まず先にそれを感じる場所を書いておく。
ここに書いてある場所が全部じゃないし、他の何かかもしれないけど、とりあえず感じた場所は全部書く。
東京都 H市 O市
千葉県 N市 S市
茨城県 H市 N村
新潟県 T市
長野県 K村
そして、福岡県 Y村
あくまで感じるだけだからそれが本当なのかも分からないけど、あれから数年の月日が経ったからもういいかなって思う。
狭間に怪奇は潜む。今となってはその狭間がほとんどなくなったから、怪奇も魑魅魍魎も潜む場所はほとんどなくなった。文明の光が全てを照らそうとしている。
だが、それでもまだ狭間がある。光があればより一層暗い狭間が――――。
*************************************
風の無い村、と時折外からやってくる人は言った。
風のある場所なんて知らないからよく分からないが、なるほどこの村には嵐でも来ない限りほとんど風が来ない。
四方を山に囲まれた内海だということもあるかもしれないが、それでも異常に風がない理由は『くるわくるわ』のせいだと大人たちはみんな言う。
時間はまっすぐ進む、ということに対しての反論はあまりないだろう。日々技術は進歩し子供は大人になり大人は老人になり死ぬ。決して戻らない。
だが、山や川をはじめとする自然では、時間は廻転し循環するものなのだ。春に花が咲き乱れ夏は虫たちざわめき秋に紅葉燃えて冬に枯れ果てる。人々も動物も自然の恵みを享受しながら生きていく。
その巡る季節を回しているのがくるわくるわだというのだ。無駄に天気を乱し山の木々をおかしくする風をくるわくるわは嫌うからこそ、風を奪うのだという。
なんにせよ、季節が安定しているおかげでこの村は常に豊かだったし、だからこそ戦時中は真っ先に疎開先にも選ばれたという。
こう書くと豊かなのはくるわくるわだけのお陰のように思えるかもしれない。それは違う。
大人たちはぼそっ、と話す。祭りなどで崇め奉られているくるわくるわ以外にもう一匹(匹という表現が正しいかどうかは分からないが)いるのだ、『イサルキ』が。
子供たちはあまり知らない。富をもたらす代わりに動物を食い散らかし時には人さえも襲う化け物、ということしか。――――そんな話を現代っ子が信じるだろうか?
だが曽祖父――――つまり祖父さんの父親が、自分が6歳位の頃にぼそっと話していた気がする。ここにはイサルキがいるから、と。祖父もそういやいたなぁ、と返していた。
戦時中は疎開してきた子供たちが沢山犠牲になった、と。
暗い森の奥深くに、くるわくるわとイサルキがいるのだと。
*************************************
《白い喉笛》
長い列車の旅も終わりすかすかの駅にあったゴミ箱に駅弁の空き箱を捨てる。
乗降者がほとんどいないのに何をそんなに待つのか、と思うほどに長く停まっていた電車は北へと走っていった。
(珍しい……風がある。それも強い風が)
恵輔は二年ぶりに村に帰ってきて思った。まるで歓迎されていないかのようだ、とも。
「久しぶりだな、こっちに帰ってくるの」
「もう帰ってくるとは言わないんじゃないの?」
「そうかも」
すっかり方言の抜けた母の言うとおりだ。恵輔の父は某電機メーカーの技術者で、この村から都会に一時間かけて電車で通っていた。
そんな父が腕を認められて本社転勤となることが決まったのが二年前、恵輔が中学二年生の頃だった。もうすぐ受験だったのに関東に引っ越さねばならなかった。
つまるところ出世による栄転なのだから異議を唱えられるはずもない。なんてことを思い出しながら大荷物を持って駅から出る。
「まだ来てないな」
じわじわと鳴く蝉の声の合間を縫って父のぼやきが耳に届く。『おじさん』が車で迎えに来るはずなのだが……まぁ、仕方がない。この村の人間は皆時間にルーズなのだ。
『おじさん』と書いたが正確には叔父ではない。恵輔は父方の曾祖父の家に住んでいた。曽祖父の娘の息子が父であり、曽祖父の息子の息子が『おじさん』と呼ばれているわけだ。
つまり叔父ではなく、父の従兄弟なのだ。曽祖父を中心として、父の従兄弟一家と恵輔一家は同じ屋根の下に住む大家族だった。
「帰っちきよったと? 大きなったなぁ」
「久しぶり。へへへ」
駅前で待っているとパトロール中のお巡りさんに話しかけられた。懐かしい顔だ。
どこでも村というものはそういうものなのだと思うが、この村の人間はほとんどどこかで血が繋がっている。このお巡りさんも物心付く前から知っている。
近所の誰とでも話し、困ったときはお互いに助け合って。本当のところ、恵輔はこの村から引っ越したくなかった――――その一方で離れなければならなかった。そんなことを考えていると白いミニバンが道の向こう側からやってきた。おじさんが迎えにやってきてくれたのだ。
父が運転席に向かう。さっさと自分は荷物を積み込んでしまおう、と鞄を持ち上げると同時にミニバンの扉が開ける前に開いた。
「恵輔、久しぶりやね」
「あ……髪、伸ばしてるんだな」
相も変わらずいたずらっぽい、からかっているような視線に一秒と耐えられずはにかみながら下を向く。
久々に再会したおじさんの娘、綾は恵輔と同じく高校生になっており髪を伸ばして後ろで結っていた。
荷物貸して、と差し出した腕は白い。ショートパンツから伸びた脚も白い。中学の頃は陸上部で、綺麗な小麦色に日焼けしていたのに。
「どしたん?」
「なんでもない」
垂れた琥珀色の眼が昔と変わらず懐っこく熱っぽくまっすぐ見てくる。お互いに赤ん坊の頃から一緒に住んでいたが、いつからこんな色のある眼をするようになったのか覚えていない。
年頃の恵輔と綾が同じ屋根の下では流石によくない、と。誰もが言わずとも分かっていることだった。そんな時に転勤の話が転がり込んできた。
この綾こそが、恵輔がこの村を離れなければならなかった理由であり、離れたくなかった理由でもあった。
******************************************
仏壇となってしまった曽祖父に手を合わせる。
お盆に帰ってきた理由の一つだ。先程も風の吹く中、墓参りに行ってきた。
台所から夕食だと告げる『おばさん』の声が聞こえる。引っ越す前は母とおばさんが交代で食事を作っていたし、時には二人で作ることもあった。どちらが作る食事も好きだった。
「いただきます」
と、老若男女多種多様な声が響く。綾の一家と恵輔の一家、そして綾の祖父。
特に綾は弟が二人にまだ赤ん坊の妹が一人いるから本当に大家族だ。
「背ぇ高うなったとねぇ。あっちでは何を食べようとかいね?」
「なんでも食うよ」
きゅうりで作った馬の隣で燃える線香を見ながら大盛りのカレーを受け取る。
大雑把に材料が切られてその上にカツが乗ったおばさんのカツカレーだ。部活帰りに食べるのが好きだった。
「美味しいものたくさんあるん? 楽しい?」
当然といった感じで隣に座っている綾が問いかけてくる。
それこそ七五三の三の前から綾はずっと自分の隣にいたものだから、違和感はない。
だが、16の恵輔にとって異性が肌の触れる距離にいるということ、それだけで緊張の種だった。幼馴染どころかほとんど家族だというのに。
それくらいに綾は綺麗だった。
「……楽しいよ」
嘘だった。別におしゃれな喫茶店なんか行かないし、流行っている音楽も大して聴かない。
自分たちが成長しているように、本当の時間は循環なんかしないが、それでもやはり都会の時間は目まぐるしすぎて日々生きていくだけで精一杯だった。
「部活やめたのに食べる量は何故か減らないんだよな」
「へー、そうったい。なしてや?」
父の言葉におじさんが反応して訊いてくる。
正直なところ、一番訊いてほしくないことなのだ。やめた理由にこれといったものはない。
ただ慣れない都会での生活に慣れない言葉、慣れない習慣に疲れ果てて部活までやっていけなかったのだ。
こっちでもあっちでもバレー部だったのだが、チームでやるスポーツだというのに息が合う感じがあっちでは全くしなかったのだ。
言葉に詰まって畳を足の指で擦っていると綾が爪先で小突いてきた。
「うちもやめてん」
「えっ。どうして?」
山の子らしく健脚そのものだった綾が運動をやめるなんて。
確かに色が白くなったとは思ったが。
「ここ、怪我してもうて」
(…………だから髪を伸ばしているのか)
綾が指差した左足のアキレス腱に明らかに手術の痕だと分かるものがあった。
確かに時間は流れている。いつの間にかと感じてしまうほどに。
中学まではおかっぱ頭だったのに今は黒い髪をいっぱいに伸ばしてポニーテールにしている。
伸ばせばいいのに、と昔に言ったことはある。だがその時は走るのに邪魔だ、と返されたというのに。
「痛い?」
「もう痛うなか。触ってみ」
それってどういうこと、どういう意味。
そんな問いかけは最初から無駄。綾は昔から無防備に身体を触らせてくるし、触ってくる。
(いや、違ったな。それは違う)
思い出してみる本当に幼い頃はこんな感じではなかった。
いつからかこうなったのだ。
********************************
「うちなぁ、おっぱい少し膨らんできてん」
あまりの衝撃に山女魚の入ったバケツを取り落とした。確か小学五年生の時だった。
肩が出るワンピースの胸元を引っ張って、まるで見せようとするかのように。同時に恵輔の世界を見る目が変わった。世界は確かに男と女で分かれているのだと。
それから一年は悶々と後悔していた気がする。見せてくれ、と言えば良かったと。友達がからかってくるため、親がやいのやいの言う前に綾とは一緒に風呂に入らなくなったから。
中学に上がる前に採寸が終わって届いた制服を着た綾は少し大人っぽくて、本当に胸が膨らみ始めていて。
長いスカートの裾を摘む火照ったほっぺたのおかっぱ少女は12歳の自分の言葉では何も言い表わせないほどに完璧無垢な硝子張りの危うい美しさだった。
本当に、大人になるのは女の子のほうが早かった。
その日、生徒たちは楽しい実験も終わって何故再結晶という現象が起こるのか、何故再結晶が必要なのかという教師の説明をぼんやり聴いていた。
恵輔も、もちろん綾もその話の重要性など全く理解していなかった。
寒さに鼻の頭を真っ赤にしてあほ面晒しながらボールペンを分解してばねで遊んでいる恵輔を綾は何を思って見ていたのか。少なくとも――――退屈していたことだけは間違いない。
縦長い理科室の一番後ろで頬を木造の机につけて突っ伏しながら、綾は表情も変えずに静かにもぞもぞと動いていた。
「……? ……!!」
最初に疑問に思ったのは綾が手に握っているものはなんだろう、だった。
すぐに白いそれが綾のスクールソックスだと分かったのは、綾の素足が恵輔の股間に触れていたからだ。
生徒同士が四人で対面になって座る机だ。他の誰にも見えていないだろうし、この机には自分と綾しか座っていなかったためにそういうことをしてきたのだろうが、そういう問題ではなかった。
恐る恐る机の下を見ると偶然でもなんでもなく、明確な意思を以て素足が触れている。分厚い制服越しにも生温かい。こんなことをしているというのに本人は黒板を見つめてなんでもないフリに徹していた。
「なんねっ、一体!」
小さな声で抗議するが無視される。丁度恵輔も自慰を覚えたばかりで一日一回は猿になっている年頃だった。
手でいじくるものだというのが固定観念となっていた世界を破壊するかのように足の指が弄んでくる。
じんわり脳みその奥が熱くなってくるのと同時に避けられない反応が身体に顕れ始めた時だった。じじじっ、とかすかな音がした。
器用に足の指を使ってファスナーを下ろしていたのだ。ただのいたずらではなく、性的な意図を持っていることは明らかで、とてもではないが耐えられず――――
「ばかっ」
「どげんしたと? 質問?」
立ち上がった恵輔を何も理解していない教師は驚いた顔で見ていた。
机の下の異世界に気が付くはずもない。慌てふためいている恵輔を見て綾は歯が見えないくらいに薄く笑っていた。
そうだ。やはり思い出してみれば、男女の身体の違いが出てきた頃からだ。
綾は明らかに異性への興味が強くなっていた。別に思春期なのだからおかしなことではない。
誰もが隠しているだけだ。今になって思うと子供たちの性の芽生えは親同士にも判りやすすぎたのかもしれない。だからこそちょうどいい時期の引っ越しの話はとんとん拍子で進んでしまった。
それは思い出せる。
でも思い出せないのは。
思い出せないのは――――一体いつから綾のことが好きだったのかということだけだった。
************************************
「はよ食べれ」
「おっ、ごめん」
おじさんの言葉で現実に戻る。大盛りにしてもらったカレーライスの半分も減っていない。
「相変わらず、ぼさっとしとるんやね」
「…………」
くすくすと笑う綾はいつもそうだ。あんなことをした後でも自分に対する態度は何も変わらなかった。
どんどん駄目な方に変わっていくのは自分のしょうもなさばかりで、いつしか綾の目を真っ直ぐ見れなくなって、白い喉笛ばかりが目に入るようになってしまったのだった。
《赤い提灯》
友人と呼ぶには近すぎて、片思いの相手というにも近すぎる。
改めて好きだと伝えるには綾はあまりにも近すぎた。
ただの好きではなく世界一好きなのだと伝えるには勇気がなさすぎた。
理科室であんなことをしたとしても帰る道は同じで、綾の自分に対する態度も全く同じだった。
「ちょっと止まって」
「うん」
肩や手ではなく、何も言えない恵輔の口元を隠すマフラーに掴まりながら綾はローファーの踵を直していた。
きゅうきゅうと締まるマフラーが綾の存在を頬に伝える。言葉にしてしまえば陳腐だが、恐らくは中学生が一番敏感に異性を感じ取れる距離感。きっと綾はそれを分かってやっている。
そういう点も含めて綾は誰の目から見ても魅力的な少女になっていた。だから気になるのはただ一つだけだった。
「綾、あげんこつ……」
「気持ちよかったと? 手の方が良かった?」
「ああもう! ちゃうわ、俺は」
やはりどこかで得た知識そのままに恵輔に好奇心をぶつけていたようだ。
だが問いたいのはそこではない。
「んー?」
(…………)
俺以外にもしてるのか。なんて。
俺以外にそういうことをしないでくれ、と言っているのと同じこと。そんなこと言えるはずもなかった。
でも言わなくても綾は分かっているような気もして。
嫌になる。
距離感が変わるのが嫌だとか、理由はいろいろあったけど結局どれも自分の勇気の無さに対する言い訳にしかなっていなかった。
言うべきことを言わず、伝えるべきことも伝えずに恵輔と綾は中学三年になっていた。
部活を引退して夏が終わる頃には恵輔が引っ越すことは友人も、当然綾も知っていた。
ここからいなくなる前にせめて想いのひとかけらでも渡したいと考えるのは当然のことだった思う。
ひとりぼっちだらけの蜩がさざめく涼やかな放課後、恵輔は今日も切っ掛けを探して学校を歩き回っていた。
どうせ家に帰れば顔を合わすのに、今すぐ綾に会いたいような、それ以外の何かを欲しているような――――本当に余計なことだったと思う。
教室から誰か出てきた。
「!!」
「…………なんやあいつ」
サラメガと生徒の間であだ名されている国語教師の久保田が恵輔の顔を見るなり目も合わせずにそそくさと去っていった。
さらさらの髪を汗で額に張り付かせ、眼鏡はいつもより脂ぎって息も荒く、心底気持ち悪かった。
例えば久保田が生徒に人気の爽やかな教師だったならばこの後に思うこともまた変わったのかも――――いや、それはない。
自分以外にはしていないなんて、思い上がりだったのだと知ることに違いは無かったのだから。
「……綾?」
校舎側から差し込む夕陽を見るようにしてこちらに背を向けて立っている女子は見間違えようもない、綾だった。
名前を呟いた恵輔の声が耳に届く前に、綾はゆっくりとショーツを腰まで上げていた。
ただそれだけの行動を見た瞬間に背筋が凍ったのは、この状況でそんなことをしている意味を考えてしまったからだ。
「あー……恵輔」
青ざめた顔で言い訳の一つでもしてくれれば救われたのに。まるで食卓に乗る前のおかずに手を出したことが見つかった子供のように悪びれない声。
こちらを振り向いた綾は日焼けした頬を更に火照らせてただ笑っていた。
「綾?」
確かに綾だと分かっているのにもう一度訊いてしまったのは認めたくなかっただろう。
自分のよく知る教室で、よりによって最も軽蔑している教師と一番好きな女の子が不純な行為をしていたなんて。
「あの先生ね……――――――なんよ」
恵輔の横を通り過ぎる時に耳打ちしていった言葉。
ショックのあまり自己防衛本能が働いていたのか、あるいは単なる耳鳴りのせいか重要な部分が聞こえなかった。
だがもう十分だった。綾はこの教室であの教師とナニカをしていた。それ以上は何も知りたくなかった。
好きな女の子を自分だけの物にしたいのは最早本能だ。
上っ面に余分なものが乗っかっていない中学生にとってその光景は、自分の好意を猜疑心に沈ませるには十分すぎた。
そして恵輔はこの村から去っていった。
ぺたぺたと顔を触られ続けてようやく目が覚める。
7歳になる綾の弟の晋也が寝ている恵輔の顔にいたずらしていたのだ。
「なにしてんだ」
「祭り行くっちゃんって。姉ちゃん」
「もう行ったの?」
「うん」
慌てて時計を見るともう昼の三時を回っていた。
なんだかんだ相当に疲れていたらしい。この祭りに参加するために帰ってきたのに。
「晋也は行かないのか?」
「母ちゃんと行くけん」
「そっか」
昨晩どこで寝るか、と訊かれて恵輔は二階に元々あった自分の部屋ではなく一階にある今は亡き曾祖父母の部屋で寝ることを選んだ。
一階のほうが涼しいからだ。起き上がると寝ぼけ面に落書きをされた無様な顔の映る化粧台の鏡が目に入ったのだった。
*******************************************
くるわくるわが来るわ来るわ、廓の贄を求めて来るわ――――婦人会のおばちゃんたちの歌声が和太鼓の音と共に山々に響く。
古ぼけたスピーカーから鳴るひび割れた音が記憶を呼び起こす。
物心付く前から、この祭りでこの場所で大人たちの隙間を縫って子供たちは走り回り吹き矢で赤い提灯に穴を空けたものだ。
大人は注意するが誰も厳しい声では叱れない。あの古い提灯にある修繕の跡は自分たちが子供の頃に空けた穴だからだ。
晋也が絆創膏を貼った膝を一生懸命に動かして恵輔の前を友達と共に駆け抜けていった。昔と違うのは、子供たちが最近発売されたばかりの折りたたみ式携帯ゲーム機をポケットに入れていることくらいか。
「ほれ」
「サンキュー」
小さい頃から一番よく遊んでいた崇が手渡してくれたりんご飴を受け取る。
他の連中も後から来るらしい。
「今なぁ、美郷の家で女子が浴衣に着替えとう。楽しみやなぁ」
「へー。みんな懐かしいなぁ。早く会いたい」
大雑把な味のりんご飴を齧ると歯が溶けるほど甘い。
崇は昔から女子の話ばかりしている、そんなところは全然変わっていないが二年ぶりに会ったら背が20cmは伸びており、顔も彫りが深いという典型的ないい男になっていた。
半袖半ズボンから伸びる手脚は野球部で日夜走り回って鍛えたものだろう。
「なんやその喋り方。東京者が来よった」
「うるせえな」
「あっちでは芸能人もその辺歩ってんやろ、ええなぁ」
「そんなん見たことないけど」
よく考えてみれば自分はテレビをあまり観ないから分からないし、そもそも向こうに引っ越してからすっかりインドア派になってしまった。
昔は一日中外で転げ回っていたのに。祭りを遠目に土手に座る恵輔の後ろで流れる川のせせらぎが、鈴虫の声と一緒にくすくすと笑っているかのようだった。
「恵輔……東京は楽しくなかと?」
「…………。ぼちぼちだよ」
遠く離れてもやはり長い付き合いだ。自分のことをよく分かっている。
物に溢れた都会では孤独という毒に蝕まれた若者たちが犇めき蠢いている。
恵輔もすっかり毒されて腐った若者の一人だった。
「まだ童貞なん?」
「なっ、なんだよ突然」
「お前が綾のこと好いとうと知っとるけん誰も手ぇ出さんかったと」
「なにそれ、なんだよそれ……!」
ひた隠しにしていたはずの秘めたる想いが実は筒抜けだったという事を唐突に知らされて腰から力が抜ける。
恥ずかしくて目も合わせられない。もしかして――――もしかしなくても他の友人も知っているのだろう。
「へたれやもんな」
「……うるせぇよ……ちくしょう」
綾も含めて友人も、大人たちも事あるごとに恵輔をへたれと呼ぶ。悔しい反面恵輔も自分自身そう思ってしまっている。昨日も部活を辞めた話をしている時に綾にへたれだから、とからかわれた。
あれは8歳の頃の話だ。いつも通り、いつものように恵輔は綾の手を引いて山で遊んでいた。山や川には子供たちの宝があるのは今も昔も変わらない。
だがその日はちょっとだけ違った。唐突に藪から身の丈3mはあろうかという山犬が二人めがけて飛び出してきたのだ。
恵輔は即座に命がけで逃げ出した――――綾を置き去りにして。
綾がどこかに行ってしまった(実際は置いてきた)ということに気が付いた恵輔は恐る恐る山に戻った。
果たしてそこで見たのは子犬と遊ぶ綾の姿だった。後で聞いた話によればあの犬は人懐こい野良犬で、大人たちはみんな可愛がっていたという。
3mもあるように見えたのは恐怖心が作った幻影で、ただただ恵輔が小心者だという現実を示すだけだった。
もうその性分は変わらないし、村中に広まったその話に対して小心者なんかではないと主張しても示す手段がない。
それに本当にへたれでなければ恵輔はこんなに悩むことも無く、綾をちゃんと問いただして思いの丈を伝えることが出来ていただろう。
「今年も何もせんなら誰かに手篭めにされちまうばい。城太郎があいつ、綾のことええなええなぁって言いよんけん」
「あんにゃろっ、なんてことを!」
「なら今日あたりそっと部屋に忍び込んでよ」
「やめろよ」
財布を開いた崇が避妊具を渡そうとしてくる。
その手を払い除けたが無理やり胸ポケットの中に入れられた。
「よく汗かいた肌はみずみずしくてたまらんばい。美郷はよう鳴いたと」
「……そっか。……そんなになってたのか……もう」
自分がぼけっとしている間にみんな成長している。
今はもうほぼ廃れているが一昔前までこの村には夜這いの風習も普通にあったという。廃れたとはいえそれでも性的に奔放なのは間違いない。
田舎には娯楽がないから性が乱れる、というのは偏見だとは思うもののこの村は何故か昔から性的に乱れている。畑の近くの軽トラックの裏や寺の影など、そこかしこに淫蕩な雰囲気がある。
そういうこともあって子供は誰の子供というよりもみんなの子供、という雰囲気なのだ。村の大人たちは全ての子供たちの好物までも知っている。
思えばそんな自由で淫靡な空気が綾をあんな性格にして――――
(あんなことをさせたのかも)
襖の隙間から親の性行為を鑑賞している子供たちだから。
「まぁ、今夜はじっくりと考えるとええわ」
「……。そうする」
波打つ祭り囃に揺られ、櫓の周りをくるわくるわの面を付けた人々がゆらゆらと踊る。
笠から垂れた動物の毛が邪魔してその顔は見えない面がこちらを見たような気がして目を逸らす。
闇夜にぼんやり浮かぶ赤い提灯の列が川に浮かび上がっていた。
《悔恨の川》
結局一晩考えても何も結論など出やしなかった。
当たり前だ。たった一日考えただけで決断できるならとっくの昔に良かれ悪しかれ全て変わっている。
綾は何を考えているのか。綾は何をしているのか。自分の見た現実ですら信じられない。
(なんも釣れねえや)
夕飯までの空いた時間に特にすることもなく、綾の弟たちとゲームに付き合わされるのにも飽きた恵輔は、昨日の櫓があった場所を見渡せる小高い丘を流れる川で釣りをしていた。
特にこれと言って優れたところは無いと自分で思っている恵輔だが、昔から釣りだけは得意だった。だがその勘も都会暮らしですっかり鈍ってしまったらしい。
夕陽を反射する水面に確かに魚の影が見えるのに一向に釣れやしない。鮎でも釣って夜に捌いて食べようと思ったのに。
(どんどん駄目になっていってる気がするな、俺)
幼い頃は全て自然体で過ごせていた。綾への思いを伝えきれずにいたことがこうなった元凶だ。
過ぎた愛や恋で身を滅ぼし駄目になる人間が――――世間から嘲笑されるような彼らのような人種がまさか自分なのだとは思わなかった。
「浴衣の感想聞いてないっちゃけど」
「うぉお! なんでここにいるって分かったの!?」
「お父さんが言ってたけんね」
そう言えばおじさんに夕飯までになんか釣ってくると伝えたのだった。
昔から釣りをするのはこの場所だった。自分の足が自然とそこに向いたことよりも、自分がここで釣りをしていたことを綾が覚えていてくれたことの方が嬉しかった。
それでも目が合わせられず川を見るとちゃぷんと魚が跳ねた。
「……なんも釣れない」
「可愛くなった?」
「……!!」
話を変えたつもりなのに、耳元でそう囁いてくる。
ほんの少しだけ横を見ると肩と肩が触れ合う距離に綾は座っていた。
もう明日には帰るのに――――えろくなったとは言えないな、なんて二つの思考が絡まって何も言えない。
「あっちで可愛い子いた?」
「ん……まぁ……でも綾より――――」
ようやく話題が変わってほっとしたのも束の間、その答えは結局何も中心から動いていないことに気が付き釣り竿に動揺が伝わった。
そんな恵輔を見て綾はくすっ、と笑った。多分何を考えているか――――
「ヘタレやな、相変わらず。そげんことでも最後まで言えば喜ぶんに」
見透かされていた。崇の言った通りに恵輔の好意は筒抜けだった。
周りにばればれなら、そんなの本人に伝わっていて当然だ。
聞きなれない音がしてそちらに目を向けると綾が線香花火にライターで火を付けていた。
昨日の祭りで子供たちに配っていた花火の余りだろう。からんころんと綾の履いているサイズの合っていないすり減った下駄が鳴る。曾祖父ちゃんがくれた下駄だ。この釣り竿も曾祖父ちゃんから貰ったものだった。
「方言消えてん。垢抜けたっちゃね」
ぱちぱちと弾ける線香花火も、さらさらと流れる川も、からころと鳴る下駄も、東京で出会おうと思えば出会える音なのに。
この組み合わせはここにしかない。
「あっちで方言使うとからかわれるんだ」
社宅で暮らしているため、ご近所さん全部が父の同僚とその家族だ。
家がこっちにいた頃に比べて狭いのはまだ我慢できるが、田舎者だと父と一緒に馬鹿にされるのは耐えられなかった。
それは家族全員同じだったようで、一年もすれば家族全員すっかり方言は消えてしまった。
こうしてこの村との繋がりが少しずつ薄れていく。ふいに落ちて消えた線香花火が綾の感情を示しているようで、そっと隣を見ると長い睫毛越しに琥珀色の伏した目が見えた。
消えた花火を見て何を思っているのだろう。
「この村ねぇ、美人ばっかしやろ」
「…………。綾もってこと?」
思い切って聞くと立てた膝に頬を付けて肯定も否定もせずににこりと笑った。
仕草の一つ一つが艶やかになっているのは大人になったからだろうか。
「昔のこの辺仕切ってた偉い人だかなんだかが、めんこい女の子を捕まえてはこの村に放り込んだけん、子供も美人が多かばい」
「ああ……くるわくるわって……『郭』のことなのかな」
「ちゃうよ。いや、そうかも。でもな、くるわくるわは本当に『くるわくるわ』って鳴くけん」
「…………?」
綾は昔からこういうところがある。勘が妙に鋭いというか、もっと言うと霊感があるというか。
村の子供達は川も山も恐れていなかったが、ある日どうしても綾が『行きたくない』と言って譲らない場所があった。
そっちにある大木のウロに秘密基地を作ったばかりだったのに。後日『もう大丈夫』という綾の言葉に困惑気味に従ってそちらに赴くと、食い荒らされて死んだイタチの死骸があった。
不思議だったのは、イタチをここまで一方的に殺せる獣はこの山にはいないはず、ということだった。
そのイタチは埋めて供養したが、綾はその時になんの仕業かを言っていた気がする。確か――――
「でもなぁ、くるわくるわが死んでしもうてん」
ぽつりと、しかしとんでもないことを言った気がする。
村で崇められている神様が死んだと言ったのだ。はっとなって山を見るとあまり木々が潤っていない気がする。
くるわくるわの嫌う風の吹かないこの村にびゅうびゅうと風が吹いているのは、まさか?
「妖怪……バケモンか。あれ、神様だったっけ。そういうのって死ぬのか?」
「そげんこつ知らんばい」
「そ、そっか。でも、みんな商売上手くいっていないって訳じゃなさそうでよかったわ」
「……イサルキもおるからな」
(えっ?)
その言葉を聞いて一気に思いだした。
イサルキ。被猿鬼。イサルキ、と言った。そいつこそがあの日山でイタチを食い殺したモノの名ではなかったか?
何故そんな化け物がくるわくるわと同じく富に繋がるのだろうか。
「そんでな、美人の子供はそらまた美人や。男の子なら美男子や。美男子と美人がくっつくけん、そらもうその子供達はみんな、なぁ?」
「…………」
久しぶりに綾が何を考えているのか分かりやすかった気がする。
そのイサルキとやらの話をしたくないのだ。行動と感情を点と点で繋げると分かる。綾はイサルキを恐れて嫌っている。
「恵輔も顔はイケメンばい。モテた?」
「モテないよ。田舎もんだし……」
「へたれだし?」
「うっさいなぁもう」
花火を持っていた手が恵輔の手にいつの間にか触れていた。
ああもう、本当に昔と変わらずベタベタしてくる。そんなことをするから友達にも筒抜けで親にもバレてしまったんじゃないか。
そう思ってしまう反面。
(……帰りたくないな)
そう思うのもまた本心だった。
釣れもしない魚を待つ釣り竿が揺れた。
「大学ねえ、通えるところにしろって」
「……そう、だよな」
この前は高校の話をしていたのに、いつ自分たちは大学の話をする年齢になったのだろう。
東京に来ればいいのに、と言いたかった。だが自分が都会での暮らしを楽しんでいないことは見抜かれている。ここでそんな言葉を口にしてしまったら――――。
言いたいことを言うべきタイミングで言わないで、また明日から半分腐ったような日々。誰のせいでもない自分のせいだ。昨日の崇の助言もあるかもしれない。
恵輔は意を決して浮きから目を離して横を向いた。どうしてか、綾は待っていたかのように琥珀色の瞳で恵輔を包むように見ていた。
「あの時……」
「なん?」
「久保田と何をしていたの?」
言葉にすれば三秒にも満たない言葉に心臓がきゅっと痛んだ。
一番掘り起こしたくない思い出、トラウマなのだ。だがこれに立ち向かわないと自分は前に進めない。
「久保田?」
「放課後にほら、サラメガとあったろ! 俺、あの時綾がなに言っていたかよく聞こえなくて……あん時何してたと!?」
恵輔にとっては崖から身を投げる程に勇気のいる言葉だった。
どんな顔をしているのか見るのが怖い。これで終わりになるかもしれないから――――と、恐る恐る綾の顔を見たら目を丸くして首を傾げていた。
それは恵輔の勇気に比べてあまりにも軽い反応だった。
「そんなことずっと気にしてたん?」
「そんなことって、」
「あの先生、女子生徒の下着を3万円で買うてくれるん」
「なん、な……なんでそんなこと――――」
有名だったのに知らなかったのか、とでも言いたげな雰囲気だ。
男子達が彫刻刀で机にいたずらしている時に女子達はそんなことをしていたのだという。本当に女子の方が大人になるのが早い。
だとしても、気になるのは何故わざわざ下着を売ってお金を手に入れようとしていたのかということだ。そんなに金に困っている様子も無かったのに――――がっちん、と鈍い音が響いた。
「あーっ!! 何してんだよ!!」
川にぷかぷかと魚が浮かび上がる。恵輔がうつむいている間に綾が大きな石を川にある岩めがけて投げたのだ。
ガッチン漁と呼ばれる乱暴な魚の捕り方だ。衝撃で魚を気絶させて捕まえるのだが、まだ成長しきっていない物も含めて周囲にいる魚を根こそぎに駄目にしてしまう方法のため、多くの市町村で禁止されている。
当然この村でもだ。恵輔の批難の声を無視して綾は下駄を脱ぎ、ジーパンも脱ぎ始めた。
(!!)
記憶に無い下着に包まれた尻はすぐに下に引き伸ばされたシャツで隠された。
魅力的な素足を晒して冷たい川に入っていく。身体を売るような真似をしていなかったと分かったのは良かったが、綾がそういうこと、こういうことを誰にでもするのではないかという絡みつくような想像は消えてくれなかった。
誘うような肢体に視線は釘付けにされるが、疑惑が、感情が、素直に心拍数を上げさせてくれない。
多分知っててやっているのが厄介だ。どうすれば一番魅力的に見えるかを本能で分かっているのだ。言葉だけ知っている妖艶というものを目の前で見せつけられている気分だ。
「早く」
「……。うん」
禁止されているとはいえ、もうやってしまったことは仕方がない。
サンダルとズボンを脱いで川に入る。ごちゃごちゃと考えすぎて湯だった頭が覚めるような冷たさだった。
(あれ?)
真っ先に川に入ったくせに、バケツを忘れている。
まだ浅瀬で気が付いて良かった。取りに戻ろう、としたら綾が岩と全然関係なところ――――恵輔の目の前でしゃがんでいることに気が付いた。
何をしているの――――と言おうとした瞬間に足をぐんっと引っ張られて恵輔は思い切り転んだ。
「痛って!! な――――」
なにをするんだ、なんでそんなことを。いつからなのか。着いてこいと言わなくなって綾に疑問を投げかけてばかりになった。
そんなどうしようもない恵輔を丸ごと受け入れるかのように綾は起き上がろうとする恵輔をそのまま押し倒していた。
耳の高さで流れる水も最早頭を冷やしてはくれない。夕陽に影を作った綾の顔から目が離せない。
どんどんと服が濡れていく。二人っきりで、服を脱いで。綾がわざと作り出した感情の泥濘に捕らわれているかのようだ。
「なんでそんなこと、ね……。教えてあげる」
水音に紛れて聞き逃さないようにか、綾が唇を恵輔の耳に付けて囁く。
垂れた髪が水に触れて流れていこうとする光景があまりにも幻想的だった。
「携帯が欲しかった。遠くに行くって、知ってたけん」
濡れたシャツ越しに感じる体温。飾らない本音、真実を語る琥珀色の瞳。
髪から滴るひとしずくですら猛毒だと知っているのに、何も言えないまま開きっぱなしの口の中に落ち込んでいく。
水の中にいるというのにやたら乾いていた喉が潤う。
「あほやろ。子供一人じゃ、携帯もよう買わんのになぁ……そんなことしているうちに、行ってしもうた」
都会の子供たちは小学生でも携帯を持っていた。犇めく人の中で繋がりすら希薄だから。
この村では、大人ですら持っている人の方が少なかった。村の誰もが循環する時間の中を生きる家族だったから。
岸に置きっぱなしの携帯は、震えても大して嬉しくないディスコミュニケーションの証明だった。
「俺……だったら俺……」
遅すぎる、明日には帰るのに。
綾の熱い頬に触れる。男を駄目にする優しい好意が視線から流れ込んでくる。ああ、こんな目で俺を見ていたのか――――。
ここに帰ってきて初めて目を逸らさずにいられた今、どんな下手くそな言葉でも許してくれそうな気がした。このままどこまでも流されてしまいたくて、夢にまで見た白い肩を抱き寄せた。
「…………」
抵抗もせずにされるがままに胸に頭を乗せてくる。何度も想像しては唇噛んで諦めた重さが今ここにある。
揺れる感情と止めどない好意が全身から流れてきて――――
「あっ」
胸ポケットに入っていた避妊具が川に流されていく。
「?」
黙っていればよかったのに、綾もそれに気が付いてしまった。
何か言い訳をする前に綾が掬い取る。
「いやっ、それはっ」
「崇が、やろ?」
「……どうして?」
確かに崇は昔からそういう人間だったが、それだけでここまで察せるのはいくら勘のいい綾でもおかしい。
そう思った時には綾はもう答えを口にしていた。
「うちが頼んだけん」
夜這いに行け、早くお前のものにしてしまえ。崇の口から出されては耳を塞いだ言葉達。
それを言わせていたのは全て。
「あ――――」
*************************************
小学生の時の学芸会での演目は白雪姫だった。
大したクオリティじゃなくても、子供たちは仲良く元気にやっているよ、と親たちに教えるためのお遊び。
綾は既に村で一番めんこい女の子だったから、誰が言わずとも綾が白雪姫になった。
恵輔は既に小人の役目に決まっていたような物だった。主役というものはやはり活発な子供がやるものだから。
城太郎が王子さまに選ばれようとした時、その時初めて嫌だと思った。この劇を最後まで城太郎と綾にやらせたくない、と。
――――俺は、俺は、小人は王子さまは
舌の回らない恵輔は本心を隠さずに要求を言うことがどうしても出来なかった。そんな時に、綾は頬杖をつきながらあくまでものんびりと言った。
――――恵輔となら家でも練習出来るんやけどなぁ
その一言で先生は納得し恵輔はいとも簡単に王子さまになった。なれた。
なれたのに。
どうしても出来なくて。どうしてもどうしても、最後の一寸が遠くて。
この村の白雪姫を最後まで目覚めさせられず、彼女は情けない王子さまを横目に勝手に起き上がっていた。
親たちの拍手喝采は小心者の王子さまを嘲笑しているかのようだった。
**************************************
光る思い出と一緒に綾がいる。
最後の一寸がそこにある。あの頃よりも白く艶やかな肌、赤く潤う唇――――琥珀色の双眸。
変わらないのは勇気の無い自分だけ。いつだって綾はそっと背中を押していてくれたのに。それでも恵輔は、後悔を背負って少しだけ大人になっていた。
目の前にある頭を引き寄せられるくらいには。
願いは静かに叶った。耳に届くのは水音と僅かな綾の呼吸音。
肌の全ての神経は綾の唇を感じるためだけに動いていた。
「……好いとうよ……恵輔」
ずっと欲しかった言葉を言いながら綾はそっと離れた。でももういい。
一度勇気を出せば、自転車に乗れたあの日のように何度だって出来ることなのだから。
「綾……!」
感極まる声で綾の名を呼び思い切り抱きしめる。
恵輔の頭を取り巻いていたもやもやが蒸発して夕空に消え川の清水が洗い流していく。
全てがシンプルになっていく。綾と恵輔の心臓がこの早瀬と同じくらい早く動いていた。
「言いたいことは?」
「ごめん、今まで勇気がなくて」
「そうじゃないやろ」
「ありがとう」
「それも違う」
「……。もっと」
「……うん」
両親さえも知らない。自分たちの心にあるものは、願いはずっと一緒だったってこと。
あまりにも尊い空気の中で、2人の考えがどんどんと熱していこうとしたその時だった。
ベシャッ――――血と肉の入った革袋が地面に落ちたかのような音が岸から聞こえた。
「えっ?」
今まで生きてきて耳にしたことのない音だ。
しかし、その正体は目を向ければすぐに分かった。
「あの時の……」
身体の大きさは流石に大人のそれになっている。
しかし体毛の色は間違えようのない、あの日綾と恵輔の前に飛び出してきた子犬だった。
川の水でも飲みに来たのか、と思ったが違う。よく見ると身体中が血塗れで倒れている。
「おっ、おい、どうした!?」
あの時の犬だ。今度は逃げない。なんなら助けてやるんだ。
心のなかで子供のままの自分がそう言っていたから、恵輔は呆然としている綾を押しのけて犬に駆け寄った。
よく考えれば分かったはずだ。この山に犬をここまで無残な姿に出来る動物なんかいないってことが。
だからこそ、いつまで経っても悔恨の川なのだ。
「なんでこんな怪……我を……」
怪我。それは間違いない。血が出ている。皮が剥がれ肉が見えている。
なんで、と訊くならばなんで生きているのかと発するべきだった。
砕けた頭蓋からは灰色の脳みそが覗いており、潰れた目には蛆が集っている。
それでも生きている。無いはずの視線が恵輔を貫き――――
「恵輔!!」
「綾――――」
綾が川から上ってくるのと同時に犬の方に伸ばしていた右腕がいきなり切り裂かれた。
爪で引っかかれたのだ。猫科の動物でもないのに、死にかけの犬とは思えないほどの機敏さで。深く長い切り傷が出来た。
「離れて!!」
いきなり突き飛ばされた。起き上がろうとしたら右腕が激しく痛み転んでしまった。
「あ、綾……」
今度は自分の代わりに綾が犬に押し倒されて襲われている。
犬の裂けた喉から漏れる異常な呼吸音と綾の断続的な悲鳴が混乱を誘う。
助けなければ、痛い、一緒に逃げなければ。頭がいっぱいに――――
「なにしとんじゃあ!!」
犬がいきなり蹴り飛ばされていた。倒れた犬に何回か鍬が叩き込まれてからようやく、農作業着を着たその人物がおじさんだと判る。
夕飯の知らせのついでに迎えに来てみたら、こんな場面に出くわしてしまったのだろう。
「綾!!」
綾に駆け寄って抱き起こす。あちこちに噛み傷と切り傷があり、怪我は酷いが致命傷ではない。
とりあえずは良かった。しかし。
「な、なん……こいつは……」
鉄製の鍬を身体に打ち込まれているのだ。まともな動物なら一撃でも耐えられるか怪しいはずなのに。
その犬は腹からぐちゃぐちゃの腸を垂らし、折れた脚を引きずりながらそれでもゴボゴボと唸り声をあげて立ち上がった。
「恵輔!! トラックのガソリン持って来い!」
「わ、分かった!」
すぐ近くに停まっていたおじさんのトラックの荷台からガソリンの入ったポリタンクを担ぐ。
戻ると大暴れする犬に作業着をかけておじさんが押さえ込んでいた。全てを察しておじさんをどかしガソリンを作業着の上からぶっかける。
恵輔が綾を抱えて離れてすぐにおじさんはライターで火を付けていた。
「ギギィ――――、ヴヴヴヴォォモモモ、ギギギギギギ」
決して、どうやっても犬ならば出せない鳴き声を出しながら燃える犬が暴れまわる。
折れた脚でなんとか川に近づこうとしているのが見えたので石をぶっつけて止める。
どす黒い煙をあげながら犬――――『そいつ』はようやく動くことをやめてただ燃えるだけとなった。
「なんや……こいつは……」
そんなこと訊かれても分からない。
なんと答えるべきか戸惑っていたら腕の中の綾が蚊の鳴くような声で呟いた。
「イ……イサルキ……」
その言葉を最後に綾は気を失い、どこからか出てきた雲がいきなり大粒の雨を降らし始めた。
後に残るのは焼け焦げた犬の死体だけだった。
《狂輪狂輪》
家に戻った時には最早歩くこともままならないほどの大雨と暴風が吹き荒れていた。
駅とこの村を繋ぐ鉄橋が落ちた、と電話がかかってきた。駅まで行くには船を出さなければならないが、こんな天気では船を出せるはずもないし電車も止まっている。
「イサルキ!? 綾がそう言うたんか!? あんなん出とったの戦前の話やぞ!」
綾の祖父が怒鳴り声をあげる。
イサルキの事はみんな知っているがおぼろげながらにしか知らない。
理由は簡単だ。イサルキは人を含む動物を食い殺す代わりにその地方に富をもたらす。そしてこの村は疎開先に選ばれており、裕福な村だった。
そう。祖父が子供の頃、村の人間たちは知っていながら疎開していた子供たちを富のためにその化け物に食らわせていたのだ。だから誰も語りたがらない。
父が、母が、それぞれに村の年老いた人や寺の住職に電話をかけている。未だに目の覚めない綾をどうしたらいいのか誰も分かっていないから。
「こ……こういうのって、ちゃんと、なんか霊力とかある人が来て助けてくれるんだろ……?」
綾の弟達が泣き叫ぶ中、意識を失ったまま動かない綾を抱えて呟く。
ネットの掲示板なんかでよく見るパターンだ。化け物に襲われた、目を付けられた。だが霊能力者なりなんなりがなんとか助けてくれて脱出。
お決まりのパターンではないか。この暴風雨だって。今夜を耐えればいいだけのはずだ。
「なんやそれ……」
「えっ……」
「そんなもんどこにおるんや……!!」
じいちゃんが今にも泣きそうな顔でそう言った。この家で一番知識と権限のあるじいちゃんが、だ。
それはつまり絶望に他ならなかった。少し頭を巡らせれば分かるはずだ。じいちゃんでさえ何も分かっていないから、親たちは混乱に陥っているのだと。
「どうしたら……」
「分からん……綾か恵輔か、どっちかいかれるぞ。目を付けられたら誰か一人は必ず食われとったけん……」
それって俺か綾かのどっちかが必ず死ぬってこと?
10代の恵輔にとってその濃厚な死の気配は背筋を凍らせるのに十分だった。おまけに解決法は分からないと来ている。
思わず文句を言いそうになったとき、襖が開いた。
「恵輔、こっち来ぇ!!」
先程まで誰かに電話していたおじさんに途轍もない剣幕で廊下に引っ張り出される。
怒りも仕方ない。綾がああなってしまったのはほとんど自分のせいなのだから。だとしても、自分に当たらないでほしい――――
「こん色ガキがぁ、川で綾に何しとった!」
「……?」
おじさんの怒りは八つ当たりだけでは無かった。
思えば自分たちは二人きりで、服を脱いであの場にいた。まだ10歳にもなっていないならともかく、普通に考えれば高校生がそんなことをするなんて有り得ない。
そんな当たり前の常識に照らし合わせて誤解をし、一人の娘の親として怒っているのだ。
「年頃やけんそういうこともあるやろう、なんてあかんて思うて――――」
勝手なことを言っている。
自分たちの通じ合っている好意を知った上で、おじさんにとっては恵輔と綾がどっちも自分の子供のようなもので、だからこそ親としてあってはならないことを防ぐために離したのだと。それなのに戻った途端こんなことになってしまったと。
ふつふつと怒りが湧いてきた。自分たちの世界を引き裂いたこと、勝手に勘違いしていること、そして何よりも綾のことをどんなことよりも想っている恵輔が役に立たないと思いこんでいるその姿に。
「離さんかい……!」
血の滲む包帯のついた手で胸ぐらを摑んでいた腕を払う。
逆に肩を掴んで壁に押し付ける。あんなに大きく見えた大人が、おじさんがいつの間にか同じ目線にいる。
心も体も、いつの間にか大人の理不尽に逆らえない子供では無くなっていた。おじさんは明らかに、庇護の対象だと思っていた子供の思いもよらぬ反撃に驚いていた。
「なんや好き勝手ぺちゃぺちゃ言いくさりよって! 綾は……」
「……言ってみろや」
壁に押し付けられながら、おじさんは恵輔の言葉を待っていた。
綾の親として、あるいは恵輔の親の目線を持つ者として。
「綾は俺のもんや。どこにもやらん!」
「出来るんか、へたれのお前に」
「へたれちゃうぞ、俺が綾を守るんや。分かったらそこで黙って見とれや!!」
「……。やってみい」
具体的なことは何も言っていない。どうすればいいのか分からないのは相変わらずだ。だが人の真価は極限の状態でこそ発揮される。
よれた襟を正したおじさんは必死に情報をかき集めている恵輔の両親がいる部屋へと向かった。
今、大人になろうとしている恵輔の勇気を受け取ったのだ。
結局村のほとんどの人間に訊いてみても分かったことはほとんど無かった。
イサルキは普段は山で獣の中に入り込み他の獣を襲って食い荒らす。死んだ獣には取り憑けないが、一度取り憑けばどんなにぼろぼろになっても動かせるのだという。食べた獣の力を手に入れられるがその力は徐々に薄れていく。
特に知能も薄れるから、時折山を降りてきて人間の成長途中の子供の目玉を抉り、そこから脳を啜るのだ。
人間の身体は山で生きるのに適していないから取り憑きはせずに脳みそを啜るだけであり、知恵の限界があるから一回の捕食で一人分の脳みそしか食べないのだという。
その全ての被害の代わりに、地方に富をもたらす。富をもたらしてくれると知れば人は逃げないからだ。事実、食べる人間は一度に一人だけだから、あるいは余所者が犠牲になるからと無視されていた。
一番大事な部分である、どうすれば撃退出来るかということは分からなかった。
分かるのは傷つけられた恵輔と綾が付け狙われるということ。どこかに逃げるにしても今は天気が回復するまで待つしか無い。
(なんでここ数十年全く現れなかったのに……いきなり出てきたんだ)
最早愚痴を言っても、周りに当たってもどうにかなる状況ではないから文句を心の中だけにぐっと留める。
「綾……大丈夫だからな」
布団の上で眠ったままの綾の頬を包帯を巻いた右手で撫でる。
周りには包丁やら棍棒やらとりあえず武器になりそうな物が置いてある。これらが効果があるのかは微妙なところだ。
動物と融合する力を持つイサルキにとって一番嫌いなものが境目を作るものだという。中と外を分ける玄関や縁台は特に嫌う。
だからこの村の家には必ず縁台がある。恵輔達がいるのは一番玄関から遠く、縁台もある今は亡き曾祖父母の部屋だった。
綾と恵輔の母は弟妹を守って二階にいる。
父とおじさん、じいちゃんは何も入ってこないように玄関で守っている。
あとはただ、よく炒った塩を四隅に置いたこの部屋で武器を持ちながら雨が止むまで待つだけだ。
少なくとも、夜が明けるまでは決して部屋の扉を開けてはいけないと言われた決まりを守りながら。
「……?」
最初に気がついたのは異臭だった。そして部屋の選択を間違えたかもしれない、と思った。
北東、つまり鬼門にある縁台に出るための窓に置いた盛り塩がどんどんと黒ずんでいくのだ。
腐っているのか、汚されているのかは分からないがただの塩から発せられる臭いとは思えない。
(大嘘じゃねえか! 来てる!!)
曇りガラスの向こう側、雨戸の奥に何かを感じて目をそらす。
確実に何かがいる。何が縁台を嫌う、だ。もううかつに独り言も話せない。
『異形の者にいらふべからず』と寺の住職に電話で言われた。返事をすれば相手の存在を認めて許可していることになるから、と。
「火事だ!!」
その絶叫を聞いて思わず声を出しそうになった。
こんな雨の中でどんな火事があると言うのだ。今はっきり聞こえた声は――――
「あそぼーあそぼー」
風以外の何かが部屋全体をぎしぎしと揺らしている。外から幼児の声が聞こえる。
「おかぁーさんあけてー」
「ひ……ぃ」
ばんっ、と今はっきりと雨戸が叩かれた。確認する間もなく二度、三度と叩かれる。
こんな音が聞こえているのに誰も助けに来ない。扉を開けてはいけないにせよ、声をかけることくらいは出来るはずなのに。
この声は恵輔以外には聞こえていないのだろう。
「でんぽぅ、でんぽぅーゔゔ――――ぉおおもぉおすずずうすすす」
ざんざんと降る雨の音に全くかき消されること無く幼子の甲高い声が耳に響く。
これは恐らく、取り込んだ子達の記憶と声。この言葉なら開けてもらえるという言葉を適当にぶちまけているのだ。
世界のどこの誰とも知らない人間と話せるこんな時代に。こんなことに巻き込まれるなんて。恐怖のあまり恵輔は関係ないことを考え始めてしまっていた。その時だった。
――――く、くくぅ
(……?)
今までの子供の声とは明らかに違う、動物と女性の中間のような声。
雨戸の向こう側から聞こえてくる。
――――廓狂い繰る曲輪刳る、郭廓呵呵機繰る
(………くるわくるわの声だ……)
本当にくるわくるわと鳴いている。襲ってきているのはイサルキと呼ばれる化け物ではなかったのか。どうしてこの地方の神様がここに、とまで考えてふと気がついてしまった。
『珍しい……風がある。それも強い風が』
『くるわくるわが死んでしもうてん』
『なんでここ数十年全く現れなかったのに……いきなり出てきたんだ』
直感だった。しかし、正解だと確信できた。
くるわくるわがイサルキに食われたのだ。そしてくるわくるわの力の全てを奪い去り、この村にくるわくるわが遠ざけていた嵐を呼んだのだ。
(じゃあ……じゃあどうなる?)
ただでさえ撃退方法の分からない化け物が、曲がりなりにも神として崇められるモノの力を取り込んでしまったのだ。
嘘くさい話でよく聞く霊能力者ですらなにか出来るとは思えない。どうしてそんなものに狙われてしまったのだろう。
「恵輔! 返事をしろ!?」
「たっ……!! !!」
崇の声が聞こえて思わず返事をしそうになったところで口を塞ぐ。
今のもイサルキ、あるいはくるわくるわの声だ。今まで食い殺してきたあらゆる人間や動物たちの声を混ぜ合わせて作ったのだろう。
そんなことよりも恐ろしかったのは『崇の声を真似たのは恵輔を狙っているから』という明確な事実だった。
じゅうじゅうと音が聞こえる。縁台とは正反対にある、廊下へと続く扉に盛った塩が腐り始めている。所詮この家のどこに行っても逃げ場などはなかったが、これでこの部屋からも出れなくなってしまった。
――――空、苦、流、佝僂、来るわ、来るわ
「あっ!? 痛っ!?」
いきなりバランスを崩して並べた刃物の上に転び太腿に包丁が突き刺さる。
何かに腕を引っ張られたような感覚が確かにした。
「いっ、あ゙っ」
あの犬に切り裂かれた右腕に巻かれた包帯から血が異様な速度で滲んでいく。
その右腕が強烈な力で引っ張られているのだ。縁台――――死の淵へと。
「ひぃ、いいい」
包帯が引っ張られているのではと勘違いして包帯を引剥してから後悔した。
引っかき傷を中心に黒い寄生虫のような物が皮膚の下で蠢き亀裂のように健康だった部分を侵食していく。
生物のようにのたうち回っていたその黒い線が己の血管だと気がついてさらに絶望する。叩こうが切ろうが血管がやられているのならば対処のしようがない。
そうこう考えているうちにも右腕に釣られて恵輔の身体が外へと――――
「綾!!」
それは綾も同じことだった。いや、むしろ傷つけられた部分が大きい分、綾のほうが引っ張られる力が強いように見える。
布団の上で身じろぎ一つしていなのに布団ごと動いている。思わず大声を出してしまった後悔をする暇もない。
まだ動く左腕で綾の身体をなんとか抱える。
――――蓮の葉狂い咲く病葉轍を辿り繰る、繰る、来る、来るわ、来るわ
「ゔ……ぶっ、え゙っ」
綾の身体を抱えたまま引きづられて背中がガラス窓に接してしまった時、恵輔は抗いようのない吐き気に襲われて口からヘドロのような液体と共に何かを吐き出した。
びちゃびちゃと音を立てて布団を汚したのは緑色に腐り果てて小虫の集った何かの肉だった。
――――馬ぁ鹿な子供がようけ来るわ
バンッ――――最早何を吐いたのかを考えている暇もなかった。
背中から聞こえた今の音は雨戸を叩いた音などではない。暴風によって雨戸が開いてしまった音だった。
蟻程度なら入ってこれそうな窓の隙間から、死体の臓物を引き絞ったような触手が入ってきて恵輔と綾の身体を貫いた。
「――――!!」
痛みで声も出なかった。蜂の針よりも細く見える触手なのに全身に痛みが巡り思考すらも定まらない。
勝手に出た涙が綾の頬に滴る。その雫は赤黒い死の色をしていた。
中の人間に答えてもらって許可をもらう必要なんかないのだ。既に綾も恵輔も、僅かではあるが印を付けられてしまっていたのだから。
「や、やめろ……」
勝手に動く右腕が何をしようとしてるか分かっているから必死に抵抗したが止められない。
急速に肌が乾きひび割れ、指先ささくれだった右手が綾の首に手をかけようとする。
左腕は綾を押さえこむので精一杯だ。もっとマシな考えもあっただろうに恵輔は右手を思い切り噛んで止めていた。
その間にも背中がガリガリと何かに引っ掻かれ出血していく。
(無理だ……)
このまま嵐が過ぎ去るまで耐えることなど出来るはずがない。
触手が貫いた場所から身体が蝕まれていくのがわかる。
健康そのものの若者だったはずなのに、歯茎から出血し黄色い膿が飛び散った。
その時、どうして曾祖母が使っていた化粧台の鏡に目を向けてしまったのだろう。
視線を感じたからなんて、あまりにも馬鹿すぎる。
「あ……」
身体の右半分が黒く蠢く血管に蝕され口からヘドロを流し目が充血した自分と、そして曇りガラスの向こう側のもう一人と目が合う。
逆立ちをして不気味にのたうつ赤黒い髪の毛で身体を支える四肢を切断された達磨女の化け物。口が、鼻が、乳房が、臍が、陰部があるべき部分にでたらめな大きさの目がある。
その目からは人間ならば有しているはずの感情の一切が感じられず、目線をただこちらに向け続けるその姿からはただ一つ。絶対に逃がさないという意志だけが感じられた。
終わりだ。もう右手が止めようも無く勝手に動く。
イサルキに取り憑かれたくるわくるわの目玉が嘲笑うかのように歪んだ。
「……綾……本当に……本当に綺麗になったな……」
抗えない力にその身を任せると痛みは消えて心は晴れやかになるかのようだった。
ぎりぎりと綾の細い首を締め付けていく。左手は太腿に刺さっていた包丁を抜いていた。どちらかが必ず食い殺される。それは間違いなく、もう逃れようがない。
それならば。
それならば俺を食え。
「愛しとうよ。さようなら」
躊躇いも無く恵輔は包丁を己の首に刺した。
ように思えた時、綾と恵輔の身体を引っ張っていた力が消えうせ包丁は空を切った。
「え……?」
部屋の揺れが止まっている。雨音は聞こえない。
鏡には何も映っていない。今にも腐り落ちそうだった右腕は出血こそしているものの健康的な色合いに戻っていた。
「綾?」
先程まで生きているのか死んでいるのかも分からない程に白かった綾の肌に血の気が戻っており、静かに呼吸をしていた。
――――終わった?
そうだ、ならば何故最初からそうしていなかったんだと今更になって気が付く。
一人が怖いならテレビをつけていれば良かったのだ、と今となってはもう滅多に見れないブラウン管テレビのスイッチを付ける。
「あ……あは」
あまりにも古い型で幾分か故障しているせいか、まだ音は聞こえないがぼんやりと浮かび上がる画面に見慣れた女性ニュースキャスターが映る。
急激に日常に戻ってくる。終わったのだ。
「恵輔! 大丈夫か!? 開けるぞ!」
父の声が聞こえる。先程までの大騒ぎが聞こえていなかったのは何故なのだろう。
気になることは沢山あるが今は考えたくない。
「終わった! もう開けても大丈夫だ!」
どうして?
なぜ声が後ろから聞こえたの?
バンッ――――その音は今度こそ、窓が開く音だった。
「後ろの正面だぁれ?」
化粧台の鏡に、まだ映りきっていないテレビに。
恵輔に抱きついているくるわくるわの姿がはっきりと映っていた。
《首刈峠、逢瀬逢坂逃避行之涯》
これで帰郷して体験したことの全てが書き終わった。
何が何やら訳が分からないが自分も綾も何故か生きていた。
化け物の考える事なんて分かるわけがない。
分かるのは――――綾も自分も、もうあの村にいてはいけないということだけだった。
「恵輔! テント作っちゃったのか?」
部長がやっちゃったな、と言いたげな声をあげる。
そうだった。いくら手慣れているとは言え、新入生歓迎会も終わったのだから一年生にテントの作り方を教えるのだった。
「やべー。やっちまったか」
石ころだらけの地面を蹴ると坂を下ってどんどんと石が落ちていった。
「んー、でもまぁそれはまたテストの後に奥多摩に行くしさ、そん時でもいんじゃね?」
「まぁそうだよな」
「よーし、じゃあ集合かけて行くか! 廃墟!」
「……悪い。俺らはやめておく」
このアウトドアサークルの活動の裏メインである廃墟探索の時間だ。だと言うのに恵輔は引っ張られる袖と膨れ上がる背中の疵痕を感じて断りの言葉を口にしていた。
もうこのサークルに入って三年目になるから、部長となったこいつも分かっている。自分たちはときどき廃線や廃トンネル、あるいは山奥の探索に付き合わない事があることを。
「じゃあ俺らが引率するから、お前らはテント見ててくれ」
「ああ」
背中の疵に意識をやる。あの日から、特定の場所に近づくと背中と右腕の疵痕が膨れるようになったのだ
霊感と言ったものは相変わらずないが、それでも分かる。これはその場所に危険な何かがいる証拠だ。
とはいえこのサークルで訪れるのは有名所の廃墟や心霊スポットばかり。有名所というのはつまり沢山の人が来て沢山の人が帰ってきているということ。そこまでの心配はいらない。
このサークルに入ったのは危険を見ないようにするのではなく見極めるようにするためだった。
田舎だけではなく、都会でさえ時々疵痕が反応することがある。そして有名所で反応する確率は3割程度といったところだ。
これでよく分かった。本当にもう、あの村には戻れない。自分たちは一生光に溢れた都会の中だけで生きていかなくてはならないのだ。
だが文句は言えない。生き延びることが出来たのだから。
「おーい! 集合集合! そこの一年、荷物置いてこっち来い!!」
部長が叫ぶ姿を見ながら後ろに下がる。
どちらにせよ毎回荷物番が必要なのだから自分たちで問題ない。
「恵輔」
袖を摘んでいた綾が声をかけてくる。
あの村を一緒に出て、東京でまた一緒に暮らしてからもう何年経っただろう。
「うん」
「今日はずっと一緒にいれるね」
「そうだな。……なんだ、雨か?」
例えばの話。『感じる』のが滅多にない事だったら、大騒ぎして一刻も早くこの場から逃げることも出来ただろうに。
「風も出てきた。大丈夫かな、あの子達」
今まで普通に生きてきたはずのあちらこちらで頻繁に感じるものだから、もう恐怖が麻痺してしまっていて。
「雨ガッパあるから大丈夫だろ。テントに戻ろう」
綾は笑っていた。綾ですらも都会の光に惑わされて騙されて、全てを忘れて思い込んでしまっていた。
光あれ、とでも言うかのようにこちらの世界で闇は全ての光に飲み込まれて消えているものなのだと。
光があるからこそ、より一層深い闇が存在するというのに。
あの日、自分たちはあの化け物を退けてなどいなかったのに。
また二人きりになってしまっていた。
背中で膨らみ脈打つ疵痕は二人の気付かぬ間にも、ひそかにひそかに――――。
終。
9割がたフィクションなのであまり調べたりしないでください。