ホグワーツ城の八階の壁にかけられた絵画の一つに、バーナバスという人物が、トロールにバレエを教えようとしている絵がある。その絵のちょうど反対側の壁が、必要の部屋への入り口となる。
壁の前で三往復しながら、部屋を探す者が必要とする部屋を思い浮かべることで、必要の部屋は存在を現す。アルフレッドはとりあえずレイラが休めるようにと、スリザリンの談話室を思い浮かべた。
用意された部屋のソファに、レイラは体を横たえていた。両手を腹の上で組んで目を閉じて、すでに三十分が経つ頃だった。なにやら思案顔をしていたので、椅子に座っているアルフレッドは静かに『吟遊詩人ビードルの物語』を読んでいた。
「豊かな幸運の泉」の話が佳境に入ったところで、レイラが起き上がってアルフレッドを見た。のそりとソファから立ち上がると、ゆっくりとした足取りでアルフレッドの側まで来た。
「ビードルか。どこまで読んだんだい?」
「……「豊かな幸運の泉」、アマータが三番目の障害を越えるために、己の記憶を引き出すところだ」
「自分が愛した恋人の記憶を、ね。わたしはあまり……ん」
手を後ろで組んで伸びをしたレイラは、相変わらずゆっくりとした動きでもって、椅子に座るアルフレッドの足元に綺麗な所作でひざまずいた。
突然のことに驚くアルフレッドを尻目に、レイラは希望に満ちたような清々しい笑顔を向ける。
「アマータ。どうかあなたの手と心をわたしにください」
見惚れるほどの笑顔をたたえたレイラは、「豊かな幸運の泉」の中でラックレス卿という騎士が、魔女のアマータに求婚する下りを演じていた。驚いてぽかんと口を開けているアルフレッドの姿を見て、レイラは堪え切れなくなってふにゃりと笑った。
「ここまで気の抜けた顔を見るのは、これが初めてだろうね」
レイラは立ち上がると、テーブルを挟んでアルフレッドの対面に着いた。からかわれたのだと理解したアルフレッドは本を閉じ、天井を見上げることで表情を隠した。
ようやく顔を戻した頃には、レイラは紅茶を出してくつろいでいるところだった。彼女は立ち直ったアルフレッドにもカップを差し出し、湯気を立ち上らせながら紅茶を注いだ。礼を言ってカップを受け取るアルフレッドの目には、レイラがひどく眠そうにしているように見えた。
「さっきは寝てたのか?」
船を漕ぎ始めそうなレイラに問えば、彼女は緩慢な動きで首を横に振った。先程の闇の魔術に対する防衛術の授業で何かあったのか、それとも普段からの疲れが溜まったのかとも心配したが、どうやらそうではないらしい。
「多分、燃焼日が近いんだ。大丈夫、眠い以外にはなんともない」
そう言ってあくびをかみ殺したレイラは紅茶を一口飲むと、同じようにカップを傾けるアルフレッドを眺めて唇に小さな笑みを作った。
「どうした?」胡乱な表情でアルフレッドがレイラを見つめ返す。
レイラは大したことじゃないと首を振り、カップの中に残った紅茶の奥底へと視線を移した。
「君はいつも、優しいな」
「……そうか」
再び視線をアルフレッドに向ければ、彼は気恥ずかしそうに顔を逸らした。レイラ自身、アルフレッドには感謝していた。いつも自分の側にいて、困ったときには助けてくれる。頼ってばかりではいけないと分かっているが、アルフレッドのやさしさに触れているうちに、その心地よさから離れられなくなっていた。程よい距離を保って、レイラを見守ってくれている。こちらから何か言う前に、助けの手を伸ばしてくれる。
――気の利くやつ。
そう言ってしまえば簡単だ。けれどレイラの胸の内で、そうではないと何かが否定する。大事なもののように思えるが、眠気のせいか考えがまとまらない。またしてもあくびを噛み殺し、レイラは思考を放棄した。
――このまま、続いていけばいい。
季節は変わり十月に入ったころ、ホグワーツの生徒たちは浮足立っていた。もうすぐ第一回目のホグズミードへ行く日がやってくるのだ。三年生以上は決められた日に、ホグワーツからほど近い場所に存在する、ホグズミードという村に出かけることが許される。この町はイギリスで唯一、完全にマグルのいない村として知られている。
生徒たちは村にある店で買い物や飲食をすることができるとあって、多くの生徒たち――特に今年三年生となった生徒たちは――その日が来るのを心待ちにしていた。
レイラはといえば、心躍らせることなどなく、アルフレッドと図書室で静かに過ごしていた。古代ルーン文字学の宿題の回答――古代ルーン文字で書かれた短い文章の翻訳――を何でもないようにさらさらと羊皮紙に書いていく。
十月になって、外の景色に雪が見え始めていた。そろそろ本格的に冷え込んでくる時期なので、何か羽織れるものが欲しいと考えているうちに、宿題が終わってしまった。一年生の時から独自に古代ルーン文字を勉強していたレイラにしてみれば、初級用の問題集など考え事をしながらでも楽にこなせた。
やることを終えたレイラたちは、寮へと戻るための道を歩いていた。するとかさかさと何かが地面を歩くような音が気こえてきた。二人は立ち止まってあたりを見回してみれば、目の前の廊下の曲がり角から、一匹のネズミが飛び出してきた。
ネズミは足を止めることなく、レイラの足元へと滑り込むように駆けてきた。レイラとしてはネズミには良い印象を持たず、触れたくもなかったので浮遊呪文で外に放り出してやろうかと考えた。
「待て、レイ」
「はあ?」
杖を取り出したところで、アルフレッドから待ったがかかる。
不機嫌さを隠しもせずに、レイラが隣のアルフレッドを見上げる。彼はレイラの代わりに杖を振ると、ネズミを浮かせる。それを見て、レイラは気持ちを落ち着けることにした。
「確かこいつは、ウィーズリーの飼っているネズミだったはずだ」
「ああ、そういえば飼っていたっけか」
そうして改めて、レイラは宙に浮かばされて手足をじたばたさせるネズミを観察した。まつ毛が長く――ネズミにもまつ毛があったことは意外だった――全体的に薄汚れていた。喧嘩でもしたのか、指が一本欠けているのが特徴的だった。
――確かロンのネズミは兄からのおさがりだったらしいけど、魔法界のネズミは寿命が長いのか? マグルの世界なら、せいぜい三年も生きればいいほうだろうに。
眠気からぼんやりとしながらも、その様なことを考え始めていたレイラの前で、明るい茶色の毛玉が飛び掛かってきた。毛玉はアルフレッドが浮かべているネズミに飛びつこうとするが、とっさにアルフレッドがネズミを浮かべる高さを上げたことで失敗していた。しかし今度はアルフレッドに飛び掛かった。
「おい、やめろ……待て、爪を立て――ッ!」
声にならない悲鳴を上げるアルフレッド。毛玉の正体はハーマイオニーの飼っている猫で、どうやらアルフレッドの浮かばせているネズミが目当てのようだった。
爪を立てて自分の体をよじ登ろうとしてくる猫を、アルフレッドは片手で必死に止めようとする。制服のシャツが所々裂けたのを見て、レイラはようやく手助けをしようと思い至った。猫を両脇から抱えるようにして掴み、アルフレッドから引き離す。なおも暴れる猫をそのまま飼い主の元まで連れて行こうかと考えたが、アルフレッドの傷や服を元に戻してやりたくて、猫を眠らせることにした。常若の国で習った魔法を猫にかけ、おとなしくさせる。すぐ傍にいたアルフレッドも少し眠そうにしていたが、気にせず傷を治してやることにした。
「ほら、治してやるから脱げ」
「ここで脱げるか!」
怒ったように、眠気を払う勢いで声を上げたアルフレッドに、レイラはきょとんとした。それから、くすくすと笑った。
「それもそうだな。……じゃあ、少しだけ捲って傷を見せて。さすがに怪我したまま隣を歩いてほしくないから、さあ」
絶対にここで治すと言わんばかりのレイラの言葉に、アルフレッドはため息を吐くと、素直にほんの少しだけ、猫に引っかかれた腹部を晒す。
「…………」
杖を構えたものの、レイラはすぐには呪文を唱えず、物思いでもするようにぼうっとしてしまった。
「どうした?」
見かねたアルフレッドが声をかければ、レイラは慌てるようにして「エピスキー 癒えよ」と唱えて、それからシャツの破れた個所も直した。
「これでよし。それじゃあ、この子たちを飼い主の元まで送ろうか」
何かあったのかと尋ねたそうなアルフレッドを無視して、レイラはさっさと歩きだした。
アルフレッドは不思議に思いつつも、置いて行かれまいとレイラの隣に歩み寄ったのだった。