泣き虫提督と水面に立つ小さな波   作:鈴索

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26話 たなびく霧

 暑さが北方にもじんわりとやって来る今日この頃、お日様のやんわり照らすたおやかな午後のこと。

 提督は珍しく、執務室ではなく自室の机に座って厳めしそうに瞳を閉じていた。というのも、つい最近夜更かしの連続で熱を出して寝込んだため、鎮守府の皆から体調管理を理由に適度な休憩を課されたのである。

 しかし、休もうにもなんだか落ち着かなくて、高級でがっしりとした執務机に劣らぬ質のそれに積まれた、以前に図書館で借りた図書の束に彼は自然目を向けた。

「もうこれ以上読んでも、推測は変わらんだろう……」

 静けさ漂う中で独り()ちると、彼おもむろに席を立った。

 そして、窓差す光も僅かな小ぢんまりした部屋をぐるりぐるりと周って、ふと片隅に立て掛けられたあるものに目を留めた。楽器を収めたケースだった。

 何気なく手に取り、留め金を丁寧に外し蓋を持ち上げる。見るも優雅な曲線を描き、落ち着いた光沢を放つ弦楽器がそこに収まっていた。ヴァイオリンである。

 鎮守府に就くことが決まったときに、機会があればとついでに自宅から送ってもらった代物なのだが、仕事に追われ手入れだけを行ってきたのだった。

「弾く、のも良いが。ここだと大淀さんの邪魔をしてしまうかもしれないな」

 丁度良い時間の使い方を見つけたところで、どうしたものかとちょっと思案する。

「探す、か」

 結果、行き着いた結論はそうなった。

 懐かしみと臆病に固有の頑固な意志を決めると、提督はケースを閉じ大事に抱えて、自室を後にするのであった。

 

 〇

 

 鎮守府に繋がる連絡通路から営舎へと向かい、誰かに見つからないように目を配り気を付けながら提督はこっそり歩いていく。

 彼の目指す場所……それは、一階の右端、つまり営舎の隅に位置する遊戯室だった。

 別に人がいないという確証はまるでないのであるが、このときの彼の頭は人はいないだろうという曖昧な確信に基づいて働いていた。

 さして広い建物でもないため、ほどなくして目的地の前に到着した。

 そして、何の疑問も抱かずに引き戸を開ける。

 ごろごろと金属の縁を車輪が転がって扉は右手に退き、提督は遊戯室へ足を踏み入れた。

そこは、半分が畳で仕切られた段差のある座敷と、艶を放つフローリングに乗っかる一つの撞球台がもう半分を占めた部屋だった。座敷にも昔懐かしと呼ばれるようなおもちゃを丁寧に詰め込んだ木箱がある。

「あ」

「ん?」

 声が聞こえた。何気なく視線を投げると、座敷に上がっていた霞と目が合った。

 驚きで彼女の琥珀の強い目つきが丸まり、緑のリボンに結ばれた一房の見るに鮮やかな銀髪が小さく揺れる。提督も同じく意外な心持でしばらく唖然としていた。

「なぜ?」「なんで?」

 純粋な疑問の声が同時にぶつかる。気まずさに二人とも口をつぐんだが、それ故に恥ずかしさの生じることはなかった。

 間が空く中途、自分の方から語るべきだろうと悟った提督が先に言った。

「休みをもらったからな。その、音楽でもやろうかと思って、場所を探していた」

 その理由を聞いて、霞はほっと息をつく。

「なんだ、そういうこと。てっきりなんか急用でもあったのかと」

「霞の方は?」

少し口ごもりながら、彼女も答えた。

「気分転換で、よくここに来るの。皆も使うけど、今はたまたまあたしだけ」

「なるほど」

 お互い言うこともなくなって、沈黙の気が辺りに立ち込める。

 険悪という訳ではないのだが、いかんせん、二人の性格が性格であるため、何を話そうにも遠慮してしまうのだ。

この環境を抜け出そうと、提督の持つ楽器に目を付けた霞は、渡りに舟とばかりに座敷の縁に腰掛けた。

「それ、楽器よね」

「ん、あぁ。そうだが」

「演奏……とか、聴かせてくれない?」

「分かった」

 彼は簡単に頷いた。その素直さに、少女は妙に拍子抜けの心持ちになって、改めて確認した。

「いいの?」

「音楽は人に聞いてもらってなんぼだと教えてもらったからな。昔の勘を思い出しがてら、弾いてみよう」

 提督は撞球(ビリヤード)台にケースを置いて、ヴァイオリンと弦を、静かに引き上げた。

 霞はただじっと、興味深そうに彼の様子を眺める。

 ヴァイオリンを固定し、弓をつがえる。一つ、深呼吸を入れた。

 弾かずに久しくやはり少し不安に思ったが、意を決して提督は演奏を始めた。

 

 

 結果として、彼の演奏は成功した。多少の拙い部分もあるにはあったが、心を込めた音色だったのも確かであった。

 その音の流れる旋律には、どこか郷愁の念を誘うような響きがあった。

「……」

 思いも寄らぬ上司の一芸に、霞は感心した様子でぱちぱちと拍手を送った。提督もきっちりお辞儀をして、一旦ケースに楽器を伏せた。

「初めて聞いたけど、良いわね。その音も、あんたの演奏も」

「気に入ってくれたらなによりだ」

 そう返した直後、彼の身体に不思議な感覚が走った。

 弦の奏でによって思い出が手繰り寄せられ、幼少の頃の記憶が走馬燈のように駆け巡った。

 実に奇妙で、どうにも懐かしくて。

ぽろりと一つ、涙が頬を伝って、ケースに零れ落ちた。

慌てて袖で拭うのだが、中々止まない。それだから、いつの間にか近付いてきていた霞にも動揺を隠せなかった。

「どうしたの?」

「い、いや何でも……」

 提督が咄嗟に言い訳しようとしたとき、彼女の手が彼の腕をぎゅっと掴んだ。

「……霞?」

「私達だってあんたの支えになれるんだから、あまり一人で抱え込まない。こっちが迷惑なんかすることないし、むしろ力になりたいって、皆が想ってるんだから」

「……すまん」

 提督は自分を恥じた。故郷を懐かしく思うのはともかく、だ。彼女たちが共にいて、精いっぱい頑張っている。

取り戻せない過去を抱えて、それでも向き合おうとしている。

ならば自分も、今は一緒に前を向くべきだ。

 忘れるべきでないことを、彼は思い出した。

「謝らないで」

「あ、ありがとう」

「それでよし」

 霞は普段あんまり見せない快活な笑みで頷いた。それで提督は、この少女の本当の姿を垣間見たような気がした。

 いつにないことを自分でも気づいたのか、霞は手を離して数歩離れる。そして、思い立ったように振り向いた。

「あんたの言う゛やりたいこと゛とはずれるかもしれないけど」

「あたしは素直になることを目標にしたの。だから、もう一度言うけどあんたも意地張ってないで、言いたいことがあったらはっきり言うこと、分かった?」

「は、はい」

 慣れない彼女の親しさに提督が戸惑いながらも嬉しく思っていると、外の廊下からぞろぞろと幾つかの足音が渡って来るのが、二人の耳に届いた。

「もうちょっと、続けてもいいかな」

 彼の言葉に、霞は穏やかに微笑む。

「ええ」

 鎮守府の宵に、ささやかな演奏会が開かれたのだった。

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