「……ま。坊ちゃま」
「む……」
誰かに揺さぶられる感覚で、少年は目を覚ましました。
蝉が絶えず鳴く季節、落ち着いた品ある色合いの、一人分にしては少々広すぎる部屋。
当然、目前に起こした人の顔が映る訳で、その人はというと、洋式の調度品に縁取られた室内にはちょっとそぐわない、 割烹着と白の頭巾といった出で立ちの、端正な顔つきをした女性でありました。
「ち、ち、チヨさん!?」
「やっと起きましたね……本当に」
女性……チヨは両手を腰に当てて怒ったような素振りをしてみせましたが、少年にとってはそれを気にするどころではなく、起床早々に弾む心臓を落ち着けるので精一杯でした。
そんな少年の驚きを知ってか知らずか、
「今日は学校の始まる日なのですから、シャキッとしないと」
「はぁ」
「さ、朝御飯の支度も出来ております。早く支度をなさって」
「分かりました、分かりましたからっ」
お説教するチヨの背を、少年はぐいぐいと押して部屋の外へ追い出してから、扉をバタンと閉めました。そして、その場でへたり込んで、額に流れる大粒の汗を拭うのでした。
○
「ハンカチは持ちましたか?」
「はい」
小綺麗に整えられた玄関で、使い古された革靴を履いた、半袖のワイシャツに折り目のない黒のスラックス姿の少年が頷きました。水で撫で付けた髪がまだハねておりましたが、たった今学帽を被って押さえつけました。
「どうぞ」
「どうも」
対面のチヨは少年の身だしなみを気にしつつも、肩に提げる四角い鞄を手渡しました。受け取った少年は、軽く頭を下げて、帽子を被り直す振りをしました。
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
チヨのにこやかな笑顔に見送られ、元気と憂鬱のない交ぜになった複雑な気分で、少年は扉を開けました。
外は案の定の快晴で、ぎらぎらした日差しがゆっくりと地面を焼いています。
茹だるような暑さに不快感を覚えながら、色とりどりの花々が咲く庭をさっさと抜け、最後に凝った造りの門をくぐると、家の豪奢な敷地とはかけ離れた田園地帯が現れるのでした。
「よう、半次郎」
そんな全き田舎の田んぼ道に出てきた彼に、同じ道端から声を掛ける少年が一人。彼よりほんの少し背が高く、同じ学生服に身を包んでいます。
「京介、お前もか」
呼ばれた少年、もとい半次郎は少年の名を呼び返しました。
「なんだその、人を裏切ったみたいな言い方」
「いやいや、むしろ嬉しいよ。あのお爺さんと二人っきりで授業なんてことになっていたら、僕は死んでいた」
「……そんなに厳しいのか?」
半次郎のあまりの物言いに、不安を感じた京介が訊ねました。彼はゆるゆると首を振って、
「精神的に苦手なんだ」
と、小さくつけ加えました。
「お前な……まぁ、いつまでもここで突っ立ってちゃ堪らんから、さっさと行こうぜ」
呆れた目でそう言った京介に、半次郎がコクりと頷くと、二人は遠く小山に続く畦道をのそのそと歩き始めたのでした。
○
木々が青々と生い茂る山道に入ると、照らす日光に辟易していた少年達もわずかに元気を取り戻して、ぼそぼそと益体のないことを喋りながら道なりに登っていきます。
が、木陰と涼しい風が吹けども運動量自体は結構なもので、目的地に辿り着いた頃にはお互い肩で息をして、結局閉口するのでした。
彼らの前には、山中の一角を均した平地に建てられた、大きな木造のお屋敷。学校と言えなくもない雰囲気は醸していましたが、これまたやっぱりお屋敷です。
「ほんと、お前ん家って金持ちだよな」
京介の素直な感嘆に半次郎はどう答えていいものか頭を悩ませますが、彼はそれに気付いてすぐに話題を変えました。
「ま、とにかく入るか」
「うん」
学生二人は戸口に立って、古めかしい威厳を放つ木扉に掛かったベルを鳴らしました。
まもなく、家の内からパタパタと足音が聞こえて、ドアが開けられました。
「まぁ、まぁ。よくいらっしゃいました、半次郎様、京介様」
現れたのは、ふくよかな体型の中年の女性でした。丸い柔和な顔つきで、いかにも人の好さそうな方です。
年上に敬称で呼ばれた少年らは、戸惑いつつも帽子を取って挨拶しました。
「おはようございます。サチさん」
サチはにっこり笑って、
「はい、おはようございます。ささ、中へお入り下さい」
彼女に導かれて、半次郎から順に戸をくぐると、玄関で靴を脱いで丁寧に揃えました。
そこで、京介が何かに気付いたかと思うと、半次郎にこっそり聞きました。
「なぁ、女物の靴があるぞ」
「サチさんのじゃないか?」
半次郎は気の無さそうに返しますが、彼はそれを否定しました。
「いや、もう一人分だ……」
「ふむ?」
高そうな絵画や綺麗な生け花の添えられた、長い廊下を渡りながら、半次郎は知っている女性の存在を頭で挙げますが見つかりません。
「チヨさんでもあるまいし……」
「もしかして、俺たち以外にもきているんじゃないか?学生がさ」
「まさか」
あれこれ推論していると、先頭のサチがあるドアの前で止まって、自然彼らの会話も閉じました。
「こちらでございます」
特に心の準備をさせることもなく彼女は無造作にドアを開けて、二人は仕方なく中へ入ります。
そこは、広々とした空間でした。
壁を陣取る黒板とその前に佇むボロの教卓。窓一面から溢れる山の緑と、床に敷きつめられた規則的な模様のタイルに、ぽつねんと置かれた3つの机と椅子。
内ひとつの、真ん中の机には既に先客が座っておりました。果たして京介の読みは当たっていたのです。
「どもー」
紅いタイが映えるセーラーを着たその少女は、ひらひらと手を振って、今一表情の読めない笑みで二人を迎えました。
「ど、ども」
曖昧な会釈で返して、半次郎は真っ先に窓際の席に落ち着け、先手を打たれた京介は渋々壁際に着席します。
「俺、
一言も話さないのも気まずいので、とりあえず京介が自己紹介をして、少女が答えようとしたそのとき、
「おぉ、皆揃ったな」
短い白髪と立派な髭をたくわえ、背筋のぴんとした老人が部屋に来て、陽気な歓声を上げました。
「……詳しいことは後ほどー」
少女は申し訳なさげに断り、京介も了承して、老人に向き直りました。半次郎も、彼に半眼で相対します。
「ともあれ、出席は取らんとな。呼ばれたら返事をしてくれい」
しゃがれた、しかし張りのある声でそう言うと、この人数にはいっそ仰々しい名簿を開いて、点呼を始めました。
「
「はい……」
「一宮京介」
「へい」
「最後、
「はいー」
三者三様に応答すると、老人は一息ついて鳴を見、次いで半次郎と京介を見た。
「鳴殿、彼らに自己紹介してもらえるかの?」
「分かりましたー」
間の抜ける声で頷くと鳴は立ち上がって、教卓の隣につきました。
「この山の麓の近辺に住んでます、渡岸 鳴と言います。この度はお爺さんから学校を開くお話を聞きまして、私も勉強がしたいと思い、やって来ましたー」
「物好きな……」
「えへへ」
「誉めてないですよ、多分」
この不思議な少女に、京介も半次郎もけったいな気分になるのでした。
さて、老人は鳴を席に戻すと、一つ咳払いをして、話を代わります。
「半次郎と京介も後で自己紹介するように。儂も改めて名乗っておくが、折口 龍馬だ。これから数年、お前さん達にきっちり勉強を教えるつもりであるから、楽しみにしときなさい」
はーいと呑気に声を返したのは鳴のみで、男衆は無言でした。そんな彼らの様子は気にせず、龍馬は話を続けます。
「科目は、国語、数学、理科、社会、外国語……そして、コミュニケーションだ」
「こみゅにけーしょん?」
ウンザリしながら聞いていた半次郎が、最後のすっとんきょうな教科に思わずオウム返しで聞きました。
龍馬はごく当然のように頷いて、
「うむ。この周辺におる様々な人を呼んできて、一緒に話し合ってもらう。テーマはその都度決める」
「げ」
あからさまな拒否反応を示す半次郎に、彼は眼を光らせました。
「人とかかわり合うことは己の成長にとって欠かせぬものだからの。しっかり学ばんとな」
教師のもっともな言葉に、半次郎はとうとう机に頭を打ち付けるのでした。
「あぁ……」
心から嘆きの吐息を漏らす彼を、鳴は不思議な笑顔で見守り、京介が慰めるように肩を優しく叩くのでした。
この日が、彼らの未来への始まりであったのです。