今の時間は夕暮れ。赤い太陽の光が地平線からわずかに見えますが、もうほとんど夜です。空には街の光を越えた星がちらほらと見えます。
わたしはティナさんの待つビルの屋上へ飛び移りました。
「設置場所はあそこで大丈夫ですか?」
「大丈夫です。問題ありません」
ティナさんの言葉に少し遅れて、わたしの横を宙に浮く球体が通り過ぎます。球体の中心にはカメラが着いています。シェンフィールドというらしく、遠距離や遮蔽物がある場所での索敵などができるそうです。
シェンフィールドは虫の羽音を伴ってティナさんの袖の中に帰って行きました。
「すみません、手伝わせてしまって」
「別にいいですよ。わたしが邪魔してしまった仕事ですしね」
昨晩はわたしも調子に乗りすぎました。陸さん以外とあそこまで行為が発展したのははじめてです。ティナさんがアメリカ人だからでしょうか?
マットもただマッサージ用で済ませるつもりでしたが、持ってきておいてよかったです。
「あれで最後のスナイパーライフルでしたよね?」
「はい。後は自由に見てください」
先程まで、スナイパーライフルをコンテナから運び出し設置する作業を手伝っていました。本来なら昨晩の間に運び出しを済ませてしまう予定だったそうなのですが、わたしのせいで邪魔してしまったのでその埋め合わせです。
完全に日も暮れて、夜の賑わいが眼下に光と音となって満ちます。そういったものから隔離されたビルの屋上は、異様な静けさに包まれていました。
ティナさんは袖から3つのシェンフィールドを落としました。地面に着くことなく浮遊したシェンフィールドは、光の中へ転がるように下りていきます。
後は
「あの、アイノさん」
「なんでしょう?」
「どうして私に関わろうと思ったのですか?」
ゆったり流れる時間の中、ティナさんはそんな質問を投げ掛けてきました。赤い光を帯びたふたつの瞳がわたしを見上げています。
難しい質問ですね。どうして、と言われれば理由がある気もしますが、実際はほとんど直感に従って行動しただけです。
……ああ、ですがひとつだけ、そう感じるに至った明確な理由がありました。
「ティナさんが『呪われた子供たち』だったから、ですかね」
例え忘れたかったとしても忘れられない、日々感じられるガストレアの気配がティナさんからしました。その気配に惹かれて見れば、そこにいたのは外国人少女。たったそれだけでもわたしが興味を持つには充分でしたね。
そうして近づいてみれば、感じたのは虐待の経験とは違うほの暗い気配。より興味が湧いて深入りするとなんと暗殺者でした。最強の娯楽です。
「そう、ですか……」
ティナさんは若干落ち込んだ様子で眼下の光に目を下ろしました。『呪われた子供たち』である以上の理由を言葉にしていないので気にしているのでしょう。かわいいですね。
と、ティナさんの纏う空気が変わりました。重く張り詰めたトゲのある雰囲気です。鋭い眼光が赤く輝いています。
ティナさんの視線を追えば、目立つ車が1台走っているのが見えました。真っ黒に光るリムジンです。運転手はここからでも目視できますが、聖天子の姿は長い屋根と側面の遮光ガラスに遮られて見えません。そもそも目測1キロは離れていそうです。
ですが、ティナさんは迷いなく
ティナさんに目を向ければ、驚いた様子を見せつつも既に2発目を撃つべく
再び放たれた弾丸は、今度はタイヤに着弾します。したように見えました。しかし、直前で黒い何かが弾を包み込み、次の瞬間にはもろとも消えました。
っ、空気が変わりました。この気配は――
「ティナさんッ!」
倒れるようにして伸ばしたわたしの手がティナさんを掬い上げるように投げ飛ばし、直後、ティナさんのいた場所に黒い〝無〟が出現しました。〝無〟はわたしの肩を覆います。咄嗟に身体を捻りますが、巨大化する〝無〟から逃げ切れません。右半身のほとんどが〝無〟に包まれ、次の瞬間、わたしの右半身は跡形もなく消えていました。
遅れて、ティナさんが地面とぶつかる音がします。
「いっ、どうし……アイノさん!?」
ティナさんの声が聞こえます。なんとか頭は守れたみたいです。ですが右腕の感覚がありません。お腹と背中が生ぬるく熱い感覚で覆われて行きます。傷が塞がる一瞬の間にどれだけの血が溢れたのでしょうか。
「へぇ、僕の攻撃に反応できるんだ。もう死にそうだし、もったいないことしちゃったかな」
痛いです。いつもならもう再生は完了しています。なのに傷が塞がるだけで、再生は遅々として進みません。
「あなたが、アイノさんを……?」
苦しいです。右肺がやられました。呼吸が浅く、酸素と血液不足で視界が朦朧とします。
「ああ、可哀想に。彼女は君を庇って死ぬんだ。憐れだねぇ。君がいなければ、きっと生きていただろうに」
「ッ……!!」
赤いです。実に赤いです。意識を手放したくなります。そうすればこの苦痛ともオサラバです。
「ァァアアッ!」
「ふぅん、三方からの狙撃ねぇ。埋め込まれてる機械のお陰かな?」
「ア゛ガッ」
「君自身もなかなかやるみたいだけど、まあいいや」
ああでも、わたしが
「死ね」
●
黒いスーツに身を包んだ褐色肌の美青年がつまらなさそうにティナを見る。掲げた左腕はティナの首を掴み、今にも握り潰さんとしていた。
ティナは絶えそうになる意識の中、逆転の一手を模索した。設置していた狙撃銃は破壊されたのか、既に接続はない。必死に
「死ね」
「させませんよ?」
もうだめか。そう思った時、男に応える声があった。刹那、男の左腕が切断される。続けて男の体が吹き飛び、地面に落ちるティナの体が優しく受け止められた。
「まさか、命を張ることになるとは思いませんでした」
「アイノ、さん?」
見上げるアイノの顔はいつもと何ら変わらず、油断なく男の消えた闇を見据える。左腕は無事だが右腕がない。あるはずの場所に、醜い肉の断面があるだけだ。
違和感。ティナを支えるこの感触はなにか。手ではない。膝も見える距離にある。瓦礫のような硬さも無く、ぶにぶにとした弾力が背中に伝わる。
「✕✕✕、✕✕✕✕!」
言語なのだろうか。理解できない音の羅列が闇の向こうから聞こえる。乾いた拍手。響く足音。やがて理解しがたい歓声と共に、無傷の男が表れた。
「ん、ああ、興奮しすぎたね。思わずヒトの言葉を使うのを忘れていた」
アイノの顔色を見て悟ったか、すぐに音の羅列は理解できる言葉に変わった。それに対しアイノは、怪訝な表情のまま口を開く。
「あなたは誰ですか? 何者ですか?」
「誰か……?」
アイノの問いに男は腕を組み、俯いて如何にも考えているといった素振りを見せる。やがてパッと顔を上げると、両の手のひらを叩き合わせた。
「僕は黒色だ。少なくとも僕はそうだ。だから君も黒色と呼んで欲しい」
「何者ですか」
間髪入れずに繰り返す問いに、黒色と名乗った男はキョトンとした表情をし、すぐに笑みを浮かべた。
「そう慌てないで。僕だって君みたいな混ざりものははじめて見たんだ。ゆっくり話そうじゃないか」
「わたしから話すことは何もありません」
キッパリと言い放つアイノだったが、黒色はより一層笑みを深める。
「知りたいんでしょ? 君自身の正体」
黒色はゆったりとした動作で左腕を上げる。その手の先には黒く光るエネルギーを視覚化したような何かが蠢き、それをティナへと向けた。
「ッ!」
咄嗟に避けようとするが、黒い何かが迫る方が早く、それは赤いものによって防がれ溶けるように消えた。
「いいねぇ、実に醜く美しい。✕✕✕✕のと近いのかな? ああ、ヒトの当てた発音はクトゥルフだったね」
それは血色の触手だった。無数の触手が背後からティナを包み込んでいる。おそるおそる振り返れば、血色のマットが手についた。
触手で象られた血の海と形容すべきだろうか。それらの触手を目で追うと、全てがある一点に辿り着く。
――右腕。白く美しい右腕の根元から吐き出されるように、血に濡れた白い触手が蠢いていた。
「……教えてください」
「いいよ。好きなだけ訊くといい」
「……わたしは、この力は、なんですか?」
暗い夜に風が吹く。
「君は僕たちと同じ高次元の存在。……即ち神さ」
Tips
黒色
いろいろ貌があるが、これは『黒色』というオリジナルの貌。
善意と娯楽で東京エリアを支配している。