ハリー・ポッターと不死鳥の姉   作:駆華野 志想之介

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守護霊

「リリー、レイラとハリーを連れて逃げろ! あいつが来た! 行け、行くんだ! 僕が食い止める。その間に君たちだけでも——」

 

 焦燥の中にあっても優しさを持った声が響く。声の主はよろめきながら部屋を出て行く。階段を降りる足音が途中で止まり、怒号が聞こえたと思いきや、重たい物が落ちる音がした。

 ベビーベッドにいる二人の赤ん坊を見つめ、深みのある赤毛の女性が涙を流す。

 

「あなたたちは愛されてるわ。とても愛されてるのよ。ママはあなたたちを愛してる。パパもあなたたちを愛してる。生き延びて、強く生きて。何があっても、私があなたたちを守るから」

 

 数瞬の沈黙。閉じられたドアが吹き飛ばされ、女性はびくりと肩を震わせ、静寂を破った場所を見つめる。ゆっくりと現れた、人ならざる者。何人たりとも対抗すること能わず、逃げることのできない黒い魔法使いがそこにいた。

 

「この子たちだけはどうか、まだ赤ちゃんなの。私はどうなってもいいから、レイラとハリーだけは——」

「どけ——小娘」

 

 それを前にしても、彼女は怯むことなく、自らと最愛の夫の子どもを守るために立っていた。

 

 甲高い嘲笑。

 そして、緑の閃光。

 

 声を上げることもなく倒れ伏す女性とは反対に、悲鳴を上げる闇の魔法使い。何かが弾け飛んだ衝撃で、部屋の中はずたずたになった。唯一、二人の赤ん坊と赤ん坊のいるベビーベッドだけが、無傷で残されていた。

 赤ん坊の一人は額に、もう一人の赤ん坊は左目に消えぬ跡を刻まれた。

 

 レイラはそれを見ていた。

 父親が部屋を出て行くところから、母が倒れるまでの全てを。声を出せず、体を動かすこともできないまま。

 

「くそ!!」

 

 汚い言葉が口をついて出る。そして瞬時に、今まで見ていたものが夢だったと悟った。——否。本当に夢だろうか? あれは紛れも無い現実だ。何も言えず、何もできなかったのは、自分が無力だったからだ。

 寝巻きの背や、胸元がじっとりと汗ばんで不快だった。それ以上に、胸中に渦巻く黒い感情が不快だった。長く伸びた深みのある赤毛が、母を思い起こさせる。癖のある毛先が、父親を思い起こさせる。

 隣を見れば、ブランケットがはだけたダフネがすやすやと寝息を立てている。談話室に降りれば、アルフレッドがいるかな?

 ありもしないことを考えて、レイラはかぶりを振った。安らかに眠るダフネにブランケットをかけ直してやり、再び横になった。

 

 

 

 木曜の夜八時、ハリーはグリフィンドール塔を抜け出し、「魔法史」の教室に向かった。着いた時には教室には明かりが点いていて、レイラが中にいた。

 

「やあハリー。ルーピン先生ならまだ来ていないよ」

 

 椅子の一つに腰かけ、授業を受けるかのような姿勢で待つレイラの二つ隣の席に座ることにした。待っていると、ほんの五分ほどで、ルーピン先生が現れた。一緒にルークも現れて、二人で重そうなカバンを運んできた。二人はカバンをビンズ先生が使う机の上に下ろした。

 

「なんですか?」

 

 ハリーが訪ねれば、ルーピン先生はちらりとレイラを見て、少しばつが悪そうに答えた。

 

まね妖怪(ボガート)だよ」

 

 ルーピン先生がマントを脱ぎながら答えた。

 

「火曜日からずっと、城中をくまなく探したら、ちょうどこいつがフィルチさんの書類棚の下にいてね。本物の吸魂鬼に一番近いのはこれだ。君を見たら、こいつは吸魂鬼に変身するから、練習にはうってつけなんだ。

 

「はい」

 

――なんの不安もありません。ルーピン先生が本物の代わりにこんなにも適したものを見つけてきてくれて嬉しいです――ハリーはそう、万感の思いを込めて頷いた。ボガートを使った授業で問題を起こしたはずのレイラを見れば、まったく気負った様子を見せず、ハリーに対してにこりと微笑みかけてきた。

 ルーピン先生は杖を取り出して、その場の全員に同じようにするよう促した。

 

「さて……これから教える魔法は、非常に高度な魔法だ――いわゆる“標準魔法レベル(ふくろう)”(O・W・L)資格をはるかに超える。『守護霊の呪文』と呼ばれるものだ。

「どんな力を持っているのですか?」

「呪文が上手く効けば、守護霊(パトローナス)が出てくる。いわば、吸魂鬼を祓う者――守護者だ。これが君と吸魂鬼との間で盾の役割を果たしてくれる」

 

 ハリーの中で途端に、ハグリッドのような姿の守護霊が、大きな棍棒を持って立ち、その陰に蹲る自分自身を思い浮かべた。同時に、とても難しいと聞き、ハリーは自分が魔法を身に着けられるのか不安になってきていた。ハリーは気づかなかったが、レイラがくすりと、口元を隠して笑みを浮かべていた。

 

「守護霊は一種のプラスエネルギーで、吸魂鬼はまさにそれを食らって生きる。――希望、幸福、生きようとする意欲などを――しかし守護霊は人間とは違い、そういったものを感じることは無い。だから吸魂鬼は守護霊を傷つけることができない。ただし、ハリー。一言言っておかなければならないが、この呪文はまだ君にはまだ高度過ぎるかもしれない。一人前の魔法使いでさえ、この呪文は使えない者が多い」

「守護霊はどんな形をしているのですか?」

「作り出す魔法使いによって、それぞれ異なった形をとる。心によった形をね。呪文を唱える時、何か一つ、一番幸せだった想い出を、渾身の力で思い浮かべたときに、初めてその呪文が効く」

 

 ハリーは幸せな思い出を辿ってみた。ダーズリー家でハリーの身に起こったことは、まずそれに当てはまらなかった。やっと、最初に箒に乗ったときのあの瞬間だ、と決めた。

 

「わかりました」

 

 ハリーは体を突き抜けるような、あの素晴らしい飛翔感をできるだけ忠実に思い浮かべようとした。

 

「呪文はこうだ——エクスペクト・パトローナム、守護霊よ来たれ!」

「エクスペクト・パトローナム」

 

 ハリーは小声で繰り返した。

 

「幸せな思い出に神経を集中させて」

「ええ——はい——」

 

 ハリーはそう答えて、急いで箒に初めて乗った時の心に戻ろうとした。

 

「エクスペクト・パトローナム」

 

 杖の先から、何かが急に吹き出した。一筋の銀色の光のようなものだった。

 

「いいぞハリー!」

 

 席に着いたまま見学していたレイラが歓声を上げる。ハリーは結果が出たことに興奮した。ルーピン先生が難しいと言っていた呪文が、自分にも扱えることが嬉しかったし、誰かに喜んでもらえることも嬉しかった。レイラも呪文を小さく唱えて守護霊を出そうとしていたが、白い靄が出るだけだった。自分のほうが、よりはっきりとした形だったことが、ハリーには嬉しかった。

 

「よくできた。よーし、それじゃあ、まね妖怪で練習といこうか?」

「はい」

 

 ハリーは杖を固く握り締めて、がらんとした教室の真ん中に進み出た。その後ろをレイラとアルフレッドも付いてくる。途中でアルフレッドがレイラの前に出て、レイラが少しむくれていた。

 ハリーは飛ぶことに心を集中させようとした。しかし、何か別のものがしつこく入り込んでくる。——また母さんの声が、今にも聞こえるかもしれない……今は考えてはいけない。さもないと、またあの声が聞こえてしまう。聞きたくない……それとも、聞きたいのだろうか?

 ルーピン先生が箱の蓋に手をかけ、引っ張った。

 ゆらり、と吸魂鬼が箱の中から浮かび上がった。フードに覆われた顔がハリーを向く。ぬめりを持って光るかさぶただらけの手が一本、マントを握っている。教室のランプが揺らめき、ふつりと消えた。吸魂鬼は箱から出て、音もなくゆらりとハリーの前にやってくる。深く吸い込み、がらがらという音が聞こえる。身を刺すような寒気がハリーを襲った——。

 

「エクスペクト・パトローナム!」

 

 ハリーは叫んでいた。

 

「エクスペクト・パトローナム、守護霊よ来たれ! エクスペクト——」

 

 しかし、教室も吸魂鬼も、視界に映る全てが次第にぼんやりしてきた。ハリーはまたしても、深い白い霧の中に落ちていった。母親の声がこれまでよりもはっきりと、頭の中で強く響いた気がした。

 

「ハリー!」

 

 ハリーはハッと我に帰った。床に仰向けに倒れていた。教室のランプはまた明るく灯っている。後頭部に柔らかな感触を感じる。上を見れば、心配そうに覗き込んでくるレイラの顔があった。すぐそばでルーピン先生もレイラと同じようにハリーを見ており、少し離れたところにルークが立っていた。ハリーは途端に恥ずかしくなり、重たい体を起こした。

 

「ハリー、大丈夫? なんなら、また明日にでも……」

「続ける! 僕は守護霊の呪文を覚えて、次のレイブンクロー戦に備えないといけないんだ。次の試合に負けたら、クィディッチ優勝杯を逃すことになる!」

 

 息巻くハリーの瞳をレイラがじっと覗き込む。自分の心の奥底を覗き込むような目に、ハリーは負けじと力強く見つめ返した。

 やがて観念したレイラは、ポケットからチョコレートを取り出してハリーに手渡した。

 

「わかった……ただし、思い浮かべるものは変えたほうがいい。箒に乗った思い出は、幸福とは少し違ったようだからね」

「うん」

 

 そうレイラが言ったときには既に、ハリーは立ち上がって思考に耽っていた。

 本当に幸せな思い出。……しっかりした、強い守護霊を作り出せる思い出。

 初めて自分が魔法使いだと知った時、ダーズリー家を離れてホグワーツに行くと分かった時! あの思い出が幸せと言えないなら、何が幸せと言えよう。……プリベット通りを離れられると分かった時の、あの気持ちに全神経を集中させ、ハリーは立ち上がって、もう一度まね妖怪の入った箱と対峙した。

 

「いいんだね?」

 

 ルーピン先生はやめたほうが良いのでは、という思いをこらえているようだった。

 

「気持ちを集中させて……行くよ——それ!」

 

 ルーピン先生は再び、箱の蓋を開けた。吸魂鬼が中から現れ、部屋が冷たく、暗くなった。

 

「エクスペクト・パトローナム! 守護霊よ来たれ!」

 

 ハリーの頭の中で、母親の悲鳴が聞こえ始めた。しかし、今度はそれに割り込むものがあった。自分たちが魔法使いだと分かり、レイラとともにプリベット通りを離れる時の思い出だ。ハグリッドと並んで歩き、ダイアゴン横丁を回った思い出。いくつもの思い出が、流れ込んでくるように思い出せた。

 そして、気づけば大きな銀色の影が、ハリーの杖の先から飛び出し、吸魂鬼とハリーの間に漂った。形は定かではないが、しっかりと吸魂鬼を阻んでくれていた。

 

「リディクラス!」

 

 背後からルークが飛び出してきて叫んだ。

 バチンと大きな音がして、気付いたときには吸魂鬼は消え、ルーピン先生が箱の蓋を閉めているところだった。すぐにレイラが駆け寄ってきて、ハリーの体を温めるように抱きしめながら、チョコレートを渡してくる。

 

「頑張ったねハリー、すごいじゃないか」

「よくやった! よくできたよハリー! 立派なスタートだ!」

「もう一回やってもいいですか? もう一度だけ」

「いや、今はダメだ」

 

 ルーピン先生がきっぱりと言った。

 

「一晩にしては十分すぎるほどだ。これ以上やったら、君は明日起きてこれないだろうからね」

 

 ルーピン先生はハリーにハニーデュークスの最も高価な板チョコを一枚くれた。

 

「全部食べなさい。そうしないと、私はマダム・ポンフリーにこっぴどく叱られてしまうからね」

 

 魔法史の教室からの帰り、途中でレイラとも別れて、ハリーは一人でグリフィンドール塔に戻っていた。

 チョコレートをいっぱい食べたのに、ハリーは疲れ果て、言い知れない空虚な気持ちだった。頭の中で、母の叫びの声が聞こえるのは、確かに恐ろしいが、幼い頃から一度も両親の声を聞いたことのないハリーにとっては、この時だけが声を聞くチャンスだったのだ。しかし、また両親の声を聞きたいと思っているうちは、決してちゃんとした守護霊を作り出すことはできない。両親は死んだのだ。

 

「母さんの声を聞いたからって、帰ってくるわけじゃない。クィディッチで優勝するつもりなら、しっかりしろハリー」

 

 もらったチョコレートの最後の一欠片を口に押し込み、ハリーはグリフィンドール塔に向かった。

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