「いい加減、元気出しなさいよ。ほら、これあげるから」
有紀はうずらの卵を箸でつまむと、私の口元に運んできた。ひな鳥のごとく口を開け、親友からエサをもらうアラサー女。
同僚たちが周りに大勢いる社食にも関わらず、恥も外聞もないこの行動――どうも歳を重ねてゆくごとに、段々と羞恥心が薄れてきてるような気がする。これが
「どう、少しは元気出た?」
有紀の問いかけに、私は仏頂面で首を横にふった。うずらの卵1個で、元気が出るのであれば誰も苦労はしない。いくら飯食いの私でも、それほど単純には出来ていないのだ。
そう思いつつもう一度、ひな鳥のごとく口をパクつかせる。すると有紀は呆れ顔を浮かべながら、今度は八宝菜の海老を放り込んできた。海老はもちろん大好物です。でもいまいち美味しいと思えない。
理由は単純。青が突然いなくなったからだ。別れの言葉の代わりに、大量の手料理たちを残して……あの子が出て行ってから1週間が経つ。その事実は予想以上に私をへこませた。
なんせ飯食いのアラサー女が、大好物をまえにしてもテンションが上がらないのだ。これは驚くべき事態である。どうやら今回の私は相当に重症らしい。当然ながら仕事のほうも全くやる気が出ない……まあ、それはいまに始まったことではないのだけど。
「奈々、これでよかったのよ。あの子とずっと暮らしていくなんて、どだい無理な話だったんだから」
「そんなの分ってる。でも青は私を庇って小鳥遊家に入ったのよ? そう考えると、やっぱり……」
「あんたがへこんでる理由は、本当に青ちゃんに対する罪悪感だけ?」
「……どういう意味よ」
私の問いかけに、有紀は悪戯小僧のような笑みを浮かべた。こういう顔をした時の親友は、往々にして鋭いところをピンポイントでついてくる。
「もしかして、青ちゃんのこと本気で好きになっちゃったとか?」
「な、なにバカなこといってんのよっ!」
「はははっ、相変わらずあんたは分かりやすいわねえ」
「だから違うって――」
「一緒に暮らすのが無理なら、このさい付き合っちゃえばいいじゃない」
「はあっ? あんたなにいってんのっ! あの子はまだ16歳なのよっ?」
「だからなに?
「そ、それはそうかもしれないけど……」
相変わらずこの親友の思考回路はめちゃくちゃだ。でも彼女がいっていることは、あながち間違いでもなかった。私の気持ちがあの子に傾いているのは事実――。
だからといってひと回りもの歳の差は、如何ともしがたい高いハードルなのである。それにいまや青は有名財閥の御曹司。かたや私は、どこにでもいるごく普通のアラサーOL。どう考えても有紀の提案は無謀というものだ。
「もしかして、あんた歳の差のことを気にしてる? もしそうなら、そんなことは小さな問題よ。世の中を見てみなさいよ、歳のひらいたカップルなんてごまんといるじゃない」
「……べつに歳の差なんて気にしてないわよ」
「じゃあ、付き合えばいいじゃない」
「あのねえ、なんか勘違いしてるようだけど……そもそも私はあの子に対して恋愛感情なんて持ちあわせてないの」
「本当に?」
有紀が真剣な眼差しで見据えてくる。私はそんな親友から目を逸らすと、無言のままお茶を啜った。
「後悔してもしらないわよ」
「しつこいわね、後悔なんかしないわよっ!」
「あっそう。じゃあ、私はもうなにもいわないわ」
有紀はふて腐れるようにいうと、止まっていた昼食を再開した。後悔なんてしないわよ……絶対に。私は自分自身にいい聞かせるように心の中で呟いた。
「帰りに一杯どう?」
会社を出ると同時に、有紀が私の顔を覗きこんできた。彼女の一杯というのは、往々にしていつもかなりの深酒になる。正直、いまは友人とバカ騒ぎをする気にはなれない。という訳で――。
「ごめん、今日は止めとくわ」
「そっか……気持ちは分るけど、早めに切り替えなさいよ」
「うん、ありがとう」
親友の温かい言葉を胸に、私は最寄の駅へと足を向けた。
うわ、寒っ! ああ、早く帰ってお風呂に浸かりたい……心の底からそう思いつつ、溜め息交じりでスヌードに顔を埋める。身震いしながら暫く歩いていると、不意に背後から誰かに声をかけられた。
えっ、ナンパ? まさかね、と思いつつ振り返る。するとそこには見知らぬ男性が佇んでいた。年の頃は60代、といったところだろうか。ロマンスグレーの髪の毛と、彫の深い顔立ち――。
加えて均整のとれた体つきは、元モデルのオジサマといった感じがしっくりとくる。うーん、それにしても実に男前だ……っていうか誰この人?
「ええと……どちら様でしたっけ?」
私の問いかけに、男性は無言というかたちで応えた。えっ、なに? このオジサマ、おもいっきり私のこと見つめてんだけど……。
「あ、あのう……なにか用ですか?」
「あっ、失礼。ちょっと見惚れていました」
自慢じゃないが、私は他人から見惚れられるような容姿はしていない。もしかして、私ってからかわれてる?
「用がないなら――」
「息子がお世話になりました」
私がその場をあとにしようとした時、男性はよく通る声でいった。息子って……この人、もしかして青の父親?
「あのう……もしかして葵君の?」
「ええ、父親です」
男性はあっけらかんとした態度でいってのけた。
小鳥遊祐――跡継ぎが事故で亡くなった途端、手のひらを返したように青を引き取りにきた大財閥の当主。実の息子を跡継ぎの道具としかみていない父親……私とは住む世界が違う住人だ。
自分の体温が、急激に高くなってゆくのが手に取るように分かる。それとは対照的に、冷めたもう一人の私が口を開いた。
「それで、ご用件は?」
「特に用がるという訳ではないんですが……あえていうなら貴女に会ってみたかった、というところですかね」
私に会ってみたかった? なにいってんのこの人……。
「あいにくですが、私は貴方と出会いたくなかったです」
「でしょうね。それはそうと、先日は使いの者が大変失礼しました」
使いの者――ミュラー法律事務所・所長、川崎健介。水をぶっかけてやった時の記憶が途端に蘇る。それにしても、先日は使いの者が大変失礼しました? あんたがさせたくせに……。
「まあ、あの時はお互い様でしたから」
「はははっ、確かにそうですね。あのレストランで男に水をかけたのは、恐らく貴女が初めてでしょう」
目の前の男は屈託なく笑い声をあげる。その表情はどこか青を思い起こさせた。ああ、やっぱり親子なんだ……。
「あの子は元気ですか?」
「いいえ」
大財閥の当主は、当たり前のように即座に首を横に振った。私を庇ったせいで、最低な父親のもとへ行くはめになったのだ……元気な訳がない。わざわざ聞かなくても、答えは分りきっていた。だからこそ、私はこの男にこう尋ねずにはいられない。
「あの子に対して罪悪感とかないんですか?」
「ありません」
「血のつながった息子を、いままで放っておいたのに?」
「ええ――」
パンっ! という乾いた音が通りに響き渡った。行き交う人々がこちらに目を向けてくる。気がつくと私は、目の前の男に強烈なビンタをかましていた。
「自分の都合であん子ば振り回して……なんぼ凄か大財閥の当主やろうが、うちからいわせれば、あんたは救いようのなかぼんくらたい」
「……博多の女性はきついですねえ」
自嘲した笑み――この男は自分が犯した罪をちゃんと理解してる……この時、なぜか私は不意にそう思った。
「今度こそあの子を幸せにしてあげてください」
「ええ、あなたにいわれるまでもなく……」
大財閥の当主は苦笑いを浮かべながら、独り言のように呟いた。そして私を見据えると、優しい表情でこう続けた。
「葵がどうしてあなに惹かれたのか、その理由がいま少し分ったような気がしました」
男は口元をさすりながら微笑んだ。私に惹かれた理由? そんな大層な魅力なんて、この飯食いのアラサー女にはないわよ……。
「あの子が私に惹かれてるなんて、それはあり得ない勘違いです」
「そんなことはない。あなたといた時の葵はとても幸せそうだった」
屈託なく微笑む青の顔が、目の奥に浮かんできた――。
「でもだからこそ、もうあの子には会わないで頂きたい。その理由は言葉にしなくても分って頂けますね?」
アラサー女と16歳の少年。常識的に考えてあり得ない取り合わせだ。もう会わないほうがお互いの為……大財閥の当主が、わざわざ一人で私のもとに訪れた理由がいまようやく分かった。
大丈夫よ、時間が経てばあいつも私のことを忘れるはず。楽しかった思い出もすべて……そう、大丈夫よ。これが私たちにとって最善の選択なんだわ。私は心の中で自分に何度もいい聞かせる。そして目の前の男に視線を合わせると、その色素の薄い瞳をしっかりと見据えた。
「心配しなくても、こっちも二度と会うつもりはありませんから」
バイバイ、青――私は心の中で呟くと、相手からの言葉を待たずにその場をあとにした。
べつに失恋した訳でもないのに……なにへこんでんよ、私はっ!そんなにあのガキと会えなくなるのが辛いの? いい加減にしなさいよ、奈々。あんたは、もう大人の女なのっ!
そこそこの男を見つけて、結婚して子供を産んで、平凡だが幸せな家庭を築く。それを目指すのがアラサー女の定石。子供と恋愛なんて……そんなことをしてる暇は私にはもうないのよっ!
そんな自問自答を繰り返しながら歩いていると、寒々とした空からぽつりと雫が落ちてきた。ったく今日の降水確率は0%だったのに……ほんとついてないわ。
雨にうたれながら、駅を目指すことなく暫くあてもなく歩いた。無意味な自虐的行為――すると背後から誰かが傘を差し伸べてきた。振り返るとそこには見知った顔があった。
「篤志……」
「なにやってんだよ。風邪引くぞ」
「……ほっといてよ」
「なにかあったのか?」
「ないわよ。私みたいな三十路間近に、なにかなんてある訳ないでしょ……」
強がりの言葉――そういった途端、自分の意志とは無関係に涙が溢れてきた。
「……奈々」
最悪……こいつだけには泣き顔なんて見られたくなかった。心の中でそう呟いた時だった、私は利己主義の元カレに優しく抱きよせられた。
「ちょ、ちょっとなにしてんのよっ!」
「泣きべそな飯食い女を抱きしめてる」
こんな時に限ってどうして優しくすんのよ……反則でしょうが。寒々とした雨音が響く都会の通り――私は心とは裏腹に篤志の胸に顔を埋めながら、子供のように泣きじゃくった。