Brand/Brave new world!   作:ムラクモの人

2 / 4
冷たい朝露を切り裂いて

 

 まずは、空が有った。

 澄んでいて、水色とも例えられるような空が。

 その水色の上に透けるような白が重なっている。冬の雲だ。

 その上、太陽は幾分低く南東に構えている。いずれは真南を目指して上昇していき、そして、夏とは比肩できぬ高さで頂点となる。

 それは冬の太陽。営みを低く、しかし暖かに照らす、柔らかな光球だ。

 

 それが露わにするのは、街並みだ。

 欧州、それも地中海圏の趣が強い建築物の群体は、陽光を浴びて紫がかった橙色を帯びている。

 

 その街並みを区切るように、道が敷かれている。

 道は広く取られており、それを三等分するように通るのは二本一組の鉄路。路面電車の通る道筋だ。冬の露に曇り、琥珀色に光っている。

 それを伝って、鼓動のような振動が道先に響いてくる。

 

 更に、波濤のような地鳴りが向かってくる。

 音の源は人波だ。怒涛の勢いの足音。

 誰も彼も走っている。あるいは、滑っている。

 

 ある者は自分の足で、

 

「うぉ――――――――!一方通行シャトルラン――――――――!」

「帰ってこないのはシャトルランになってねぇよ!」

 

 ある者はそれにインラインスケートを履き――――――――

 

「なぁなぁ、空中で1080°回転とかって、うおあ――――――――!」

「進路妨害するなぁ――――――――!」

 

 3回転して跳ね飛ばされる人影はともかく。

 

 そしてまたある者は己の経済力と引き換えに単車に跨り――――――――

 

「やっべ線路で滑ってこのままじゃフルバンク停車あーあーあーあーあ――――――――!あー……」

「外装の慣らしが終わったか……」

「ああ、短い新品期間だったな……」

 

 転んだフルカウル乗りを尻目に、クルーザー二人乗りの1台が走り去る。

 そんな混沌とした人混みを迎え入れるように、

 

『ぴんぽんぱんぽ――――――――ん』

 

 スピーカーを通した人の声だった。

 鈴の鳴るような少女の声だ。

 放送のチャイムを模した音程で歌われたそれに続いて、

 

『学園生徒の皆さん。こちらは生活指導委員会です』

 

 少し、間を開けて。

 

『今週は遅刻者ゼロ習慣ですYeah――――――――!Hell Yeah――――――――!…………………Yeah――――――――!台本――――――――!』

「用意してから喋れよ!!!」

 

 走る学園生徒達が即座にツッコミを入れるが、それを受けたのか意に介さないのか、放送はさらに続いていく。

 

『ハイどーも台本あざーす。……始業ベルまで10分を切りましたぁ――――――――!ハイあと9分と……わっかんなーい!けどとりあえず急がないとイエローカード出しちゃうぞー!Hell Yeah――――――――!』

 

 冬の晴れた朝っぱらに、猛烈なテンションの放送は続いていく。

 

『今週遅刻された方にはもれなく生活指導委員会、略してせいし会から、イエローカードがもれなく進呈されまーす!――――――――そこ卑猥とか思ったでしょハイレッドカ――――――――ド!でもレッドカード出たら普通退場ですよねーそうですよねーということで遅刻二回とエロの罪は退学で――――――――す!学校行きたくねぇなーとか唐突にフェードアウトしちゃいたいなーとかそういう事を考えてるそこの……そうそこのアナタ!どうぞ、このレッドカードをお取りくだ――――――――あら新田先生、どうか致しましあいたぁ――――――――!』

『遅刻厳禁だ馬鹿者共ぉ――――――――!とっとと走るか早起きせんかぁ――――――――!』

 

 放送の語り部は枯れた男の声に変わり、やはりテンションは強烈。

 

『いいか!?余裕を持った登校でだ!無遅刻無欠席健康第一、つまり早寝早起きして健全に過ごさんかぁ――――――――!』

 

 それにゲンナリとしていく学生たちだが、足は止まらない。むしろ、余裕をカマし始めた学生たちも居る。

 その中で、

 

「オイオイオイオイ死ぬわ俺」

「ああ?早寝早起きで命までは取られんだろーがよ」

「いやフツーに考えて深夜こそゴールデンタイムだから遅寝遅起きじゃねーと死ぬっつーの。睡眠時間の確保は人権だろフツー」

「そこは早く寝て確保しろよ!」

「出来ねぇ相談だ!」

 

 言い争いに発展しながら走り続ける学生、それに並走するのは路面電車だ。

 窓際に立つ、ダッフルコートを着込んだ女学生はふと空を見上げ、

 

「あ、来たよ、来た」

 

 それに応えるように、反対側の窓からも声が来る。

 

「こっちも来てる来てる」

「今日も屋根走って私らと別コースなわけだね。で、アレって結局何者なの?」

「知らねぇのか!」

 

 疑問には、すぐ答えが返ってきた。

 路面電車の後部に手を掛けて、足元のスケートボードで滑走する、ブレザーを着た男子学生だ。

 

「知っているの!?スケボー君!」

「スケボー君じゃねぇよ。まぁ名乗る程でもないけどな――――――――」

 

 そう言って、彼は上を見上げて、両峰となった街並みの屋根を視界に収める。

 

「あれは、桜咲姉弟だ」

 

 

 ●

 

 

 屋根上を二つの人影が行く。

 道を挟んで立つ町並みのその両峰の上を、足裏、爪先で打撃して、それを加速としながら。

 

 人影は走っていた。

 瞬発力の連続を叩き込み、しかし屋根を破壊せぬ柔らかさで以て、それは正しく疾走していた。

 

 振り上げる腕は大きく、眼前の大気を切り裂くように。

 振り上がる膝は疾く、眼前の大気を蹴り割るように。

 踏み出す足は強く、眼下の地面を確かに捉えて。

 

 秒速にして、十メートル。世界記録にも匹敵するようなその速度を発揮する人影の正体は、

 

「遅刻じゃあ――――――――!」

「せんわぁ――――――――!」

 

 少女と、少年だった。

 

 ●

 

 黒髪の少女。前髪の左半分をピンで留めて上げており、白磁のような肌が日を淡く照り返して輝いている。

 背は高くないが、体つきは半ば完成されていた。

 その体を包むのは赤みがかった臙脂色のブレザー、タータンチェックのスカート。靴下は白のハイソックスで、靴は無骨な安全靴だった。

 

 少女とは反対側の屋根で疾走するは、これも黒髪の少年。

 白いニット帽を黒髪の頭に目深に被せている。

 瞳は黒く、隣の屋根を走る少女とは全く対となる。

 ブレザーを着る彼女とは対照的で、こちらは黒の詰め襟の学生服だ。

 靴は、同じ型の安全靴だった。

 

 常人が達するには全力を要する速度域でも、彼らは息をさほど乱していない。少し強めのジョギングと言ったストライドの大きさで、しかし常人に倍する距離を一歩で伸ばしていく。

 

 少女が右の峰を走る少年に顔を向け、声を飛ばす。

 

「小太郎!小太郎!弟としてここは姉を立てれんか!例えばそうやなウチをお姫様抱っこして姉のエロォースパゥワーで二倍加速とかそういう界王拳系の技!あるやろ!」

 

 それに即座に反応するは黒髪の少年、小太郎だ。

 

「”あるやろ”やないわアホ!――――――――よく考えて見ぃや。お姫様抱っこ……ぉーん……お秘め様抱っこ、秘めたる何かを抱っこして走るそれはつまりパゥワーの二乗倍でもやっぱり物理的に考えて姉ちゃん多少重いから遅刻確定か……希望って、儚いやんな……」

「期待!期待!激アツリーチ掛かっといてハズレとかマジ外道やぞ!外道!」

「期待するほうがアホや。一つ賢ぉなったな、バカ姉」

 

 正直と馬鹿の組み合わせは本当にどうにかならないか、と思いつつ、弟は屋根上を疾走する。会話など特に速度の減少要因にもならない、と。

 

 それ以上に、まずこの状況。

 屋根の下、地面で大混雑――――――――というか大爆流となって流れている人混みの先頭すら追い抜き、高速で校舎を目指している現在だが、それには問題が一点ある。

 

 それが、

 

「おおーい、桜咲姉弟。君達いい加減屋根ランニングは止めてくれないかなぁ」

 

 ……来たか!

 

 小太郎が眼前に捉えたのは、そよ風のように無造作な動作で屋根の端に着地した、白い背広、眼鏡の男だ。短い髪は薄いブロンド。服が少しくたびれ気味で、そろそろ買い替えの時期も迫っているだろうと思う。金はあるだろう、金は。ヴァイパーとかいう高級外車乗り回すくらいなんだから経済的余裕はこちら苦学生とは違って富裕のはずだ。

 

 だが、それはどうだっていいことだ、と小太郎は真っ先に印象への所感を消し去った。

 

「麻帆良学園男子中等部2年、小太郎――――――――参る!」

 

 戦いへと、思考を切り替える。

 

 

 ●

 

 

 もう一方の屋根上でも、同じような現象は起きていた。

 やはり無造作に端に降り立ったその姿は、灰色の着流し。陽光が照りつけて、銀の輝きをもこちらに返している。

 

 ……やはり来よったな!

 

 桜咲の姉は、その視認を以て同じく弟と同じく戦闘体勢へと己を移行していく。

 

「刹那……お前さんもな、もー少し淑やかさとか、そういうのを見に付けたらどうなんだ?」

 

 マッチを擦り、呑気に煙管に火を付けたその男は、白髪だ。そして眼鏡を掛けていて、逆の屋根に立つ男とは相似点が多い。

 しかし、

 

「おおいタカミチ。こっちの方頭が厄介だし担任なんだから、お前こっちやれよ」

「いやガトウさん、こっちの方がちょっと頭切れるので軽い方をお任せします」

「その軽い頭がマジでデンジャーなんだよ!」

「若者言葉使いこなせてるようで微妙に使いこなせてないの、複雑な気分になるので、ええ、とりあえず刹那君の迎撃お任せしますからね。頭のハンデと左腕のハンデで同等じゃないですか、コレ」

 

 咥えた煙管の先が跳ねて、初老の男は意を得たような顔になり、

 

「――――――――ああ、こっちの方が楽だな。うん、お前そっちやれ」

「アホ呼ばわりか!?アホ呼ばわりやな!?」

「いや、アホにアホと言って何が――――――――ああ、鳥頭かぁー。スマンなぁー、歳かー、歳」

「同じやぁ――――――――!」

 

 どう考えてもここの大人は歳を重ねると口が悪くなるらしい。論理展開もイマイチ追えないし、それに確かに頭の悪い自分だとこれくらいの正解を引き当てることくらいしか出来ないのだという自覚もある。

 だが、

 

「―――――――来るか」

 

 画灯と呼ばれた初老の男が左の袂に右の拳を仕舞い、それを構えとする。そしてその袂にあるべき左腕は存在しなかった。

 彼は隻腕だった。

 

「右手一本で相手してやるよ!かかってこい!」

「もともと無いやろジジイが!」

 

 悪態に応えるように突如、空間が破裂した。

 それは刹那の眼前で起こり、しかし、

 

「――――――――やられんわ!」

 

 顎の前でクロスした腕は、それを弾いた。

 

「よーやく何処狙ってんのか分かってきたってかポンコツ頭!」

 

 哄笑し、口許が釣り上がる。

 

 ……さて、コイツ。どこまで分かってんだろうな。

 

 ガトウはそれを確かめるべく、

 

「じゃあ――――――――もう十発喰らっとけ!」

 

 十度試した。

 

 

 ●

 

「屋根を行けば早いことに気付いて一ヶ月……俺はこの屋根ランニングで無遅刻を取るんや!」

「いや、早起きすれば屋根走ることもないのになぁ」

「出来ん相談すな!」

「いや……君達若いんだから早寝早起きしてくれよ」

 

 彼我の距離を15mに詰めた二人。タカミチは体勢を半身、スラックスのポケットに両の拳を仕舞って、それを構えとする。その一秒の後に、

 

「――――――――見切ったぁ!」

 

 小太郎が“瞬動”の逆噴射で急停止すると、前傾した体を起こしてすぐに半身で構え、間髪入れず中空に向けて散打。何もない宙空、振り回した拳と空気の間に何らかの力が干渉し、それが快音となって響く。

 狙うように両拳を一頻り振り回した小太郎は、その後数歩を走ると一瞬膝を折り、大きく跳躍する。

 小太郎はタカミチの頭上を超えるように自身を放物線に乗せた。地面となった屋根を削らないよう細心の力加減で、その身を空中へと投げ出したのだ。

 

 

 ……で、どうするのかな、この後。

 

 若者の挑戦に薄っすらと微笑みが浮かぶが、それでも相手の行動を見逃すタカミチではない。

 後ずさるように数歩を踏みながら、自身の適性なレンジに小太郎を収めようとする。

 数歩の後進の中で考えることは、

 

 ……空中で出来ることは確かに色々ある。

 

 中空を足場として蹴って移動する、”虚空瞬動”が出来るなら、という大前提はあるが、小太郎は実際にそれが可能な程度には手練ている。だが、空中に出た所でタカミチの攻撃レンジ内に居ることは変わりない。ここから先を、つまりタカミチの背後以降を望むならば逃走という形の突破以外にはない。自身の総合的力量から言って、打倒という形での突破は不可能だ。それがわからない小太郎ではないのだし、そしてその期待を裏切るタカミチでもない。

 

 ……僕も、まぁ歳を”余計に”重ねているのだし。

 

 己の力には自信がある。その自信のために、多くを擲った。

 だからこそ、タカミチはそれに即応し、

 

「全く、若いってのは進歩していくってことなんだなぁ」

 

 ポケットに仕舞った拳で一瞬の残像を作る。

 拳の質量を、不可視の速度まで加速させ、

 

「無音拳に真っ向から向かう、全く本当に若いってものだ」

 

 対空射撃のような空気の打撃を行った。

 だがそれを、

 

「そこと――――――――」

 

 中空で前のめりになった体を起こすと、右足を宙に”引っ掛け”、

 

「そこと――――――――」

 

 次いで左側に左足を振り上げて踏み、体を押し上げ、

 

「そこと――――――――」

 

 右膝は曲がっている。そして、その右足が更に空中の見えない何か、”足がかり”らしきものを足裏で捉えて、

 

「そこか――――――――!」

 

 瞬間移動に近い速度での大跳躍で、小太郎は無音拳のレンジ外へと飛翔する。

 

 ……回避、ではないか!

 

 タカミチは一瞬の驚きと共にその上昇を見送る。”この”無音拳では届かない。もはや有効な打撃力では狙えない距離だ。

 この原理は理解できる。

 拳によって打ち出した空気弾を足がかりにして、”虚空瞬動”ではなく純粋な”瞬動”で上昇していったのだ。

 しかし、

 

「まさか、見えているのかい!?」

「――――――――俺は、鼻が効くんや!」

 

 それでタカミチは小太郎の”種族的特性”に思い至り、

 

「向かってくる気圧を嗅ぎ分けたか……!」

「ご名答!」

 

 鋭い放物線上、滞空状態に入った小太郎を見上げながら、タカミチは考える。

 

 ……無音拳は空気を打撃して押し出す空気砲。だが、その空気の流れを読めるとするならば……!

 

 否、読んだからこそ、どこの空気が”濃くなっている”のかが着弾より先に察知できる。そして”濃くなった空気”は物理的衝撃を与えることが可能な程の圧縮空気だ。足場としては確かに申し分ない。

 

 ……全く。若者を見守るってのは、面白い仕事だよな。

 

 教師に身を窶している現状だが、それに不満はない。それを自分のバックグラウンドにしてきたという自覚もある。面白い職業だと思う。苦労に余りある、見るということの喜び。それが教師だと、タカミチは思う。だからこそ、彼女の”先生”にもなっているのだと。そして、それが今日を以て過去形になっていくことが、少し歯痒い。

 

 上空に見える小太郎は次に”虚空瞬動”。滞空状態から一気に弾丸軌道へと己の身を進める。無論、こちらの直上など通り過ぎている。事実上、防衛戦は失敗。

 ”タネ”が分かってガードが選択できるようになるまで二週間。空気弾に一度でも拳を合わせられるようになるまで十日。そして、全弾を撃ち落とし、その上で利用まで至ったのが今日。

 

 加速度的な成長は、若者の特権だ。そう思う。才なき自身がそういう道筋を辿ったならば、才ある若者が追う速さは想像を越えて余りある。

 

 ……こんなんじゃ、すぐに追い越されるなぁ。

 

 目を伏せて嘆息するタカミチだが、

 

「あいたぁ!あたたたた!この、クソ、ええい、あいた!」

 

 反対側の屋根上では、突破の阻止が行われていた。

 空気弾に真っ向から飛び込もうとして、全く進まない刹那が居た。

 顎は守っているものの、全身の至る所を空気に殴打されている。

 ガトウが叫ぶ。

 

「おいタカミチ!通してどうすんだよこの馬鹿!こっちはアホの嬢ちゃんをずっとフルボッコなんだよ!」

 

 ……なんで、姉はこう、なんだ、その、成長がないなぁ。

 

 弟の方とは大違いだ。タネが分かるまで二週間。これは弟が気付いた時と同等だが、おそらくは教えてもらったからだろう。だからこちらはそれ以上の成長がない。完全に頭脳は弟頼みだ。ガードを固めて突破することしか頭が働いていないらしい。だから、

 

「この、アホかお前!はぁ、いい加減、ひぃ、倒れろ!」

「ジジイが体力勝負で若モンに勝てるかぁ!」

「時間との勝負はどうしたあ――――――――!?」

 

 もはや力任せに腕を振るうだけになっているガトウだが、それでも攻撃力そのものは減じていない。残像もへったくれもなく、既に腕の動き一つ一つも何とか目で追える程に遅くなっても、それでも、だ。

 

「おいタカミチ!助けろ!てかコイツを叩き落とせ!」

「いやぁ、僕はもう一本取られましたしねぇ。ここで残った方を袋叩きってのも、なんだか大人気ないかなぁと」

「どうでもいいからこの馬鹿を止めさせろ!」

「じゃあ”大尉”を呼べばいいんですよ。携帯、持ってますよね?」

「左手があれば考えたんだけどな!?」

「仕方ないですねぇ」

 

 師匠の後生の頼みとあっては聞き捨てならないと思ったのか、微笑みながら上着の左ポケットに手を入れ、

 

「あれ?」

 

 気付いていなかったが、手で持つと分かる。携帯電話は確かに振動していた。

 それを手に取り、画面を見ると、

 

「掛かってきてるじゃないか――――――――もしもし?」

 

 

 ●

 

 一人の黒い髪の男が、校舎にほど近い建物、その屋根の上に佇んで電話を耳に宛てている。

 服装は黒いチェスターコート、内はブラックスーツに暗い灰色のカッターシャツ。ラフに締められたネクタイも黒で、もはや喪服そのものの装いだ。そんな男が悠然した佇まいでコートの裾を風に靡かせ、右手には黒革張りの大きなハードケースを提げて立っている。

 

 顔立ちは、良いか悪いかで言えば良い。そうあるべき表情をすれば、精悍な男に見えるだろう。だが今は黒縁のウェリントングラスを掛け、目は細めて垂れ下げており、口角もほどほどに緩めている。『私は人畜無害です』と喧伝せんばかりの、無個性でステレオタイプな”良い人”の顔つきだ。乱れた髪型も、整っていない髭も不精そのもので、差し詰め”良い人で駄目人間”だ。

 

 そんな男が電話に話しかける。

 

「やぁ、おはよう。こういう時に僕の出番なのかなあと思ってね」

『じゃあ話が早いついでに作業も手早くお願いします。それじゃあ、頼みますよ』

「うん、それじゃまた後で。――――――――さて、雉撃ちと行ってみようか」

 

 携帯電話を右の尻ポケットに仕舞うと、彼は右膝を足場に付けて屈み、ハードケースを下ろす。そして二つの留め金を手早く外し、開く。

 赤いを内に張った様は高級楽器のようだが、中身は全く程遠い。

 異形の銃。一言で言うならばそれこそが相応しい。引き金より弾倉が後部に存在する、所謂ブルパップ方式の構造。そしてそれは弾雨を撒き散らすための機関銃ではなく、

 

「やれやれ……こいつ短いのに重いから、取り回しが良いんだか悪いんだか。……よっと」

 

 抱きかかえるようにしてケースから取り出すと、銃身の半ばに付いた銃架を立て、地面に置く。銃身を支えるのではなく、銃身を吊り下げるような形。それもまた異例の構造である。

 すぐに男自身も屋根上に伏せり、スコープを覗いて目標を探し始める。

 

「うん。……そこだな」

 

 これは、狙撃銃だった。セミオートマチック・スナイパーライフル。絶えた血筋の一つ。

 ――――――――ワルサー・WA2000。

 

 スコープを通して見る光景は、現在も空気弾の雨霰を耐え凌ぐ、刹那という少女の姿だ。スコープの中心は既に少女の体を捉えている。だが、

 

「うーん……どこを狙ったものか」

 

 まだ撃たない。狙いを微細に揺らしながら独りごちるその表情は、愉しげだ。つまり何処を狙うか迷うことは、自身の腕への自信の表れだった。

 

 ……顔は良くないなあー。同じ年頃の娘を持つ身として、顔は守りたい。いや、守るべきだろう。

 

 しかしどてっ腹に打ち込むのも寝覚めが宜しくない。女性の腹を狙うのは大変心が痛む。同時にいくら”てかげん”するとは言え下手をすると彼女の幸せな将来を奪う。その可能性は否定しきれない。いくら狙っても外れるときは外れるもの。それが今日でないことを願うくらいならば、そもそも撃たない。

 

「ううーん……でもそろそろ手出ししないと僕も遅刻だなあー」

 

 呑気な声色で、しかし気配を潜める男は一つの答えに行き着く。ああ、と気付きの声を上げると間髪を入れず、

 

「――――――――その中身のない頭なら被害もないか」

 

 最早躊躇わず、頭を狙った。

 

 

 ●

 

 

 狙いは過たず。刹那の後頭部は鈍い速度のゴム弾で殴られ、

 

「のぽれ!?」

 

 奇声を上げつつ、力なくその体は屋根の上、打ち付けられるように倒れた。

 

「はぁー、やれやれ……タカミチ、もう行け。教師が遅刻じゃそれこそ示しが付かんだろうが」

 

 ガトウは煙管の皿を逆さにして、灰を落とすと左の袂にそれを仕舞う。

 だが一息つこうと思ってまた袂を探り、しかし煙草葉を丁度切らしていたことに気付くと、一つため息の後に諦めた。

 それを見てタカミチは、軽いモーションで屋根から屋根を渡り、ガトウの傍に寄る。

 そして箱から一本煙草を滑り出して差し出すと、

 

「どうぞ。……しかし、流石は”大尉”ですね」

 

 ガトウが煙草を咥えると、そこにタカミチは朗らかな笑みを見せながらジッポーライターで火を点ける。

 そして自身も一本取り出して点火、口一杯に煙を吸い込む。十数メートルほど離れたところに倒れ伏した教え子を見ると、煙の味と笑みに苦味が走る。

 

「はぁ……うるせえ、”少佐”の俺にヒラが話しかけるな」

「お二人本当にガンダム好きですよねぇ」

 

 ガトウは紫煙のため息を吐いて青い空を見上げると、

 

「0083は声がいいよな、声が」

「あー、ムサい男三人集まって何故かガンダム鑑賞会になったあの時のやつですね。”日本で暮らすんならとりあえず宇宙世紀から時系列順に制覇だな”とか言って初代から見始めて0083にドハマリ、それでお終いでしたっけ。しかし妻も子供もほっぽり出してガンダムって、どうかと思いましたけど」

「ガンダム舐めてんのか」

「そこでマジギレするあたりホントお好きですよね。というか、ナリから言えばガトウさんが大尉ですけど」

「そこは言わん約束だ、名前が優先なんだよ名前が」

 

 乾いた音がもう一つ、遠くで微かに鳴る。

 すると、

 

「ぬおっ!?」

 

 情けない声を上げた少年が、力を失った放物線になって屋根へ向かっていく。落下軌道だ。

 

「……良かったな。もう一人の馬鹿もここで脱落、か」

「まぁ、彼らにとってはまた一つ壁が増えただけですよ。超えるべき壁が、ね」

「壁が増えるほどジャンプ力の上がるバカには良いハンデだ。まぁそれはともかく。お前、教師が楽しいだろ?今日でそれも仕事納めって感じがしてる。そうだな?」  

 

 その言葉に、タカミチは意表を突かれたような表情になり、

 

「師匠、やっぱり知ってたんですか?」

「おや、図星だったか。……まぁ昔取った杵柄と言うか、人の機微には敏い方だしな。なによりお前は長年見てきた馬鹿弟子だぞ?事情は俺も全く知らされていないが……分かるもんは分かっちまうもんな」

 

 流し目でタカミチを見て苦笑するガトウ。

 それに少し呆気に取られるタカミチだが、表情はすぐに柔らかいモノになった。口許が上がり、眦は下がって。懐かしむ、と言う表情で。

 

「やっぱり、師匠には敵いませんね」

「伊達に年食ってないってことだ、タカミチ。単純に水増ししただけのお前とはワケが違うぜ」

「いや、全くです……」

 

 咥えた煙草を右手の指に挟んで離し、深呼吸。薄い色になった煙が散っていくのを見つめながらタカミチは、

 

「本当に、全く。その通りですね……こうして彼らの壁役として成長を見守ってきましたけれど。確かに、人を育てるというのは楽しかったです。正直、惜しいかと言われると、否定は出来ません」

「そうか。お前も本当に手のかかる弟子だったなぁ。でも今思うと――――――――」

 

 煙草を燻らせながら、ガトウは遠くを見る。太陽を見上げて、少し眩そうな笑みで表情が綻ぶ。

 

「……やっぱ、楽しいと思っちまうんだよなぁ」

「楽しかった、その時はそう思えなくても、過去はいつだって……眩しいです」

「いいや」

 

 否定は、柔らかい抑揚で放たれて、

 

「きっと、今だって十分に眩しいのさ。それで、これからもな」

 

 そう言って、黒髪の少年の落下を見届けた。

 ……人の群れに落ちていく少年の。

 

 タカミチが落下地点を見極めてすぐ、

 

「……大尉、やりすぎましたね?」

「屋根壊すよりは良いだろ。死なねぇんだから、あれで」

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。