視界が一切の暗闇を離れ、見慣れた天井を映す。緩やかな呼吸が続く。体に残る気持ち良い気怠さが二度寝に誘う中、漣はなんとか起き上がった。
今日は出発の日なのだ。
一週間前の招集で言い渡された横須賀集結の命令。
どう見てもそれは一大事の前兆であり、その時こそ驚きと共に身の引き締まるような思いになったが、それ以上に日常の威力は強いもので、日の経つにつれなんだか現実味の薄い話に感じていた。
だが、今ここに至って。
当時のごとく緊張が体の底にクモの巣を張っていた。
「ん」
そんな心持ちをなるたけ気にしないよう、袖の余る薄い生地の寝巻きのボタンを外す指を上から下へ滑らせ、脱いだ服をベッドに投げた。
早起きの朝陽が窓を伝い、健康的な柔肌を照らす。
光に目が沁みて、部屋の真ん中でしばらく立ち尽くしていた漣はなんとなく、自分の手を太陽にかざしてみた。
透かしても、温もりはあれど血は通っていない。そんなことに、今更気付いた。
ふと、目の端に一隅を占める艤装を見て、寄ってかがみこんだ。幾戦もこの装備で乗り越え、工廠の整備の他は自分で手入れをしてきた、愛着ある自分の半身である。
それらを愛おしく、また悲しそうに見つめる内、缶の隣に置かれていた連装砲を無造作に手に取った。
ちょうど両腕で抱えられる位のサイズのその砲は、本来であれば少女には到底持ちえない重量なのだが、彼女の手にすっぽりと収まり実によく馴染んだ。
「わたし、は」
遠い昔が幻視される。おそらくはこの艤装こそが本当の自分に近いものであり、人の姿をした自分は何か一抹の残滓に過ぎないのであろう。
別に艦であったことを嫌っているのではないし嫌える訳もない。ただ、人の心……少なくともそのようなものを持ってしまった。
伏せる想いに心を掻き乱される気分になって、もう一つの己を強く抱き締めていると、戸から来客者の合図が鳴った。小さい音だが、静けさ故ににはっきりと聞こえた。
「はーい……あ」
意識が現実下へ返り、反射で応えたところで、自分が肌着姿だったことを突然思い出した。
ドアノブが迷い気味に回るのを余所に、取り敢えず繕おうと放った寝間着を慌てに慌てて掴み袖を通すが、あえなく扉は開かれてしまった。
「あ」
「「……」」
目と目が合う。どちらも咎める様子はないものの、気まずい。ほんの一瞬の沈黙のあと、提督はさっと両手で顔を覆って、
「す、すまないっ」
と半ば裏返った掠れ声で謝り、脱兎の勢いで退出した。放心状態になっていた漣は扉の閉まる音で目を覚まし、片腕で支えていた連装砲をそっと元の位置に戻して、ほんのり上気する頬をぺたぺた押さえつつ大人しく制服に着替えるのであった。
〇
「もう大丈夫ですよ、ご主人様」
着替えを終えた漣は、自分からドアを開けて提督を招き入れた。彼女の出てくるまで彼は顔を覆ったままだったが、ようやく手を下ろして、小さな背中についていく。
綺麗に直されたベッドに、荷物で膨らんだ鞄とごつい艤装が佇み、机の上も片付けられていた。
漣はちょこんと床に正座すると、提督もならって向かいに腰を下ろした。
「えぇ……おはよう」
先程の出来事で動揺している提督が、なんとか絞り出す。漣もつられそうになるが、なんとか調子を崩さず返した。
「おはようございます、ご主人様。それで、こんな朝早くにどうしたんですか?」
差し込む日から、部屋は薄く灰がかる。
彼女がつと見上げた彼の顔には、さっきと打って変わって言いようもない覚悟が浮かんでいた。
「答えを、言いにきた」
「答え?」
重々しく放った言葉を存外軽く聞き返されて、提督は肩透かしを喰らい、
「聞きに来ただろう?俺が熱で寝込んだとき、『答えは見つかりましたか』って」
記憶の手掛かりを与えるも、残念ながら漣には通じなかった。
「それ、聞いてませんよ。少なくとも、私がいたときには」
「じゃあ、あれは……」
「夢かなんかじゃないですかネ」
狼狽する提督に、漣がのんきにトドメを刺す。どうも彼の記憶違いらしい。
ではなぜ漣だったのかなど疑問は尽きないが、考える途中を、彼女の声で破られた。
「答えってなんですか?」
「え、あ、その」
迷った。話すべきか否か。
「教えてください」
漣はずずいと提督に近付く。威圧に彼はその分引き下がって、結局観念した。
「……艦娘がどういう存在であるか」
「ホントに分かったんですか!?」
勢い余ってさらに近寄ると、避ける提督は床に後頭部を着く形になり、大の男が少女に押し倒されている奇妙な絵図が広がった。それも気にせず、彼は大急ぎで確証のないことをこれでもかと述べる。
「これはあくまで推測だ。俺の勝手な妄想といってもいい。つまり、アテにならない」
言い切って、顔を逸らそうとする彼の顔を、漣はぴったりと両手で挟んで自分の方に向けさせ、言った。
「それでも、教えてください。その答えを」
どこか安堵した表情の、けれど意志の籠る真摯な瞳が、提督の話すことを不安に思う心を射た。
「……分かった、分かった」
一旦二人とも姿勢を直して、もう一度真向かい合う。
躊躇いの咳払いを二、三度入れてそれでも踏ん切りが付かず彼女を見た。漣はただ待っていた。
ようやく、重い口が開かれる。
「艦娘は……」
〇
提督が最後の言葉を終えた。そこには、彼の予め予防したように証拠らしい証拠もない代わり、綻びらしい綻びも特に見当たらなかった。その事実に漣は少なからず受けた動揺を抑えて、あえて感心した笑顔を見せた。
「びっくりしちゃいました。多分、ご主人様の説明でその通りだと思います」
「そうか」
提督はただ頷いた。そこに嬉しいも悲しいも含めるわけにはいかなかった。
普段に似合わず割に口数多く喋ったのでちょっと黙っていると、やはりどうにも堪えきれなくなった彼女がぽつりと言った。
「……私、人間になりたいんです」
突然のことで、言葉を理解するのに時間がかかった。
「人間?」
聞き間違えを案じて確認すると、漣は首を縦に振った。
そして、少しずつ、自分の心の内を巡って話を続ける。
「ご主人様に会って、一緒に過ごしてきて、これからもずっと傍にいたいって思うようになって。……でも、やっぱり私は艦娘なんです。どんなに人の見た目でも、感情があっても、あなたがそう言ってくれても……やっぱり、違うものは違う」
自分の声が心に刺さり浅からぬ傷を創っていく。
人間ではないことが明白であり事実であるからこそ、人間である提督と同じ時をいつか生きていけなくなる、なってしまうかもしれないということを認めるのは、漣にとって辛いことだった。
様々な気持ちに絡めとられて、彼女の瞳が濡れ、涙が頬を伝っていく。
願い、悩みをずっと黙って聞いていた提督は、泣きじゃくる彼女の両肩にそっとふれて、迷いながらも自分の胸に抱き寄せた。
「うぅ……あぁ……」
何度も息を詰まらせて雫を床に、彼の服に滲ませながら、漣はぎゅっとその体にすがった。
何かを語るべきか悩んだ末、結局口を閉じたまま、提督は少女を見守っていた。
長い間そうしていて、ようやく少し気持ちが治まってきたのか、
「わたしは、人間になれ、ますか?」
まだ嗚咽の混じる間に、漣は提督を仰いで、訊ねた。
彼は静かに、はっきりと告げる。
「きっと、なれる」
「っ……」
「だから、泣き止んだら、笑ってほしい」
「なんですか、ソレ……」
いつにない提督のカッコつけに、漣は泣きながらくすりと笑った。
「まじめに考えたつもりなんだが……」
提督は恥ずかしさに軍帽を目深に被って、抱擁を解いた。ついで立ち上がると、漣に手を差し伸べて引っ張りあげ、ポケットからハンカチを手渡す。
受け取った漣は、感謝してから遠慮なく顔を拭いた。
見届けた彼は、穏やかに微笑む。
「さ、朝ごはんを食べて元気を付けて、出発しよう」
「……はいっ」
先に部屋を出ていく提督の背にくっついて、少女は小さく小さく呟いた。
「本当に、ヘンで、臆病で。でも……」
「優しいひと」
その呟きは当の本人には聞こえないまま、空気に溶けていった。