身体がふわふわする。腕も足も感覚がなくて、ただ心だけが海の底に落ちていく。
まどろみに甘く包まれて、気を抜けば眠りについてしまいそうになる。
そんな幾層も重なる青を、漣は見送っていった。光ある水面は遥か上にあった。
しかし、不思議と怖くはなかった。彼女は自らの
沈んでいたら、突然、体が水圧から解放された。
耳元で飛沫のはしゃぐ音が響く。妙な話だが、この水底の下には、水ではないものが広がっていた。
飛沫の白さが名残惜しそうに漣から離れて、水底に吸い込まれていく。
辺りを見回すと、見知らぬ空間に放り込まれていた。どこまで行っても真っ黒で、彼女を圧しつけるものは何もない。
体験したことのない感覚だった。
「_」
試しても声は出ない。しばらく漂っていると、その目に小さく光るものを見つけた。気が付けばそれは、あらゆるところで、いくつも、瞬いていた。
星だ。地上から見上げた星が、私のそばに浮かんでいる。
ぽかんと口を開けたまま、漣はしばらくその無数の輝きに見惚れていた。星は、生きていた。
「……!」
よくよく見ると、その星たちはどこかへと弧を描いて飛んでいる。行く先を追ったら、それら皆、ひとつの大きな星に降り注いでいた。見覚えはなかったけれど、それが何かは一目で分かった。
緑と茶色と、白と青色の鮮やかな惑星。
地球だ!
そう気付いた瞬間、心の綱が彼女を一気に引っ張り上げた。あのひとの笑顔、あの子との会話、空の色、海の匂い……。
ぼんやりとした頭を想い出が駆け巡り、すべてがはっきりとしてきた。帰る場所が、私にもちゃんと、ある。
宇宙の黒は跡形もなく消え去って、彼女も光に包まれた一つの流星になっていた。涙腺に揺らいだ視界には、たくさんの人影があった。
『漣』
人影の中から、一人が歩み出て宙ぶらりんの漣の手を掴む。力強く、優しい手だった。
そのとき彼女は、知った。彼らも、ずっと側にいてくれていた。
艦としての私と一緒に戦い、私が艦娘になったあとも、小さな妖精になって支えてくれていたひとたち。
『行っておいで』
それだけ言うと、提督は朗らかに笑って、そっと、私を掴んだ手を離した。
「ありがとう……!」
やっと、声に出せた。言えて、よかった。
真っ逆さまに落ちていくさなか、遠く足元でどういたしまして、という声が聞こえた。
〇
「……んあ」
「起きたね」
爽やかな風がそよいで、冷たさを感じさせる。
「さむっ!」
身震いして漣が起き上がると、響のとろんとした瞳と目が合った。
「おわあっ!?え、響ちゃん!?」
「うん」
あまりに唐突な再会に、驚きに驚いて素っ頓狂な声を上げていると、彼女の背に温かい手がふれた。
「お帰りなさい、漣ちゃん」
「神通さん!」
「私たちも、戻ってこられたの」
「案外、あっさりとね」
「いやぁ、めでたしめでたし!」
周りを見れば、雷と霞に、鬼怒も元気に立っていた。外の様子を見ていた大淀と明石も、声を聞きつけて戻って来た。
「……夢?」
「夢じゃないよー」
疑う漣に明石がちょっぴり頬をつねってやる。ひりひりと痛かった。ちゃんと、現実だ。皆が、帰ってこられたのだ。
「よひゃった……そういえば」
何を思ったか、自分の身体をぺたぺたと触った。服装は艦娘のときのセーラーのままだったが、艤装はどこにもない。さっきの痛みといい感じる寒さといい、何かが違う。
漣の疑問を先取って、大淀が微笑みながら言った。
「おそらく、役目を終えた”艦”としての私たちが消えて、”人間”としての私たちがここに戻ってきたのでしょう」
「それって、人間になれたってことですか?」
「ええ」
「そう、ですか……えへ、えへへ」
それを聞いて、漣の頬が緩んだ。願いが叶ったということもあるが、半次郎の推測が間違っていなかったことがなにより嬉しかった。
「ほら、なんだか知らないけど、にやけてないでしゃんと立ちなさい」
「ふへ……うん」
霞に手を貸してもらって立ち上がる。見渡すと高い所にいるようで、地面の草むらがさらさらくすぐったい。抜けるような青空は心のすく思いがして気持ちいい。
「ここ、どこ?」
「丘よ、丘。前にピクニックに行った、鎮守府裏の」
「言われてみれば……成る」
確かに、端に佇む一本の樹木には見覚えがあり、下を覗き込めば、林と奥に建った鎮守府の敷地が広く見えた。
「あー!待ってたらおなか減ってきたぁ!」
空腹に耐えきれなくなった鬼怒が叫んで、丘を駆け下りていった。
鬼怒の言葉で気づかされたかのように、誰ともなくお腹の音が鳴った。
「……行きましょうか」
と控えめな神通の言葉。一同賛成して、鬼怒を追いかける形で歩き出す。
「それ、どうしたの?」
途中、雷が漣の服に身に着いたさざなみ模様の持ち物に目をつけた。
「ナイショ」
漣はいたずらっぽくウィンクするのであった。
〇
「ほっ……」
営舎の中、チヨが長い髪を一つにまとめて、ずれた頭巾の位置を直す。
部屋の掃除に来た彼女は、一部屋では物足りず全室をまとめて片付けて、休憩がてら窓の外を何気なく眺めていたのだった。海沿いで寒いけれど、体を動かして火照った分を冷ますにはちょうどいい。
そろそろ再開しようと窓から離れようとしたとき、ささやかな声が風に乗ってやって来た。食堂ですっかり聞き慣れた、少女たちの声。
もしかして。
慌てて、チヨは体ごと窓から乗り出した。
小さな粒のようだけれど、確かに判別できた。理由はわからないが、とにかく戻ってきたのだ。提督に知らせなければと、居ても立ってもいられなくなって、チヨはその場を飛び出した。
小走りで渡り廊下を渡ってホールに入り、一階の半次郎の部屋へ。
「坊ちゃん!」
どんどんと扉を叩く。彼女のいつにない慌てぶりに常ならぬ事態を察した半次郎は読みかけの本を放り、軍服を着直しつつすぐに扉を開けた。
「どうしました!?」
「か、帰って来てくれたんです、あの子たちが……」
荒い息をつきながら、チヨ壁に手をついて言った。それを聞いた途端、半次郎の心がはやる。無意識に体が動いて、すぐさま玄関を抜け、外に出た。
門だ。門に、本当に、彼女たちが、そこにいた。誰一人欠けることなく。ある者は笑って、ある者ははにかんだり、またそっぽを向いたり。
駆けつけると、漣が一歩前に出た。彼と向かい合う形になる。つい前と同じだ。
思ったより早く戻ってきちゃったとか、驚いたかとか、何を言うべきかずいぶん考えた末に、漣は、照れたように笑って一言。
「ただいま、です」
「……あぁ。あぁ……」
別れ際こそ格好をつけた半次郎だったが、やっぱり泣き虫は治っていなかった。目尻に雫が溜まると、ぽろぽろと頬に流れ落ち、しまいには嗚咽を洩らして泣き始めた。別れたときに泣かなかったぶんまで、おいおいと、大人げなく。
まったくしまらない再会の仕方だったけれど、それだからこそ半次郎なのだ。
「おかえり……!」
少女たちは、しょうがない人だと互いに顔を見合わせて、むせぶ男を優しくなだめるのであった。