片鱗
「ひまです」
「寝てろ。俺は寝る」
世間一般には『最悪にして奇跡の事件』と呼ばれるあの日から半年近く経ちました。モノリスが倒壊したので一ヶ月はガストレアの関連依頼が絶えませんでしたし、およそ二ヶ月の間は瓦礫の撤去依頼などでボランティアができないほど働き詰めでした。
こういった大規模な雑務は、大抵は大きな民警にまとめて依頼が流れるのですが、今回はモノリス4基の倒壊・半壊が発生したこともありわたしたちにも多くの依頼が流れてきました。ありがたいです。
しかし残念ながら、東京エリアにとっては運よくその後のガストレアの襲撃は散発的で総量が少なく、結果モノリス4基の再建は一ヶ月ほどで完了。後はあっという間に仕事がなくなってしまいました。暇です。
聖天子は……敬称なしはダメでしょうか? ですが今の聖天子に様づけはなんとなく気に食わないです。妥協して聖天子さんにしましょう。
聖天子さんは事件の後すぐに、影胤さんを事件の最重要参考人――事実上の元凶として、指名手配しました。その懸賞金額の高さからわたしを含む多くの民警が影胤さんを捜索していますが、今に至るまで目撃情報ひとつありません。影胤さんと行動している化け物の仕業でしょうが、相変わらず凄まじい隠密能力です。
「ひまです」
「……ぐぁ」
陸さんが寝てしまいました。異様な寝つきのよさです。十数秒前までは起きていました。
こんなに暇なのは事務所にわたしたちしかいないからです。相馬さんは莉子さんの侵食率の定期検査のため外出中ですし、藤谷さんたちも依頼で事務所にはいません。暇です。
「ちょっと散歩に行ってきます」
陸さんは聞いていないでしょうが、相馬さんにしばらく陸さんを事務所に放置して出かけることをメールしてから自動ドアを通りました。
とはいえ、暇なものは暇ですね。特に意味もなく歩いても、目に写るのはいつもと変わらない平凡な日常です。『最悪にして奇跡の事件』のすぐあとでこれだけ平和なのは喜ばしいことなのですが、それはそうと暇です。あまりにも暇で、1区から順に東京エリア全区を誰にも見つからずにマラソンしようと聖居前まで来てしまいました。
……しかし、日常の中であっても異変がないわけではないようです。感じたことのある気配に目を向けると、見覚えのない女の子がいました。歳はわたしと同じくらいでしょうか。外国人と思わせる金髪と碧眼です。パジャマ姿で自転車を漕ぎ続けています。わたしの作業着(私服)といい勝負です。
「こんにちは」
自転車の前輪を掴んで止めます。勢いを失った自転車が倒れそうになりましたが、強引にバランスを取り支えました。
「……こんにちはー?」
おかしいですね、返事がありません。それどころか半目を閉じて今にも眠ってしまいそうです。
「おはようございまーす。昼ですよー?」
金髪の女の子はポケットからカフェインと英語で書かれたラベルが貼られたボトルを取り出し、大量の錠剤を掴んで口に放り込みました。錠剤が噛み砕かれる小気味良い音が聞こえます。ゆっくりとした動きでそれを数回繰り返し、ひとしきり噛み終えたところでようやくわたしと目が合いました。
「……はい」
やっと返事が貰えました。寝ぼけ
「あなたの名前はなんですか?」
「…………………………セラ」
10秒ほど間を空けてから、女の子が答えました。
「わたしはアイノ・クラフトです。気軽にアイノと呼んでください。よろしくお願いします、セラさん」
「……よろしくお願いします?」
反応が早くなりました。目が覚めてきたようです。
「寝ながら自転車を運転するのは危ないですよ。居眠り運転です」
「……私はいつの間に自転車に乗っていたのでしょう」
「……さあ?」
寝ぼけるにも程があると思います。もはや一種の夢遊病ではないでしょうか。
セラさんが地面にしっかり足を着けたのを確認して前輪から手を離します。
「では、わたしはもう行きたいと思います。縁があったらお話しましょう」
「はい?」
「それではまた」
今日は暇ではなくなりましたね。
●
「どうしてこうなったのでしょうか……」
古びた木造アパートの一室。それが金髪碧眼の少女――ティナ・スプラウトの居城だ。外壁のペンキは剥げ、壁はひび割れ、室内にはカビの臭いが充満するおよそ人が住むとは考えられない住居。そこに住まうのは任務が終わるまでの短い期間のため、部屋の汚点には目を瞑っていた。
しかし今はどうか。外観は変わらないものの、部屋は昨晩の内に綺麗に整えられ、目に見える汚れは取り除かれている。それでも残るカビ臭さを低減するためにアロマが置かれ、それまで見る影もなかった清潔感が生まれていた。
そうなった原因と言えば、使う予定のなかったキッチンを当然のように使用している銀髪の少女――アイノ・クラフトだ。
「もうすぐできるので待っていてください」
ティナの視線に気づいたアイノに微笑みかけられる。こうなるまでの顛末を思い出し、ティナはため息をつきながら睡魔に身を委ねた。
昨晩の事だ。ティナはマスター――プロモーターより指示されていた郊外の貸コンテナを訪れていた。いわゆるレンタルボックスだ。開いたコンテナの中身を形容するならば武器庫。大小様々な銃火器が並ぶ中から狙撃銃を選び出し、持ち上げようとした、その時だった。
「銃ってこんなにたくさんあるんですね」
隣から声が聞こえた。一切気配を感じられなかったことに、ティナは驚かざるを得なかった。呪われた子供としての力を意図的に発揮していないとはいえ、今は"夜"だ。ティナのフクロウの因子の力が最大限発揮される時間であり、ティナ自身も夜こそが己の時間であると認識していた。
だが現実は、何者かの接近を許した。声からは少女と思われ、それは即ち声の主が呪われた子供ないしイニシエーターであることを示唆している。しかしそれ以上に、ティナはその声に聞き覚えがあった。
因子を解放。声の主から遠ざかるようにステップしつつ、足下にあった拳銃と弾薬を取る。素早く装填しつつ、声の主を視界に収めた。
「……アイノ・クラフト」
「アイノでいいですよ」
暗がりの中でも目立つ長い銀髪と黄色のつなぎ服。レンズの大きなサングラスは銃を物色する視線と合わせて動き、時折覗く瞳はうっすらとだが赤い。
『どうした? トラブルか?』
肩に挟んだスマートフォンからマスターの声が漏れる。装填を終えた拳銃から
「イニシエーターと思われる少女に尾行されていました。目的は不明」
『ふむ、殺せるか?』
「実力が未知数なので、なんとも」
「別にあなたがたと敵対するつもりはないので安心してください」
耳元から声が聞こえた。たったさっきまで目の前にいたアイノが背後にいた。テレポートを疑う程の瞬間移動。ティナの目を以てしても、宙に尾を引く銀髪が一瞬視界に写っただけだった。圧縮された空気が風となり、拳銃を握る腕を撫でる。
枷が外された
ティナは感じたこともない感覚に襲われた。臓腑の底から沸き上がる衝動が逃げろと警鐘を鳴らす。肢体が凍てつき心が震える。
『ッ…… 何がそこにいる?』
マスターの言葉で失いかけた気力を持ち直す。アイノの威圧は電話の先にまで伝わったらしく、その声音は重い。
ティナは返事をしようと口を開くが、発せたのは
アイノは設定をスピーカーに変更する。
「もしもし、ティナさんのマスターさん?」
『……誰だ?』
ティナは驚愕した。昼間、アイノにはセラという偽名を教えたはず。なのになぜ、アイノはティナという名を知っているのか。
ティナは記憶を遡り、そして恐怖した。東京エリアに潜入したのは昨日の夜間のため、アイノは東京エリア外からティナを尾行していたか、今日気まぐれに見かけて尾行を開始したことになる。
東京エリア外から尾行されるのは現実味が薄く、今日尾行を開始したのであれば、ティナの名が出たのはマスターとの定期連絡の時のみ。一切気配を気取られずに尾行し、あまつさえ電話の相手の声すら聞き取れると言うのか。
「わたしはアイノ・クラフトです。アイノと呼んでください」
『アイノ・クラフト……ふむ、よくわかった。何が目的だ?』
「何が、とは?」
『お前がティナを尾行した理由だ』
アイノは戸惑ったように考える素振りを見せる。
「うーん、強いて言えば、暇潰しですかね。最近やることがないので」
『ハッ、野良の異名持ちは言うことが違うな』
「知ってるんですね」
『有名だとも。仙台エリア防衛戦線最大の功労者、無装のアイノ。だがどうやら、実力は噂以上らしい』
仙台エリア防衛戦。それはティナも聞いた覚えがあった。この東京エリアが『最悪にして奇跡の事件』に見舞われるしばらく前、海から仙台エリアに大量のガストレアが襲来する事件が発生した。通常であればモノリスによってほとんど死滅するが、襲来するガストレアには周囲のバラニウムの影響を軽減する特異なステージⅣガストレアも存在し、大量のガストレアがモノリスを突破。大規模な戦闘が発生した。それが仙台エリア防衛戦である。
仙台エリア防衛戦はゾディアックガストレア《
その戦場、その最前線において最大の活躍をしたのが、今現在ティナの回りを歩き回るこのアイノだという。
「それで相談なんですが、聖天子暗殺を見学させて貰えませんか?」
『断ると言ったら?』
「見学します」
『殺すと言ったら?』
「不可能です」
『フッ、ハハハッ、最高だな、ええ? 大した自信だが、誇張ではないのが実に
ティナはアイノとマスターのやり取りを冷や汗をかきながら聞いていた。アイノは今まで見たどの序列上位者とも次元が違う。序列など関係ない。例えイニシエーターの境地に、ゾーンに到達していようとも
そこに一切の殺気は無い。それまで隠していた本来の存在感を見せる。ただそれだけで、ティナの精神の均衡は容易く崩れた。もしマスターがアイノの機嫌を損ねたのなら。ティナの脳裏に浮かんだのは、蒸発するように消える
『まあいい。邪魔をしないなら好きにしたまえ』
「ありがとうございます」
言質は取ったとでも言うかのように、プレッシャーが消えた。解放感からティナは膝から崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。
力の抜けた脚の上に通話の切れていないスマートフォンが置かれた。重い頭を持ち上げると、
「それではまた」
そう言ったアイノは鼻歌混じりにコンテナを出ると、月明かりの下で忽然と姿を消した。
吹き込む夜風が汗に濡れたティナを寒いほどに冷やす。
『……行ったか?』
マスターの声がスマートフォンから漏れる。
「いないように見えますが……私には、わかりません」
『そうか。ならば聞かれている前提で話そう。ティナ・スプラウト。聖天子暗殺を遂行せよ。失敗は許されない。いいな?』
失敗は許されない。今までも言われた言葉だが、その言葉に新たな重みがのし掛かる。
「イエス、マスター。聖天子暗殺は、必ずや遂げられます」
ティナの瞳に光が灯った。
Tips
ティナ・スプラウト
《