清らかな太陽が世界を照らし出す。その眩しさに海は輝き、みなが目を細める。
深い深い安堵。ほんの少しの戦いの熱も消えた。
「お疲れ」
海域の中央、傍に控えていた武蔵が大和をねぎらった。大和は柔らかい笑みで頷く。その体は実体を失いはじめ、存在そのものが薄れかかっていた。
「む……」
武蔵も、自らの異変に気付いた。開いた手のひらから、雪のように水の粒が、ほろほろと空に舞い上がっていた。
「もう、時間が来てしまったみたいですね」
「えーっ、もっとテートクとティータイムしたかったのにぃ!」
「仕方がないですよ。金剛姉さま」
残念がる声に、たしなめる声。ほかの艦娘にも同様の現象が起こっているようだった。
「お疲れさま、瑞鶴」
「翔鶴姉こそ。……うん、満足しちゃった」
「……不幸だわ。もう消えてしまうなんて」
「でも、いいのよ、山城。だって、こんなに空が青いのですから」
深海棲艦はいなくなった。だから、艦娘もその役目を終えたことになる。もともとこの世にあらざるものであった彼女たちは、不完全であるがゆえに現世にいられたのだ。分かたれた魂が繋がった今、自らをここに留める楔はなくなってしまった。
『……まだ、残っている艦娘に告ぐ』
武蔵は、消えゆくなか、無線をかけた。
『力のある限り、帰路を進め。そして、お前たちの提督に、勝利を報せるように』
言い終えると、傍らの相棒にそっと目配せした。大和は何も言わず、ただ微笑んで、その目を見つめ返した。
まもなく、二人の姿は見えなくなった。
淡く煌めく水面が、そよそよと揺れていた。
「やっと、終わったのね……」
曙が呟いた。その体を、淡く水の泡がのぼっている。
「短い間だけど、会えて良かったよ」
「うん……本当に」
朧と潮も、消えていく。漣だけ、まだ、実体を伴っていた。
「皆、行っちゃうの?」
置いていかれてしまうかもしれないと、つい不安になって、訊ねた。
三人は顔を見合わせたのち、代表して曙がそっけなく答えた。
「心配しなくても一緒よ。でも、もしかしたら、あんたにはまだやることがあるんじゃないの?」
「あ」
そうだ。先ほど武蔵が言っていたではないか。
体が動くのであれば、行かなければならない。提督に会って、伝えるのだ。
「その様子だと、終わってないみたい、だね。もう一仕事、頑張れ」
朧が小さく拳を握った。つられて、漣も真似をする。
気合を入れるための、ガッツポーズ。
ふと、おーい、と遠くから誰かに呼びかけられた。振り向くと、ムロランの皆が集まっていた。
深呼吸する。長く息を吐いたあと、漣はぴしゃりと頬を叩き、潤みそうになる目を開けて、三人に向きなおる。
「行ってくるね」
各々が頷いた。ちょっと見つめあって、踵を返した彼女の背を、なびく桃の髪を。姉妹は見送って、その姿を隠した。
「全員、揃いましたね」
快い風が吹くなか、漣の到着を認めて、大淀は呟いた。
その体ははっきりした色を失いつつあったが、隣の明石にも同様の状態にあった。
「大淀さん、明石さん、体……」
漣が言いかけるのを、明石はやんわりと抑えて、言葉を継いだ。
「いやぁ、久しぶりに働きすぎちゃったみたい」
「そういうことです」
戸惑う艦隊に、二人は困ったように笑った。
そこに後悔はなく、あるのは成し遂げたという気持ちがほとんどだった。
「どれくらいの猶予があるかは分かりませんから、とにかく一直線に帰港してください。私たちは先に還っています」
残された者たちは首を縦に振った。改めて、意思が引き締められる。
「補給も忘れないようにね。頼んだよ」
「「はい」」
返事が、空へ伸びていく。
みなは主機の出力を上げた。二人との距離がどんどん離れていく。
白い飛沫を打つ航跡を眺めて、明石は溜め息をついた。
「行かなきゃ駄目かぁ。とっても楽しかったんだけど」
落胆する友人の頬を、大淀が細い指でちょんと突っついた。
「どしたの?」
訝しげにみやる明石に、彼女はいたずらっぽく笑った。
「実はね、明石……」
○
艦隊は無言で海路を突き進む。疲労は色濃く残っていたが、へこたれるわけにはいかなかった。
しかし運命は否応なしにやって来る。言ってしまえば、それはすべてのものに当てはまる理であり、かろうじて消えなかった彼女たちもまた、例外ではなく。
最も中枢海域に近い、第三泊地と名付けられた陸地。
「あっ」
艦隊が戦闘で消費したぶんの補給を終えて、まもなく出発しようとしたときに、鬼怒が声を上げた。
隊列をほどいて、見ると、彼女の身体は少しずつ薄らいでいた。
「ここまでみたい」
言って、鬼怒は、どうしたものか分からず、頭の後ろを手持ちぶさたに掻いた。
「鬼怒さん……」
漣も何を言うべきか分からずに、ただ名前だけが口から零れた。
「行って、しまうのですか?」
「はい。……でも、しんみりしたのはあんまり好きじゃないから、キッパリ、サッパリと別れようと思います」
短く悩んだ末、そう結論付けると、明るくパッと笑って、紅い髪の少女は敬礼で締めた。
「さらば!」
手を伸ばしたときには、鬼怒の姿はどこにもなくなってしまった。
ただ、浮き上がった泡が、シャボン玉のように、滑らかな虹色を見せていた。
「……行こう」
しばらく、礼を返して響が静かに言った。
待つことはできない。
それぞれの思いを胸に、彼女たちは再び前進する。
一行は中枢海域を離脱し、徐々に北東へと舵を取った。
速度を緩めることなく、休むこともなく。
黙々と海を渡るうち、第二の泊地が視界に映った。
「補給しましょう」
神通の提案に、みんなが頷く……かと思いきや、雷と霞が首を振らなかった。理由は明白で、気付けば二人の体も現実に保つことが困難になっていた。
「私たち、ここが限界みたい」
「まったく不服なんだけれど、仕方ないわね」
霞が短く息をつく。閉じた瞳は、開けようとしなかった。
「霞ちゃん、雷ちゃん……」
次々と行ってしまう仲間たちに、心が挫けそうになって、泣かぬと決めた思いが揺らぐ。
そんな漣の腕を、雷ははっしと掴んだ。包むように優しく、しかし厳然たる表情で、彼女は言った。
「泣かないで、漣。泣くのは、きちんと提督に報告してからね」
「うん……!」
「響も。頼んだわよ」
「任された」
響がとんと胸を叩いた。見守っていた神通の頬には、一筋涙が伝っていた。
「……出発しましょう」
彼女の言葉を機に、海面を浮かぶ主機が唸る。目的地には、まだ少し遠い。
「じゃあねー!」
雷は大きく、霞はささやかに手を振って、三人のあとを送った。向こうの振り返す手が見なくなるまで。
「無理、しなくてもよかったのに」
「……うるさい」
穏やかに見つめた先で、気の強かった少女は、必死に涙を堪えていた。そんな彼女を、栗色の髪の少女がそっと抱き寄せて、銀に艶めく髪に手をまわした。
静かな泣き声が、深い青のなかに溶けていった。
手慣れた補給を済まして次に向かった場所は、ヨコスカも目の端に近い、北方の第一泊地。それが、もうすぐ目前に現れる頃に、異変があらわれた。
旗艦を務めていた神通も、存在が消えかけていたのだ。泡沫が空に浮かび、実体は少しずつ透けていく。
進行が止まる様子は、なかった。
「神通さんまで……」
漣が、主機を停止させた。神通は申し訳なさそうに、後ろについていた二人に手を伸ばして、その頬にふれた。
「ごめんなさい。私も、ここで最後みたい」
「神通……」
響が、神通の手を取って、彼女の温もりを名残惜しそうに受け、瞼を閉じた。
「あとのこと、お願いします」
気弱いようで、とても意志の強い言葉で、彼女たちの゛内゛の背中を押すと、優しい笑みを浮かべて、神通の姿はすぐに見えなくなってしまった。
どうやら、とっくに限界が来ていたらしい。それでもなお、二人をここまで引っ張ってきたのだ。
「……」
響は傍らに立つ、漣の手を握る。彼女も握り返して、二人は移動を再開した。
握ったその白い手も微かに解けていたことに、気付かずに。
第一泊地。ここを過ぎれば、鎮守府はもう一息というところまで、漣と響は頑張っていた。
浜辺で、妖精さんたちがわずかな数だが出迎えてくれた。二人は艤装を降ろし、燃料を投入する蓋を開けた。相談の結果、あとは妖精さんにお願いして、長旅で疲労した体を一旦休めることに決めた。
「っ」
響が、さらさらとした砂を素足で踏んで、転がり、仰向けに大の字になる。漣は、手近な岩のふちに背を預けて、体育座りでうとうとしていた。
「……皆、戻ってしまったね」
「うん」
「あそこは、どんな場所だったっけ」
もといた場所。ここではないどこか。今の疲れた頭では思考がおぼつかない。いや、はっきりしていても、多分、分からないけれど。
「寂しかった、と思う。……でも」
「でも?」
言葉を切った彼女に、響はその先を促す。焦らせるというよりは、手助けするみたいに。
自然と、口をついて出た。
「もう、一人じゃないから。誰も、そこに居なくても、みんなとの思い出が、ちゃんと残っているから」
「だから、大丈夫」
言い聞かせるような答え。響はじっと空を見上げて、
「そうか……」
ふいに、満ち足りた笑みを含んで、パッと立ち上がった。船を漕いでいる彼女のもとへ、歩み寄る。指が砂をかく音が、寄せては返す波のあいだに聞こえた。
「また、会えるよ」
重たげな瞼に舟を漕いでいる漣に微笑みかけると、響は自分の白い帽子を、桃の髪に被せた。ふわりとしたその感触を受け、こくこく漣は眠りについてしまった。
彼女の眠ったのを見届けると、響はくるりと背を向けて、風のなかに消えた。
〇
目が覚めた時には、響はいなくなっていた。慌てて泊地を駆け巡っても、やはりどこにもいなかった。行ってしまったのだ。今に至って、眠る前のやりとりが、走馬燈のごとく思い出された。
ぺたんと尻餅をついたまま、しばらく彼女は茫然としていた。
ふと、スカートの裾をつつく感覚がある。我に返ると、整備を終えた妖精さんが知らせに来てくれたのであった。
「……行かなきゃ」
伝えなければならない。それよりもなによりもただ、提督に、会いたい。会って、その顔を見たい。
漣は立ち上がった。それだけが、彼女を繋ぎとめていた。
艤装を背負い、主機を履き込む。砂浜をずしずしと歩いて、陸と海の境、波のふちへ浸かる。
主機が高らかに飛沫を上げ、漣は泊地を離れた。残った島には、誰の姿もなかった。
〇
長い時間を一人で行く。目の前には果てしない海が広がるのみであり、主だった違いは昼と夜くらい。もはや現かあちらなのかも定かではなくなってくる。
深海棲艦という脅威からも切り離されたいま、漣はただ気力のみで動いていた。
やがて、時は訪れる。
一日、一日を超えて繰り返した、何度めかの朝のこと。
見えた。鎮守府が。
鈍った感覚が瞬く間に叩き起こされ、漣は全速で近付く。埠頭に立つ人があった。チヨだ。
チヨさーんっ。
長らく喋らなかったからか、自分の声は上手く出なかったが、代わりに大きく手を振った。その手は、かすかに日光に透けはじめていた。
気付いた彼女も、ようよう手を振り返す。
とうとう、着いたのだ。
波止場に入り、主機を停止させ、漣ははしごを勢いのぼって、埠頭にあがった。
実に、長い、長い、旅であった。
「お疲れさま。よく、帰って来たわね」
チヨは屈んで、漣の手を取った。他のみながどうしたかは、あえて聞かなかった。
「私、伝えに行きます。だからっ」
絡まった思考で、思い付いたことを端から話す。チヨはそれでも彼女の必死を悟って、アスファルトから引っ張り上げ、立たせてあげた。
「歩ける?」
ウンと頷いて、漣はチヨの隣をついていく。
久しぶりの鎮守府。小ぢんまりした工廠も、裏手の丘も、長く暮らしてきた営舎も。
そのすべてが五感のうちに漂ってきて、目まぐるしいまま、チヨに促されて鎮守府の扉を抜けた。
変わらない、天井の高いホール。ちょっと汚れたかもしれない、紅い絨毯。豪華だけれど、寂しげな照明。
階段を上る途中、チヨは言った。
「提督様はね、あなたたちのことが心配で、ずぅっと寝ずにいたみたいだったから、私が無理やり寝かせておいたの」
「だから、はやくあなたの口から伝えてあげて」
「……はい!」
分かっている。分かっている。また傾きかける意識を保って遂に、漣は目的の場所に辿り着いた。
見慣れた、両開きの落ち着いた木の扉。執務室に、あの人に繋がるとびら。
「私は、待っているから」
そう残し、先導のチヨは扉の傍に静かに立った。
漣は一つ、二つ、深呼吸する。
把っ手に、手をかけた。