奴良組の屋敷は悲壮な空気が流れていた。
つい数時間前、総大将の鯉伴とその息子のリクオが羽衣狐の襲撃を受けながらも帰還した。
帰還したといっても無事にとは言いがたかった。
リクオは無傷であったが、鯉伴の方は深手で手遅れの状態であったのである。
そしてしばらくして鯉伴の心音が消えると同時に、辺りの妖怪達は悲しみに暮れるしかなかった。
ぬらりひょんもそのうちの一人であった。
珱姫の穏やかな最後とは異なり突然襲った喪失になすすべもなく、ただ目の前の鯉伴の死に顔を見ることしかできない。
活気のある彼は今は跡形もなく消えてしまっていた。
今ここには彼と彼の子だった肉体しかない。他に誰かがいたのなら、この空気の中にいることははばかられたに違いない。
そんな時、ふわりと仄かな花の匂いが舞った。
「おいおい、ぬらりひょん。そんな寂しい顔はあんたに似合わないよ。」
いつの間にそこに居たのか、鯉伴の体を挟むようにしてぬらりひょんの目の前には青年が正座をして座っていた。
ぬらりひょんと義兄弟の盃を交わしてから姿は変わらない。ただの人間でないのは確かであるのに、彼は妖怪ではないと言っていた。
実際青年の存在はある意味生死の摂理を超えたところにある。それを知るのは奴良組中で上層のものだけのため、多くの妖怪達にとってとても不思議という言葉が似つかわしい人物であった。
また珱姫と同じく癒しの力を用いて何百年と組を支えてくれたために、奴良組では信頼の幅が広い。
黒と見誤る程に深い赤の瞳、いっそ雪でできているのではと思う程の真っ白な髪と肌。
どこか浮世離れした青年は、名前を白縫という。
「まったくいつから居たんじゃ。」
「ついさっきから。今帰ってきたとこだったから顔のぞかせとこうとしたんだよ。そしたら――」
白縫はぐっと口をひと結びにして押し黙った。
そしたらこの状況だ。
用事が済み本家に帰ってきて、そのいつもとは違い静かな屋敷に違和感は覚えた。それが鯉伴の死が理由であったとは白縫自身相当な衝撃であった。
ぬらりひょんを上回る程の優れた才能を持っている鯉伴が倒れるとは、信じられなかったのである。
ぬらりひょんは白縫の様子からその心情を察した。ぬらりひょんでさえ想像もつかなかことで、こうして柄にもなく沈み込み鯉伴の側を離れることが出来ないでいる。
「……俺は認めない。」
白縫の唸るような一言にぬらりひょんは疑問符を浮かべた。
何を、と問おうとしてはっ、と息を呑む。
白縫の目が鮮やかな赤に染まっていたのだ。
癒しの力を使う時、彼の目は必ず深紅から赤へと変わる。
しかし今はその赤が溶けたかのように目の端を伝う。
まるで泣いているかのようなその様に、ぬらりひょんは言葉が出なかった。
長いこと彼とは親友、また義兄弟としてつるんできたが、この異様な様子は目にした記憶が無い。
「お前……?」
「ぬらりひょん、俺はこの子はここで絶たれるべき命ではないと思うよ。俺は認めない、認めてなるものか。」
あたりを包んでいた花の匂いが濃くなると比例するように、鯉伴の体が鈍い光を放つ。
否、その光は白縫から鯉伴へと流れ込んでいた。
そして青白い筈の鯉伴の顔が徐々に赤味を帯びていく光景に、思わずぬらりひょんは叫んだ。
「白縫!!お前自分を犠牲にするつもりか!?」
以前、白縫は人一人を反魂で呼び戻すのは相当な力と時間が必要だと言っていた。
白縫はその過程を省くことが出来る。しかしそれには白縫自身を代償として捧げなければならないとも聞いている。
ぬらりひょんの声に、白縫は可笑しそうに笑う。
「犠牲?いいやこれは自己満足さ。俺が鯉伴を死なせたくないだけ。そもそも俺は別に死ぬわけじゃない、もう既に一度死んでるんだから。ただこちら側からあちら側に帰るだけなのさ。」
そう言うとふっ、と白縫の顔に不敵な笑みが浮かぶ。
「そうだ、どうせならぬらりひょん。あんたの狐から受けた傷……俺が持っていってあげる。あんたにも、俺は死んで欲しくないからね。」
刹那ぬらりひょんの体も柔らかな光が包んだ。
あの京の狐に奪われた筈の肝が造られていく。珱姫でさえ治すことができなかった傷だというのに。
いや、白縫は元々彼の傷を癒すことは容易かった。
しかしかつてその傷を癒すことをぬらりひょんは拒んだ。
力が半減したとしても珱姫との出会いの思い出でもあるし、鯉伴がいるならば自分は隠居するべきと身を引いていたためである。
が、鯉伴は倒れた。
もしかしたら鯉伴が苦戦を強いるほどの敵がいるのかもしれない。
ならばぬらりひょんの弱体化は敵にとって有利。
白縫がいれば傷を治せるとしても、いないと仮定すればこの暖かい家の崩壊の一歩となる可能性がある。
白縫はそれを理解していた。
白縫はこの家が好ましかった。
よって今が癒す時と結論づけたのである。
傷が癒えていく中、ぬらりひょんの老体は本来あるべき姿へと変化していた。
力のある、かつての若々しい姿へと。
久々に目にした義兄弟の姿に白縫は目元を緩ませた。
そして陽炎と化していく自分の体に揶揄するように口元を歪ませた。
「白縫!まて……行くんじゃねぇ!!」
ぬらりひょんの手が白縫の体を掴もうと伸びたが、そこにはもう実態がない。空気を掠った手が焦れったく、舌打ちの音が響く。
大声を上げたためか、廊下の向こうから下僕の妖怪達が騒いでこちらに移動してくる気配がした。
鯉伴とぬらりひょんを2人にしてあげようと、随分と離れた場所に待機していたのだろう。その騒ぎはまだ遠い。
本当に奴良組は仁義を通す良い者達の集まりだ。
思わずカラカラと白縫は笑った。もう視界も霞んでいるが、義兄弟の姿くらいならば捉えられる。
「……なあ、今の俺は消えるけど、俺自身が消えるわけじゃないんだ。数十年後か、何百年後か、いつになるかは分からないけど、必ずここに戻ると約束する。俺が来るまでにこの立派な組……廃れさせるんじゃないよ。」
「……っ、白縫!!」
微笑んだ白縫は大仰な光を発するでもなく、空気に溶けるように消えた。
鯉伴を失った時とはまた違う喪失感が残る。
「……親父?」
代わりに聞こえた声に、思わずぬらりひょんは息を詰め、拳を血が出るほど握った。
目元がぼやけている原因も自ずと知れた。
ぬらりひょんの後ろでは、到着した側近の妖怪がぬらりひょんの姿と鯉伴の様子に驚き、目を見張っている。
「親父、なんだが花の匂いがすんだ。暗い場所からこの匂いを辿ったらここに帰ってきてた。これ、白縫のだよな?」
またも慌ただしくなりつつある屋敷の中で、ぬらりひょんは鯉伴の言葉がすっと胸に入るのを感じた。
今しがた消えてしまった白を思い、また鯉伴が戻ってきたことへの歓喜から涙が一筋頬を濡らした。
「ああ、白縫がワシらを救ってくれたんだ。感謝しねぇとな……。」
白縫の体を掴もうとした手を胸によせ、噛み締めるように決意を口にする。愛しい珱姫には寂しい思いをさせるが、まだ死ぬわけにはいかなくなった。
数年後か、何百年後か、どちらでもいい。またそれ以上だったとしても――
「白縫、お前の帰りを待ってるぞ。」
返事はない。しかし花の匂いが微かに揺らいだ。
最近科学が嫌すぎて困る。赤点美味しく頂いてます(どうでもいい話)