クィレルの部屋は何とも簡素なものだった。必要最低限の家具の中に古ぼけた本や汚れた空の瓶が所々に見える。
クィレルはユニシアを部屋に招くと別の部屋から椅子を持ってきてユニシアに座るように勧めた。普段は一脚しか用意されていないのだろう。テーブルに向かい合わせに置かれた二脚の椅子は別の種類のものだった。
「…その、失礼します」
周りをきょろきょろと落ち着かない様子で椅子に座ったユニシアはクィレルが淹れてくれた湯気の立つ温かな珈琲に視線を移した。
その様子に小さく口元を緩め、クィレルも向かいに座る。
「珈琲は苦手じゃないかい?砂糖も、ミルクもあるからね」
先ほどの様子に少なからず恐怖を感じてはいたが、湯気の立つそれと彼の言葉にユニシアは控えめに笑みを浮かべた。
「…ドレナード、君は…ああいう事は良くあるのかい?」
「ああいう事?」
「肩をぶつけられて…、酷い言葉を受けていた。…よく、あるのかい」
クィレルはカップの中で微かに揺れる液体をぼんやりと見つめながらユニシアに問いかける。黒い液体にはクィレル自身の顔が映されていた。
「……私って、鈍くさいから…仕方ないんです」
無理に口角を上げ、猫背のまま珈琲に口をつけるとクィレルは無意識にテーブルの端を軽く指で叩いた。
「どうして?どうして仕方ないと思う?悪いのは君じゃない」
「…え、っと…」
「悪いのは、君の周りの奴らだろう?君を軽んじて、見下している。…悔しくないのかい?悲しくはないのかい?」
椅子から腰を上げ、ユニシアの顔にぐっと詰めよる。
クィレルは早く頷けと言わんばかりに彼女の瞳を見つめては喉が渇くのか何度も唾を飲み込んでいた。
「…先生も、そういう事があったんですか?」
鬼気迫る瞳に圧されながらもユニシアは小さな声で返した。
彼女からそう返されると思っていなかったのかクィレルは「え?」と動揺した様に声を上擦らせる。
「上手く、いかないものですよね。友達をあっという間に作れる人や、運動が得意な人。勉強は…少しだけ得意だけど一番にはなれないし…みんな凄いなって思います」
その声に妬みは感じられない。むしろ羨望、手に届かないものを話しているような穏やかなものだった。
「……悔しいし、悲しいけど…こんな私にも友人がいるんです。気が強くて、ちょっと口が悪いけど…とっても素敵な友人です。嬉しい事や悲しい事を話せる友達。…先生は?友達でなくても、そういう人はいますか?」
大人しい顔をして、思いをそのままぶつけてくる瞳にクィレルは更に動揺した。
恐ろしい問いかけだ。そんな対等な立場でいてくれる人がお前にはいるのか、その問いかけにクィレルは答えられなかった。押し黙り、じわりと手汗が滲むのを感じていた。
「……そんな人に巡り合うのって、難しいですよね。だから…」
「そんな事、箱を開ければ関係ない!」
テーブルが揺れ、カップから珈琲が零れた。
クィレルは顔を赤くさせ、大きな音を立てて椅子から立ちあがったと思うと、ユニシアの方へとまわり椅子に座る彼女を見下ろした。
「先生、どうして…怒っているんですか?ごめんなさい、えっと…」
ユニシアは目を見開いたまま見上げている。
そんな怯えた様な呆けた表情に苛立ちを感じ、クィレルはユニシアの腕を掴んだ。
「……そうしたら、世界が変わるんだ。…私も君も、救われる…一緒に……」
「…箱……?」
一緒に救われる、という言葉が頭に残りながらもユニシアは先ほど聞いた言葉を聞き返した。箱とはハーマイオニーと話していた箱の事ではないだろうか、しかし箱を開けさせようとしているのは確かクィレルではなかったはずだ。
「二人で、…救われたいとは思わないか?」
ここでやっと、ユニシアは以前に感じていた違和感の正体に気が付いた。クィレルはこの部屋に入ってから一度も言葉をどもったり自信なさげにはしていない。どちらが本当の彼の姿なのだろうと無意識に眉を寄せる。
「…確かに、さっきみたいな事をされて良い気分なわけない。でも…」
「でも、何だ?私にはお前と違って友人がいる、か?そんな事をさも偉そうに語るな!その友人とやらがいて何になる?!自分の欲しいものをくれるのか?!違うだろう!それに心の奥では、お前を馬鹿にしているに違いない!」
握られた腕にクィレルの爪が食い込む。ユニシアは痛みを我慢しながら小さく首を横に振った。
「それでも良い、…それでも一緒にいてくれるなんて凄く嬉しい事だと思いませんか」
「……呆れた、…底なしの……馬鹿じゃないか」
ふっと腕にかけられた力が抜け、クィレルはふらふらと壁にもたれかかった。ユニシアは心配そうに見つめながら自分も椅子から腰を上げた。
「先生の欲しいものって、何でしょう」
「……質問責めだな。君は?まさか無欲じゃないだろう」
「私は…、…年末に一緒にいてくれる人が欲しいです」
「何だそれは」
「ニイナは家に帰っちゃうから、ホグワーツで一緒にいてくれる人がいたらもう何にも言いません」
「……謙虚だな」
「ホグワーツに残る人、あんまり多くないんです。それに私、友達あんまりいないから」
「……私も、帰る予定はない」
「…本当ですか?なら一緒に…いられたら素敵ですね」
ユニシアに怯えた様子はない。クィレルを穏やかに見つめていた。そんな様子に彼はどこか他人ごとの様に頷いた。
「…いつもの先生は、…本物じゃないんですね…?」
「何の事…、ああ…なるほど。そうだよ、まあ…半分はね」
「さっき言っていた箱って何の事ですか?」
「…今そんな事を聞き返して、自分の身が危ないとは思わないのか?…聞いた事はあるだろうに」
薄く笑みを浮かべ、自分を見つめるユニシアを見つめ返す。
先ほどの激昂はすっかり消え失せた様だった。
「災厄が閉じ込められた箱、ですか?あれって本当に…」
「あれは、おとぎ話なんかじゃない。閉じ込めた箱を開ければ本当に災厄が降りかかる。闇の魔法使いたちは皆それを、そして開けられる者を探している。自分達の時代にするために」
「……先生は、悪い魔法使いなんですか?」
「……いいや、弱い魔法使いなんだ。君の言葉を聞いて改めて実感したよ。でも、これからは違う。そうだろう?」
クィレルはユニシアにゆっくりと近付き、するりと頭を撫でた。
「そう、これからは…」
クィレルが言葉を続ける前に扉がノックされ、思わず口を噤む。クィレルはユニシアに奥へ行っている様にだけ告げると扉の方へ消えて行ってしまう。ユニシアは仕方なくその言葉通りにしようとするも、「待て!」と慌てた様なクィレルの声に肩を揺らして反射的に古びたクローゼットの中へ隠れた。扉の隙間から男が入ってきたのが分かった。
「何を慌てている?我輩に見せたくないものでもあるのかね」
「ち、違います…けれど、その…」
「カップが二つ……誰を隠している?」
「誰も……隠して、など…」
クィレルが壁際まで追い詰められている。迫っているのは他でもないスネイプだった。ユニシアはその様子を見ながら心臓が跳ねあがるのが分かった。
「誰を駒に利用するつもりだ。……余計な事はしないで頂きたい」
スネイプはクィレルの首元に杖をぐっと押し当てている。これではまるで脅しではないかとユニシアの表情が強張る。
「やはり貴様は使えんな。…これが最後だ、どちらにつくかはっきりしろ。返答次第では勿論…貴様の息が止まる事になるのだがな」
嫌に口角を上げてスネイプはそう言った。ユニシアがそれを見て誰が悪人なのかと決めるには十分過ぎる言葉になった。彼は、クィレルは脅されている。スネイプに脅されていたのだ。二人は繋がっている。
「…私は、…そんな言葉では揺らがないぞ。もう、…な」
「…どういう意味だ」
ユニシアはそっと自分の杖を取り出す。何かあれば自分も隠れているだけでは済まないかもしれない、そう思いながら微かに震える指先を見つめた。
そんな中、思考をまとめようと唇をきゅっと結ぶ。スネイプの言葉は明らかな脅しだ。しかし本当に彼が災厄と呼ばれる箱を開けようとしているのだろうか。クィレルに命じている?ユニシア自身が入学してからもそう考えていたのだろうかと、考えれば考える程に理解が追いつかない。瞼をぎゅっと閉じて彼女は考える事だけに集中した。
すると暗闇の中でニイナの言葉がふいに反芻される。間違えていれば無意味だと。その言葉は冷たいが事実だ。試験でもそう、いくら勉強をしても試験当日にその成果を出せなければ無意味だ。次に繋がる、そんな慰めでは済ませたくなかった。そんないつかも分からない次のために努力をしてきたわけではないのだから。そんな感情を静かに渦巻かせ、彼女はゆっくりと瞼を開けた。
「君だって分かるだろう?見返してやりたい、そんな気持ちを…」
「……くだらんな」
スネイプはクィレルの言葉を一蹴し、首を掴んでそのまま壁へと勢い良く押し付けた。クィレルは噎せながらもうっすらと笑みを浮かべていた。
やがて会話がユニシアの耳に聞こえなくなったと思うと、クローゼットの扉がゆっくりと開かれた。ユニシアは光に目を細めながら目の前にいるクィレルを見つめた。
「…怖い思いをさせてしまったかな。もう彼はいないよ、出ておいで」
「クィレル先生…」
「おや、杖まで出していたのか」
握りしめられた杖を見てクィレルが小さく笑う。ユニシアはクローゼットから出ると杖をしまい、微かに赤くなった首元を見て口を開いた。
「スネイプ先生に、脅されているんですか…?」
「うん?……どう思う?」
「私は…、…先生は、そんなに悪い人じゃないと…思います」
「スネイプが?」
「いえ、二人とも」
からかう様に言ったクィレルの表情がユニシアのはっきりと放たれた言葉で口元がひくついたのが分かった。
ユニシアは自信なさげな表情はそのまま、しかし言葉ははっきりとしていた。
「悪い人じゃないんですよね?」
「……誰が」
「二人とも」
呆れた、とクィレルが小さく言った。しかしその表情は穏やかなものだ。
「このままでも、良いのかもしれないな」
「このまま?今度は何の話ですか?」
「…未来の話だよ」
クィレルはそう言って今度は優しくユニシアの手を取り手のひらを向けさせた。何をされるのかと何度も瞬きを繰り返してはいるものの振り払う事はしなかった。やがて手のひらに唇が落とされ、呆けた表情でクィレルを見つめる。
「…時間だ、自分の場所へ…お、お帰り」
ユニシアはほんのりと上気する頬を感じながら部屋を出た。
柔らかな感触が思考を阻む。疑いと親しみ、その両方が頭の中をずるずると這いずっている。
言葉に出来ない思いに眉を寄せ、ユニシアは部屋へと戻って行った。
「…おかえり、ユニシア。あんた授業なかったはずよね?散歩でもしてきたの?」
部屋に戻ると先にいたニイナが二段ベットの上から顔を覗かせてきた。
「ニイナ、…相談しても、良い?」
「何よ、改まって。また何かやられたの?良いわよ、誰?やり返してあげる」
「そうじゃないの」
ユニシアは二段ベッドの一段目に腰かけ、ニイナを見上げた。
「災厄の箱の話」
「…嫌よ、そういう架空…、空想の話って好きじゃないの」
「私も空想だって思ってた。でも、違うの。本当に箱はあって、しかも…多分ホグワーツにある」
「やっぱり。誰かに変な事吹き込まれたのね、まあ誰かって決まっているけど」
「え?…誰?」
「どうせあの新入生たちでしょ、良い?いちいちあんな妄想の冒険ごっこなんかに耳を傾けなくて良いの」
そう吐き捨てると、何か言いたげなユニシアに眉を寄せて仕方ないと言わんばかりにニイナは下へ降りて彼女の隣に座った。
「あの一年生の女の子に言われたわよ。“ドレナード先輩はいますか?あの箱の本の事を教えて下さい”ってね」
「グレンジャーが言ったの?」
「名前までは聞いていないわよ。でもあのネクタイの色はグリフィンドールね」
「…何の話だろう、私ちょっと…」
「また変な事に巻き込まれるわよ。人の言葉を信じすぎる、どうせ貧乏くじを引かされるのよ!」
立ちあがろうとしたユニシアにニイナは鋭い口調で言う。ユニシアは眉根を下げてただ見つめ返す事しか出来なかった。
「あの子、スネイプが悪い奴だとか言っていたけど、仮にもあの人教師よ?…あんたも、そう思ってるの?」
ニイナの中の常識という壁はなかなかに厚い。新たに入ってきた新入生たちとは違うのだ。ある程度、その壁は既に固まっている。それはユニシアも同じだった。
「それは、私も違うって思ってる」
「じゃあどうして行くの?」
「……クィレル先生が…」
「え?あの人が何よ。あの人に何か言われたの?」
「違う!あ、いや…ええと」
歯切れの悪いユニシアに、ニイナは心配そうにして首を横に振った。
「何でも良いわ。でも、あんたが傷ついて帰って来るの嫌なのよ」
「ニイナ…」
「私も行く。それで良いでしょう?あの子が変な事言ったら私が言い返してやる。あんたじゃまるめ込まれそうだしね」
そう言って笑うと、ユニシアの瞳がじんわりと涙に覆われやがて雫が落ちる。ユニシアは慌てて目を擦るが、ニイナは「また泣き虫なの?」と言って楽しそうに笑っていた。