愛しの青   作:はるのいと

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第十八章「素直になれなくて……」

「いい加減、元気出しなさいよ。ほら、これあげるから」

 

 有紀はうずらの卵を箸でつまむと、私の口元に運んできた。ひな鳥のごとく口を開け、親友からエサをもらうアラサー女。

 同僚たちが周りに大勢いる社食にも関わらず、恥も外聞もないこの行動――どうも歳を重ねてゆくごとに、段々と羞恥心が薄れてきてるような気がする。これが(ちまた)でよく聞くオバサン化、というやつなのだろうか?

 

「どう、少しは元気出た?」

 

 有紀の問いかけに、私は仏頂面で首を横にふった。うずらの卵1個で、元気が出るのであれば誰も苦労はしない。いくら飯食いの私でも、それほど単純には出来ていないのだ。

 そう思いつつもう一度、ひな鳥のごとく口をパクつかせる。すると有紀は呆れ顔を浮かべながら、今度は八宝菜の海老を放り込んできた。海老はもちろん大好物です。でもいまいち美味しいと思えない。

 

 理由は単純。青が突然いなくなったからだ。別れの言葉の代わりに、大量の手料理たちを残して……あの子が出て行ってから1週間が経つ。その事実は予想以上に私をへこませた。

 なんせ飯食いのアラサー女が、大好物をまえにしてもテンションが上がらないのだ。これは驚くべき事態である。どうやら今回の私は相当に重症らしい。当然ながら仕事のほうも全くやる気が出ない……まあ、それはいまに始まったことではないのだけど。

 

「奈々、これでよかったのよ。あの子とずっと暮らしていくなんて、どだい無理な話だったんだから」

 

「そんなの分ってる。でも青は私を庇って小鳥遊家に入ったのよ? そう考えると、やっぱり……」

 

「あんたがへこんでる理由は、本当に青ちゃんに対する罪悪感だけ?」

 

「……どういう意味よ」

 

 私の問いかけに、有紀は悪戯小僧のような笑みを浮かべた。こういう顔をした時の親友は、往々にして鋭いところをピンポイントでついてくる。

 

「もしかして、青ちゃんのこと本気で好きになっちゃったとか?」

 

「な、なにバカなこといってんのよっ!」

 

「はははっ、相変わらずあんたは分かりやすいわねえ」

 

「だから違うって――」

 

「一緒に暮らすのが無理なら、このさい付き合っちゃえばいいじゃない」

 

「はあっ? あんたなにいってんのっ! あの子はまだ16歳なのよっ?」

 

「だからなに? 真摯(しんし)な交際だったら、相手がたとえ未成年でも犯罪にはならないじゃない」

 

「そ、それはそうかもしれないけど……」

 

 相変わらずこの親友の思考回路はめちゃくちゃだ。でも彼女がいっていることは、あながち間違いでもなかった。私の気持ちがあの子に傾いているのは事実――。

 だからといってひと回りもの歳の差は、如何ともしがたい高いハードルなのである。それにいまや青は有名財閥の御曹司。かたや私は、どこにでもいるごく普通のアラサーOL。どう考えても有紀の提案は無謀というものだ。

 

「もしかして、あんた歳の差のことを気にしてる? もしそうなら、そんなことは小さな問題よ。世の中を見てみなさいよ、歳のひらいたカップルなんてごまんといるじゃない」

 

「……べつに歳の差なんて気にしてないわよ」

 

「じゃあ、付き合えばいいじゃない」

 

「あのねえ、なんか勘違いしてるようだけど……そもそも私はあの子に対して恋愛感情なんて持ちあわせてないの」

 

「本当に?」

 

 有紀が真剣な眼差しで見据えてくる。私はそんな親友から目を逸らすと、無言のままお茶を啜った。

 

「後悔してもしらないわよ」

 

「しつこいわね、後悔なんかしないわよっ!」

 

「あっそう。じゃあ、私はもうなにもいわないわ」

 

 有紀はふて腐れるようにいうと、止まっていた昼食を再開した。後悔なんてしないわよ……絶対に。私は自分自身にいい聞かせるように心の中で呟いた。

 

 

 

「帰りに一杯どう?」

 

 会社を出ると同時に、有紀が私の顔を覗きこんできた。彼女の一杯というのは、往々にしていつもかなりの深酒になる。正直、いまは友人とバカ騒ぎをする気にはなれない。という訳で――。

 

「ごめん、今日は止めとくわ」

 

「そっか……気持ちは分るけど、早めに切り替えなさいよ」

 

「うん、ありがとう」

 

 親友の温かい言葉を胸に、私は最寄の駅へと足を向けた。

 うわ、寒っ! ああ、早く帰ってお風呂に浸かりたい……心の底からそう思いつつ、溜め息交じりでスヌードに顔を埋める。身震いしながら暫く歩いていると、不意に背後から誰かに声をかけられた。

 

 えっ、ナンパ? まさかね、と思いつつ振り返る。するとそこには見知らぬ男性が佇んでいた。年の頃は60代、といったところだろうか。ロマンスグレーの髪の毛と、彫の深い顔立ち――。

 加えて均整のとれた体つきは、元モデルのオジサマといった感じがしっくりとくる。うーん、それにしても実に男前だ……っていうか誰この人?

 

「ええと……どちら様でしたっけ?」

 

 私の問いかけに、男性は無言というかたちで応えた。えっ、なに? このオジサマ、おもいっきり私のこと見つめてんだけど……。

 

「あ、あのう……なにか用ですか?」

 

「あっ、失礼。ちょっと見惚れていました」

 

 自慢じゃないが、私は他人から見惚れられるような容姿はしていない。もしかして、私ってからかわれてる?

 

「用がないなら――」

 

「息子がお世話になりました」

 

 私がその場をあとにしようとした時、男性はよく通る声でいった。息子って……この人、もしかして青の父親?

 

「あのう……もしかして葵君の?」

 

「ええ、父親です」

 

 男性はあっけらかんとした態度でいってのけた。

 小鳥遊祐――跡継ぎが事故で亡くなった途端、手のひらを返したように青を引き取りにきた大財閥の当主。実の息子を跡継ぎの道具としかみていない父親……私とは住む世界が違う住人だ。

 自分の体温が、急激に高くなってゆくのが手に取るように分かる。それとは対照的に、冷めたもう一人の私が口を開いた。

 

「それで、ご用件は?」

 

「特に用がるという訳ではないんですが……あえていうなら貴女に会ってみたかった、というところですかね」

 

 私に会ってみたかった? なにいってんのこの人……。

 

「あいにくですが、私は貴方と出会いたくなかったです」

 

「でしょうね。それはそうと、先日は使いの者が大変失礼しました」

 

 使いの者――ミュラー法律事務所・所長、川崎健介。水をぶっかけてやった時の記憶が途端に蘇る。それにしても、先日は使いの者が大変失礼しました? あんたがさせたくせに……。

 

「まあ、あの時はお互い様でしたから」

 

「はははっ、確かにそうですね。あのレストランで男に水をかけたのは、恐らく貴女が初めてでしょう」

 

 目の前の男は屈託なく笑い声をあげる。その表情はどこか青を思い起こさせた。ああ、やっぱり親子なんだ……。

 

「あの子は元気ですか?」

 

「いいえ」

 

 大財閥の当主は、当たり前のように即座に首を横に振った。私を庇ったせいで、最低な父親のもとへ行くはめになったのだ……元気な訳がない。わざわざ聞かなくても、答えは分りきっていた。だからこそ、私はこの男にこう尋ねずにはいられない。

 

「あの子に対して罪悪感とかないんですか?」

 

「ありません」

 

「血のつながった息子を、いままで放っておいたのに?」

 

「ええ――」

 

 パンっ! という乾いた音が通りに響き渡った。行き交う人々がこちらに目を向けてくる。気がつくと私は、目の前の男に強烈なビンタをかましていた。

 

「自分の都合であん子ば振り回して……なんぼ凄か大財閥の当主やろうが、うちからいわせれば、あんたは救いようのなかぼんくらたい」

 

「……博多の女性はきついですねえ」

 

 自嘲した笑み――この男は自分が犯した罪をちゃんと理解してる……この時、なぜか私は不意にそう思った。

 

「今度こそあの子を幸せにしてあげてください」

 

「ええ、あなたにいわれるまでもなく……」

 

 大財閥の当主は苦笑いを浮かべながら、独り言のように呟いた。そして私を見据えると、優しい表情でこう続けた。

 

「葵がどうしてあなに惹かれたのか、その理由がいま少し分ったような気がしました」

 

 男は口元をさすりながら微笑んだ。私に惹かれた理由? そんな大層な魅力なんて、この飯食いのアラサー女にはないわよ……。

 

「あの子が私に惹かれてるなんて、それはあり得ない勘違いです」

 

「そんなことはない。あなたといた時の葵はとても幸せそうだった」

 

 屈託なく微笑む青の顔が、目の奥に浮かんできた――。

 

「でもだからこそ、もうあの子には会わないで頂きたい。その理由は言葉にしなくても分って頂けますね?」

 

 アラサー女と16歳の少年。常識的に考えてあり得ない取り合わせだ。もう会わないほうがお互いの為……大財閥の当主が、わざわざ一人で私のもとに訪れた理由がいまようやく分かった。

 

 大丈夫よ、時間が経てばあいつも私のことを忘れるはず。楽しかった思い出もすべて……そう、大丈夫よ。これが私たちにとって最善の選択なんだわ。私は心の中で自分に何度もいい聞かせる。そして目の前の男に視線を合わせると、その色素の薄い瞳をしっかりと見据えた。

 

「心配しなくても、こっちも二度と会うつもりはありませんから」

 バイバイ、青――私は心の中で呟くと、相手からの言葉を待たずにその場をあとにした。

 

 

 

 べつに失恋した訳でもないのに……なにへこんでんよ、私はっ!そんなにあのガキと会えなくなるのが辛いの? いい加減にしなさいよ、奈々。あんたは、もう大人の女なのっ!

 

 そこそこの男を見つけて、結婚して子供を産んで、平凡だが幸せな家庭を築く。それを目指すのがアラサー女の定石。子供と恋愛なんて……そんなことをしてる暇は私にはもうないのよっ!

 

 そんな自問自答を繰り返しながら歩いていると、寒々とした空からぽつりと雫が落ちてきた。ったく今日の降水確率は0%だったのに……ほんとついてないわ。

 雨にうたれながら、駅を目指すことなく暫くあてもなく歩いた。無意味な自虐的行為――すると背後から誰かが傘を差し伸べてきた。振り返るとそこには見知った顔があった。

 

「篤志……」

 

「なにやってんだよ。風邪引くぞ」

 

「……ほっといてよ」

 

「なにかあったのか?」

 

「ないわよ。私みたいな三十路間近に、なにかなんてある訳ないでしょ……」

 

 強がりの言葉――そういった途端、自分の意志とは無関係に涙が溢れてきた。

 

「……奈々」

 

 最悪……こいつだけには泣き顔なんて見られたくなかった。心の中でそう呟いた時だった、私は利己主義の元カレに優しく抱きよせられた。

 

「ちょ、ちょっとなにしてんのよっ!」

 

「泣きべそな飯食い女を抱きしめてる」

 

 こんな時に限ってどうして優しくすんのよ……反則でしょうが。寒々とした雨音が響く都会の通り――私は心とは裏腹に篤志の胸に顔を埋めながら、子供のように泣きじゃくった。


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