泣き虫提督と水面に立つ小さな波   作:鈴索

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32話 おわかれ

 扉が開かれた。

 身内の雑談に使われていた来客用のソファには、クリーム色の毛布がうずくまっていた。それを見下ろす執務机の椅子は、青い海の方へ寄っていた。空いた窓から吹き込む風が、緑のカーテンをそよと揺らした。

 そのなによりもまず漣の目に映ったのは、自分よりも一回りも二回りも背の高い青年だった。

 けれど威圧感はどこにもなくて、シワのない白の軍服と、ぼさぼさの髪。不精ひげ。

 それに、気弱な、優しいまなじりの、黒い瞳。

「漣」

「……」

 提督が、彼女の名前を呼ぶ。包み、寄り添うようなその声に、漣は色々な感情が巡って、分からなくなって、ただ彼の袖にしがみついた。

 すすり泣く声が部屋を満たす。それは、泣き虫提督のものではなかった。

「ごしゅじん、さま……!」

 言うべき言葉が見つからず、漣は白い袖を涙で濡らし続けた。彼女の悲しみが、提督の胸にもじんわりと染みこんできた。

 しかし、聞かなければいけない。提督として、作戦を打ち出した一人の人間として。

 彼はすがる細い腕を離さずにそっとしゃがんで、少女の落ち着くまで待つと、静かに切り出した。

「どう、なった?みんなは……どうした?」

「……勝ち、ました。けど、帰らなくちゃ、いけなくなって、みんなは……」

「先に、帰ってしまった?」

 髪のふれた感触が、縦にこすれた。頷いたらしかった。

 沈黙する提督に、彼女は自分の心当たりをぽつりと言った。

「私たち、ひとつに、なりました。深海棲艦、やっつけたから。でも、欠けていたから、現実(ここ)に居られたんです」

「……!」

 彼女たちは突如として現れた。ならば、突然消えてしまうかもしれないということも提督は考えないではなかったが、それを頭の隅に押しやってしまっていた。

 戦いが終われば、ともに新しい生活を始められると。

 何気なく、袖を掴む小さな手を見やると、その手は細かな泡を宙に浮かべながら、徐々に薄らいでいた。

 浅はかな考えだっただろうか。

 いや、自分のいまなすべきことは、後悔して泣くことではなく。

 希望に繋げること。彼女たちが、いつも前を向いていたように。

「漣」

 いつになく力の籠った呼びかけ。提督は彼女の手を取ってぎゅっと握った。漣は泣き止んだあとの脱力と、見つめる彼の瞳の強さに驚いて、戸惑った。

「はい……?」

「これを」

 懐から、橙色と黄色の波模様を描いた丸いものを取り出して、まだ感触ある彼女の手に渡した。

 漣は不思議そうに、渡されたものを眺める。折り畳み式になっていたそれを開くと、鏡になっていた。

「サッポロに行ったとき、こっそり見繕ったものなんだ」

 そのとき、提督は乏しい所持金や漣にバレないようにといった配慮で全員の分のプレゼントを購入できず、今の今まで隠し持っていたのだった。

「……これ、くれるんですか?」

「うん」

「あ、ありがとうございます」

 消える間際ではあったが、プレゼントしてくれたことが素直に嬉しくて、両手で大事に手鏡を包むと、額に押し当てた。

 やっと、漣の顔が綻ぶ。少し、いつもの調子が戻ったようだった。

 彼もつられて微笑みながら、ただし、と付け加えてきた。

「条件が一つ」

「なんでしょう?」

「皆と一緒に帰ってくること。この鎮守府へ」

「……ご主人様」

 漣は提督の目を見つめた。以前と同じように、逸らすことはなかった。目前の人物は、むろん今までの提督であるが、なんだか別人に見えた。

 大げさかもしれないけれど、まるで一筋の光のような……。

「艦娘がいなくなってしまったら俺も、いや、僕も提督ではなくなる。それでも、一緒に生きてくれるかい?」

 飛び越えた未来。突拍子もない話。

 それなのに、漣が仲間たちと共に帰って来られる確信が込められていた。

 漣は、まだ瞳に滲む涙と一緒に、明るく笑って、

「モチロンですよ」

 頷いた。

「じゃあ、今度会うとき、僕の名前は"提督"ではなく゛折口半次郎゛だ」

「はんじろう、さん……」

 長い時を経てようやく聞けた、提督の本名。

 おりぐちはんじろう。謎めいた呪文みたいに、何度も口の中で反芻していたら、彼女はあることに気が付いた。

「折れて、半分で、おまけに次郎なんですネ」

 そのどれもが真ん中を意味しているという、ほんの些細な事柄だったけれど、なんだかおかしくて吹き出してしまった。

「うるさいやい」

 愉快にくすくす笑う漣に、ほんのちょっぴり半次郎は口をとがらせたかと思えば、すぐに柔らかな表情に戻る。彼女の体はいよいよ消えかかって、向こうの扉まで透けて見えていた。

 泡が、彼の頬で小さく跳ねた。

 

 

「……今まで、主人と慕ってくれて、本当にありがとう」

「半次郎さん……いえ」

 気付いているのかどうかは分からない。今まで見てきたあの人は鈍かったから。

 でも、そんなこと、どうでもよくなってしまうくらい、嬉しくて、あたたかくて。

 私は決めた。絶対、みんなと帰ってくる。

 だって、こんなに大好きな人が待っているのだから。

「ご主人様っ」

「どうし……む」

 淡い口づけ。きょとんとしていた半次郎さんの顔は、なんだかおもしろかった。

 意識が遠のく。幸せ、いっぱいだ。

 ワガママだけれど、まだまだ足りない。もっと、この愛しさを、噛みしめたい。

『必ず、一緒に帰って来ますから!』

「……あぁ、待ってる」

 

 だから、ちょっとのあいだだけ、おわかれ。

 

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