

(何なんだ、一体)

 

 ここ最近ずっとだ。この寒気は、何なのだろう。

 この凍てつきは俺に、何を云おうとしているのだろう。

 

___________________

 

 

 空っぽの酒瓶が詰まった木箱を店の裏通りに運び出し、一通りを済ませたところで、厨房で忙しなく働く悪友に声を掛けた。

 

「おいシリュー、これで全部か?」

「ああ、今ので最後だ。何か持ってくるから、裏で一服しようぜ」

 

 ふうと一息を付き、壁に背を預けて腰を下ろす。ぼんやりと頭上を仰いでいると、二本の瓶を片手で器用に持ったシリューが隣に座った。瓶の中身は炭酸飲料らしい。

 

「はー、助かったよ。こいつは俺の奢り」

「タダ働きさせといてよく言うぜ」

「俺に文句言っても仕方ないだろ……」

 

 蓋を開けて喉を潤すと、程良い炭酸が口内を刺激した。淹れ立ての熱い珈琲が欲しいところだが、贅沢は言ってられない。おかげで昼飯にも無料で有り付けた。

 

「そういやシリュー。お前、煙草止めたのか?」

「んー。ここで吸ってたら女将に取り上げられちまって。『十五のガキが何考えてんだい』って怒鳴られた」

「そりゃ無理もねえよ。もっと上手くやれや」

「まあ、舌が馬鹿になっちまうって話も聞くしな。俺は頭悪いし、料理人として食ってくためって考えりゃ、丁度いいのかも」

 

 こと料理という分野に限って言えば、シリューには天性の才があった。何を作らせても外れたことがないし、今も料理人見習いとして『デッケン』で小銭を稼ぐ日々を続けている。

 味音痴で極度のメシマズなオフクロに代わって俺が料理当番を担えたのも、この悪友から手解きを受けた成果に他ならない。後々聞いた話では、オフクロが俺を引き取るに当たって周囲が最も懸念した点が、食生活。それ程までにエレン・カーバイド=メシマズという図式は知れ渡っていたようだ。

 

「逆にアッシュは酒にも煙草にも手を付けないよな。一度聞いてみたかったんだけど、何でよ?」

「言うまでもねえよ。身近に反面教師がいたからな」

「反面教師?誰のことだ?」

「言わなくたって分かんだろ」

「……あ。その、すまん。変なこと聞いた」

 

 直接の原因ではないにせよ、水商売という生業はオフクロの身体を少なからず蝕んでいた。業界には酒も煙草もやらない人間だっているらしいが、大半は客付き合いを優先する。

 考えてみれば、酒臭さは日常の中にいつだってあった。とても不快で、安堵する匂い。今でもよく覚えている。

 

「……アッシュ。もしかして、具合悪いのか?」

「は?」

「いやなんつーか、血色が悪い?ように見えたから」

「あ……いや」

 

 知らぬ間に、身体が小刻みに震えていた。もう何度目か分からないこの感覚。

 寒い。寒い。寒い。抗いようのない寒さが、重く圧し掛かる。

 

「何でも、ねえって。……それより、もうヘルプはいいのかよ。俺だって暇じゃねえんだぜ」

「あっ。えーと、悪い。もう一件頼まれてくれないか?実は届け物があってさ」

「マジかよ……」

 

 シリュー曰く、礼拝堂からとあるハーブを分けてくれないかという依頼があり、女将のモーリーが快く了承したそうだ。一方で店側も礼拝堂も手一杯の状況にあり、物はあるのに届けられない。シリューも人手不足で厨房を離れられず、ヘルプで入った俺に白羽の矢が立ったらしい。

 

「わーったよ。そん代わり、今度また料理ネタを教えろや。野菜を沢山使うやつ」

「すまん、本当に助かる。こいつを礼拝堂の……なんつったっけ。ほら、最近余所から来たシスター見習い。名前が出てこない。あいつに渡してくれ」

「ああ、あのメガネか」

 

 ハーブが入った包みを受け取り、溜め息を付く。

 凍てつくような寒気は、いつの間にか消えていた。

 

___________________

 

 

 シスター・オルファ。先月にラクウェル礼拝堂に赴任したばかりの新米で、その名は悪い意味で一気に知れ渡った。

 時に聖典の朗読を間違え、時に作法を間違え、時に支給する薬草の種類を間違え、万遍なく下手を踏む。彼女の働きを快く思わない住民が半分、直向きさや純粋な頑張りを評価する住民がもう半分。

 

「つーわけで、こいつが届けモンだ。間違って食うんじゃねえぞドジメガネ」

「た、食べませんっ。ああもう、どうしてアッシュ君はいつもそうやって……ど、ドジメガネってなんですか!?」

「しかし何だ、いつにも増して忙しそうだな。司祭さんは留守なのか?」

「無視しないで下さい!」

 

 か弱い怒声を聞き流して、堂内を見渡す。博打で一山当たるよう祈りを捧げたり破産相談を持ち掛けたりと、ラクウェルの住民は礼拝堂に対して容赦がないのだが、当のイートン司祭の姿が見当たらない。

 

「司祭様は急遽外出されました。なんでも、南のリベール王国方面で騒動が起きたとか」

「リベール?何のことだよ?」

「私も詳しくは知らないんです。ですが、どうも只事ではないようで……」

 

 初めて耳にした情報だ。礼拝堂の司祭が最優先で当たる程の案件となれば、確かに穏やかではない。しかも国外。国内にも影響を及ぼす可能性があるということだろうか。

 どうも引っ掛かる。質屋『マッケンロー』にでも顔を出して情報を探っておくとしよう。

 

「それにしても、この街の住民はどなたも突拍子がないといいますか……今朝も『イイ男が引っ掛かりますように』という的外れなお祈りをする方が来られましたし」

「クク、そりゃローザだな。水商売の女共はどいつもこいつも―――」

 

 ぞくりと、背筋に悪寒が走った。

 未だかつてない早さで体温を奪われ、寒気が襲来する。耳鳴りがひどく、身体が強張って呼吸すら儘ならない。両足の指先に力が入らず、立っていられなくなる。

 寒い。寒い。寒い。

 寒い寒い寒い寒い寒い―――

 

「アッシュ君?どうかしましたか?」

「っ……!!」

「ひゃっ、あ?」

 

 耐え切れず、少女の両手首を握り、力任せに壁際に追い詰めた。戸惑いを露わにした表情を視界から外し、うなじの辺りに口元を当てた。

 途端に、温もりを感じた。温かい。温かい。温かい。

 地肌を介して、体温が伝わる。ふくよかな胸元が温かい。愛おしい。温かい。

 

「な、んぁ……シュ、君、です。駄目っ……やぁあ!!」

「あっ……」

 

 暗転。知らぬ間に途絶えていた呼吸を再開して、一気に視界が開けた。凍てつくような寒さは、治まらない。一向に収まる気配がない。

 おかしい。どうして。どうしてだ。どうして―――俺は。

 

「その、ワリィ。マジでごめん。謝る、から」

「アッシュ君……?」

「今度、また謝る」

 

 真面に顔を見ることさえできず、その場しのぎの謝罪を口にしてから、逃げるようにその場を後にする。

 血の気が引いた。何も考えることができず、ただ息が詰まった。まるで光が届かない海の底でもがいているみたいに、苦しくて、寒かった。

 

___________________

 

 

 どれぐらい時間が経ったのだろう。数時間前に夜の帳が落ちて、歓楽都市特有の賑やかさが街中に広がった。喧騒のピークは既に過ぎていて、客引きや下らない喧嘩の声も減り、段々と人気が減っていく。

 

(クソ……クソ、畜生)

 

 寒い。寒い。寒い。

 いつから自分はおかしくなってしまった。今の自分は魔獣と同じだ。自由奔放に生きるのと、欲望に身を委ねて喰らうのとは違う。自分が自分以外の何者かになっている。一体何処で、何を間違えた。

 寒い。寒くて、凍え死んでしまいそうだ。誰か―――誰か。誰でもいいから。

 

「アッシュ?」

「……姐、さん?」

 

 不意に、声が聞こえた。ただでさえ人通りの少ない路上に導力灯の光は届かず、声の主の顔は窺えない。身近にいる世話好きの誰かのような、違っているような気もする。

 けれども、その声がどうしようもなく、愛おしかった。

 

「アッシュなの?ちょっと貴方、こんな所で一体―――きゃっ」

「寒いんだ。温まりたい」

「ああ、アッシュ?あ、ちょ、え?」

「頼む。寒い、寒く、て」

「アッシュ、貴方……」

 

 包み込んでくれる香りが、香水の匂いが懐かしかった。その温もりが柔らかくて、ただただ、愛おしかった。

 

___________________

 

 

 

 

 

 

 少年は夢を見ていた。

 記憶と願望がない交ぜになった世界の中で、少年はたったひとりの最愛の下で育ち、逞しい男性へと成長した。

 

 やがて故郷を離れ、とある女性と出会い、将来を約束し合った。そうして授かった新たな生命を目の当たりにした男性の母親は、歓喜にむせび、我が子と孫を抱いた。

 

 世界には、理不尽さも不条理もなかった。

 与えられて―――手に入れて然るべき幸せだけが、世界には満ち溢れていた。

 

 

 

 

 

___________________

 

 

「……んん」

 

 自身の呟きで、アッシュ・カーバイドはハッと目を覚ました。見慣れた天井と、毛布の肌触り。壁掛け時計の規則正しい刻み。何年間も過ごしてきた自宅。

 

「俺は……」

 

 起床直後だというのに、頭は冴えていた。昨日と同じ服装で、上着のコートとジーンズだけはベッドの傍らに畳まれている。記憶は曖昧だが、シャワーを浴びた形跡はなく、シャツは少々汗臭い。

 

「おはよ」

「……姐さん?」

 

 声に振り向くと、ガウンローブ姿のジュリアが立っていた。母親が残した数少ない遺品であり、見慣れた寝間着。アッシュ同様に起きて間もないせいか、大きな欠伸を隠そうともしない。アッシュは思わず目を背けた。

 

「何か飲む?まだ夜明け前だし、寒いでしょう」

「や、俺は……その」

 

 珍しく戸惑うばかりのアッシュを見て、ジュリアは悪戯な笑みを浮かべ、導力ヒーターのスイッチを入れた。

 

「念のために言っておくけど、『何もなかった』わよ。温めて欲しいっていうから、一晩中貴方を抱いてあげただけ。文字通りね」

「そう、なのか」

「貴方だって三十のオバサンが相手じゃ嫌でしょう。やり方が分からないって歳でもないでしょうに」

「ぶっ殺すぞてめえ」

「フフ。どう?まだ、寒い?」

「……少し」

「そう」

 

 ジュリアは笑みを湛えたままベッドに腰を下ろし、アッシュの肩を抱き寄せた。ぴくりと肩が震えたが、構わずにそっと頭部に指を這わせて、愛おしそうに抱いた。

 

「ねえアッシュ。ひとつだけ忠告しておくわ。貴方は一生、エレン姐さんの死から逃れられない」

「え……え?」

 

 微塵もいやらしさのない愛撫。母親が我が子へそうするように、慈しみ、愛情を注ぐ尊さだけが、アッシュを包み込む。

 

「できないのよ。それは貴方がこの先ずっと背負わなければならないものなの。忘れることも、逃げることも、消すこともできない。悲しみは一生貴方を縛り付けるわ。付き纏って、貴方を追い詰める。もう、分かっているんでしょう?」

「……俺、は」

「だから、受け止めなさい。目を逸らさずに、エレン姐さんと向き合うの。エレン姐さんはもういない現実と向き合い、受け止めて……この世界を生きて。アッシュ」

「おれ……う、わ」

 

 堰を切ったように、アッシュの頬を大粒が伝っていく。

 唯一の最愛が倒れた時も。残された時間を言い渡された時も。死に目に会った時も、たった一人で我が家に戻った時も、目覚めの度に孤独を突き付けられた時も。流れ出ずに溜まりに溜まった全てが、一挙に押し寄せる。

 

「泣いたっていいのよ。しっかり苦しみなさい。苦しんで、苦しんで苦しんで、全部、吐き出して。貴方はひとりじゃない。ひとりじゃないんだから」

「あ、あぁ……う、あぁあ」

 

 紡がれた言葉の先で、アッシュは見た。ぼんやりとした世界の中で、エレン・カーバイドは困ったような表情を浮かべて―――それでも彼女は、笑っていた。

 

 

___________________

 

 

 七曜歴一二〇六年、四月。夜明け前、帝都方面行きの列車が始発を控える時間帯に、アッシュ・カーバイドはラクウェル駅の改札前で手荷物の最終確認を行っていた。

 とは言っても、荷物の大半は事前に宿舎へ送り込んでいる。移動時間のほとんどが列車内ではあるが、必要最低限に留めた荷物はバッグひとつでも充分に事足りた。

 

「さーて。行くとすっか」

「随分と早い旅立ちじゃの」

「……あん?」

 

 振り返った先には、ベンチに座りながら帝国時報を広げる初老の男性がひとり。質屋マッケンローの店主がにやりと笑うと、アッシュは不機嫌そうに返した。

 

「ったく。何してんだ爺さん。挨拶はもう済ませただろうが」

「入学祝いを渡し忘れてな。ほれ、もってけ」

 

 マッケンローが小さな紙袋をひょいと放り投げると、アッシュは慌ててバッグを地べたに置き、両手で拾い上げる。重さはほとんど感じず、手に取った感触からでは中身が何か想像も付かない。

 

「鎮痛剤じゃよ。とっておきのな」

「鎮痛?」

「何を抱えているのか儂は知らんが、どうやらお前さん自身も『それ』が何か理解しておらんようじゃしのう。ま、ただの気休めじゃよ。『疼いたら』使うといい。ヒヒ」

「……クク、よく言うぜ」

 

 始まりはいつだったのか。もう覚えてはいない。

 極度の寒気に襲われたのは、三年前が最後。しかしもうひとつの『疼き』は唐突に舞い降りて、左眼が熱を帯び、身に覚えのない声が脳内で反芻する。得体の知れない疼きを解き明かす術はなく、しかし本能のような何かが、耳元で囁くのだ。

 瞼の裏に浮かぶ焔。誰かの悲鳴。全ての答えは、失った過去にある。

 

「ありがたく受け取っておくぜ」

「抜かりなくな、小童」

 

 迷いはない。覚悟はできている。これから歩む先に待ち構えているものは、恐らく底なしに深い業のような塊。それだけは理解していた。けれども、立ち止まる訳にはいかない。

 

「……いってくるぜ、オフクロ」

 

 想いは強く、決意は固く。足場は脆く、呪いは重く。

 エレン・カーバイドは一人息子の背中を見送りながら、より一層困ったような表情で儚げに笑い、「いってらっしゃい」と、そう告げた。

 

 

 

 


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