目覚めの朝、提督の世界は揺れていた。
起きなければと体を持ち上げると、節々が鈍く痛み体内に熱が籠っている気さえもする。
「……これは、まずいな」
開きかけた口から漏れるのはひどく掠れた声。どう考えても熱があると彼は悟った。
誰かを呼ぼうにも鎮守府と営舎は離れているため、異変に気付いた誰かに見つけてもらう他ない。
仕方なく提督は、もう一度布団を被って横になる。眠れるようで眠れない、なんとも苦しい心地。
乾く目をしばたたかせていると、戸口を叩く音が微かに
「提督」
返事をしようとするが、咳が二、三度出るばかり。
何度か戸を叩いて反応がないので、不審に思った大淀はとうとう断りを入れて入ってきた。
「すみません。開けますよ……って、提督!?」
絶賛グロッキー状態の提督を見るや否や、彼女は慌てて寄った。額に手を当てると、けっこうな熱さである。
「……おおよどさん、今日は、休む……」
「分かりました。いま準備してきますから、安静にしていてくださいねっ」
言って、バタバタと駆け出すのだった。
○
こうして提督は三九度ほどの高熱を出していることが発覚した。幸い大病を患っている訳ではなさそうで、夜更かしの読書による疲労だろうと見当がついた。
それ故、本日はお休みも兼ねて鎮守府のメンバーで代わりばんこに看病することになった。
さて、お昼時。
「伊良湖さーん」
「あら、雷ちゃん」
雷が食堂へやってきた。伊良湖は台所から顔を出す。
「司令官のお昼ご飯、受け取りに来たの。それとも、何か手伝えることはある?」
「そう?じゃあ、お手伝いしてもらおうかしら……といっても、簡単なものだけれど」
「任せて!」
きちんと手を洗ってから、伊良湖に予備のエプロンと頭巾を借りて準備を整えた。
さっそく伊良湖の隣に立って、彼女を見遣る。
「何をすればいいの?」
「お粥はもうできるから、これを」
伊良湖は冷蔵庫を探って熟した林檎を取り出し、まな板の上にそっと置いた。
「皮を剥いて、食べやすい形に切ってもらえる?」
「分かったわ」
雷は包丁を貸してもらって、器用に林檎の皮を剥きはじめた。その手際の良さを伊良湖は感心しながら眺める。
「上手ねぇ」
「なんとなく、よ」
剥いた後、芯をくり貫いて八等分に切り分け小皿に盛り付けた。
「できた!」
「ありがとうね、雷ちゃん」
「どういたしまして」
子供らしくえへんと胸を張る彼女を微笑ましく思いつつ、伊良湖はお粥を椀によそって、盆に載せた。
「……この時代はね、一度病気にかかってしまうと、お医者さんが少ないから治すのが大変なの」
ぽつりと言うと、俯けた顔を上げて雷に膳を渡した。
「だから、あなたからも叱ってあげて、無茶はしないようにって」
「えぇ。ちゃんと、言ってくる」
彼女は真剣な表情で頷き、気を付けて盆を持ちながら食堂を出ていった。
伊良湖はその後ろ姿を手を振って見送る。
姿が消えると、一息ついて目端に滲む涙を拭った。
「……本当に、良い子たちに出会えましたね」
呟き、気合いを入れて仕込みに取りかかるのであった。
○
まどろみにあった。介抱のおかげで、まだまだ完治には遠いがその内良くなりそうである。
額のおしぼりの冷たさを感じていると、視界の端に影が映った。
ずり落ちない程度に首を傾けると、その影はすぐに漣であると知れた。
「さざ……なみ?」
提督は、小さくその名を呼ぶ。
彼女は笑みを浮かべたが、その表情はよく見えなかった。
「答えは、見つかりましたか?」
ただ、そんなことを聞くのだった。
そのとき、ほんの一瞬だけ、病める肉体から魂がすり抜けたように、驚くほど意識が明快になった。
言葉は喉を震わせなかった。だから、代わりに首を僅かに縦に振ってやる。
それを見届けると、彼女は命が消え失せてしまうかのように、たおやかに微笑んで踵を返した。提督の重い瞼はそれを捉えるか捉えないかの内に、闇に閉ざされてしまった。
○
「……司令官、ごはん持ってきたわ」
慎重にドアを開けて、食事を持った雷が執務室に入った。
「あぁ、ありがとう」
彼女は歩み寄ると、ベッドの傍にある小さなキャビネットの上に膳を置いて、上品な背もたれつきの椅子に座った。提督のもののためか、ちょっぴり足が床から浮く。
「起き上がれる?」
「なん、とか」
提督はのそりと上体を起こす。
そこで雷は、お粥と木のスプーンを持って構えていた。
「あーん、してくれる?」
「えぇ……」
彼はいかんせん迷った。気恥ずかしさや他の艦娘のことも考えて個人的には遠慮したかったが、熱で気が弱っていたのと、彼女の親切心を無下にもできず。
「たの、む」
「ほんと!?」
「うん」
雷はなお瞳を輝かせて、いそいそとお粥を掬い、息で冷ましてから、彼の口許に持っていく。
「はい、あーん」
提督は唾を呑んだ。人生で幾度もないであろう緊張が走るが、大人しく受け入れた。
「……」
ゆっくりと咀嚼する。雷はにこにこ笑っていた。
飲みこんで、提督は頷いた。
「おいしい」
「伊良湖さんが作ったお粥だもの。でも、こっちは私が剥いたのよ」
今度は林檎を楊枝で刺して、再び口許に持ってきた。
急なことでぐっと息が詰まりつつも、これを食べる。
流石に一口では食べ切れないので、半分だけかじった。
嬉しいのやら恥ずかしいのやら、複雑な心境で食事を乗り越え、やっと一息つく頃合いとなった。
「懐かしいな」
ふと、提督が呟く。
「なにが?」
「子供の頃、チヨさんにこうしてもらった」
チヨという名前に彼女が首を傾げるのを見て、そっと付け足した。
「伊良湖さんだよ。昔から、俺の家の給仕さんをやっていたんだ」
「はぁ」
彼はしばし遠い回想に浸った。普段聞かないような話を始めたので、雷も黙って聞くことにする。
「俺がまだ小さかった頃、流行り病があってな。あの人の両親はそれが原因で亡くなった。その時、俺の父がご両親の友人というよしみで彼女を引き取ったんだ」
「最初は俺もチヨさんも気が塞いでいて、あまり話さなかったんだけど、俺が風邪を引いて寝込んだとき、母さんと一緒に看病してくれたんだ。それから、ちょっとずつ話すようになった……」
「そんなことがあったの」
ほうと雷は溜め息をついた。普段親しくしている筈の人の過去を初めて知って、不思議な気分になった。
「本当は口止めしてたんだが、まぁ、いいか」
話し終えて気分が落ち着いたのか、提督はすごすごと布団へ潜り込む。
ちょっと考え込んでいた雷が、つと口を開いた。
「司令官」
「ん?」
「絶対に、無茶しちゃダメよ。……私たちも、気を付けるから」
「すまん……」
「私ね」
そっと彼女の手が提督の頬に触れる。ひんやりとした心地良さを感じつつ、じっと次の言葉を待つ。
「……あなたに尽くしたいの。うまく、いえないけど」
それが、雷の゛やりたいこと゛だった。純粋な親愛の想いが柔らかな手を伝い、彼の頬から胸に染み渡った。
「ありがとう」
すんなりと、言うべき言葉が、心の底から出た。
その言葉に、雷はただ頷いたかと思うと、それを合図に立ち上がった。
「さ、しんみりしたお話はここまでにして。お膳を片付けに行ってくるわ」
「あぁ」
部屋を出る際、振り向き様に彼女の顔が映った。
ついさっき、どこかで見たような笑みだった。
その表情を印象に深く残して、提督は伝う涙と共に再三の睡眠に落ちるのであった。