ここから第3章です!
黒いわんちゃんとか、池を凍らせられる襤褸屑とか出てきますね。
マージおばさんの大失敗
二十世紀も終わりを迎えるまであと数年となった今日この頃、わたしは今まで、コップの水を人にかけるなんてことはドラマの中だけで起こることだと思っていた。それも、一日のうちに二度もあるとは。
母譲りの深みがかった赤い髪から滴る水滴を見ながら、レイラは珍しい体験をしたなと考えるほどに冷静だった。
夏休みの間にさらに伸びた髪の隙間からアーモンド型の目を開け、緑色の瞳で水をかけた張本人である叔母を見た。その眼には怒りや困惑といった感情はなく、ただ事実を受け止めているに過ぎなかった。そんな眼を見て、ペチュニア・ダーズリーは数歩ばかり下がって顔を逸らした。
レイラは意識していなかったが、ホグワーツに入った頃から母親の学生時代により似てきていた。それは容姿であり、雰囲気すらも、まるで在りし日のリリー・エバンズがそこにいるかのようであった。
それがペチュニアには直視できなかった。水をかけた直後に、無意識のうちに自分の姉妹を糾弾した時を思い出し、レイラと重ねてしまったのだ。奇しくも、幼少期の自分が姉にかけた言葉を、再び聞いてしまったがためだ。
レイラが出て行った後に残されたペチュニアは、リビングの椅子に腰かけると、それっきりぼうっとしてしまった。
きっかけは、バーノンおじさんの妹であるマージおばさんが、ダーズリー家に来ることになったことだ。それを聞いて、レイラもハリーも勘弁願いたいという思いでいっぱいだったが、ハリーがあることをバーノンおじさんにお願いしたことで、二人はおばさんを快く受け入れなければならなかった。
ホグワーツでは三年生になると決められた期間、付近のホグズミード村に出かけることができるようになる。しかしそれには、保護者のサインが必要になる。ハリーはそれをおじさんに書いてくれるように頼んだのだが、おじさんが条件付きで了承してくれたのだ。
その条件というのが、マージおばさんが来た時に、終始おとなしく、おじさんの言うとおりに話のつじつまを合わせることができれば、サインをしてもいいというものだった。レイラ自身は問題なかった。しかしどう考えてもハリーはまずい。感情が素直に出る分、マージおばさんの嫌味に耐え切れずに感情が爆発してしまうかもしれない。
(さすがに両親のことを言われれば、わたしも怪しいけどな)
家事のできるレイラは給仕役として、そうでないハリーはドアマンをしたり、荷物を運んだりする仕事を言い渡された。
そうして半日準備を手伝わされている頃、バーノンおじさんがマージおばさんを迎えに行っていた。何年も食事の準備をさせられてきたレイラの料理の腕は上達したと思えるほどで、今日出す料理の半分を任されるほどだった。普段、おじさんもおばさんもレイラたち二人を遠ざけるのだが、家事をするときには、ペチュニアおばさんは丁寧に教えてくれた。家事仕事で手を抜かれたら困るからだろうと、レイラはそう結論付けた。
食卓に料理を並べ終わる頃、バーノンおじさんの車の音が聞こえてきて、とうとうマージおばさんが到着したのだとレイラは身構えた。
ハリーが開けたドアを押しのけるようにして、バーノンおじさんと同じようなでっぷりとしたマージおばさんが家に入ってきた。
ハリーにスーツケースとコートを押し付けると、バーノンおじさんに促されてマージおばさんは椅子にどっかりと座った。その拍子に椅子が軋んだが、おばさんはまったく気にした様子もなかった。レイラはすかさず、ティーカップと紅茶の入ったティーポッドを用意してマージおばさんに紅茶を準備した。
おばさんは無言で紅茶を飲み、ソーサーをレイラに向けて差し出した。意図を察したレイラはこぼさないように、ソーサーに適量の紅茶を注いだ。おばさんは紅茶の注がれたソーサーを足元に置くと、連れてきていたブルドッグがそれをぺろぺろと飲み始めた。マージおばさんは家に来たとき、犬に自分と同じものを、ソーサーに注いで飲ませるのだ。
一息ついたらしいおばさんは、レイラと、おばさんの荷物を部屋に置いて戻ってきたハリーをじろりと見た。
「まったく、まだここにいるとはね」
音を立ててソーサーの紅茶をなめるブルドッグ(リッパ―)が紅茶と涎をまき散らしながら紅茶をなめきったところだった。後でソーサーを念入りに洗わなければと、レイラはその光景を見て嘆息した。
(あと、カーペットの染み抜きと、床磨きもセットだな)
ちらりとペチュニアおばさんを見れば、わずかながらに嫌そうな顔をしていた。ペチュニアおばさんは動物が嫌いなのだった。
「お前たちがバーノンお家に置かれてるのは、大層なお情けってもんだ。うちの戸口に置かれていたら、お前たちはまっすぐ孤児院行きだったよ」
孤児院での生活だったらどれほどよかったことか。そう思わずにはいられなかった。おそらくは孤児院のほうが、ダーズリー家よりも快適に暮らせただろうに。
「小娘は順調に更正が進んでいるようだが、小僧はそうもいかないみたいだね。おい小娘、どこの学校だったかね?」
厭味ったらしく、おばさんがレイラに問いかける。レイラがおじさんをちらりと見れば、早く言えと手振りで伝えてくる。ここでホグワーツ魔法魔術学校だと答えてもいいが、その場合ハリーのホグズミード行きが取り消されてしまう。
「セント・ブルータス更生不能非行少年院です、おばさま」
「更生不能のケースでは、あそこは一流だ!」
レイラが答えると、すかさずバーノンおじさんが付け加えた。
マージおばさんは満足そうにうなずいた。ダーズリー夫妻があまりレイラとハリーに関わろうとしたくはないのに対して、マージおばさんは犬を何頭も飼っている経験から、口を出したくてしょうがないのだ。
「そりゃあいいや。セント・ブルータスでは鞭を使うかね、え?」
「ええ、もちろん。わたしはよく叩かれてしまいます」
レイラが即答したことに満足し、マージおばさんは矛先をハリーに向けた。
「お前はどうだい、小僧」
ハリーはドキリとして、一瞬どうしようかと悩んだようだったが、マージおばさんの背後でおじさんがこくりとうなずくのを見た。
「えーっと、はい。そりゃあなーんども」
おばさんが顔をしかめた。ハリーの返事が気に入らず、ペチュニアおばさんに、もっと指導してもらう手紙を更生学校に送ってはどうかと言っているのを、おじさんが遮る。
「マージ、今朝のニュースを聞いたかね? あの脱獄犯をどう思うね、え?」
バーノンおじさんが言っているのは、今朝からニュースや新聞で伝えられているものだ。刑務所から脱獄したらしいのだが、それがどこの刑務所なのかが伝えられていないと、おじさんが腹を立てていた。
脱獄犯はシリウス・ブラックという男性で、やつれた顔と、もつれた髪が肘のあたりまで伸びているのが特徴的だった。
「バーノン、この子らが出来損ないになったからといって、自分を責めちゃいけないよ」
おばさんにグラスを差し出し、ブランデーを注ぎ終わったレイラの腰をバンと叩きながら、マージおばさんは得意げに言った。叩かれた拍子にフラつき、ボトルをブランデーのボトルを落としそうになるレイラだが、何とか耐えて踏みとどまった。そのまま何事もなかったかのようにボトルをキッチンにしまう。
「芯から腐ってりゃ、誰が何をやったってダメさね」
ハリーは食器の片付けに集中しようとした。それでも手は震え、顔は怒りで火照り始めた。
「ハリー、落ち着いて。ここはいいから、部屋に上がってなさい」
レイラがバーノンおじさんを見れば、早く二階に上げろと手を払う仕草をしている。しかし、ハリーが部屋に行く前に、マージおばさんは大声で言った。
「血筋なんだよ、親の悪いところが出ちまったのさ。父親はなんの仕事をしてたんだい?」
おじさんとおばさんの顔は極端に緊張していた。ダドリーでさえ、食べていたパイから目を離し、ぽかんと口を開けて親の顔を見つめた。ハリーは階段を登ろうとしていたのをやめ、リビングを見つめようとしたが、レイラがそれを遮るかのようにドアの前に立っていた。
ハリーからは、姿勢良く立ったレイラの後ろ姿と、マージおばさんの髪の毛がわずかに見えるだけだった。
「ポッターは……働いていなかった。失業者だった」
これは半分は本当のことだった。両親はハリーとレイラを守るために仕事を辞めていたと、以前ハグリッドから聞いたことがあった。
「そんなこったろうと思った!」
マージおばさんはブランデーを呷り、袖で顎を拭った。
「文無しの、役立たずの、穀潰しのかっぱらいが——」
違う!
全身を震わせ、こんなにも腹が立ったことは生まれて初めてだと思うほど怒り心頭のハリーは、否定の言葉を叫ぼうとした。けれど口は動いても、言葉が出てこなかった。いくらやっても声が出てこないハリーは、まさかと思ってドアを遮るレイラを見た。表情は見えない。黙って立ったレイラの固く握られた拳が、彼女の感情を如実に表していた。
「お前もさっさと部屋に行け。行くんだ——」
レイラの不穏な空気を感じたらしく、バーノンおじさんはレイラも部屋に戻るように促す。
「いーや、待っとくれ」
マージおばさんはしゃっくりをしながら手を上げて静止した。
「小娘、こっちに来な」
「……はい」
レイラがマージおばさんに呼ばれたことで、ハリーはリビングの中を見ることができた。バーノンおじさんと目が合って睨まれたが、ハリーは無視して中の様子を見た。
相当量のブランデーを飲んだのか、マージおばさんの顔はさらに赤くなり、明らかに酔っ払っていることが見て取れた。そのおばさんは、近くまで来たレイラの姿を、爪先から頭のてっぺんまで眺めて、フンと鼻を鳴らした。
「まったく、忌々しいほどに母親に似てきたじゃないか」
「ありがとうございます」
その瞬間、水が何かにぶちまけられる音が、静かになったリビングに響いた。マージおばさんとレイラ以外の誰もが、口をあんぐりと開けていた。ハリーは咄嗟のことに驚き、その場で固まってしまった。
いつもはハリーたちをいじめるバーノンおじさん、ダドリーでさえも、信じられないというような表情だ。
唯一この場で上機嫌なのは、マージおばさんだけだった。おばさんはそばにあったグラスに入った水を、レイラに向けて掛けたのだった。
水はレイラの顔に当たり、母親譲りの深みがかった赤髪から滴っていた。着ていたシャツが白色だったが、掛けられたのが水で良かったと、レイラは別な方向に意識を持って行っていたが、誰もそれに気づくことはない。
「あたしを馬鹿にするんじゃないよ、まったく。見てくれは良く出来ているんだから、どこぞにでも売り飛ばした方が経済的じゃないかい? うちの家に来てたら、お前のような
ひゅ、と。誰かが息を飲むのが聞こえた。ハリーはすぐに、それがペチュニアおばさんだと気づいた。顔を青白くさせ、膝の上で手をぎゅっと握りしめている。
「……わたしが、なんと?」
静かな、凛とした声でレイラが聞き返す。当然聞こえていたはずだ。それでも聞き返すのは、きっとレイラが怒っているからだ。ハリーは急に寒気がした。自分には怒ったことのないレイラが怒っている姿を見るのは、ハリーはあまり得意ではなかった。
「そうだろう! 性悪で飲んだくれの父親と、出来が悪かった
「マージ!」
おじさんとおばさんが同時に叫んだ。それ以上は言うなと、制止しようとしたのだ。この場にはレイラも、ハリーもいる。いつ感情が爆発して、妙なことをされるか分かったものではなかった。
しかし、すでに遅かった。両親の悪口を言われたレイラが、もしくはハリーが、感情を爆発させてしまった。
マージおばさんがだんだんと膨らみ始めた。巨大な赤ら顔が膨張し、小さな目は飛び出し、口は左右にぎゅっと引っ張られて喋るどころではない。膨れ上がった様は、まるで風船のようだった。
「マーージーー!」
浮かび上がり、庭へと続く開かれた通路から出て行ってしまいそうになるマージおばさんを、おじさんが引っ張って止めようとする。
唖然と見つめるハリーの前に、レイラが駆け寄って来て、その両肩を掴んだ。
「いい、ハリー。今すぐ荷物をまとめて、ここを出て行きなさい」
「え……でも」
「早く!」
レイラに急かされたハリーはリビングを飛び出し、階段下の物置に向かった。鍵が閉められていた物置の戸が、魔法のようにパッと開いた。数秒後、ハリーは重いトランクを玄関まで引っ張り出した。
「レイラも、早く」
「わたしのことはいいから、早く行きなさい。しばらく歩いて、道路の側で杖腕を出せば、『ナイト・バス』が迎えに来てくれる。そうだ、ヘドウィグを少し借りるから」
漏れ鍋で会おう、と背中を押されたハリーはダーズリー家を後にした。
残ったレイラは、いざという時のためにまとめておいた荷物を玄関に運ぶと、ハリーの部屋から連れてきたヘドウィグの入った籠をトランクの上に置いた。
濡れたシャツを着替える余裕は無いと判断して、シャツの上にカーディガンを羽織ると、トネリコの杖をロングスカートのポケットに刺した。
「マージを元通りしろ、今すぐだ」
リビングを覗いて、おばさんがどうなったかを確認しに来たレイラの胸ぐらを、バーノンおじさんが掴もうとする。レイラは身を引き、おじさんが摑みかかるよりも早く、ポケットから杖を抜き放っておじさんに突きつけた。
「父と母を侮辱したので、当然の罰を与えたまでです。人の両親を……あんな、あのような…………ッ!」
「ヒッ」
マージおばさんの言葉を思い出したのか、レイラの首がみるみるうちに赤く染まっていった。おじさんがたまらず呻き声を上げ、今にも杖から魔法が飛び出しそうだったレイラに向けて、冷たい水が掛けられたのだった。
水が掛けられたことによって、瞬時に冷静さを取り戻したレイラは、しばらくじっとしていたが、ゆっくりとバーノンおじさんに向けていた杖を下ろした。水を掛けてきたペチュニアおばさんを見つめていたが、レイラは玄関へと足を向けた。
最初に掛けられたよりも水が多かったらしく、赤髪は完全に濡れ、白いシャツも肌に張り付いてしまっている。
(ああ、せっかく新しく買っておいたカーディガンを着たのに。)
残念そうに、濡れたカーディガンの具合を確かめつつも、レイラは玄関へ着いて荷物を持つ。
「それでは、失礼します。おばさんをパンクさせてこなくては」
にっこりと微笑んで、レイラはダーズリー家を後にした。レイラは外で手紙を書くと、それをヘドウィグに咥えさせた。ヘドウィグは宛名を聞くと、すぐに羽ばたいて行った。
暗くなってきた空を見れば、喋る大きな風船が西へ向かって飛んでいた。
現実の世界で、人に水をかけることは絶対にしないでくださいね。捕まります。こんなの火曜サスペンスとかでしか見たことないですね。