そうあれかしと望むなら、私は皆の太陽であろう。
「───お兄ちゃん?」
妹の呼ぶ声で、桐ヶ谷和人は目を覚ました。
「スグ……」
「大丈夫?だいぶ汗かいてたけど……」
和人が身体を起こすと、枕とシーツはぐっしょりと湿っていた。身体はまだ火照っており、額を伝う汗が少しずつだが熱を逃がしてくれている。確かにこの様子だと、彼女が心配するのも無理はない。
ペインアブソーバの影響で、現実世界に戻った時に何らかの後遺症が現れるかもしれないという事だったが、軽く身体を動かした限り、幸運にもそういう類いの障害は残らなかった様だ。
「……ああ。俺は大丈夫だ」
和人は寄り添う直葉の頭を撫で、ゆっくりと立ち上がった。そんな彼を、直葉はどこか寂しげな表情で見つめる。
「───行くの?今から?」
「うん。迎えに行ってあげなくちゃ」
「……そっか」
余計な言葉は要らなかった。結城明日奈の帰還。それを以て、桐ヶ谷和人のSAO事件は終結する。兄がそれを何よりも、誰よりも待ち望んでいたと、直葉は理解していたから。
「───いってらっしゃい」
部屋を出る和人を、直葉は笑顔で見送る。
「……ああ!」
和人も、喜びに満ち溢れた笑顔でそれに応えた。そして数秒と経たぬ内に、玄関の戸が開く音、自転車を走らせる音が鳴る。
「……全く、慌ただしいんだから」
主がいなくなった部屋で、直葉はポツリと呟く。和人がそうだった様に、数年ぶりに兄の部屋に入った彼女は、すっかり様変わりしたその場所で、時の流れと和人の変化に想いを馳せていた。
始まりは数年前、突如和人の態度が余所余所しくなった事だ。直葉には、それが何故かどうしても分からなかったのだが、事情を知った今ならば理解出来る。あの頃の彼は、自分の居場所を求めていたのだろう。当たり前だ。家族に直接的な血の繋がりが無いと知れば、彼女も同じ行動を取ったに違いない。しかしその頃の直葉はそんな事情は知る由も無く、ただ状況に流された結果、遂には事務的な最低限の会話しか交わさない状態にまで悪化していた。
そんな時、事件は起きた。史上最悪とも言われるネットワーク犯罪、SAO事件に和人が巻き込まれたのだ。
その間の彼について、詳しい事は直葉は知らない。ただ少なくとも、あの事件は和人にとって不幸ばかりではなかった、という事だけは確かだ。何故ならあの事件を経て、それまで距離を置く様に築かれていた心の壁が、他人を拒絶する様な刺々しさが消えていたから。
恵まれていたのだろう。仲間も、友も、そして恋人にも。それは、ALOで出会ったリュウをはじめとする数々の仲間たち、そしてあの病室で眠っていた明日奈を見てきた彼女には容易に想像出来た。
(───ああ、そっか。羨ましかったんだ、あたし)
ずっと理解出来なかった、自分の気持ち。手の届かない世界で、知らない繋がりが出来ていて、いつの間にか知らない兄に生まれ変わっていた。それが堪らなく寂しくて、そして羨ましかった。
ALOという世界に入る時、兄の味わった世界を体験する等と大層な御託を並べてはみたものの、蓋を開けてみればそんな単純な理由でしかなかったのだ。
(入ってよかったのかな?お兄ちゃん達の仲間に)
───そいつは他人が決める事じゃなかろうさ
ふと、リュウの声が聞こえた気がした。ここに彼がいないのは明らかではあるが、しかし何故か背中を押して貰った様な清々しい気持ちだった。
「……そっか。そうだよね」
そう呟き、おもむろに立ち上がる直葉。仄かに緩む表情は、迷いを振り切った彼女の心をそのまま映し出していた。
「さて、と」
暫くして、彼女も部屋を後にした。向かう先は台所、真っ先に冷蔵庫の中を確認する。兄の好物を思い浮かべながら、直葉は着々と今晩の献立を組み上げていった。
「今日は豪華にしてあげないとね……冷めない内に帰ってきてよ?」
きっとこれから、全く新しい毎日が始まる。その夜明けに心が躍る。
直葉は鼻唄を歌いながら、夕飯の下拵えに取り掛かった。
「おのれぇ……どこまでも僕を虚仮にして……」
桐ヶ谷和人が向かった病院、その駐車場にて。須郷伸之は、ぶつぶつと怨み言を呟いていた。
須郷は目を覚ましてすぐに、キリト達を閉じ込めたあの空間へ再ログインしようとした。しかしGMである筈のアカウント《妖精王オベイロン》は何故か凍結されており、予備のアカウントを用意していなかった須郷は実質的にALOから締め出される事になってしまった。
さらに念の為自分のPCを調べてみた所、実験データの入った領域に外部からアクセスされた形跡があった。恐らく彼が目を離している内に、証拠としてコピーされてしまったに違いない。警察にリークされるのは時間の問題だった。
ならばせめて、桐ヶ谷和人にこの憎悪をぶつけておきたかった。結城明日奈を利用してレクトのトップに立つという、美しい計画を邪魔した罰を。そして己をここまで追い落とした復讐を。あの王子様を気取った顔を、とことん苦しめてやらねば気が済まなかった。
「さぁ早く来い、桐ヶ谷和人。あれ程彼女に入れ込んでいるのなら、ここに真っ先に来る筈だろう?」
歪んだ笑顔が向ける視線の先には、二つに折り畳まれたナイフがあった。その小さな刃には《エリュシデータ》や《エクスキャリバー》の様な絶大な威力は無いが、代わりに"質量"という唯一無二の武器がある。それは仮想世界と違い、一撃で容易く人を傷付け、時に命さえ奪ってしまう。
いかに『黒の剣士』とて、現実世界においてはただの非力な学生。仮想世界で手に余るなら、こちらで直接痛め付けてやればいい。今までは"立場"というモノのために目立つ事は避けてきたが、それもじきに失う。ならば最早形振り構う必要は無い。徹底的に嬲って、二度と逆らえない様にしてやる。
そんな狂気を抱え、須郷は正面入口からは見えない車陰に身を潜めた。
(……それにしても)
しかし、彼には引っ掛かっている事があった。実験データにアクセスされた際、須郷はそのアクセス元も突き止めた。だが分かったのは、それが「劉崎ワールド・クリエイション」にあるPCだったという事のみ。個人を特定出来る情報は一切無かった。
なのに、それ以来ずっと悪寒が止まらない。まるで本能が、これ以上はやめておけと囁いている様に。この得体の知れぬ不安は何なのか。この身体の震えは何なのか。須郷には不思議でならなかった。
「……劉崎……《リュウ》……まさか、ね。ハハッ」
まさか、日本を代表する工業系大企業のトップがあんな筋肉オバケな筈は無い。そもそもそんな人物がゲームにうつつを抜かしている訳が無い。そう高を括り、須郷はその思考を頭から取り除く。
だが須郷は忘れていた。
それを思い出す事も無いまま、須郷は和人の到着を待つ。
するとその時。
「そこのお兄さん、ちょーっとよろしゅうおまんか?」
不意に、背後から声を掛けられた。大阪の街を想起させるフランクな口調の関西弁、少なくとも思い当たる人物は須郷には一人もいない。
ここで何も答えなければ間違いなく怪しまれる。なので須郷はさりげなくナイフをポケットに隠し、先程の狂気に満ちた表情はおくびにも出さず、極めて爽やかな笑顔───あらゆる人物から本性を隠し通して来た、営業スマイルで応答した。
「……何か、御用でしょうか?」
話しかけてきたのは、茶髪で黒いスーツを着た、少々小柄な強面の男性。もう少し背丈があれば威厳の一つも出たのだろうが、大抵の人間と対等かそれ以下の目線という彼は、言うなれば「小鬼」という言葉似合いだった。
「それがな?この辺りに不審者がおるーって話が出とんねん」
「なんと、それは物騒な」
「せやろ?そんでな、人相は分かっとるから、それによう似た奴見たかどうか聞いて回ってんねん」
「そうなんですか。しかし生憎私はこちらに引っ越して来たばかりでして、そちらにご協力出来るとはとても……」
こういう手合いを撒くには、知らぬ存ぜぬ我関せずを貫くに限る。早々に話を終わらせて帰らせれば御の字だ。しかしそこは関西人、しぶとく留まり質問を続けてくる。
「そう言わんと、知ってるか知らんかだけでええんや。頼むわ!」
須郷は心の中でため息を吐いた。これだからこういうのは面倒なんだ。それでも、断り続けた結果コイツがここに居続けるのもまずいので、ここは素直に答えてやる事にした。
「よっしゃ、助かるわ!ほんならまず、性別が男でな……」
須郷はまたもため息を吐いた。おいおい、写真や人相書きは用意していないのか。ただ特徴だけ並べられても、それが本当にソイツなのか分からないじゃないか。
そんな考えは一切表に出さず、須郷は目の前の男の話を聞き流していた。
「あと髪の毛黒うて、そんで眼鏡掛けとって、こう、ひょろっと細長くて……」
しかし須郷は、ずっと営業スマイルだった筈のその表情を、みるみる蒼くしていった。それもそうだ。何故ならそれは、その特徴というのが───
「そんで背丈が……あ、そうそう。ちょうど兄さん位の感じやったわ」
須郷自身の容姿に、ピタリと一致していたからだ。
「あらぁ?よう見たら兄さんそっくりやのぉ?」
対して男は笑顔を崩さず、須郷の顔を覗き込んでいた。須郷は動揺を悟られまいと、その目線を逸らす。
「き、気のせいでしょう?そんな曖昧な特徴では、一致する人物が何人かいても不思議ではないですよ」
「ほならその右手も出して貰おか」
「……!?」
須郷はハッとした。先程ナイフを隠した右手、それが未だポケットに突っ込まれたままだったのだ。
「そげに大事で見られとうないモンやったら、こっちも確めへん訳にはいかんのやわ」
どうする?刹那の内に、彼は逡巡した。相手がそこに集中している以上、何も無いという誤魔化しは通用しない。寧ろ更に怪しまれる恐れがある。かと言って、黙り込んでしまえばそれこそ自白した様なものだ。
斯くなる上は───
「……ぉぉぉおおおっ!」
須郷は素早くナイフを抜き放ち、目の前の男目掛けて突進した。下手に騒がれて逃げ道を塞がれるより、ここで口を封じてしまった方が手っ取り早く済む。今まで何百という人間の脳を弄ってきたのだ、今更人命の一つや二つ奪う事に何ら躊躇いは無い。
(恨むなよ、下手に勘の良いお前が悪いんだからな)
心の中で吐き捨てながら、彼はナイフを突き出した。その刃先は、吸い込まれる様に男の胸元へと吸い込まれていく───
(───何故だ?)
(
ナイフを突き出した筈の須郷。しかし今、彼の目には未だ雪が残る地面が映っていた。どうしてそうなったかと言われても、分からないの一言に尽きた。避けられたとか、腕を掴まれたとかを認識する以前に、そこに至るまでの瞬間に一切身に覚えが無かったのだ。
まるで過程をすっ飛ばし、結果だけを残された様だった。不気味、などという次元はとうに越えている。自分の身に起きた超常現象に、須郷は激しく困惑した。
故に、気付かなかった。
「……?」
ナイフを持っていた右腕、及び肩が既に固められていた事に。
「!? がっ……あ"あ"あ"あ"っ!?」
遅れてやってくる激痛、歯を喰い縛る余裕すら無かった須郷は思わず絶叫し、力が入らなくなった右手はナイフを取りこぼした。
その絶叫の隙間から、先程の男の声が漏れ聞こえてくる。
「スマンけど、ちっとばかし寝といて貰うわ」
「あ"っ………」
そして容赦無く、彼の急所に手刀が直撃する。鍛練の類いとは無縁だった須郷の意識は、瞬く間に刈り取られていった。
まだ少し雲が覆う夜空の下、気を失った須郷の隣で、男は胸ポケットから携帯電話を取り出した。アドレス帳を開き、目的の電話番号に素早く辿り着く。
そこに登録されていたのは、《劉崎 巧磨》という名前。その名を知る者には、男が只者ではないと理解するには充分過ぎる名前だった。
「あー、もしもーし?巧磨はん?ワイや。
『おう、首尾は?』
「上々や。あんさんの言うてた通り、ちっこい武器も持っとったで」
『ご苦労さん、すぐに警察がそっちに向かう。後始末も任せたぞ』
「りょーかい」
『これからも宜しく頼むぜ、
「こちらこそ、
彼は笑顔を漏らしながら、電話を切った。そして、気絶した須郷を正面入口からは目立たない場所へと移動させる。落としたナイフは、自分の指紋が付かない様に右手に持たせておく。
「ま、ざっとこんなもんやろ」
するとその時、駐輪場の方から物音がした。タイミング的に、恐らく桐ヶ谷和人が到着したと見て間違いないだろう。それを聞いた彼は、和人が来る前にそそくさとその場を後にした。
「……今は、顔合わす訳にはいかんのや」
足音一つ立てず裏口から立ち去る男は、どこか遠い目をしながらポツリと呟く。
嘗て《キバオウ》と呼ばれた男、
彼もまた咎を背負いし人物なのだが、それが語られるのはまた別のお話。
To be continued…
犯した罪は消えはしない。ならばいっそ、許されずとも構わない。それが報いという物ならば。
朝日が昇ると言うのなら、私は誰かの影でいよう。
私に課された罰が、誰かの救いでありますように。