『最悪にして奇跡の事件』から一ヶ月。多大な損害を受け破綻するかと思われた東京エリアの経済は一切の滞りなく運行し、都市部の賑わいはまるで
事件の死者の行方、増加した精神病院の入院患者、石になった人間、事件を予知していた子供。テレビやネットニュースではなんてことのないように、或いは他人事のように、かつて通り情報を垂れ流している。
「……はぁ」
窓から射し込む光のみが照らす薄暗い部屋。天童民間警備会社のオフィスにて、たった一人、天童木更はため息をついた。
1月前の事件の日から里見蓮太郎は行方不明となった。同様に100万を超える人が行方不明となり、それらは全て既に死亡したものとして処理されている。
藍原延珠はプロモーターが死亡したためIISOに引き取られた。そう遠くない内に別の誰かのイニシエーターとして派遣されるだろう。
継続が不可能となった天童民間警備会社は廃業し、数日後このビルからも引き払うことになっている。
木更は、蓮太郎が死んだのにも関わらず、まず事務的な手続きを終わらせることを優先した自分に嫌気が差していた。自分はそんなに冷たい人間だったのか。やるべきことがなくなってなお、木更の心は機械的なままだった。
そんな時だった。予想外の人物が木更を訪ねたのは。
「調子はどうかな? ミス天童」
時が止まった部屋に、布がばさりとはためく音が鳴る。木更が顔を上げれば、声の主は燕尾服を身に纏った長躯の男。顔を隠した笑い顔が、木更に優しく微笑みかける。
「……最悪よ」
東京エリアを揺るがす大犯罪者。『最悪にして奇跡の事件』を引き起こした元凶。指名手配犯・蛭子影胤を前に、木更は返事を以て応えた。
「それは重畳。君に良い報せがある」
「そう。で、私に何の用かしら?」
影胤の言葉を無視して問う木更。纏う空気。隠されることのない倦怠感の奥に、確かな敵意があった。
「ヒヒヒッ、そう急くんじゃあない。まあ構わないがね。木更くん。今日は君をスカウトしに来た」
奇怪な笑い声を聞き流し、木更は眉を
「私に仲間になれってこと? 冗談じゃないわ」
拒絶。その言葉を聞いた影胤は、堪えきれぬようにイヒヒヒと笑う。
「そうだ、そう、その瞳! 意思を持つ者の証明! それこそが今後の未来に必要なのだ!」
しばらく興奮した様子で静かに笑い続けた影胤だったが、唐突に手を叩き合わせた。響いた音が室内に木霊する。
「いや、すまない。つい取り乱してしまった。話を戻そう。君への良い報せだ」
木更が呆気に取られている間に、影胤の背後から人影が歩み出した。その顔を見て、木更は目を見開いた。
「ヒヒヒッ、遺体が漂着しているのを仲間が見つけてね。蘇生し体を治療したまではよかったが、傷口から流れ込んだ海水が脳に深刻なダメージを与えてしまった。今の彼は体を生かすために疑似脳を載せているが、いずれ脳の治療も完了する予定だ」
虚ろな瞳。やや伸びているが整った髪。生気はないが健康的な皮膚。雰囲気こそ大きく変わっているが、その不幸面を見間違えることはない。
「里見……くん?」
死んだはずの……否。影胤の言葉が正しければ死して蘇った、里見蓮太郎の姿がそこにはあった。
「さて、もう一度訊こうか。我々の仲間にならないか?」
「……里見くんの命で脅す気?」
動揺こそしたが、木更は飽くまで冷静に応えた。
「ヒヒッ、それはないね。里見くんの治療が完了した時、スカウトに協力して欲しいという打算はあるが。君が断ろうとも、彼の命は保証しよう」
「ならあなた達の目的は? それにあなた達の仲間になったとして私にメリットはあるの?」
影胤は「目的か」と呟き、考え込む素振りをする。そして仰々しく両手を広げた。
「我々の目的は
身を正して1拍。
「例えば君の腎臓病を治療しよう。他には、別に配下になれと言っている訳ではないのでね。君の望む限り、君の望み全てに協力しよう。……自慢ではないが、我々に叶えられない望みの方が少ないのだよ」
一瞬の静寂が薄暗がりに満ちる。
「我々と供に行かないか? 天童家の娘よ」
影胤は、木更に右手を差し出した。
第一章終了。
Tips
里見蓮太郎
インスマウスな生物に海の中へブン投げられて一度死んだけど、脳缶作る奴らに蘇生されて脳は修復中の可哀想な原作主人公。
決して扱いが面倒になったからこの暴挙に走った訳ではない。第二章を物語る上で必要な犠牲だったのだ。
アンチヘイトではないことはお祈り。