「行ってきます」
「いってらっしゃい、坊っちゃま」
爽やかな秋晴れのある日、半次郎はいつものようにチヨに見送られて、自宅を出ました。吹く風は夏の時分には考えられぬほど冷たく、もうすぐ冬の来る気配をひしひしと感じさせます。
その夏に学校が始まってはや数ヵ月、半次郎もほんのちょっぴり体力が付いたようで、自然と歩幅が広がっていました。
「おはよう」
「おう」
学校の有る山へと続く畦道へ出ると、丁度、京介が向かってくるところでした。どことなく野暮ったい制服を着こなす整った姿は、妙に超人的な雰囲気を漂わせています。実際は、そんなことはなく只の気の良い青年でありますが。
「行こうぜ」
「うん」
登校の恒例として、あることないことを駄弁りながら二人は砂道を踏んでいきます。
やがて、長い一本道を突き当たって右に曲がり、やたらに繁る木々を貫く、整備された山道に入りました。
人二人には広すぎるその道を、酔いどれのようにふらふら歩きながら、ふと京介が口を開きました。
「なぁ、将来の夢ってあるか?」
「……夢?」
半次郎は思わぬことを聞かれ、つい首を傾げます。
「そのまんまの意味だよ。やりたいことって言ってもいいかもな」
「やりたいこと」
京介の言葉を反芻して、半次郎は考え込みます。相棒は草木を弄りながら、彼の発言をじっと待っていました。
「……立派な人になること、かな」
「俺が言うのもナンだが、ずいぶん抽象的だな……理由は?」
「えぇと、父さんが僕の小さい頃に亡くなってね」
「お、おう」
「でも、とても、強くて優しい人だったって記憶がずっと頭に残ってるんだ。それで、僕も父さんのような立派な人を目指さなきゃと思って」
「ご主人様、とかか」
からかっているのかイマイチ判断できない調子で訊ねた京介に、半次郎は照れくさそうに頷きました。
「まぁ、ね。なにせチヨさんは未だに坊っちゃまと呼んでくるしさ」
「成るほどなぁ」
「京介はどうなのさ」
「俺?俺は、正直無いんだ。困ったことに」
京介は手をヒラヒラさせて、お手上げのポーズをとりました。そして、少し不満げな半次郎に微笑みながら、
「無いから探すさ。これからな」
「そっか」
「人生終わるまでに見つかればいいが……」
「見つかるよ、きっと」
特に保証のない励ましと共に尻切れトンボで話も終わった頃、二人はいつの間にか学校に辿り着いていました。
「さ、今日も一日勉強だ」
「行こうか」
「あぁ」
うんと伸びをしてささやかなやる気を振りしぼると、二人は勇みよくドアベルを鳴らすのでした。
○
灰暗い廊下をひたひたと渡り、数えて何番目かの扉。
ノブを回すと、パっと窓から光が差し込む教室に出ました。がらりと空いた空間には、古びたがしっかりした作りの机椅子が並んで四つ。内、廊下側から数えて二番目の席には、鳴がぼんやりと天井を見つめて座っていました。
「先輩、おはようございます」
「ほぇ?あ、二人ともおはよー」
「どもっす」
彼らは変わらない平生の挨拶を交わします。先輩と呼ばれているのは、彼女が実際に半次郎らより年がふたつ上であるという事と、それで京介が冗談混じりに使った所、本人がいたく気に入った為でした。ですが、今日今現在の問題はそこではなく。
「なぜ、もう一個椅子と机があるんだ……」
「新入生じゃないんですか」
人見知りの元へ知らない人が新たにやって来るのは心労甚だしいことで、頭を抱える半次郎に、鳴はのんきに答えます。京介も気のなさそうに首を振りました。
「どうせそろそろ___ほら、噂をすればなんとやらだ」
耳を澄ますと、床を踏む音がとんとんと不規則に響いていました。それはおそらく教師の龍馬の足音であり、またそれが彼一人のものではないことも明らかにしていました。
どんな人が来るのか、そもそも来るのか、話す暇もなくドアは開かれました。
「おはよう、皆の衆」
「「「おはようございます」」」
老いて尚気骨をびしびしと放つ龍馬がはきはきと言って、対する生徒らは若干腑抜けた調子で返しました。
「さて、もう気になっているだろうが」
と、龍馬は空席へと目を向けて 、
「今日からもう一人、共にに勉学に励む者を迎え入れる。入ってきなさい」
堅い文句とは裏腹に、心底優しげな声で開けっぱなしの廊下に呼びました。
まもなく、少年が堂々と、しかし緊張がありありと分かる程に強張った歩き方で、入って来ました。半次郎より二回りも背が小さく、とても中性的な見た目で、少々細工を施せば少女とも間違われそうなほど華奢です。
彼は教卓の側で止まると文字通り90度左に回り、生徒三人の顔を一瞥して、すぐに奥の壁へ視線を移しました。
「み、
遼は訥々と自分の名を上げると、角ばったお辞儀をしました。
「じゃ、ここに座んなさい」
何を補足するでもなく龍馬は半次郎の隣を指し示し、遼は大人しく腰を下ろしました。
その際、ちょっと会釈を返すと、彼はまだ緊張しているのか頷くばかりでした。
新入生への反応は全く三者三様で、京介は拍子抜けし、鳴は手を合わせて大喜び。
そして半次郎はというと、ようやく少しは慣れたかと思われた学校生活にまた一波乱を与えられたような気分になって、ひょろりと長い息が喉を抜けるのでした。