目の前の墓石に敬意を表する男に、正式な名前はない。戦士として、兵士として、様々な名前を背負ってきた。ソリッド・スネーク。多くの人間から、彼はそう呼ばれていた。
この
スネークと同じように、彼女も決まった名前を持っていない。ザ・ボス。それが、彼女のコードネームだった。二次大戦中には特殊部隊の母と呼ばれていた彼女は、戦後ソビエト連邦に亡命し、自らの弟子によって命を断たれた。
雨粒が、スネークのスーツを濡らす。本来なら、長居をするべきではないのだ。スネークは、世界的な指名手配犯なのだから。
昨年――2009年の、汚染物質除去施設、ビッグシェルの占拠事件。ソリッド・スネークは、そのテロの主犯の濡れ衣を着せられていた。スネークだけではない。彼の相棒であるハル・エメリッヒも、同じく指名手配されていた。
スネークとエメリッヒの出会いは、2005年にまでさかのぼる。その時、エメリッヒはアラスカの孤島シャドーモセスで、大手軍事会社アームズ・テックの研究員として、シャドーモセスで悪魔の兵器の開発に手を貸していた。
メタルギア。スネークのコードネームを持つ一群を苦しめ続ける、二足歩行型の核搭載戦車。またエメリッヒの一族も、核の呪いを背負い続けている。
そのエメリッヒからの報告を聞き終えると、スネークは墓地を後にした。感慨に耽る時間はない。エメリッヒからの「愛国者たち」の調査結果は、驚くべきものだった。その秘密結社のメンバーは、すでに100年以上昔に他界しているというのだから。ブラフを摑まされた。その悔しさがこみ上げてくる。
「愛国者たち」は、この世の経済、規範そのもの。その束縛から解放されようとしていたもう1人のスネークが、確かそう言っていた。そして彼らは、世界そのものを統制することに成功したのだ。
もはや、スネークたち「フィランソロピー」は、メタルギアを相手取るだけでは済まなくなっている。その兵器の影には、必ずと言っていいほど、「愛国者たち」の姿がちらつくのだ。
新しいタバコに火をつけようとしたところで、また通信が入った。もう1人の、スネークのコードネームを持っていた男。彼は、ソリッドやリキッド、ソリダスとは違い、人間から産まれ、両親から愛を注がれ、育った。その両親が殺されて以来、彼は戦場で、「白い悪魔」の異名を持つほどの活躍を見せる。だが、それは若いジャックには、あまりにも辛すぎる経験だった。だから、彼は自らの人生に蓋をした。「白い悪魔」としての記憶を、無意識のうちに封じ込めた。
そんな彼が蛇の名を背負ったのは、去年のビッグシェル事件だった。海洋の汚染除去施設が、テロリストによって占拠。彼らは、伝説の英雄ビッグボスの遺体を要求している。そんなものは、ブラフにすぎなかった。
一般的な兵士を、ソリッド・スネークとして育てることができるのか。それが、その計画の本当の意味だった。シャドーモセスを再現した、ただの実験に過ぎなかったのだ。
だが、ジャックは見事に、ソリッド・スネークの殻を破り捨てて、自らの人生を手に入れた。雷電。スネークとエメリッヒは、彼をそう呼んでいた。
〈サニーを見つけた〉
久しぶりの会話だというのに、ジャックはいきなり本題を切り出した。「愛国者たち」の人質として囚われた、オルガの娘。その捜索も、スネークたちの目的の1つだった。
「場所は?」
〈日本だ。……スネーク。俺は、サニーを助けには行けない〉
「何? 雷電。今どこにいる」
〈探し物の途中だ。……スネーク。日本に行くんだ。サニーを助けてやってくれ〉
そう告げると、雷電は電話を切った。実を言うと、ジャックとは、ここ最近連絡を取っていなかったのだ。どうも、恋人のローズマリーとうまくいっていないらしい。スネークの友人であるキャンベルからは、そう教えられていた。
どうやら、エメリッヒにも同じ連絡があったらしい。2人が隠れ家にしている廃墟に着くや否や、エメリッヒはスネークに、最新型のスニーキング・スーツを装着させた。
「スネーク。日本は銃の持ち込みが禁止されている。でも、『愛国者たち』の縄張りに行くのならば、身を守るものが必要だ」
ブリーフィングだ。スネークはタバコに火をつけてから、先を促す。
「キャンベルが
とはいえ、エメリッヒには航空機を操縦する技術などありはしない。半オート機能が搭載された高性能機だからこそ、エメリッヒは安心して操縦席に座ることができるのだ。
もともと特殊部隊に身を置いていたスネークにとって、高高度降下低高度開傘――通称ヘイロウ降下なんてものは慣れっこだった。
「雷電からの連絡の後、一通のメールが送られてきた。ウィルスは検知されなかった。送り主は不明だけど、恐らく雷電だろう。……本文はなし。ただ、一枚の画像が添付されていた」
壁に貼られたスクリーンに、大きく少女の画像が写される。森の前に、1人の少女が立っていた。ぼやけているが、所々に、オルガの面影がある。恐らく、彼女がサニーなのだ。サニーは、軍用のジープに乗せられていた。彼女を護衛するかのように、両脇に目出し帽を被った兵士が座っている。
画像の解析が終わったのか、スクリーンに、彼女の推定年齢、身長、体重、背景の木々の種類が表示される。そして、暫定的な撮影場所も。場所は、やはり日本だった。
「長野……。スネーク。『愛国者たち』は、なんたって日本の長野県に?」
「日本の地理に詳しくないからなんとも言えんな」
「正直、長野どころか日本自体が、サニーを監禁しておくにはあまり適していないんだ。さっきも言った通り、日本では銃の所持が禁止されている。……ん?」
エメリッヒが、何かに気づく。そして、彼女の脇を固める兵士の、肩の部分をズームアップした。
「これは……プレイング・マンティス社のマークだ。イギリスのPMCだよ」
ビッグシェルの事件が元米軍の特殊部隊の連中だったこともあり、米国は、世界に兵士を派遣することを躊躇っていた。その代わりに台頭してきたのが、民間軍事企業だ。プレイング・マンティス社も、その1つだった。
「イギリスのPMCが、日本で何をしているんだ?」
「さあ……。スネーク。日本に行こう」
3日後の、午前2時。キャンベルの計らいで、午前2時から3時の間、自衛隊の持つ対空レーダーをオフにしてもらっているのだ。キャンベルのコネを使っても、日本による協力はそれだけだった。見つかれば逮捕。テロリストとして知られているスネークは、死刑は免れない。
〈減圧開始〉
エメリッヒからの通信が入る。15分後には、スネークはハッチから飛び出し、パラシュートを背中にダイブしているのだ。だというのに、スネークには緊張の色は見られない。タバコを吸いながら、悠々と装備のチェックを行っていた。
潜入任務の基本は、現地調達。大きな武器を持って潜入すれば、敵に見つかりやすくなるだけだ。スネークの装備は、M9をカスタムした麻酔銃だけだ。スライドが固定されているから手動で一発ずつ装填しなければならない部分は厄介だが、この武器に装着されている完全消音型のサプレッサーは、潜入任務には欠かせない。
遂に、ハッチが口を開く。猛烈な風がスネークを外に出そうとするが、手すりに捕まることもなく、彼は耐えていた。まだ、作戦開始のゴングは鳴っていない。
〈スネーク。行くよ〉
スリー・カウント。エメリッヒの数えるそれがゼロになると同時に、スネークは鳥になった。
風を切り、雲を切り、ブロッコリーが群生しているような森が見える。気圧のせいか、一瞬だけ、スネークの意識がシャットダウンした。もう若くはない。ビッグボスのクローン故に人の数倍も早く訪れる老いが、スネークを苦しめている。
ソリッドもリキッドも、もともと自然界から産まれた蛇ではない。
その計画を発案したのは、かつてビッグボスの友人であった男。彼もまた、決まった名前は持っていなかった。ゼロ、デイビッド・オゥ、サイファー。様々な名前があるが、ビッグボスは、彼のことをゼロと呼んでいた。
冷戦下、ザ・ボスがソビエトに亡命した本当の理由。それは、「賢者の遺産」と呼ばれる、第二次世界大戦中にあった軍事同盟「賢人会議」の遺した、莫大な資金だった。
ゼロはその資金を基に、ビッグボスや、パラメディックの通称を持つクラーク博士、シギントの名を持つドナルド・アンダーソンらと共に、
コブラ部隊にとってのザ・ボスのように、「愛国者たち」にも、彼女のような
組織のイコンに、反乱の意思を持たせてはならない。それだけの理由で、ソリッドとリキッドは、元々の寿命を短く設定されていた。
目標の高度に到達したところで、パラシュートを展開する。森林の中での高高度降下低高度開傘は困難を極めるが、そこは不可能を可能にすると言われている伝説の兵士だ。困難と言われるそれを、難なく最高させた。
何層にも重なる葉が月明かりを隠し、辺りは一層に暗かった。スネークは手近な大木の陰に隠れて、エメリッヒに通信を送る。耳小骨を直接振動させるそれは、敵にブザー音を聞かれることもない。さらにストロー・マイクシステムを導入しているから、声を出す必要もなかった。
「こちらスネーク。着地に成功」
――返事がない。ただ砂をかき混ぜるような音だけが、スネークの鼓膜を刺激した。しばらくそれが続いた後、唐突に通信が切れる。どうやら、故障してしまったらしい。スネークはM9を抜くと、ゆっくりと歩き出した。
自然の持つ波と、自分の精神を統一させることにより、驚くべきほどの隠密能力を手に入れることができる。長年戦場を歩いて手に入れたそれを、スネークは「スニーキングモード」と呼んでいた。
数歩進んだだけで、猛烈な動悸がスネークを襲った。過労のせいではない。明らかに、周囲の空気がおかしかった。脳みそをかき混ぜられているような不快感に、思わずそこに嘔吐する。遂には体内のバランスもおかしくなり、スネークはその場にしゃがみこんだ。
足音が聞こえてくる。倒れるわけにはいかなかった。もう一度精神をスニーキングモードに変性させると、幾分か吐き気はましになる。スネークはなんとか立ち上がると、音のする方向へ銃口を向けた。
ぱくりと、目の前の草が割れる。
そこにいたのは、1人の少女だった。それでも、スネークは警戒を解かない。少年兵など、この時代にはありふれている。時間も時間だ。目の前にいる子どもは、恐らく普通の子どもではない。
「おじさん、何してるの?」
少女はそう言って、首をかしげた。
「……君は?」
そう尋ねると、
「ルーミア! お腹が空いたから、死体を探してるの」
「死体?」
「そう、人間の」
――やはり、ただの子どもではない。戦場に転がる嗅ぎ慣れた匂いが、ルーミアからも放たれていた。
「おじさんも食べるのか?」
「え? 食べないよ、面倒臭いし。あと、まずそう」
まずそう。面と向かってそう言われると、スネークも少なからず傷ついてしまう。
とにかく、警戒の必要は無さそうだ。そう判断して、スネークがM9を下げようとした、その時。
ルーミアとスネークの間に、鉄製の筒が転がってきた。――スモークグレネードだ。そう判断したスネークは、すぐさま数歩後退する。白色の、化学物質を多分に含んだ煙が周囲に充満する。
「ルーミア! 目を閉じて、口を覆え! なるべく姿勢を低くするんだ!」
しかし、聞こえるのはルーミアの咳き込む音ばかり。いくら人体に影響はないとはいえ、あんな子供が吸い込んでいいものではない。駆け出そうとしたところで、何者かに、襟首をぐいと掴まれた。
「うぉ……だ!」
「走るよ!」
たった一言。その一言が、スネークにはひどく懐かしく聞こえた。俺は、この女を知っている。スネークの本能がそう告げる。
しばらく走ると、女はようやく立ち止まった。息を整えながら、彼女の姿を確認する。
「お前は……」
なん年ぶりだろうか。彼女と出会った時、スネークはまだ、自分の出生も知らなかった。
ホーリー・ホワイト。ザンジバーランドの幻影が、そこにいた。