目の前を揺れる白銀の髪。懐中電灯によって照らし出された小さな姿。水色の作業服に身を包んだ少女は、今やよく見知った存在だ。
よく見知った、未知の存在だ。
「ティナさん、これどうやって開けるんですか?」
振り向いた顔は可愛らしく、深紅に煌めく瞳が私を射貫く。暗闇でもなお赤い光が、包むように、捕らえるように。
まるで誘引灯のようだ。進めば戻れないとわかっていながら、その誘惑に抗えない。体の自由は決して利かず、この身はアイノの物だと主張している。
「……ティナさん?」
「へぁ? あ」
赤い双眸に覗かれて、ようやく話し掛けられているのだと気づいた。
「これ、どうやって開けるんですか?」
アイノが後ろ手に指さすそれは、扉だった。押したり引いたりして開く扉ではない。電気信号によってはじめて開く隔壁だ。分厚い鉄の扉が行く手を阻み、閉鎖を意味する赤いランプが点灯している。
「顔認証か監視カメラ越しの承認で開きます。でもこちらの通路が停電しているので開かないかと」
「では壊しますか。モデル・マンティスシュリンプ」
様々な姿に変身する能力。超人的な身体能力のみなら『呪われた子供』であることが証明になる。しかし、この変身能力は謎だ。先天的に体の一部が動物化している事例は多くある。しかし、後天的に変化するなど、それこそ形象崩壊しかない。
さらに言えば、アイノの変身は形象崩壊と呼んで然るべき規模だ。全身を鳥型のガストレアに変形させたのに、何事も無かったように人の姿を取る。ゾディアックを思わせる大きさのミミズに変化したかと思えば、その肉体から人の体が分離する。
明らかに人ではない。呪われた子供とも違う。かといってガストレアなのかと言えば、違和感が拭えない。完全なる未知。
はじめてアイノに会った日を思い出す。あの日の夜、アイノに感じた恐怖心。ただ力の差があるだけだからだと思っていたが、今思えばそれは違った。
きっとアイノは、正真正銘の化け物なのだ。怪物なのだ。人間には立ち向かうことさえ許されない。共に在ることすら許されてはならない。何よりもおぞましき未知。
後悔。関わり続けてはいけなかった。
恐怖。今すぐ逃げろと本能が訴える。
畏怖。そう理解しているのに、何故。
何故この体は、アイノと共に在ろうとするのか。
爆音。アイノが扉を殴った音だった。分厚い鉄の扉がひしゃげ、僅かに開いた隙間から橙色の光が漏れる。
「思ったより堅いですね」
間髪入れずに二発目の打撃。先の殴打よりも力が込められた一撃により、隔壁の役割を果たしていた鉄の扉が両開きのドアだったかのように開いた。
橙色が網膜に焼き付く。決して強い光ではないそれにまもなく目は慣れ、その先の光景が明瞭に浮かび上がる。
3階吹き抜けの円筒の形をした空間。研究所の中心に位置するロビーだ。通常の電灯は消され、薄暗い橙色の光を放つ電灯が満ちている。
非常用電源で電力を賄っているのだろう。電気の供給が断たれた時は、このような橙色の電灯に切り替わると聞いた覚えがある。
「さて」
先を歩くアイノが私を振り返った。橙色の逆光に、深紅の眼差しが浮かび上がる。
「干渉を防ぐためとはいえ、この調子では探索もままなりませんね」
すぅ、と意識が遠ざかる。倒れそうになって、アイノの両手で受け止められた。
「少しの間、眠っていてください。すぐに片付けますので」
いつの間にかロビーを内周する通路にまで歩いていたらしい。ガラス越しに誰もいない1階が見える。
「隠れてないで出てきたらどうですか? それともわたしが怖いのでしょうか?」
遠ざかる視界の中。吹き抜けの宙空に、一際まばゆい光が集まっているのが見えた。
「やっと出てきましたね。では、やりますか」
「■■ッ」
不可解な音の羅列を最後に、意識は眠りの底に落ちた。
●
「まずは小手調べです」
空中に集まる光の集合に向かって跳躍。右の拳を固めて、一息に振り抜きます。
命中、しましたが手応えがありません。熱湯を殴ったような感触です。右手を見ると、一瞬の接触だったのにも関わらず火傷しています。
攻撃を受けた光の集合は、一瞬光を乱した後、徐々にその姿を炎のように変えていきます。丸い炎です。円を描く炎の中には花でしょうか? 花弁のようなものが3枚、中央を私を向けた状態で見えます。
「モデル・アーチャーフィッシュ」
因子解放。火傷が治ったばかりの右手を、テッポウウオの水鉄砲の発射能力に最適化した形へ変形します。
「即席の弾丸です」
指があった腕の先端を炎の花に向けて照準。筋肉を収縮させ、腕の先端に開いた直径1センチの穴から血液を打ち出します。
本来の
直後、甲高い音が鳴りました。骨の欠片は壁との衝突音を以て、命中しなかったことをわたしに伝えます。
「物理的な攻撃は効かなそうですね」
「■■■■!」
笑うような音が煩わしいです。肉弾戦ができないのであれば、早々に切り札を使った方がいいでしょう。
「モデル・ゴリラ」
右腕にゴリラの因子を解放。右手で左の二の腕を力強く掴みます。
「すーっ……!」
ガストレアウイルスによって鋭敏化した知覚に伝わってくる、ぶちぶちと肉の繊維がちぎれていく感触。ひとおもいに引き抜くと、わたしの左腕の感覚が消失。
断面から神経が垂れ下がるわたしの左腕を眺めながら、痛みを堪えます。意図的にガストレアウイルスの働きを抑制し、左腕は再生させません。敵もわたしの凶行が気になるのか、黙って宙に浮いています。好都合ですね。
やがて、左腕に感覚が戻ります。力がみなぎり、外れたままの左腕を目線の先で動かします。手を閉じて開いて、肘を曲げて伸ばして。肩に接続されていない腕の動きが、直接右手に伝わってきます。
――自分の体とはいえ、流石にこれは気持ち悪いですね。
左腕の断面を右手の親指と人差し指で囲むように持ち変え、左手で右の二の腕を掴みます。自分の二の腕を肘を伸ばして掴みあうという奇怪なポーズで、左腕の断面を炎の花に掲げました。
「この力の解放条件は、肉体の欠損だそうです」
聖天使暗殺に失敗したあの日、黒さんが言っていました。生まれながらにガストレアウイルスによって抑制された力は、ガストレアウイルスの影響を断たれた時に覚醒すると。
即ち、ガストレアウイルスの影響を失った左腕は、最も早く覚醒するということ。
さて、
「ここからが本番です」
左腕の断面から放たれる白い触手。うっすらと血に覆われ、橙色の光を照り返すそれは、紛れもなくわたしの体の一部です。
幾条も伸び、洪水のように溢れる触手は炎の花に殺到します。衝突した感触を辿り、花の内部へ。高次元へ。
「■■■!?」
「逃がしませんよ」
千切れかけた気配を掴み、さらに上へ。触手の塊が空間を占居した頃、伸ばした触手が敵の全貌を捉えました。
「高次元に手を伸ばすというのは、奇妙なものですね」
炎の花が何か喋っているようですが、物理的にもう聞こえません。元々理解できなかったのでどうでもいいですが
抵抗してきているのが触手に伝わってくるので、適当に締め付けて弱らせていきます。ステージⅣのガストレア程度なら即死するレベルの締め付けにも耐えてくれるのは加減が楽でいいですね。
30分ほどそうしていると、遂に抵抗が無くなりました。力尽きたのでしょうか。触手の先端で敵の体内を適当に抉ると小さな反応があったので、生きてはいるようです。
案外早かったですね。まあ人間の体で例えれば、血管を這い上がってきた触手が口から出てきて、体内と体外から同時に締め付けられたようなものです。むしろよく30分も持ったと思うべきでしょう。
抵抗も無くなったところで、食事の時間です。釣り糸がリールに吸い込まれるように触手を引き戻し、3次元空間に敵の体を引きずり込みます。
さほど時間はかからずに敵の全身が部屋の中に出てきました。今は触手に圧縮されて小さくなっていますが、本来はこの研究所に匹敵する大きさです。
さて。口から直接食べたい所ですが、反撃が怖いのでこのまま左腕で食べましょう。
敵をさらに圧縮しながら、左腕に触手全体を引き寄せます。やがて触手の塊は人間1人分の大きさとなり、左腕に吸い込まれるように消えていきました。
残った左腕を丸呑みし、胃に落ちてからガストレアウイルスを活性化。左腕を再生させます。それと同時に、切断された左腕の感覚が消えました。これでわたしの胃の中にあるのは、敵を閉じ込めた肉の塊です。
「ごちそうさまでした」
Tips
この小説(sterlの小説)における次元についての考え方
長いので面倒なら読まない方がいい
実在・非実在を1ドットとし、このドットを1列に並べたものが1次元直線(或いは線分)。
1次元直線を同様に並べたものが2次元平面。
2次元平面を同様に並べたものが3次元空間。
以降、同様に並べたものが4次元以降の高次元。
実在・非実在のドットの配列パターンにより、我々の知るあらゆる物質が形造られている。
世界(宇宙)とは4次元上に並べられた3次元空間の1つであり、同様に並べられた他の3次元空間は、いわゆる異世界・並行世界・異空間と呼ばれるものである。
5次元は4次元を並べたものであり、並べられた4次元は全て3次元空間(世界)を並べたもの。6次元は5次元を並べたものであり、7次元は6次元を並べたもの。即ち、我々が世界と呼ぶものは死ぬほどたくさんある。
4次元に干渉できるのなら、3次元空間(世界)を渡ることができる。5次元以降も同様である。
人間は3次元の生物であり、そのほとんどが3次元以下のものにのみ干渉できる。生物は大まかに2種類存在する。
一つ、n次元の生物であり、n以下の次元に干渉できるもの。
一つ、n次元の生物だが、何らかの要因でn+1以上の次元に干渉できるもの。
ほとんどの生物は前者だが、何らかの要因で後者となるものもいる。例として人間の場合、稀に明晰夢や死を媒介として高次元に干渉し、異世界に渡るものがいる。
いわゆる高次元の生物は、大抵の場合後者である。種族単位で3次元生物が高次元に干渉できている場合がほとんど。もし前者の高次元生物なら、それは紛れもなく神と呼ばれる存在。
前者の3次元生物であっても、外的要因によって世界を渡ることはある。高次元生物による運搬や、高次元に干渉する門(仮称)など。神隠しはこれに該当する。
また、自身のみが干渉できる世界(自分の世界)を持つものもいる。大抵の場合、限定的に高次元に干渉する力を併せ持っている。
アイノが行った「高次元に手を伸ばす」とは、ガストレアウイルスの影響下に無い自身の肉体を媒介とし自分の世界に接続。その世界にあるアイノの触手は、ガストレアウイルスの影響下に無いため高次元に自在に干渉。敵が潜む次元に高次元を介して干渉した、ということである。