12時10分 社食。
「めっちゃ楽しかったなあ……」
「あっそ、そりゃようござんしたね」
私は目の前でうっとり顔を浮かべている有紀を、冷めた目で見つめた。最近、男が出来たこの親友は、週末開けのたびにおのろけ話を披露する。正直いって、そのての話はシングル女にとっては、不愉快以外のなにものでもないのだ。
早いもので嘘つき青からの手紙を読んだあの日から、2年が経過していた。本日をもって、私もとうとう悪夢の30代に突入である。因みに料理教室のおかげで、その腕まえはいまやかなりのものになっていた。
だが相変わらず食べさせる男はいない……はっきりいってこれは
17時30分。本日も無事に仕事を終えると、いつものようにロッカーで着替えを始めた。ちょうどその時だった、スマートフォンが着信を告げてきた。液晶画面には見慣れた番号――。
「なんか用?」
「つれないなあ……誕生日おめでとう」
「めでたくなんていわよっ!」
「はははっ。まあ、そうだろうな。因みに今年も相変わらずシングルか?」
「うっさい、余計なお世話よっ!」
「相手がいないなら、付き合うぜ」
篤志はおどけるようにいってきた。因みにこの男とぼんくら女の見合いは、見事破談に終わった。原因はぼんくら女が、篤志を捨てて本命に走ったからだ。
悲劇のお見合い相手――ぼんくら女の父親である専務は、篤志に手厚く謝罪してきたそうだ。ようするにこれは、上司にひとつ貸しを作ったということになる。野郎の出世コースをひた走るという当初の目的は、結果的には成功した。ったく相変わらず悪運の強い男である。
「アホか、男なんて両手に余るほどいるわよ」
「そうか、それは残念だ」
「っていうか、あんたも私なんか誘ってないで、そろそろ他の女でも探したら?」
「こっちはどっかの三十路と違って、そこまで焦る必要はなんいんでね」
「今度、三十路っていったらグーで殴るわよ」
「おお、怖い」
「そんじゃ、もう切るわよ……それと一応、ありがとう」
「ああ。それじゃ、
なにが ”よろしくな” よっ! 心の中でそう叫びながら、私は電話を切った。すると途端に強烈な虚しさが襲ってきた。30女の見栄丸出しの嘘……。
だがいわずにはいられなかった。それになにが悲しくて、元カレと誕生日を祝わなきゃならないのよ。私は溜め息を漏らしながら、着替えを再開した。
会社を出ると、相変わらずの寒さが私を襲ってきた。このまま帰るのもなんだなあ……KARUで一杯飲んでくかあ。私はそう思いつつ、行きつけのBARへと足を向けた 。
ほんの一杯のつもりが……今日が私の誕生日だと知ると、KARUのマスターはシャンパンを1本サービスしてくれた。まあ、残すのも悪いしなあ……というわけで全部一人で飲んだ。
すきっ腹にシャンパン750mlとカクテル2杯――ベロ酔いとまではいかないが、かなりいい気分である。腕時計に目を向けると、時刻は21時45分を示していた。明日も仕事だし、そろそろ帰るか……。
会計を済ませて外に出ると、さっきのような寒さは感じなかった。アルコールという名の毛皮が、私を寒さから守ってくれているのだろう。
作田奈々・30歳。自分でいうのもなんだが、結構な詩人です。そういえばあの子と出会ったのも、たしかこんな日だったあ……私はそう思いつつ、青と出会ったネオン輝く銀座通りに足を向けた。
銀座通りは相変わらず、待ち合わせやカップルたちで溢れている。このあたりは幸せな人ばかりだ。少しはおすそ分けしてほしいもんだわ……。
私は溜め息交じりで手近なベンチに腰を下ろした。そして酔いに任せて、幾分重くなった瞼を閉じてゆく。すると隣に誰かが腰を下ろしてくる気配を感じた。
ベンチは他にも沢山あるのに、なぜにわざわざお隣に? ナンパだろうか……あり得なくもないが、可能性は低い。なぜなら私は生まれてこのかた、ナンパされたことがないからだ。
因みに電車通勤にも関わらず、痴漢被害も皆無です。これは親友の有紀にも話していない。っていうか誰にもいってない。このことは墓場まで持っていく所存だ。そんなことをあれこれ考えていると、隣の誰かさんが話しかけてきた。
「あんたみたいな良かおなごが、こげんとこで寝とったら危かよ」
発音がめちゃめちゃな博多弁。だけどその声はあの頃と変わらず、とても綺麗に澄んでいた。
「誰が寝とるって? あいにく、うちはいまナンパ待ちたい」
「おおっ! そいは都合ばよか。こっちもあんたを、ナンパしようち思っとったところなんや」
「悪かばってん、うちはガキには興味はなかとよ」
「……もうガキじゃないよ。18歳は立派な大人っ!
「結婚って……そういう発想がガキだっていってんのよ」
私は小さく微笑むと、ゆっくりと瞼を開いた。すると隣にはあの頃よりも、男らしくなった青の姿があった。
「久しぶり。ちょっと縮んだんじゃない?」
「バカ、あんたがデカくなったのよ」
「元気だった?」
「まあ、それなりにね。そっちは?」
「まあ、僕もそれなりに」
青はそういうと、静かに私を見据えてきた。色素の薄い栗色の瞳が、宝石のように輝いている。そう、あの頃となにも変わらずに……。
「それで本日のご用件は?」
「分ってるでしょ」
「さあ? 全然分りません」
「手紙に書いたあの賭け覚えてる?」
「ええ、覚えてるわよ」
「あれねえ……どうやら僕の勝ちみたいだよ」
青は得意げな表情で見つめてきた。
「ったく、あんたもしつこい子ねえ……」
「一途っていってよ」
「あのねえ、いっとくけど私は今日で30歳になったの」
「知ってるよ」
「女30。色々な意見はあるけれど、一般的には結構、崖っぷちの待ったなしなのよ」
「知ってるよ」
「未来のない恋愛で、時間を無駄にしてる暇は私にはないの」
「知ってるよ」
「知ってるよ、知ってるよってねえ……あんた本当に分ってんの?」
「分ってる。だからこれが僕の覚悟の証――」
青はそういうと、ポケットからA3サイズほどの用紙を取り出した。そしてなにくわぬ顔で、それを私に差し出してくる。ええと、これは俗にいう婚姻届というやつですなあ……ええっ、婚姻届っ!
夫の欄にはすでに小鳥遊葵と書かれている。私はハッとして顔を上げると、目の前の元性奴隷に目を向けた……めっ、めっちゃニコニコしてるし。
「あ、あのさあ……こ、これってマジ?」
「超マジ」
「超マジって……あんたまだ18でしょ?」
「だから?」
「だからって……あ、あの厄介なお父さんのことはどうすんのよ」
「♪ ケーセラ~セラ~、なるようになるさあ~ ♪」
「いやいや、ならないでしょ」
「大丈夫。絶対、僕がなんとかするっ!」
「なんとかするって……」
「だからあの手紙の約束通り、今日は奈々の本音を聞かせて」
私の本音って……いきなりの急展開で頭がぼーっとする。っていうかこれは単純にお酒のせいか……今頃になってボディーブローのように効いてきたわ。
やっぱりシャンパンって、なんっていうか魅惑的なお酒なのね……いやいや、いまはそんなことどうでもいいのよっ! プロポーズ、これはもろにプロポーズよっ!
どうする? ねえ、どうすんの? 奈々っ! 私の次の言葉を、青は固唾を飲んで待っている。ど、どうしよう……。取りあえず、この重苦しい沈黙は耐えられない。なんでもいいから、しゃべんなきゃ……。
「あ、あのさあ、まえから思ってたんだけど……」
「うん、なに?」
青は緊張した様子で、生唾を飲み込んだ。そして期待を膨らませた大きなおめめが、何度も瞬きをしている。そんな彼を見つめながら、私はおもむろに口を開いた。
「そのカーボーイハット……全然似合ってないよ」
私のこの発言に、青は当然のごとく無表情のまま固まった。すると暫しの沈黙が二人の間に流れだす。そして見つめ合う30女と元性奴隷。程なくして自分の失言に気付いた私は、この真冬にも関わらず、薄っすらとかいた額の汗を拭いながら口を開いた。
「す、すまん……いきなりの急展開に、ちょっとテンパった」
「気持ちは分るけどさあ……それじゃ、仕切り直しね」
青は溜め息交じりでいうと、もう一度真剣な眼差しを向けてきた。どうやら私も腹を括らねばならないようだ。
瞼を閉じて深呼吸を一つ。余計なことは考えるな、大事なのは自分自身の素直な気持ちだ……数十秒後、私は静かに瞼を開いた。そしてゆっくりと、青に視線を合せてゆく。
「どしても私じゃなきゃダメなの?」
「うん」
「……マザコン」
「マザコンっていうほど、年は離れてないじゃん」
「諦める気は?」
「さらさらない」
「早やっ」
「奈々こそ、もう諦めたほうがいいんじゃない? じゃなきゃ最悪の場合、僕はあなたのストーカーになっちゃうよ」
呆れた脅し文句。ったく相変わらず無茶苦茶なんだから……でもまあ、この子のいう通りね。よしっ! 宴もたけなわ、それでは清水の舞台から飛び降りるとしますか――。
「ストカーは流石に困るわねえ……それじゃ、しょうがないから謹んで申し出をお受けしますわ」
私の答えに青は瞳に涙を溜めながら微笑んだ。これじゃ、男女の立場がまるっきり逆でしょうが……でもしょうがないか、だって相手は年下の男の子だもんね。私は心の中で呟く――。
ちょうどその時だった、青がスローモーションで私に近づいてきた。まあ、当然こうなるでしょうね……私はゆっくりと瞼を閉じてゆく。
重なる柔らかい唇の感触――行き交う人々のからかう声が鼓膜に届く。気にしない、気にしない。一休さんの精神でいこう。それにしても三十路にして人生初の路チュー……流石にテレます。
暫くすると、重なっていた青の唇が静かに離れた。私はゆっくりと瞼を開く。色素の薄い綺麗な瞳。きめの細かい色白な肌。私よりも長くてくりんとカールしたまつ毛。私だけの天使は、照れくさそうに微笑んでいた。ったく腹立つくらい可愛いわ……あっ、や、やばい――。
「ひっく、ひっく――」
作田奈々・30歳。ずぼらで飯食いな私はまたもやこの天使に、ときめいてしまったようだ。全くもって本当に懲りない女です。
ほんの数年前までは、自分には平凡な人生がお似合いだと思っていた。だがあの日、3年物の男にフラれ、私は一人の天使を拾った。
自由奔放で天真爛漫。私の生活は、もうひっちゃかめっちゃか。でもその一方で、彼には身も心も本当に癒された。あの日の出会いがなければ、正直いまの私はなかっただろう。
そう考えると人との出会い、そして人生とはかくも不思議なものだ……などど偉そうに人生訓を述べる三十路女。それはそうと、青は私が料理の腕を上げたのを知らない。はっきりいって、いまではやつを凌ぐ腕前になっているはずだ。
という訳でようやく ”ビストロ奈々” の開店である。初めてのお客はこの頼りない未来の旦那様に決定だ。30歳になった途端に肉欲系女子になった私は、心の中でそう呟きながら、目の前で微笑む
「愛しの青」完