太陽が昇り始めたばかりの、呼気も白む朝。
そんな外に出るにも億劫な時刻に、生い茂る森の中に通る、綺麗に舗装された細い道路を歩く男が一人。
くたびれた中折れ帽と暗い色の袴の上に厚手のコートを羽織るといった身形に、無造作に伸びる髪と無精髭、そして生気の薄い目が特徴的だった。
要するに、恰好が整っている点を除けば誰もが放浪者と思う風貌である。
「……見えた」
ふと、男が足を止めた。彼の視線は、自然という自然に囲まれた中、ぽつねんと佇む人工物を捉えていた。
それは、よそ者の侵入を阻む石垣の奥に横たわる赤レンガの建物と、アーチの屋根を描く白壁の建物だった。
よく見ると公的な出入り口となる鉄門は開かれており、またその門前に立つ人の姿がある。
「こんな寒い中、よくもまぁ……」
男は呆れと同情交じりの白い息を吐いて、身に沁みる寒さから逃れるように歩く足を速めた。
〇
その人は女性であった。男は彼女の良く整った顔立ち以上に、今朝の低気温に似つかわしくない制服姿が気になった。
男の来訪に気付いた女性は、深々とお辞儀をする。
「おはようございます。提督」
「あ、おはようございます……」
男……提督は丁寧な態度に居心地の悪さを感じながら、帽子を取って挨拶を返す。
「私、今後あなたの書記を務める"大淀"と申します。どうぞ宜しくお願いいたします」
「こちらこそ」
大淀の柔らかな微笑みに提督は若干の安堵を感じて、会釈した。
「お寒いでしょうし、早速ご案内いたしましょう。さ、こちらへ」
そう言うと大淀は敷地に入って先導し、提督が半歩後ろからついていく。
「あなたは寒くないんですか?」
先程歩いた道路とさして変わらないアスファルトを踏みつつ、右方に際限なく広がる青をちらと見て、彼は気になっていたことを訊ねた。
大淀は人差し指を頬に当ててしばし考えた後、提督に振り返る。
「そう……ですね。ちょっぴり寒い、といったところでしょうか」
「はぁ」
身の縮む寒さを「ちょっぴり」で済ましてしまう大淀の強さに、提督は驚く以上に呆れて間の抜けた返事を返すばかりであった。
〇
まもなく二人は、赤レンガの建物の前に来た。
遠くから一見した分には分からなかったが、間近に見ると瀟洒な洋館といった風情である。最近建てられたものらしく、目立つ綻びもさっぱりない。
「ここが、鎮守府ですか」
「はい。中も立派ですよ?」
大淀が重厚なデザインの木扉を開け提督も続いて館内に入ると、白を基調とするホールに出た。
天井は適当な間隔に粋な作りの明かりが吊り、高級な木材の床には真っ赤な絨毯が敷かれホールの左右に繋がる幅広の通路に伸びている。奥には踊り場のある装飾の凝った階段が備え付けられていた。
「ほぉ……」
内装の豪華さに、さしもの提督も感嘆せずにはいられなかった。傍らの大淀はその様子を満足そうに一瞥する。
「一階の部屋の紹介は後にして、まずは執務室をご紹介しますね」
「は、はい」
鎮守府の威容に押され気味な提督は、促されるまま少々急な階段を上る。
〇
彼が肩で息をして二階に着いた頃には、大淀が扉の隣で待っていた。その扉は、廊下を挟んで階段の正面に位置していた。
呼吸が落ち着いた所を見計らって、彼女は扉を手で示す。
「こちらが執務室です。中では、あなたを待っている人がおります」
「待っている人……?」
大淀の持って回った言い方に、提督が疑問符を浮かべた。
「事前の通達があったと存じますが……まずは実際に会って頂ければよろしいかと」
「そうですか」
大淀の答えは提督の腑に落ちなかったが、彼女の言うことももっともなので素直に従うことにする。
提督は緊張した面持ちで何度か深呼吸を繰り返すと、真鍮のノブを掴み、回し、静かに扉を押した。
果たして扉は開かれ、執務室の全容が明らかになる。
来客用のソファがテーブルを挟んで向かい合い、それを見下ろすように鎮座する執務机。緑のカーテンが纏められた窓からは日光が差し込み、室内は明るい。
ただ、提督の目に真っ先に映ったのは、ちょうど同じように提督の目を見つめる少女の姿だった。
白と青を基にしたセーラーを身に着けたその娘は、桃色の髪を二つに縛り、丸みを帯びた可愛らしい顔つきに二つの瞳を好奇心に輝かせている。
一瞬の間が空いたかと思うと、少女がずんずんと提督に近付いてきて眼前で止まった。提督が見下ろし、少女が見上げる形となる。
茫然とする提督に代わって、彼女が先に口を開いた。
「綾波型駆逐艦”漣”です。こう書いて、さざなみと読みます」
そう言って、漣はポケットから小さな紙片を取り出し提督に手渡す。
見ると、”漣”の漢字が丁寧に書かれていて、字の上にはひらがなが振られていた。
「さざなみ……」
提督が紙片から視線を外して彼女の名を呼ぶと、漣は嬉しそうに頷いた。
「はい!これからよろしくお願いしますね、ご主人様」
「……!」
突然、提督が面食らったように驚き、顔を伏せた。しかも、なにやら肩を震わせている。
「ありゃ……もしかして、怒らせちゃいましたかね……?」
提督の不審な様子を察しかねた漣が、大淀の傍に寄ってそっと耳打ちする。
これには大淀も困ったように首を振った。
「さ、さぁ……そう怒りやすい方には全く見えませんが……」
恐る恐る漣が提督の顔を窺うと、今度は彼女が驚く番だった。
なんと、提督はぼろぼろと大粒の涙を零していたのだ。
「……感動した」
思わず二人は顔を見合わせた。
喜んでもらったことは確からしいが、予想の斜め上を行く反応に呼んだ本人が唸った。
「ううむ……ヘンな人」
これが、泣き虫提督とちょっぴり風変わりな駆逐艦娘”漣”のなんとも妙な出会いだった。