遠く緑が照り映えるほど穏やかな時分。
太陽の見下ろす地上はぽかぽかと温かく、活力が体の内からふつふつ湧いてくる。
「明石さーん」
「はいー只今……あ、提督!来てくれたんですね」
シャッターを開放した工廠に入って早々、呼び掛けた彼に明石が駆けてきた。仕事をしていたらしく、制服の上に作業エプロンを着け、頬を煤で汚していた。
「どうも。ハンカチ、貸しますか?」
「いえいえ、手拭いで済ませるので大丈夫です。わざわざすみません」
提督に言われて、彼女は慌てて手袋を取り首に巻いた手拭いでさっさと顔を撫でる。
「えぇと、俺に用があると大淀さんから聞いたんですが」
「ちょっとお待ちを……」
落ち着いた所を見計らって聞くと、明石はそそくさとポケットを探って、1枚の用紙を取り出した。
「これ、これですっ」
丁寧に畳んだそれを広げて、重要箇所を指で指し示す。提督は顔を近付けて、ざっと全体も読んだ。
「つまり、響に更なる改修を施せる……ということか」
内容をまとめた言葉に、彼女は首肯した。
「はい。どうやら、最近の北方泊地海域の攻略と普段の演習の成果によって、彼女の練度が一定まで達したそうです」
「なるほど」
提督はしばし紙面を見つめた。横合いから、明石が口を出す。
「この改装は、以前とは違う大規模のものが予想されます。ですから、決定は慎重にお願いしますね!」
とは言うものの、好奇心は微塵も隠さずだいぶ興奮した調子である。
半ば気圧されるようにして、彼は2、3歩退がった。
「ご忠告ありがとうございます。ちゃんと響にも相談しておきます」
「そうしてください。出来れば早くお返事をもらえるとありがたいです。すぐにイジ……改造には時間が必要なので」
「わ、わかりました。では」
そこはかとない身の危険を感じた提督は、タイミング良く話を切り上げて、早足で人探しに移るのであった。
〇
再びお日様の元を歩いてほどなく営舎へ。
丁度演習が終わりの休憩時間なので、響も部屋にいるだろうと予測した故である。
伊良湖に顔を見せに食堂へ寄ってから、折り返しのある階段をあくせく昇って二階へ上がる。
一息ついたところに、さっと影がよぎり直後、弱い風が吹き付けた。
「お、あぶな……」
注意しようと視線で追う。そこに、二つに分けた髪を揺らしスカートをはためかせる見慣れない後ろ姿があったかと思うと、それは影を揺らして曲がり角へ消えた。
「……誰だ?」
どうにも思い付かず後ろ髪を掻いていると、後ろから忙しげな足音が聞こえた。振りむいたら、響だった。
「あ、響」
彼女は提督が呼ぶのも気にせず駆け抜け、曲がり角でブレーキをかけると、そのまま足を止めた。そして、今気づいたように提督を見る。
「ごめん、司令官。どうしたんだい?」
「君に新しい艤装の改修通知が来たんだが……そっちも何かあったのか?」
言いながら、提督は用紙を響に手渡した。彼女はちょっと眺めて、
「改二、か。……ちょっと、待ってくれないかい」
「了解」
「じゃあ、また後で」
手を振るや否や響はまた走り出して、曲がり角に消えていった。普段と違う落ち着きのない彼女を不思議に思いつつ、提督は小さく息をついた。
「どうしたんだ、一体?」
「幽霊よ」
「うおっ、霞、と漣」
「ども」
気がつけば、後ろに霞と漣が立っていた。響を追って来たのかは今一判別がつかず気になったが、今はそれよりも興味深いワードが彼の頭を占めた。
「珍しいですね、ご主人様。ここに来るなんて」
「用事があってな。ところで、幽霊って?」
「最近、猫をぶらさげた女の子の幽霊が営舎を徘徊してるって噂があんのよ」
「響はその幽霊を探していた、という訳か」
「そういうこと。妙なところに首突っ込むから、あの子。ま、どうせマボロシだとは思うけど」
霞の言葉が途切れて、提督はふと先ほど通り過ぎた見慣れぬ人影を思い出した。瞬間、ぞわりと背筋が震える。
彼のおかしな様子に気付いた漣が、心配そうに覗き込んだ。
「顔色、悪いですよ?」
「俺、幽霊、見た……」
「はぁ!?」
思いの外強い反応を示したのは霞の方だった。漣はというと、へーとのんきに感心している程度である。
「あ、あんたまで何言ってんのよ。疲れてるんじゃないの?」
「まぁ、夜更かしは増えたが……」
「ほほう、もしや霞ちゃん、怖がってたり?」
「ないないない!そ、そんなことあるわけないじゃない」
桃色の悪魔の茶々に、霞はぶんぶん首を振って否定した。語気も荒げて、どこか空元気な調子。
「顔が赤いぞ。熱、あるのか」
「うっさい!」
心配性な提督が思いやりで訊ねるも、状況が状況のため霞に一喝される。その一瞬の隙を狙って、漣が彼女のなだらかな肩をそっと叩く。
「ひゃん!」
「おおう?」
きょとんとする提督に、反応を楽しみつつも、引き際をきっちり弁えて後じさりする漣。
霞は無言で肩をわななかせたかと思うと、悪鬼の形相でにじり寄る。勿論彼女は逃げ出し、その後を猛烈な速度で追って銀の髪が揺れる。
あまりにわずかな間の出来事で、提督はその背中を見送ることしか出来なかった。
「……ま、いいか。ちょっと、休もう」
そして、なんだか脱力したまま踵を返した。
〇
小さな窓から沈む夕日の差す書斎。
本の詰まった棚に囲まれる中、響はドアの傍に構え、見据える先には、皮だけ残ったような平べったい猫の前足を両手で掴んでぶら下げた、奇っ怪な様子の少女が居た。
光を背にするその顔は陰になって殆ど見えないが、口元がちょっぴり笑っていた。
『ふふっ……追いかけっこ、とっても楽しかったわ』
「どっちかというと、かくれんぼだった気もするけどね」
少女は嬉しそうに言って、響は嘆息する。
宙ぶらりんの猫がナァと間抜けた声で鳴いた。
『それで、あなたはどうして私を探したの?』
「……君は、自分の元の
『
「或いは、そうかもれないな」
それとない訂正に、彼女は素直に同意した。それを見届けて、少女は困ったように指を頬に当てる。安定を失った猫が、恨めしげにまた鳴く。
『……
『ある日、そこに
「……」
『そこへ、吸い込まれるみたいに色んな魂が吸い込まれちゃったの。半分は事故みたいなものだったけど、中には私のように興味本意で入たのもあったわ』
「それが、この世界に?」
少女は猫をしっかり抱えてやって、宥めすかしつつ肩をすくめた。
『多分ね』
「……原因は、何だろうか」
『それこそ、ただの幽霊の私には知る由もないわ。唯一言い得るとしたら、それは運命のいたずらであって、私たちは単なるエラーに過ぎないという事』
「ошибка、か」
響は彼女のエラーという言葉を繰り返した。どこか寂しさを伴って、その音は空気に溶けた。
そこへ、こんこんと戸口からノックの音が飛び込む。二人はそれに気づいて、顔を見合わせた。
『お話はこれでおしまい。良い頃合いみたいだし』
『じゃあね』
「あぁ、До свидания」
幽霊が煙のように一瞬で跡形もなく消えたのと、提督がドアを開けたのは同時だった。
響は提督と向かい合う。
「話、聞こえてたかい」
「いいや」
「そうか」
しばらくの沈黙を挟んで、彼女はぽつりと言った。
「
その言葉に、提督は必死に考える。
「……俺は、君達の為になることなら何だって協力は惜しまないつもりだ。……それはもしかして、君の゛やりたいこと゛か?」
微笑みながら、響は首を横に振った。
「ちょっと、違うかな。ボクの願いはね」
小さな唇が閉じられる。提督は促すでもなく、続きを待つ。
再び、喉が動いた。
「……楽しい今の生活を、皆と一緒に送り続けることさ」
どんなものが来るかと待ち構えていたら、急に日常の事を持ち出されて、提督は肩透かしを食らった。
「それじゃ、いつもと変わらないんじゃ」
「゛当たり前゛の大事さを、君はもっとちゃんと知っておいた方が良い」
「ごめんなさい……」
存外きつく諫められて、彼はほぼ直角に体を折って頭を下げた。
言葉の代わりに、響は提督に手を差し伸べた。
不思議に思い顔を上げると、いつもクールでちょっぴりお茶目な空色の少女は、帽子を胸に当ててはにかんでいた。
それは、どこか切り取られた景色のように浮かんで、ごくごく鮮やかに彼の目に映った。
「゛不死鳥゛はね、体の傷は治せたけれど、心を癒すことは出来なかったんだ」
「だから、一緒に手を繋いで生きて欲しい」
「……あぁ」
分からなくても、分かった。彼女が見せた過去の一端にふれて、思わず僅かな息が漏れた。嬉しいような、哀しいような。
泣きたい気持ちで、提督はその手を静かに握った。
長い間、そうしていた。
「……改修、受けるよ。皆と一緒に居られるように。皆を守る為に」
彼女の決意を、提督は何も言わずに受け入れた。
「先、戻っているよ」
「うん」
思い出したように手を解いて、響はそそくさと書斎を離れた。彼は、違う熱が仄かに残る自らの掌を、ひどく懐かしそうに見つめていた。