泣き虫提督と水面に立つ小さな波   作:鈴索

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19話 トレーニング

「失礼しますっ」

 ほのかに月が灯る夜。

 相も変わらず明かりの点いている執務室に、鬼怒がやってきた。

「む」

 手持ち無沙汰だったらしくやたら古びた文庫本を読んでいた提督が、来客に気付いて顔を上げる。

「遅れちゃった?」

「いいや、丁度良かった……と、夜戦演習、お疲れ様」

「ありがとうございます。でもでも鬼怒、まだまだ体力は残ってるよ!」

「それは頼もしいけど、あんまり身体に負担がかかるのも良くないからな」

 そこで言葉を切って、コホンと一つ咳払いした。話題を変えるタイミングだ。

「ここでの暮らしは馴染んだか?」

「はい!まーったく問題ありませんっ」

 鬼怒の元気いっぱいな返答に少々気圧されつつ、提督は心中で安堵の息をついた。

 艦娘たちが良好な人間関係を築いていけるかが彼にとっての気がかりだったのだ。勿論、自分と彼女らとの付き合いという問題もあるが、それはそれである。

「それは良かった。それと、もう一つ重要なことなんだが……」

 本人の臆病を代弁するような垂れて閉じかけた眼が、再び伸びてきた黒髪に隠れて鬼怒の純粋極まる瞳を見つめた。

「実戦、出られるか?」

「それはもうバッチリ。何なら、今から出撃しても……」

「それは危ないからナシで」

 彼女の戦う意思は他の艦娘同様明らかだった。

 大淀のまとめた日々の演習の結果を確認すると、確かに実力的な問題も解決されていた。

「うん、聞きたかったことはそれだけだ。戻ってくれて構わない」

 そう言って、見送ろうと立ち上がろうとした際に、提督の体中から骨のうずく音が、鬼怒でも分かるほどに響く。

「……」

 痛いとまではいかずとも、身体に来た衝撃で机に手を突いたまま硬直していると、鬼怒が口を開いた。

「提督、運動してないでしょ?」

「はい」

 じとっとした視線から目を逸らしながら、頷く。今度は首が鳴った。

「うーん……」

 腕組してどうしたものかと唸る鬼怒に、一つの案が閃いた。

「鬼怒、朝に走り込みをしているんだけど、提督も良かったらどう?」

「え、走り込み……」

 そんなことをやっていたのかという言葉は飲み込んで、頭の内で考える。一瞬過去の些細な出来事を思い出して心の古傷が開きかけたが、辛うじて抑え込んで、運動をした方が健康的だろうという結論に至った。

「……あぁ。試しに、やってみよう」

「本当!?じゃあ、明日の朝、鎮守府前で待っててね」

「わ、分かった」

「おやすみなさいっ」

「おやすみ」

 鬼怒は裏のない笑みで約束をつけると、明日に遅れてはならぬとばかりに慌ただしく執務室を出て行った。

「ま、いいか。たまには」

 残った提督も早々に仕事を切り上げ、床についたのであった。

 

 〇

 

「で、なんでまた私が呼ばれにゃならんのですか」

 日も昇らぬ朝。

 そんな時刻、鎮守府本館の前で漣が恨みがちに言った。

「なんとなく心細いので……」

 彼女は普段のセーラー服ではなく、支給品のえんじ色なジャージを身に着けていた。提督は変わらず軍服にコートを羽織った格好である。

 運動する人というより、監督にしか見えない。

「お待たせ……って、漣も来てくれたの?」

「え、いや、まぁ、そんなトコで」

 提督に呼ばれて渋々やって来たと正直に言う訳にもいかず、それとなく言葉を濁した。

「いやぁ、賑やかになるのは良いことだよ。とにかく、さっそく準備体操をしよ」

「はーい」

 言われた通り、一通りの体のストレッチを行う。

 特に提督は念入りに動かしていた。

「そういえば、どこを走るんだ?」

 脚を伸ばしながら提督が訊ねると、一足先に準備を終えた鬼怒が答えた。

「鎮守府の敷地内を十周、かな」

「じゅ……」

 敷地内といえどもその距離は相当な長さである。ましてや十周などといったら、疲労の度合いは想像に難くない。

 傍らの漣も無言になっていた。

「さぁ行こっ」

 唯一モチベーションあふれる鬼怒が、紅い髪を揺らして一番に走り出す。

「……漣、倒れたら後は頼んだ」

「メンドクセーので却下」

 当然と言えば当然であるが、少々不機嫌な漣が、提督の嘆願をすげなく断って離れていく。

「腹を括るか……」

 震えた声で呟き、彼は最後尾で後を追いかけていくのであった。




このあと提督は一周でダウンしました。
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