Brand/Brave new world!   作:ムラクモの人

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クロス作品は1世界観分です。多重と言えばいいのかわからないので世界観単位でカウントすると1つです。
作品名は、この段階では伏せさせて頂きます。

それでは、どうぞ宜しくお願い致します。


スモーキング・ジョー

 それは奇妙な夜だった。

 

 私は、――――――――神楽坂明日菜は、そう回顧する。

 

 目の前には、最早見慣れた焦茶色のコートの背中。自分より少し高い背丈の少年が、濡れて冷たい石畳の上に尻餅をついた私の前に立って、私を守ろうとしているのだ。

 見知らぬ人。見知らぬ赤毛。けれど、知っている。そう感じている。

 

 その奇妙な感覚。既に見たことのあることとして、今初めて見たことを感性が評価すること。

 それを既視感と呼ぶことは、その後少しして親友に習ったこと。

 

 月もない、星の瞬きの一片も見えない嵐の夜なのに、コートには雨の染みの一つもなくて、もしかするとこの少年の頭上だけ雨が上がっているのかもしれないと、そんな馬鹿馬鹿しいことまで考えて、そのことがとても、とても、聖なることのように思えたのだ――――――――

 

 一人の少年に、聖なる、だなんて。

 そんな、人間という人間の全てにとって過大な感覚は、けれど、きっと正しい。

 聖なる。

 それは、きっとこの運命のことを指す言葉で。

 

 運命の美しさに、見惚れていたのかもしれない。

 そこまで思うのならば、その意味は確かに知っているはず。

 

 だって、その赤毛の名は、

 

「明日菜さん。“僕”の名前は――――――――」

 

 識っている。知らないところで、私はその名を識っている。

 

「――――――――内緒です」

 

 私を助けに来る、その名前を――――――――

 

 ……あれ?

 なんだったっけ。

 

 

 ●

 

 

 私の朝は、一本の煙草と共に始まる。

 

 朝の四時を過ぎると、窓を少し開けて、そこから顔を出す。窓際に立って灰皿と煙草をそれぞれに片手に持って目覚ましの一服をするわけだ。

 

 まだ冬も終わっていないから、夜明けにはまだ少し遠い。東を見れば、紫がかって行くのがありありと見える。そして、その周りは白んでいて、ようやくすると朝の色に変わっていく。私はそれを見るのが好き。そして、それを雲のように隠すような煙草の煙が、もっと好き。好きなのはきっと養父の影響だけれど。風が吹いていて、それで顔にモロに当たる煙。冷たい煙の匂いはなんだか乙なものだと思う。

 

 ……私はしがない中学生だ。養父は貧乏なはずなのに道楽としか思えない煙草屋をやっていて、それを傾かせないために、私もたまに店に立つ。それで良いと思った銘柄を発掘しては勧めるのだ。歳不相応なことに。煙草屋にありがちな、小窓でこの顔と姿を隠して。

 

 最近試しているのは、”スモーキング・ジョー”。無添加が売りなのだかなんだか知らないけれど、少し値の張る銘柄で。けれど物珍しいから馴染みの客は”アンタが言うなら”と買って行ってくれる。もしかすると”当たり”を見つけたのかもしれない、なんて少し嬉しくなる。最近は技術の進歩とやらで、加熱式煙草なるものが世間を賑わせている。けれど、私はそれには興味がない。というより、先立つものがないせいで興味を抱く資格もない。養父さんは幸い、

 

「火のない煙草なんて真っ平御免だ、か」

 

 そういう言い訳を付けて手を出すつもりはないとのこと。私も、煙草は先でジリジリと灰になっているのが風情だと思うし、そもそも健康に気を付けるなら、そもそも煙草なんてものに手を出してはいけない。アレは嗜好品ではあるけれど、平たく言うならタダの毒。それに値段を付けた以上、その価値は守られるべきのはず。

 そういう事でウチの煙草屋にあの手のものは置いていない。むしろ、過去に逆行している気さえする、そんな道楽者のための道楽屋。だからこそ私のやっていることは発掘なのだと思う。時代遅れになり始めた紙巻煙草、その故きを温ねるコトは。

 私のやっていることは、そういう小さな積み重ね。これで少し家が豊かになれば良いとか、少ない小遣いをやりくりしてやっているのだ。目指すは知る人ぞ知る名店、というヤツ。傾きかけた家をなんとかするくらい、私が継いだら何の事はない、と義父さんに言ってやりたくて。でも、吸っていることそのものは極秘中の極秘だ。寮の同居人には、悪いけど目を瞑ってもらったり、匂いを誤魔化す香水を見繕ってもらったり。そうして私は暮らしている。

 

「ふぅ」

 

 すっかり短くなった煙草を灰皿に置いて、私はまだ少し温い部屋へと戻る。実家と違って窓の立て付けは悪くないし、スルスルと音を立てて、窓は閉まった。店の小窓なら、開け閉めで必ず一回は嫌な音を立てる。

 

「さて」

 

 仕事に行かなければ。生徒という職業の他に、私にはもう一つ仕事がある。新聞配達。

 朝早く起きなくちゃいけない代わりに、学校の時間と重ならない時間で働ける。その上、未成年には許されない夜間バイトと同じように少し時給が高い。私が気付いて飛びつくのに、そう時間は掛からなかった。もう二年くらいは働いている。本当は小学校を卒業した春休みから働きたかったのだけれど、それは流石にイカンと店の人に断られて、けれど何とか中学校入学からはすぐに使ってもらえることになった。

 

 スウェットを脱いで二段ベッドの上に放り込んで制服を手早く着ると、髪を二つ結びにして外に出掛けていく。まだ寝こけている同居人には迷惑を掛けないように、音はなるべく立てずに。玄関で靴を履くと静かにドアを開け、吹き抜け構造の寒々しい廊下に出る。

 

 その一歩を踏んだ瞬間、

 

「んぁ~、アスナー……いってらっしゃ~い」

 

 寝ぼけた声で、私を送り出す声が聞こえてくる。

 私はそれに、

 

「ありがと、木乃香。いってきます」

 

 それだけ返して、静かにドアを閉めた。

 

 ●

 

 

 女子寮の敷地を出て道路に出ると、住宅街とは言っても流石に人通りはない。起きているのは本当のニワトリ、スズメ、午前様、それか本当の早起きさんくらい。

 

 紫色の空の下、白んだ世界にはブロック塀がズンズンとどこまでも伸びていて、でも電柱は立っていない。むしろ、電柱を見るのは麻帆良市の外でくらいだ。

 

 私が生まれる数年前……具体的にはバブルの”第二段階“の頃、ものすごく景気が良くなっていた時に調子に乗って電線を全部地面の下に埋めてしまったらしいのだ。おかげか、”景観は良い”だなんて言われることはある。ケーカン、警官?と最初は思ったけれど、景観と言う、要は見た目のことだと養父に習った。”お嬢ちゃんは本当にアホだな”と笑顔で言われたのをよく覚えている。本当によく覚えている。ムカつく。

 週末に帰ると待っている、あのハードボイルドな笑顔。

 あれは……私的には反則モノだけれど。

 しかしそんなことより、まぁ。

 

「あー、寒い」

 

 学校指定のダッフルコートの上から、身を抱いて擦る。

 当然こんな時間なのだから、出勤や登校の時間にはまだ早い。大半の人はまだまだお眠の最中。だから、出会う人は健康的に朝のウォーキング、ジョギングに励むような爽やかな人達だけで、

 

「おう、おはようさん」

「あ、おはようございます」

 

 手を振りながらすれ違っていく人や、それに、

 

「ふぁ~、徹夜でゲームするんじゃなかったなぁー。今日は職員呼び出しだってー……始発なんて初めてだぁ……なんでかなぁー」

 

 こんな、午前様みたいな眠い目を擦る人が――――――――、と。

 見覚えのある背格好だ。

 

「あれ?ジーナさんおはようございます」

「……んぇ?」

 

 小走りで私はすぐにその人の背中に追い付き、左に並んで歩き始める。

 ボサボサ、まるでスチールタワシみたいな癖っ毛の茶髪を持った女の人だ。ベージュのツナギ、それに同じ色のダッフルコートを羽織って、赤いタータンチェックのマフラーはテキトー極まりなくグルグル巻き。分厚い眼鏡の底に見えている瞳はまだまだ寝ぼけ眼で、足取りもなんだかふらついている。

 そんな彼女に追い付くと、私は肩を並べて歩く。

 

「あー、おはようッス。アスナ君はこれからバイトッスかー。感心感心ー。ボクなんかアンタくらいの歳にはアホみたいにゲームして徹夜して、そんで授業中居眠りして…………今もそう変わらないッスね?」

「自覚あるならもう少し大人になったら?」

「いきなりこの小娘は言うッスねー」

 

 この人は”ジーナ”さん。私の通う、麻帆良学園女子中等部の用務員さんだ。あんまり私がかしこまらないのは、この人が先生というわけじゃないし、それに見た目が四捨五入と言うか、切り捨てくらいで見てみれば女子高校生くらいにしか見えないくらい若い見た目だから。童顔だし、それに背も低い。私より10センチは低いから、そこはかとなく漂う大人かもしれない雰囲気と合わせても、私からすれば小さな先輩くらいにしか感じられないのだ。

 

 そんなジーナさんは実際のところ寝ぼけ眼だけれど、それは寝起きだからではなくて、

 

「と言うか、今晩寝ました?」

「寝てないッス。……年甲斐もなくポケモンにドハマリしちゃって。昨日仕事帰りに買ってストーリーはさっきクリアしたッスよ。おかげでさっき来た学園長の緊急呼び出しにも気付いたんスけどね」

「それ、ウチのパルが言ってましたけど廃人ってやつですよね」

「そりゃ褒め言葉ッス。まぁ胸張れることでは決して無いんスけどね。これからネット対戦、タマゴ割りとか言う修羅の道が待ってるッスから」

「……パル、大丈夫かしら」

「まぁ中学生は元気ッスからダイジョーブダイジョーブ、何も心配アーリマセーン」

「いや、原稿の話。それとなんか、ゲームの台詞ですか?」

「お~、良く分かったッスね。まぁ台詞というよりタダのネタなんスけど。あとパル先生ッスけど、直近の〆切は無いはずッス。心配せずともーぅ」

「そんなもんですか」

 

 ジーナさんの千鳥足な足取りに合わせると、随分とゆっくりとした歩幅になる。このままじゃ遅刻だ。だから、

 

「じゃ、ジーナさん。私はここで」

「おーん、頑張るッスよー。ボクは新聞取らないッスけどー」

「その内休みの日に勧誘行きますよ?」

「あー、それはやめて欲しいッス。ボクの彼氏、そういうの断れないタチなんで」

「……それはそれでなんか忍びないなぁ」

 

 ふと、追い越そうとして気付く。新事実だ。彼氏がいることは知っていたけれど、

 

「そういや……ジーナさん彼氏と同棲してるんですね」

 

 少し早足で歩いて追い越しながら、右肩越しに聞く。すると、ジーナさんは、

 

「うん。してるッスけど。……言ってなかったっけ?」

「聞いてないなーと」

「まぁ、アスナ君バカレンジャーですしぃ?聞いても覚えてないかもしれないですしぃ?」

 

 足を止めて私は、

 

「丸焼きにするわよ」

「いや怖い怖い!?嫁入り直前の体に何するッスか!」

 

 ジーっとジーナさんを横目の半目で睨みつけて、こう言う。

 

「私は聞いてない、OK?」

「……OKッス」

 

 自分でもヤクザチンピラの類の手口のように思えるけれど、それでも正直なところ、バカレンジャーとは心外だ。家が商売をやっている都合上、数学でも算数に近いモノならかなり得意な方だし、本物のバカ最高峰には”バカホワイト”が居る。実のところバカレッドの座は返上しつつあるのだ。

 

 そんな釈然としない気持ちなんて彼女は知らず、深い溜め息をついて安心している。本当に、非常に、納得は行かないけれど。

 

「まぁ、同棲……してるッスよ。おかげで生活習慣には煩くって。まー今日は当直だから留守だったんスよ」

「親の居ぬ間に夜更かしする子供のような……」

「あーストップ、ストップっスよ。ボク、コレでももうすぐ三十路のいい大人なんスから」

「三十路前でそれかぁ……」

「なんスかそのザンネンなものを見る目は。良いんスよ三十路前でも!もう結婚決まってるし!負け組、脱出ッ!」

「いや、なんか女としてじゃなくて人間として色々クソのような気がして」

「あーあーあーきこえないきこえないー」

 

 耳を塞いでいるジーナさんに、私は今度こそ、

 

「んじゃ、私仕事あるんで。ジーナさんもお疲れ様です」

「おいーす」

 

 そう言って、私は彼女を追い越して走り始める。

 私の仕事場は新聞屋。

 

 そこでありったけの新聞をバッグに詰め込んで、この麻帆良を走り回るのだ。

 

 でも、そういえば。

 

「ジーナさん、何か言ってたような。『職員呼び出し』……?」

 

 何か、マズいことでもあったんだろうか。

 こんな朝っぱらに、生徒が集まらないうちにしておくべき何かがあるのかも。

 

 ……平和を祈っておこうかな。

 

 でもそう言えば、今日は私と親友は新任教師の出迎え役をするらしい。

 今の今まで忘れていたけれど、もしかしてそれ絡み、なのかな。

 走りながらぼんやりとそんなことを考える。

 けれど、

 

「じゃあ、なんで今日の今日なの?」

 

 

 ●

 

 

 午前5時。麻帆良学園女子中等部、その中に位置する学園長室に、人が寿司詰め状態になっていた。

 格好は様々で、教師らしくスーツを着た男が十数人、用務員用のツナギを着た女が一人、そして人数の内で結構な割合を占めるフード付きの外套を着た人々。

 

 部屋の主たる学園長は、異形の姿をしていた。人間を少し逸脱した見た目だ。特に、その禿頭の骨格が。その先、後頭部、あるいは尖端には一房の髪が垂れている。

 顔つきは、毛むくじゃら。眉、口髭、顎髭も真っ直ぐに伸びて垂れ下がっており、しかしそれは不精なものではなく、そのように整えられたものだった。

 

 そんな、豪奢な机と椅子に座る謎の生物らしき学園長に、

 

「学園長。招集を掛けた職員は全員揃っています。どうぞ」

 

 彼の傍ら、職員らと向かい合うように立つ一人の男が学園長に耳打ちする。

 薄いブロンドの短髪を立てた髪型、そして眼鏡の男だ。着込んでいるのは白いスーツ、赤いネクタイだが、少しばかりヨレている。

 

「ウム、タカミチ君。ご苦労じゃった」

 

 タカミチという男を労うと、一つ咳払いして前を見据える。

 

 この時点で、麻帆良学園の教師・用務員、職員と呼べる人間の中でも、”ある特殊な事実を知る者”は大方集まったことになる。大方、というのは女子中等部に勤める者がメインで、その他の学校職員は代表者となる職員が集まっているのだ。

 そして、

 

 そして、机に肘を付いて指を組んだ彼は口を開く。

 

「まぁぶっちゃけるとじゃな。――――――――こんな早くに呼び出す必要もなかっフォッ!?」

 

 瞬間。

 乾いた音が中空で鳴り、学園長はタカミチという男に振り返る。

 

 彼は心底不愉快そうな顔をして、椅子に座る学園長を見下ろしていた。その視線から目を逸すため、学園長は職員陣の方に向き直ると、

 

「……まぁ、早いに越したことはないと思って……ともかく。本題に入るぞい」

 

 雰囲気を一転させた学園長は、口を開いた。

 

「本日、新しい教師が来る。詳細な情報は伏せるがの」

 

 重々しく告げられた言葉と裏腹、拍子抜けというべき空気が職員らから漂い始める。

 溜息と同時に学園長を揶揄する囁きが立ち上るが、

 

「……なんで、今日になってなんスか?集まるの」

 

 手を上げたツナギの女が発言する。ジーナだ。

 それに学園長は重々しく頷いて、

 

「ウム。まぁ尤もな感想じゃな。なんというか、そう、つまりサプライズじゃ――――――フォッ!?」

 

 再び中空で破裂音。学園長は再びタカミチに顔を向け、

 

「――――――――次は防御を抜きます」

 

 ゴミを見るような視線で見下されると、

 

「部屋も皆もタダじゃ済まんからそれは堪忍してくれんかの……?」

「ええ。真面目にやって下さるのであれば」

「ウム、真面目にやるとするかの……」

 

 茶目っ気をようやく完全に引っ込めた学園長は、続いて口を開く。

 

「ハッキリ言おう。今回、儂は情報統制を行った。まぁ出迎えの都合上、儂の孫娘とその親友には伝達済みじゃがの。”正攻法でしか”絶対に口を割れん子、それとこのことを覚えているかどうか正直怪しいウチの孫娘にの。実に盤石な機密保護体勢じゃな?」

「いや言ってる意味が分からないんですが……」

 

 口を挟んだのは線の細い青年。頼りない雰囲気を纏わせた、彼もまた教員の一人だ。

 

「多分説明したところで変わらんと思うぞい、瀬流彦君。ともかく、本日まで秘密は守られたわけじゃ。――――――――さて」

 

 反駁の小さなどよめきをそよ風として受け流し、近衛は続ける。

 

「……今回着任する先生のことじゃが、非常に特殊な事情を抱えておる。色々な意味で、じゃ」

 

 そして、職員らの中から挙手。次は白いスーツを着た黒人。眼鏡を掛けた黒髪の男性だ。

 

「ガンドルフィーニ君。君も質問かね?」

「失礼します、近衛学園長。情報統制の理由は?」

 

 学園長、近衛は首肯し、

 

「その理由すらも統制対象なんじゃ。今回半ばサプライズで迎え入れる事になったんじゃが、このこと自体は数年前に決定されておったんじゃよ。……何とか本日までその情報を漏らさずに居れたのは奇跡かもしれんし、あるいは既に漏れているのかもしれん。儂の気付かぬところでな。それはまぁ良い。今回ここに立ち会った君達は、誰一人この事実に思い当たることがない。違うかの?」

 

 その問いかけには、全員が返して首肯した。それに、宜しい、と近衛は前置き、

 

「この時点でかなりの深度の情報であったことが窺えるじゃろう。だからこそ、その先生の存在に関して何かの企てが起こらないことは……少なくとも本日は信頼が出来る。そう思いたいところじゃ」

 

 続けてガンドルフィーニが問い掛ける。

 

「つまり、何かの企ての犠牲になる可能性がある、あるいは鍵として利用される可能性がある、そんな人物であると?」

「ウム。まぁ、そういうことなので当人の名前はおろか、今の所は性別すら伝えることが出来ん。ここでも偽名を使ってもらうこととなる。――――――――さて、ここで一つだけ明かすべきことがある」

 

 職員らがざわめく。今まで徹底してその教師に関しての情報を渋ってきた近衛が、”一つだけ”何かを明かそうとしているのだ。それはおそらく核心を突くものではないが、自分達にとっては重要なことなのだ、ということが分かる。

 

 そして、その中から挙手。

 再びガンドルフィーニだ。

 

「その、情報とは?」

「ウム」

 

 重々しく頷いた近衛は、一言だけ。

 

「その先生なんじゃがな、数えで10……あいや、15歳なんじゃよ」

 

 

 

 

 

 

「はぁ!?」

「そ、そ。そんな感じじゃ。いい反応じゃのう」

「良いも何も……はぁ!?」

 

 驚嘆の声を重ねるガンドルフィーニに、近衛はしたり顔になり、

 

「要は今のうちに驚いてもらったわけじゃ。本人が到着してから驚くよりいいじゃろ?この会合、確かにサプライズなんじゃが、実は本当にサプライズになる前にネタバラシしておるだけなんじゃよ」

 

 全員が止まらないどよめきに居る中、ガンドルフィーニが更に叫ぶ。

 

「い、いや15歳で教師って……ここが”特別行政区”だからと言っても限度がありますよ!?」

「まぁそう言われるとは思ったんじゃが、既に”総帥”の承認も得ておる。つい一昨日なんじゃが。その”総帥”も15歳で”総帥”なんじゃよ。そう考えれば別に大したことじゃあないのう」

 

 ざわめきが一瞬収まり、そして新たなざわめきが起きる。話題が完全に変わった囁きの群れが。

 そしてガンドルフィーニはそれを代表して、

 

「”総帥”……って、まさか!」

 

 近衛は背もたれに身を預けると、顎髭をさすり、

 

「ウム、お察しの通り。”二代目・超鈴音”の承認を得ておるので、そこら辺の問題はクリアーされておる」

「ここ麻帆良市が”特別行政区”になった最大の原因、その二代目……それがバックに!?」

「如何にも。実質的な麻帆良市の支配者がな。……まぁ、バックに付いている、とは言い難いんじゃが」

「それは、どういう……」

「つまりは”完全な放任”じゃよ。あくまで”承認”に留めておる。『そんなこと別に伺い立てずとも良いネ』、とのことじゃ」

「はぁ……」

 

 確かに、彼女ならそう言うだろう。ガンドルフィーニは良く知っている。何しろ、彼女は、この麻帆良学園の女子中等部、その”一生徒”でもあるのだから。だから教師として、”生徒・超鈴音”のことは多少理解している。そして、掛け値なしの天才であるということも。だから、『そんなバカな』と断じることはしない。

 

 しかし、そもそもその15歳の年若き少年、あるいは少女がこの麻帆良市に教師としてやってくるというのは、一体如何なる意味を持ったことなのだろうか。その疑問には、彼が口を開くより先に、

 

「流石に一応事情は説明しておる。”魔法使いの修行”である、とな。その上でのあのお言葉じゃ」

 

 近衛はすんなりと答えを示した。その子は、魔法使い。それも見習いの、だと。

 だがしかし、それでも教師と”修行”は結びつかない。

 ガンドルフィーニは疑問する。口に出すと、

 

「”修行”……?それと教師に何の関係が?」

「いやのう、修行内容が大変奇天烈なことに”A teacher in Japan”、つまり”日本で先生”と出たそうなんじゃ。じゃからその先生は魔法使い、要は君らの大部分と同じ、”魔法先生”という括りになるのう」

 

 あまりに”修行”の内容がブッ飛びすぎている。見習いの魔法使いに普通はそんなもの、巡ってくるはずなんてことはない。だが、彼には偶然にもそれが巡ってきてしまった。

 

「そんな、無茶苦茶な……第一、その先生になる子に教師としての能力は――――――――」

 

 そこで近衛は一度、右手で指を鳴らす。

 

「あるんじゃ、バッチリ。しかも正直な話を言うと……ここに居る誰よりもその先生は賢いのじゃよ。無論、儂よりもな。まぁ”総帥”本人と比較するなら……チト分からんのう。が、少なくとも同等のレベルにはあるじゃろ」

「は、はぁ?」

 

 ガンドルフィーニは及び腰になる。だって、”総帥”といえば、女子中学生にして世界に名だたる大財閥の、本当に”総帥”なのである。常に現人類の10年以上先を進み続けているとも言える、圧倒的知性の持ち主。それと同格とは、一体如何なる事かと。

 

 その疑問にもまた、すぐに近衛が答えを出した。

 

「そりゃもう――――――――オックスフォード大学卒業。これ以上ない証拠じゃろ」

 

 一瞬意味を理解しかねて、そして絶句。その数瞬後に、学園長室は紛糾した。

 

「はぁ!?い、意味が分かりませんよ!天下に名高いオックスブリッジの……卒業生、それも15歳で!?……何が何だか……」

「人材としては超人レベル、そして”総帥”の承認付き。ここまで来れば、誰もその先生の着任を阻むものはない。そうじゃな?諸君」

 

 ざわめきが最高潮に達した空間に、一つ、恐る恐る挙げられた手がある。

 

「……カリ……あいや、ジーナ君。他に何かあるのかね?」

 

 ジーナの手だった。そして、彼女は居た堪れない顔で、

 

「いや、その、皆分かってるっぽくて、ヒジョーに言いにくいんスけど……」

「フム、まぁ何となく何が聞きたいか分かるんじゃが……聞こうかの」

「あざす。んで、その……」

 

 一息。

 

「オックスフォード大学……何処の大学ッスか?あと天下に名高いオックスブリッジってのも、それボク……じゃなかった、アタシ、分かんないッス」

「……やはりじゃったか」

 

 瞬間、全員がその場で足を滑らせ転倒。人の山が出来上がる。

 彼女は困惑した目で周りの様子を見回すと、最後に近衛の方に向き直り、肩を落とす。

 

「……ボク、そんな常識ないこと聞いたッスかね」

 

 学園長の背後のタカミチは、遠い目で窓から外を眺め、

 

「まぁ……”聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥”と言いますよね」

 

 一人、加熱式煙草を蒸かしていた。

 それを見咎めた近衛は、

 

「コレ、タカミチ君。校舎内は喫煙所以外禁煙じゃ。めっ、じゃ、めっ」

「僕もそろそろ健康に気を遣う年頃ってことですよ」

「いやフツーにそれ以前のマナーの話をしとるんじゃがな?」

「高額納税者にこれ以上の負担を強いると?」

「君、本当に煙草好きじゃな……」

「いや、成り行きで吸っているだけですよ。だから可愛い妹分の前ではフツーの煙草吸いますけどね。あの子、多分泣きますから」

「……ソレは照れ笑いするとこかの?」

 

 

 ●

 

 

「それじゃ、私これで上がりますんで」

 

 順路図に従ってポストに新聞を突っ込んで、いや、破れたりすると給料が差っ引かれるから丁寧にだけれど、それで2時間くらいを掛けて自分の割当エリアを片付けると、私は新聞屋に戻ってきてジャンパーを脱ぐ。こんな寒い日、良い防寒具があると断然違う。これがこの仕事をやっていて良かったと思うことかも知れない。まぁ、背中に”Mai”ってロゴの入った仕事着だから、プライベートで着回せるものではないんだけれど。

 

 そんな有り難いジャンパーは、ハンガーにかけてロッカーに戻してしまう。同時に自分のダッフルコートを取り出して。少し重いから、ジャンパーでそのまま帰りたいくらいだけれど、制服と同じようなものだからコレ無しでは帰れない。

 そしてそんな帰り道はまた、ちょっと寒い目に遭う。行きと違って体は温まっているけれど、同時に汗もかいているから風邪には特段注意しなくちゃいけない。この温度を保つために、帰りも走っていこうと思う。

 勢い良く引き戸を開けて出ていこうとすると、私の背中には、

 

「おう、今日もご苦労さん」

「学校がんばってねぇ」

 

 そんな、有り難い言葉が沢山やってくる。

 だから私は元気印を体現するために、

 

「ありがとうございます!それじゃ、また明日!」

 

 自分ではとびっきりだと思う笑顔で、それに応える。

 そして、私はまた寒空の下へと駆け出していった。

 

 寒さに体が気付く前に、もっと体を温めながら帰る。そして帰ったら茹で上がるほど熱いシャワー、それと暖かい食事だ。中学生の身分でバイトをしているこんな事情、登校はいつもギリギリになるけれど、配達で鍛えた私の足はそれでも遅刻したことがないほどのものだ。実のところは、この仕事を始めたときから苦労はしなかったけれど。自分の体力の無尽蔵さには、非常に助けられていると思う。陸上部もへバる心臓破りの坂も、私にはちょっとキツいだけの上り坂。長距離走は最強の自負がある。煙草を吸っても全然弱らない肺にも頭が下がる思い。私を産んだ本当の両親は、一体どれだけ丈夫に私を産んでくれたっていうのだろう。その辺は、義父さんも与り知らぬ、本当の謎なのだけれど。

 

 

 ●

 

 

「ただいまー、木乃香」

 

 やっぱり寒かった女子寮の廊下から、部屋に戻ってくる。生暖かい空気が体に滲みて心地良い。冬はこの気持ちよさがあるからたまらないかもしれない。夏に炎天下の中からクーラーでキンキンに冷えた部屋に戻ってくるのに似ている。

 それに、

 

「今日は和食―?」

 

 お味噌と、それにどことなく出汁の匂いがする。多分、この香ばしい香りは鰹出汁。

 味噌汁ということは、和食に違いない。

 その答え合わせは、

 

「せやでー、それでアスナー。お風呂とご飯どっち先するー?」

 

 キッチンの方から声が聞こえて来る。当たりだ。私は色々と感覚が鋭いけれど、こと食べ物となれば特別鋭いかも知れない、と今までの経験から思う。中学に入ってすぐの頃、週末に実家に帰った時のことだ。煙草を蒸しながら迎え入れてくれた養父の口臭からでも、僅かな鶏ガラ出汁の臭いが分かったのだ。アレは間違いなくカップ麺を食べていた。まともに料理ができない上に貧乏なんだから、あれは不憫に思えた。料理を覚えようと思ったのもその頃だ。この有能な料理人がいるせいで一向に覚えられる気配はないのだけれど。

 

 仕事用のスニーカーを脱いで、登校用のローファーの隣に揃えて置きながら私は応えて、

 

「先に体の中を温めたい気分だから、ご飯かな。出来たての方が美味しいし」

「ほなら、もう出来とるから並べるえー」

 

 玄関からダイニングまでの廊下を抜ける。靴の中で汗ばんだ足には、ちょっと床の冷たさが堪える。だからすぐに部屋に入ろうと少し足早になる。

 

 部屋に入ると、すぐに人工的な陽気が迎え入れてくれた。エアコンをガンガンに焚いて、ここだけは冬の終わりじゃなくて春真っ盛りだ。花も咲きそうなくらいに暖かい。

 

 私が同居人と暮らす部屋は、手狭ではない必要十分な広さの寮室、

 ダイニングには二人分の勉強机が窓側の壁に付けられていて、二段ベッドもある。

 それに、どうして付いているのか未だにわからない、物置に重宝しているロフト。

 おまけにお風呂は大浴場があるにも関わらず、ユニットバスではなくて普通のお風呂。

 個室はない代わりに、設備はこの上なく充実しているのがこの学校。キッチンだって無駄に対面式だし。

 

 ダイニングの温かい空気で寛ぎの気分になったところで、そのキッチンに目を向ける。

 小豆色のパジャマで鍋を混ぜている親友、同居人が立っている。

 

「今日もお疲れやね」

「なんてことないわよ、もう2年くらいコレやってれば慣れるし。それに朝ご飯いつも任せっきりでこっちは有り難い限りよ」

「せやねぇ。でもウチ、色々頭抜けとるからこーゆーのしか取り柄無いんよ」

 

 彼女は、近衛木乃香。私の同居人であり、キッチンの主。

 私の秘密の共有者でもある。

 そして、

 

「色々記憶飛んどるウチにノート見せてくれとるんやし、これくらいお安い御用やん」

 

 彼女の記憶を、私が埋めている。学力的には問題ないのだけれど、彼女は時折意識が虚ろになってノートがうまく取れない。だから、その空いた部分を私が提供している。私は別に対価なんていらないけれど、それなら、ということで私は喫煙の秘密を共有してもらうことにしたのだ。

 それに、私は訳もわからないまま板書を馬鹿正直に写しているだけ。

 でも、

 

「そんなのに勉強教えてもらってるんだから私もなかなかバカよね」

「まぁアスナ数学はそれなりなんやし」

「それでもよ。出来るところだって算数に毛が生えたようなとこだけだし」

 

 そう。分からないところは、彼女に教えてもらう。彼女の頭は悪くない、むしろ相当にいい方だから、こんな奇妙なことが起きてしまう。彼女は失った記憶のピースを得て、そうしてその日のことを身に着ける。そして私はそのお零れにあずかる。どうしても一手遅れた勉強になるけれど、それでも彼女は優秀な方だ。

 ところで、

 

「今更気になったんだけど、記憶が飛んでる間ってさ。なんか見えてたりでもするの?」

「んー?」

 

 コートを一旦脱いでクローゼットのハンガーに吊るしながら、片手間に聞いてみる。

 すると、彼女はお盆で手際よく食卓に料理を運びながら、

 

「せやなぁ……何やろ?アレ」

 

 本人も本当にわからない、と言った風情で答えてまたキッチンに消えた。次は炊飯器からお米をよそっている。

 

「まぁ、だから”飛んでる”のよね」

「全くその通りやね」

「そんなもんか。……よっこらせ、っと」

 

 いくら体力が無尽蔵と言っても、疲れないわけじゃない。人より最大値が多いだけで、別に減らないわけじゃない。ようやく座布団の上に腰を下ろして人心地つくと、

 

「オッサン臭いなぁ」

「オジサマは好きだけど、自分が言われるのはシャクだわ」

「煙草もぷーかぷーか蒸かしとるんやから立派なオッサンやん」

「言われりゃそうかもしれないけどさ……」

 

 さて、無駄話はそこそこにして。彼女が茶碗を目の前に下ろしたところで品物がもうお揃いだ。

 目の前に広がるのは……まさに“朝食と言えばコレ”と言わんばかりの朝食だ。

 

 炊きたての御飯、豆腐とワカメの味噌汁、マスの切り身、タクアン、ほうれん草のおひたし、トドメに納豆。今回の納豆は生卵も入って豪華。

 

「それじゃ、いただきます」

 

 手を合わせてそう言うと、箸に手を付けた。

 

「ハイ、めしあがれー」

 

 対面で笑顔になって手を合わせる木乃香。将来はきっと良いお嫁さんになるだろうと思う。それに、そのためのお見合いの数々なんだろう。彼女は”あんな”だから。けれど、そう。だからこそ”良い人”を見つけなくてはいけないのだと思うのだし。少し可哀想かもしれないけれど、それが学園長の、彼女のお爺ちゃんの爺心というか。

 

 でもそう言えば。

 

「今日、新任の先生が来るってアンタのお爺ちゃん、言ってたわよね。一昨日」

 

 問いかけを放り投げてから、とりあえず汁物から。

 そんなしきたりというか、慣習に則って味噌汁に口を付ける。ズズッと男前に行くのが私流。

 そうしながら上目遣いで彼女を覗き込んで見ると、

 

「ほえ?」

「誰にも言うなーっては言ってたけど。……マジ顔で」

 

 呆けた顔に向かって私がそう言うと、目の前の彼女は考え込んで、

 

「……御免、”飛んどる”みたいや」

「やっぱりかー……」

 

 案の定、こんなことになってしまっている。肝心な所で不思議なくらいに”飛んでいる”。

 じゃあ、ところで。

 

「私も忘れたんだけど、約束の時間って何時だっけ……」

「いやいや、”飛んどる”ウチに聞かれてもなぁー」

「そういやそうだったわ……」

 

 ついうっかり。知らない人間に知らないことを聞いても意味はなし。

 ともかく、

 

「……今日、マッハでシャワー浴びよ」

 

 勿体無いけれど、目の前の朝食にはがっつかなくちゃならないらしい。

 こうなったら、早ければ早いほどいいことなのだ。

 

 

 ●

 

 

 ……愛用の目覚まし時計はベルを喧しく鳴らし、朝7時の到来を告げる。

 

「朝……?」

 

 麻帆良市の市街地、その中でもそれなりの安宿で目を覚ました。姿勢は横向き。窓を見ると、頼りないカーテンの裾から陽光が漏れ出ている。

 

「……あんまり、眠れなかった気が、する……」

 

 そんなことはない。むしろ、睡眠時間はかなり取れたはず。質の問題だ。

 

「疲れた……」

 

 薄い布団から右手を出して、枕元の時計を叩く。これで目覚ましはキャンセル。すぐに起き上がらなくちゃいけない。このままじゃ二度寝という大失態に至る可能性がある。むしろその可能性しか無い。無理やり体を起こして、

 

「はぁー……」

 

 あくびも出ない。ただの重い溜息。心底疲れている。疲れやすく回復しにくい体。体に巡る血の量がそもそも少ない。こんなものだ。

 

 ……このホテルの一室に辿り着くまで、トラブルはあった。けれどクリティカルなものはない。まずはその奇跡に感謝し、深呼吸。気怠い体にようやく血が巡っていくが、どうやら血行は不順気味で肩が重い。ただでさえいつも貧血の低血圧だから仕方がないのだけれど。血の気が多いと都合は悪い、それももう仕方のないこと。そんな体で生きていくと決めたのだから。

 

 ……ロンドン・ヒースロー空港から千葉・成田空港まで15時間のフライト。そこから1時間半ちょっとの電車小旅行。フライトが終わって入国審査を済ませ、すぐに切符を買って列車に飛び込み乗車。重いトランクがドアに引っ掛かってあわや手首脱臼と相成りかけたが、それはどうでも良い。

 ともかく、その手首を痛め付けた忌々しいスカイライナーとやらで日暮里へと向かっていった。そして日暮里に着いたと思ったら次はおそらく日本一有名だろうと思われる周回軌道の山手線を田端まで3分。それから更に京浜東北線に乗り換えて赤羽、着いたと思ったらすぐにホームを移動して埼京線。それにようやく乗ったところで最後は麻帆良学園都市中央だ。

 飛行機移動に付き物の、けれど初めて体験するジェットラグ、長時間フライトの疲れ。そんな疲労困憊状態での連続乗り換え。働ききらない頭、走れない体には非常に辛い、タイトな移動行程となっていた。息を整えていたら電車は目の前を通り過ぎ、倒れないように必死になっていたら階段は自分が渋滞の原因になり。色々と大変な一日だったのは覚えている。酸欠で朦朧としているけれど、そんなショックな出来事に思わず目が覚める思いがしたのも事実だったのだ。

 

 ……先方、麻帆良学園の受け入れ準備、もとい向こうの”最高権力者”の”承認”が降りたのはつい一昨日で、しかもそれを聞くより前にフライトは手配されていた。もうキャンセルしようにもキャンセル料が必要な状況。いくら今回は自分の金で乗るわけじゃないと言っても、気が気じゃなかった。

 承認が降りる前にはもう荷造りを終えていて、手伝ってもらった幼馴染には『これでパァになったら承知しない』とまで言われて睨まれてしまった。自分に責任は一切ないのに。今回は先方の受け入れ準備がギリギリになったせいなのだから。

 何せ、今回の渡航から滞在まで、どこまでも秘匿すべきことが多かったのだ。

 お陰で自分は協会の手筈で偽造パスポートを作り、それで足取りを追えなくして……そんな、カタギが気づいたらコトになる綱渡りをする羽目になっている。もう既に戸籍から偽物なのに、まだ嘘で固めている。

 他にも、こんな重くて仕方がない体を引き摺り続けたり。

 

 自分の身分、立場は分かっている。協会から叩き込まれたことだ。そして、渡航先が一応は信用のおけるところだと言うことも。

 自分が動くことは時代が動くことに繋がってきてしまう。間接的ながら。今回の日本行きは思ってもみない僥倖で、今すぐにも飛び出したかった。けれど、

 

「まさか、大学に入れられるなんて」

 

 本当なら3年ほど前に叶っていたはずの日本行きは、待ったが掛かった。それが大学進学だった。確かに、それもまた思いもしない良い機会だったとしても、焦れるのは仕方がなかった。今すぐに”あの人”を探しに行きたい。それを目前でストップだ。久しぶりに駄々をこねた。ただ、

 

「モグリの教師にならずに済んだのは、良かったけれど」

 

 そのままだと、本当にモグリの教師ということになってしまう。だから、今回の進学は教師として仕事をするための準備期間と割り切れたのも事実。年齢はともかく……能力はキチンと手に入れることが出来た。日本の”労働基準法”とか、そういうのは”通用しない”所だから、ただ能力さえあればいいのだし。それを持っていれば法が曲がる所なのだ。

 

「……さて、と」

 

 ベッドから這い出して、とりあえず座る。一度深呼吸。

 顔を洗ったら、着替えて化粧をしないと。

 ここでの自分は、自分ではないのだから。

 けれどその前に。

 

 ……この、貧血で真っ暗になった視界はどうすれば良いんだろう。

 

「はぁ……」

 

 力をなくした体は、またベッドに沈んでいった。頭がマットレスに打ち付けられた衝撃で、くわん、と揺れる。中身を揺さぶられた脳内は、二度三度スパークすると、ショートしたみたいに断線していった。

 

「今日からたっぷり食べなくちゃ……」

 

 倒れた体は寒々しくて、そんな中。左手の注射痕が、ハエが停まったように疼いた。

 

 

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