士郎君のパワーアップ加減に頭を悩ませる今日この頃。
やはり、いきなり急激なパワーアップはダメでしょう。
セイバーという練習相手もいるので、修業方法は頭を使わなくていいのが救いか。
FGOですが、去年の夏に我々を苦しめたあのイベントが復刻するとは……
去年は涙を飲んだ、水着ネロをゲットするチャンスか!?
教会の裁定から一夜明けた冬の朝。
いつもより早く目を覚ました士郎はトレーニングウェアに身を包み、道場に足を踏み入れていた。
手には昨日見つけた陣の木刀。
幼少期に義兄弟から教えられたように、木刀の経験から読み取った事を
木刀の経験にある10歳頃の陣に比べても
それでも昨日まで氣功の事すら忘れていた事を思えば、憑依経験という反則を使ったとしても進歩の速度は
身体に氣が満ちるのを確認すると、今度は半身となり右手に携えた木刀を顎先から前に突き出すように構える。
左手は後方に引きつつ、相手に隙あらば勁を打ち込めるように掌を作って肩の高さに置く。
これこそが内家戴天流の構えの一つ、攻防どちらにも対応可能な雲霞秒々の型である。
そこから戴天流の技の型をなぞる様にして、剣を振るっていく。
はじめは憑依経験で読み取った理想像を確かめるようにゆっくりと、そして慣れてくれば少しずつ速度を上げて鋭く。
身体に型を沁み込ませるため、余計な手を加えることなく基本に忠実に、そして一刀一刀にしっかりと勁を込める事に気を配る。
戴天流を始めとする内家拳は武と氣功が一体となる事を基本としている。
だからこそ基本の型と錬氣を同時に学び、挙動の一つ一つに氣を込めていく事が肝要となるのだ。
そうして暗い道場の中に響く風切り音が百を超えた時、不意に士郎は背後を振り返りながら雲霞秒々に構えた。
「何か用か、アーチャー?」
「……まさか、貴様に気取られるとはな」
士郎が声をかけると、鋭さを増した琥珀の瞳の先に淡いエーテルの光を伴って赤い弓兵が現れる。
「大したことじゃない。サーヴァントは存在の大きさが他とは桁違いだからな。隠していても、その気配は酷く目立つんだ」
気負いも無く口にする士郎の言葉に、アーチャーはその眉間に深く
眼前の少年は昨日までこんな技術を持っていなかった。
そして彼の記憶の中の衛宮士郎は騎士王から剣の手ほどきを受ける事はあっても、先ほどのような剣を学ぶことは無かったはずだ。
「貴様、その技をどこで手に入れた?」
「なんでそんな事を聞くんだよ?」
「答えろ。それとも言えないような
首を傾げる士郎を詰問するかのように、アーチャーは言葉を重ねる。
普段の彼ならば皮肉を口にすれど、このような強硬な手を切る事はない。
しかし、摩耗した記憶の中にある聖杯戦争とは余りにも食い違いがある状況から、彼自身も気づかないままに抱えた焦りがそうさせたのだ。
始まる前に軒並み倒れている聖杯戦争の黒幕、そして矛を交える事無く消えたバーサーカーとアサシン。
なにより、自身の記憶には欠片も出てこない衛宮士郎の義兄弟。
朧げな記憶であり、むこうも自身を知らないとはいえ、この地には彼が大事にしていた者が多い。
ただでさえ聖杯の汚染などの厄介事が山積している状況なのだ。
遠坂凛のサーヴァントとして、そして今でも故郷だと思っている冬木の街を護る為、アーチャーはこれ以上のイレギュラーは御免であった。
「……別に疚しい事なんてない。陣が残した木刀から学んだんだよ」
「憑依経験、か」
「知ってるのか?」
「私も似たような事が出来るのでな。つまり貴様の使っていた技は、衛宮陣の振るうそれと同じという事か」
「それは違うぞ」
「なに?」
士郎が放った否定の言葉にアーチャーの片方の眉が跳ね上がる。
「この木刀にあるのは陣が10歳の時の経験だ。あれからずっと修業を続けていたのなら、もっと腕を上げているはずだ」
確信の籠った士郎の言葉に、アーチャーは深々とため息をつく。
「ならば貴様の行動に何の意味がある? 剣の才が無い貴様が未熟だった頃の衛宮陣の経験から技を学んだところで、本人に追いつくことなど出来はすまい」
「意味ならある。兄弟を取り戻すための努力を重ねるのが無駄なワケがない」
「……呆れたな。貴様、まだ諦めていなかったのか」
「当たり前だろ。家族を助けるのを諦める奴がどこにいるってんだ」
「分かっているのか? あの男を放置すれば冬木が滅びるんだぞ」
「だから、止める為の努力をしてるんだろうが」
「馬鹿め、今更そんな努力が間に合うものか。『この世全ての悪』の誕生を阻止しなければ、どれだけの被害が出るか分らんのだぞ」
「だから陣を殺すのか?」
「そうだ。冬木の住民と奴一人、どちらの命が重いかなど考えるまでもあるまい」
「ああ、その通りだ。顔も知らない赤の他人と家族なら、家族を選ぶに決まってるからな」
その言葉を聞いた瞬間、アーチャーは思わず自身の耳を疑った。
今の士郎の発言は『衛宮士郎』であるならば、絶対にあり得ないものだからだ。
切嗣から『全てを救う正義の味方』という理想を受け継ぎ、同時に大火災で多くの人間を切り捨てて生き残った彼は、『自分は人の為に生きねばならない」という強迫観念に似た義務感を植え付けられている。
それ故に彼は自分の命に価値を見いだせず、救うべき命に優先順位を付けることができないはずなのだ。
だが、眼前の少年は迷う事無く家族の命を選択した。
アーチャーの記憶にある『衛宮士郎』ならば、その力がないとしても『全てを救う』と口にしなければならないのに。
「……貴様、どういうつもりだ?」
「なにがだよ。俺が何かおかしい事を言ったか?」
「貴様は衛宮切嗣の理想を、正義の味方となる事を受け継いだのではないのか? それに罪もない一般人を見捨てる事に罪悪感を憶えないのか!?」
表情を強張らせながら矢継ぎ早に質問を並べるアーチャー。
その声音から感じる戸惑いの感情や余人が知るはずの無い自身の事を口にする眼前のサーヴァントに不信感を憶えながらも、士郎は答えを返すべく口を開く。
「正義の味方の理想なら、切嗣には悪いけど諦めたよ」
「なんだと……ッ! なら、何故イリヤを救った!?」
「目の前で人が殺されそうになってたら誰だって助けるだろ。それにあの時はまだ切嗣のやった事や大火災の真実を知らなかったからな」
「大火災に衛宮切嗣が関わっていたから、その理想までも捨てたと?」
「それもある。けどな、それよりもっと前から漠然と思ってたんだ。切嗣の理想は正しいのかって」
「なに?」
「切嗣が死んだ時、藤ねえ……俺の姉貴分が棺を前にして土下座しながら泣いたんだよ。『陣を止められなくてごめんなさい』って。いつも馬鹿みたいに明るくて小学生と変わらない精神年齢した藤ねえが、泣き声も上げないでボロボロ涙零してさ。あの人とは10年の付き合いになるけど、あんな姿を見たのはあの時だけだ」
「…………」
士郎の言葉にアーチャーは二の句を継げる事が出来なかった。
薄呆けた彼の記憶では、藤村大河がそんな風になった事など一度も無かったからだ。
「そんな藤ねえを見て思ったんだよ。切嗣の理想を叶えたとして、その時俺は藤ねえにちゃんと気を配ってやれるのか。顔も知らない全ての人を救うのに必死になって、泣いている家族に手を差し伸べる事が出来ないんじゃないかってさ。そう考えた時、俺は切嗣の理想に疑問を憶えたんだ」
『まあ、それでも手帳を見るまで、未練がましく手放さなかったんだけどな』と自嘲する士郎に、アーチャーからの返事はない。
ただ苦虫を噛み潰した様に渋面を浮かべるだけであった。
彼にその気はないだろうが、先程の言葉は理想に溺れて藤村大河や間桐桜という家族を
「それと罪悪感のほうは別に感じない。サバイバーズ・ギルトに掛かってた時なら
さも当然のようにそう付け加える士郎に、ついにアーチャーは口を閉じる事も忘れ呆然としてしまった。
ちなみに士郎を精神病院へ連れて行った藤村大河、彼女は最初から士郎の精神的歪みに気付いていたわけではない。
初恋の男と弟分の片割れを一気に失った当時、彼女は残された士郎だけは離すまいと強い執着を見せていた。
その思いから意気消沈する彼に何くれと構っていた大河は、ある時たまたま見たテレビでサバイバーズ・ギルトの事を知る。
番組で説明されている事が大火災から生き残った士郎に当てはまる事に気付いた彼女は、善は急げとばかりに次の日には嫌がる士郎を引きずって精神科医の門を叩いたのだ。
診断の結果、士郎は自覚が無いままに重度のPTSDを負っている事が判明。
そこから士郎は二年間の通院を余儀なくされる事となった。
「話はそれで終わりか? だったら、鍛錬を続けたいんだけど」
「あ……ああ」
返って来た心ここに在らずと言った風情の声を受けて、士郎は再び肌を刺すような冷たい空気の中で剣を振るい始める。
その様子を呆然と目に映しながら、アーチャーは諦観を憶えていた。
抱いた理想に従い、魔術によって人々を救い続けた正義の味方。
彼は奇跡が無くば助ける事の出来ない人々の命を拾い上げる為に、世界と契約して死後を売り渡した。
その時は英霊となる事で更に多くの人々を助ける事が出来ると、彼は信じて疑わなかったのだ。
しかし、理想の末に命を落とした彼を待っていたのは、そんな甘い考えなど微塵に砕く現実だった。
抑止の守護者として人類存続の為に、国を超え時代を超えて殺戮を振り撒く日々。
人格を奪われた彼は、人類という種が滅びる原因と成り得るモノは跡形も残さずに殲滅してきた。
首謀者やその協力者はもちろんの事。
何も知らされずに自身の仕事をこなす善人や首謀者によって利用された被害者、さらには何の関係もない周辺の住民まで。
正義の味方の理想を掲げて
守るべき者、救うべき者を
幾度慟哭を上げようと、どれだけ血涙を流そうと、阿頼耶識の駒と化したその手は止まりはしない。
そうして夥しい量の血に塗れ胸に抱いた理想もへし折れた彼は、ただただ我が身の消滅を願うようになる。
今回の聖杯戦争に召喚された事は、その望みを叶える千載一遇のチャンスだったのだ。
この時代の衛宮士郎、すなわち過去の自分を己が手で殺す事で矛盾を発生させ、己の存在を消し去る。
正直に言えば、エミヤ自身もこの方法が都合よく成功するなどとは思っていない。
これは
だがしかし、その望みは無残に潰えた。
目の前の少年は断じて過去の自分などではない。
昔の己はこんな風に普通の人として生きる事は出来なかったのだから。
失意を抱きながら、アーチャーは道場を後にする。
義兄弟の剣を追う彼は、もはや魔術に拘ることは無いだろう。
そも、衛宮士郎が魔術に固執していたのは切嗣への憧れが理由だ。
それが薄れている現在、不向きで成果の上がらないものに時間を割くなど浪費でしかない。
ならば、自分にはこの衛宮士郎へやるべき事は何もないのだ。
あれから一時間ほど鍛錬を続けた士郎は、他の者が起きてきた音に一先ず剣を置いた。
何時ものように用意した朝食を皆で囲む中、大河から電話によって倫理教諭の葛木が殺害された為に学校が休校になった事を知る。
思いもよらず時間が空いた事で再び道場に足を踏み入れた彼は、自らの従者であるセイバーと向かい合っていた。
眼前の騎士王の手には道場の壁に掛けてあった竹刀、こちらは例の木刀を握っている。
「どうしたのですか、シロウ? 急に剣の稽古をつけてほしいなど」
「こっちも色々と思うところがあってな。手間をかけるけど付き合ってくれないか」
深々と頭を下げる士郎にセイバーは小さくため息をつく。
理由のほどは見えないが、こうも頼み込まれては断るわけにはいかない。
「わかりました。一手、お相手いたしましょう」
そう言って、竹刀を正眼に構えるセイバー。
「恩に着る」
対する士郎は先ほどまで磨いていた雲霞秒々の構えだ。
「では……行きます!」
士郎の取る奇妙な構えに眉根を寄せるのも一瞬のこと、セイバーは鋭い踏込と共に竹刀を振り上げる。
手加減をしているのだろう、彼女の動きはランサーと対峙した際のモノとは比べるべくもない。
だがしかし、その挙動はオリンピックなどで活躍するトップアスリートとは比較にならないほどに鋭いものだ。
そうして、瞬く間に士郎を刃圏に収めた彼女から放たれる袈裟斬りの一撃。
風切り音を伴って迫るそれは宙を踊る木製の切っ先によって絡め捕られ、その軌道を
戴天流剣法が一手、波涛任櫂。
荒波の中を漂いながらも機を逃すことなく道を切り開く
思い描いた軌跡を大きく外れ、的外れな方向へと流れる切っ先に目を見開くセイバー。
しかし、士郎の方も無事とは言い難い。
本来であれば反撃へと移るべきところにも
受けた木刀を取り落とさんばかりの手の痺れも、そして体を成さなくなった構えも、すべては技の未熟さ故である。
(なんて無様……ッ!?)
憑依経験で学んだ陣のそれとは大きく異なる自身の剣腕に歯噛みする士郎。
しかし、相手は彼の悔恨を待つほど優しくはない。
体勢を立て直すよりも速くセイバーが放った一撃が士郎の胴を捉え、彼は踏ん張ることも出来ずに板張りの床に叩きつけられてしまう。
「どうしました、シロウ。これで終わりですか?」
肉を打つ竹の痛みと朝食を戻しそうになる衝撃に悶絶する士郎に、セイバーから厳しい言葉が降り注ぐ。
「いいや、まだ……まだだ」
身の内で渦巻く苦痛を噛み潰して立ち上がると、士郎は取り落とした木刀を手に再び雲霞秒々の構えを取る。
八双へと構えを変えたセイバーを見据えながら木刀の中の経験を探る士郎。
そうすると先ほどの自身の対応の
『降り掛かる危難に小手先のみで刀を合わせる事なかれ。荒波を制すには刀、歩、勁を以て当たる事が肝要と心得よ』
流派の口伝であろうか、頭の中に響く厳しさを感じさせる声に士郎は先ほどの一手を恥じた。
セイバーの攻撃に臆し、先の言葉の通りに迫り来る竹刀に木刀を合わせただけ。
彼女が手加減してくれていたから良かったものの、本気で打ち込まれていれば木刀ごと手首をへし折られていただろう。
(とはいえ、今は反省している場合じゃない。問題点が分かったのなら、それを改善していかないと)
気を抜くと後ろ向きになりそうな心に喝を入れ、士郎はセイバーを睨みつける。
士郎の様子に闘志がよみがえった事を確認したセイバーは、一足の下に間合いを詰める。
次なる一撃は左脇から右肩に抜ける逆袈裟。
しかし受け手である士郎は、その琥珀の瞳に猛禽を思わせる光を宿してその一手を捉えている。
調息により練られた氣は内力となって木刀に宿り、踏み込みと共に振るわれる刀は冬の寒気の中に輝線を描く。
先ほどとは異なる鋭さで放たれた茶色の切っ先は、セイバーの竹刀に絡み付いて虚空へと誘う。
受けられた抵抗も払い除けられた衝撃も無い。
自身の一撃が川の流れのように違和感なくいなされた事に、セイバーは今度こそ驚愕の表情を浮かべる。
「うおおっ!」
大きく身体を泳がせたセイバー目掛けて、士郎は反撃の一刀を放つ。
しかし相手は伝説の王アーサー、そう易々と一本が取れる相手ではない。
彼女はその身体能力に物を言わせて崩れた体勢を引き戻すと、直感の命じるままに竹刀を振り抜いた。
型も何もなく腰すら入っていない手打ちの一撃。
だがしかし、英霊の膂力によって振るわれたそれは常人には想像も付かないほどの凶器となる。
鋭い衝突音と共に大きく跳ね上げられる士郎の一撃。
腕が
乾いた打撃音と共に数メートルほど宙を飛び、道場の壁に叩きつけられる士郎。
二度目の衝撃に耐える事ができなかったようで、蹲った彼は胃液と共に朝食を戻してしまう。
「大丈夫ですか、シロウ!?」
さすがにやり過ぎたと感じたセイバーが駆け寄ろうとするが、士郎は手を上げてそれを押し留めた。
「ゲホ……ッ! 大丈夫…だ。それよりももう一本頼む」
木刀を杖代わりに震える足で立ち上がるその姿に、セイバーの顔に難色が浮かぶ。
「今日はここまでにしましょう。急に鍛錬をしたところで剣の腕は上がりません」
「そういうワケには……いかない。俺は強くならないといけないんだ……ッ!」
「何故ですか? 私がいるのですから、シロウが鍛える必要はないでしょう!」
マスターとして身を護る術を身に着ける必要があるのは理解しているが、自身と同じ剣を鍛える様を見ているとまるで『お前は不要だ』と突きつけられている気分になったのだ。
これも前回の聖杯戦争においてセイバーに囮としての役割しか与えず、自分の手で他の陣営を排除しようとしていた切嗣の作戦が原因だった。
「必要なら…あるさ」
「だから、何故ですか!?」
「セイバーは…陣を助ける気……ないだろ」
苦し気な士郎の言葉に、セイバーは思わず息を飲んだ。
セイバーに、否、聖杯戦争参加者にとって衛宮陣は異物でしかない。
聖杯を欲するセイバーからしてみれば、目障りな狂人程度の認識だ。
助けようなどと思うわけがない。
事実彼女も今度目の前に現れたならば、全力で斬り捨てる気でいたのだ。
「遠坂はセカンド・オーナーとかいうのだから、聖杯戦争やここに邪魔なあいつを助けない。アーチャーは冬木を護る為といって、積極的に殺そうと考えてる。ランサーや教会はそもそも助ける理由がない。だったら、俺が助けるしかないだろ……ッ!」
気炎を吐きながら、折れ曲がっていた身体を起こす士郎。
その琥珀の瞳に宿るのは二日前の夜、セイバーを糾弾した時に勝るとも劣らない怒りだ。
「シロウ、貴方は……」
「構えろ、セイバー! 陣を助け出す為にも、俺はこんな所で立ち止まっているワケにはいかないんだ!!」
口の中に残っていた反吐を吐き捨て、三度構える士郎。
彼の身体から立ち昇る気迫と覚悟に、セイバーもまた竹刀を取る。
その後、士郎は一方的に叩きのめされた。
波涛任櫂のコツを掴んだとはいえ、士郎の戴天流はまだまだ初伝にも届いていない。
彼の剣腕では、剣の英霊たるセイバーと渡り合うには到底力不足だったのだ。
剣を交えた当初は3手に一度セイバーの攻撃を捌く事ができたのだが、それも彼女が剣速を上げるまでの話。
英霊としては三割程度の力だとしても、そのスピードは人間の動体視力をはるかに超える。
そうなってしまえば、いかに目が良いとはいっても士郎に剣を
そうして倒されること三十回。
限界を迎えた士郎は、木刀を握ったまま気を失ってしまった。
途中から様子を見ていた凛が『無謀な挑戦』と言い切ったこの打ち合い。
その全てが徒労であったかと問われれば、断じて否と言える。
何故なら、セイバーから一本取ることは出来なくても、剣を交える度に士郎の腕は着実に上がっているのだから。
◇
昇ったばかりの冬の陽光が霜の掛った木々を照らす中、円蔵山の中腹を行く一団があった。
数は6名、いずれも屈強な男たちで例外なく男性用の黒い修道服に身を包んでいる。
彼等は監督役であるカレン・オルテンシアの要請によって、聖堂教会から派遣された調査団である。
イリヤスフィールからの情報を
半ば獣道と言ってもいい険しい道程を踏破した彼らは、認識阻害の結界によって
「ここが大聖杯が設置されている洞窟か」
「たしかに入り口から妙な気配が流れてきているな。アインツベルンの情報は当たりかもしれん」
「よし。各員、対魔礼装の準備を
隊長と思われる初老の男の指示に各々の得物を取り出す神父たち。
そうして彼等が洞窟の入り口を潜ろうとした瞬間、異変は起きた。
どこからか飛来した
「フィリップッ!?」
「狙撃だと!? いったいどこから……ッ!!」
「円陣だ! 総員、円陣を組め!! 互いに死角を無くして、襲撃に備えるのだ!!」
悲鳴と怒号の飛び交う中、隊長の指示に従って背中合わせに円を描く神父たち。
皆がせわしなく首を振って周囲を見回すものの、惨劇を引き起こしたと思われる者を捉えることは出来ない。
小鳥の
そうして彼等の緊張と恐怖が頂点に達しようとした瞬間、事態は動く。
隊長の隣にいた黒人男性の首に赤いラインが
「うわあああああああああっ!?」
「なんで映らないんだ!? 霊視にも礼装にも何も!?」
「畜生!? 死ね! 死ねぇぇぇぇぇっ!!」
悲鳴を上げる者、礼装を目に当てて狂ったようにあたりを見回す者、そして所かまわず自身の得物を振り回す者。
執行者の一団は完全にパニック状態だった。
彼等は教会で厳しい訓練を積んだプロフェッショナルだ。
これが悪霊の仕業であり、相手の毛の先ほどでも礼装に映っていれば冷静に対処できただろう。
もしくは通常の異端殲滅などの教会の威信を護る任務であれば、覚悟を決めたかもしれない。
しかし、今回はどちらも当てはまらない。
彼等が派遣されたのは魔術師の作り上げた偽物の聖杯の調査という名誉も何もない使い走りの為で、仲間が何によって殺されたのかも皆目見当がつかない。
下らない任務に就いた為に、訳の分からない事で命を落とす。
神の名の下に手を汚してきた彼等にとって、名誉も何も残さずに無能として葬られる事は最も
だがしかし、現実は非常である。
こうしている間にも得物を振り回していた男は身体を袈裟斬りに両断され、辺りを見回していたもう一人も背後から心臓を一突きされて命を落とした。
残るは隊長ともう一人。
へたり込んでしまった仲間を目にした隊長は、舌打ちと共に懐から聖書を取り出した。
特別な処理が施されているページを利用して防御結界を張ろうという魂胆だったが、それは遅きに
その口が聖句を唱えるよりも早く、彼の身体は頭から真っ二つに両断されてしまったのだから。
唯一残った仲間の無残な最期を目の当たりにした男は、へたり込んだまま涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら必死に後ずさる。
だが、それも後頭部が硬い何かに掴まれる感覚によって終わりを告げた。
「ヒィッ?」
引き
「死にたくなければ質問に答えろ。貴様等は何者だ?」
「あ……う……」
しかし、頭を掴む手に力が籠るとその舌は活発に働き始める。
「俺達は……ッ! 聖堂…教会の……ッ! 執行……者だッ!?」
恐怖に
そんな彼の努力など意にも介せず、声はさらなる問いを投げかけてくる。
「教会の回し者か……。目的は大聖杯だな?」
「そうだ! ───ヘベッッ!?」
「
言葉と共に奔る風切り音。
最後の一人に薄く切り傷が付くと、他の5体の遺体と共にずぶずぶと地面に広がるドス黒いの泥の中へと飲まれていく。
そうして姿も気配も無い者が立ち去った後、森に残ったのは血臭の
◇
都内の某所。
一般の者には見る事すらできない『伽藍の堂』と呼ばれる廃ビルの中で、イリヤスフィールは一人の女性と相対していた。
蒼崎橙子。
人体と寸分違わない人形を創り出すことができる封印指定の魔術師だ。
「注文の品は出来ている。後はその身体から君の全てを摘出し、人形に移し替えるだけだ」
「その作業にかかる時間は?」
「移植に一日、人形に馴染むまで一日。二日後には普通に生活できるようになるだろう」
「二日かぁ。もう少し短縮できない?」
「無理だな。移植と定着は最もデリケートな作業だ。失敗したらあの世に逝くことになるぞ」
呆れたように肩をすくめる妙齢の美女に、イリヤもまたため息を吐く。
たかが二日、されど二日。
聖杯戦争の最中の二日間がどれだけ重要な意味を持つかは重々承知している。
しかし、あのまま冬木に残れば、待っているのはこの身が小聖杯となる破滅の道だ。
イリヤスフィールにとって、それだけは絶対に認めることは出来ない事だった。
10年前、彼女は母の死を直感的に感じる事となった。
それは小聖杯を担うホムンクルスの血を引く者として母であるアイリスフィール、そして大聖杯の大本となったユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンとの繋がりが成せる技であった。
悲しみに打ちひしがれた彼女は、ぬくもりを欲して入った母の自室で自分に
そこには、小聖杯の担い手である母が聖杯戦争から生きて帰れない運命にある事実。
それでも自分の番で聖杯戦争という術式を成功させ、イリヤスフィールにこの過酷な役目を背負わせないという決意。
最後に彼女には生きて幸せを掴んでほしいという願いが記されていた。
これこそがイリヤスフィールの中で燃えるアインツベルンへの不信と怒りの起点であった。
その後、彼女は虐待ともいえる聖杯への調整に耐えながらも、アハト翁やアインツベルンを出し抜く機会を虎視眈々と狙い続けていた。
そして、予想より大幅に早まった聖杯戦争の準備の為に自身の侍従たるセラとリズが日本に発つ事を利用し、封印指定の人形師である蒼崎橙子と接触を図ったのだ。
彼女への依頼内容は自身とセラ、リズの人形の作成。
時計塔で冠位を取得した彼女の作る人形は対象の人体を完全に寸分違わずに模倣する。
そうして創り出された人形はもう一つの身体と言っても過言ではなく、噂によれば彼女は自分自身の人形を複数体ストックしており、今の身体が破壊されればバックアップされた彼女の人格や記憶が次の人形に宿る事で疑似的な不死を体現しているらしい。
イリヤスフィールはその技術を以て、小聖杯へと調整された身体に別れを告げるつもりなのだ。
「報酬は冬木の聖杯戦争の根幹の一つである小聖杯。そしてアインツベルンのホムンクルスの肉体三体、か。人形三つではお釣りがくるな」
「その辺はメンテナンス保証代という事にしておいて。あと、小聖杯には今回の聖杯戦争におけるキャスターの魂が入ってるから」
イリヤがさらりと口にした爆弾発言に、橙子は眼鏡の奥で目を見開いた。
「もう聖杯戦争が始まってるのか。しかし、いいのか? 儀式半ばで担い手である君が小聖杯を放棄して」
「構わないわ。実は大本の大聖杯が厄介な事になっていてね、保険として一つでもサーヴァントの魂を隔離しておきたいのよ。それに───」
橙子の言葉に、イリヤスフィールは笑みを浮かべた。
その紅玉の瞳に宿る光は、容姿とは裏腹に妖艶さを漂わせている。
彼女の脳裏に過るのは、聖杯に執着を見せている義弟のサーヴァントの顔。
しかしイリヤスフィールは一笑の下にそれを打ち消した。
「アインツベルンに魔術師の妄執や英霊の未練の為に死ぬなんて真っ平御免だもの。私は自分の幸せのために生きるの。こっちに犠牲を強要しようとする奴こそ、地獄に堕ちればいい」
反吐を吐くかのように言い捨てるイリヤの姿に、橙子は破顔する。
魔術師どころか英霊の悲願までもくだらないと言い捨てるとは、なかなか胆の座った少女である。
「いいだろう、気に入った。君たちの作業はいつもの三割増しで腕によりをかけさせてもらおう」
「よろしくお願いするわ、お姉さん」
気合を見せる稀代の人形師を前にして、イリヤスフィールは小悪魔めいた笑みを浮かべるのだった。
今回のまとめ
士郎『まだまだ未熟、修業あるのみ』
剣キチ『プレデターごっこ、楽しい!』
イリヤ『セイバーの事を恨んでいないといったな。───あれは嘘だ』