「アンタ、何してんの?」
ぽつりと呟かれた言葉は、木々のさざめきに掻き消されることなく、地面へ座りこむ少女の元へ届いた。
水墨画から飛び出してきたようなモノトーンな少年の声は、意外にも色に溢れていた。困惑が一番大きく、怒り、そして呆れにも似た色を醸すその声はまさしく呟きにも拘らず、少女を糾弾している。
彼にはそんな気は全く無かったが、それは端から見れば詰問そのものであり、その眼光は鋭く少女を見つめていた。
「なぁ、もしかしてアンタ、死のうとしてたのか?」
一言も返事を発しない少女はようやく少年の目を見返すが、その瞳は汚泥のようにどろどろと濁り、何もかもを飲み込む夜空のように暗い。遠目では貌をはっきりと認識できないのに、嫌にその瞳が目立つ。
生気のないとはこの事を言うのだと、少年は思った。自分を見ているはずの目からは生きようという意志がまるで見れない。それでいて、辺りに異常に散乱しているドロップアイテムが少年の言葉を否定する。ストレージの中にどれだけ入っているのかは分からないが、これだけの数が地面へポップしているのなら、かなりの数のリトルペネントを倒しているはずだ。自身の優に2倍はあると、少年は顔にこそ出していないが、内心驚愕していた。
少女が生きようと足掻いた痕であるのは間違いないのに、少年がこの場に着いたときには剣すら持たず、あまつさえ地面へ座り込み、処刑される罪人のように首すら差し出していたのだから解せない。
生きようと闘ったのに、死のうとする。気力を振り絞って助けに入った自分を空虚な目で見つめる彼女は矛盾だらけで、どれが本当の少女なのか理解がつかない。
少年はモンスターよりも目の前の少女のことが恐ろしくて堪らなかった。自棄になった人間は何をしだすか分からない。何より少女の濁った目は、まともな人間のものとは思えなかった。そして、これだけの戦闘をソロでこなす少女ならば、疲労しきった自分を殺すなど雑作もないだろう。
もしかしたら自分は、とんでもない人間を助けてしまったのかも知れない。そんな風に少年が思っていると、少女はゆるゆると立ち上がり、小振りな唇を開いた。
「助けてくれてありがとうございます。
お礼なんて大層な物はできませんが、その辺のアイテムの中で欲しいものがあったら、よかったら貰っていってください。
私はこれ以上持っていけないので。
本当にありがとうございました、また機会があったらお会いできると嬉しいです」
まるで唄でも詠じるような、流れるように紡がれる言葉に、少年は一瞬理解が遅れた。早口では決してないのに、淀みなく発せられる言葉は、少年の耳を滑らかに通り抜けた。少年が思っていた以上に少女の声音は透明感があり、思わず聞き惚れてしまう。激戦を終えた上、夜更けの時刻も相まって、少年は言葉もなく立ち尽くしてしまった。
そんな少年の様子を気にもかけずに、横をすれ違おうとする彼女の腕を、思わず掴む。急に、ましてや異性に身体を触れられたにも関わらず、少女は悲鳴どころか息の音すら立てなかった。
ゆっくりと怪訝そうに振り向いた少女に、少年は再度言葉を詰まらせた。
まるで、美人とはこういう人を讃えるためにあるのだと言わんばかりの美貌だった。自分と同じ歳頃であろうに、その顔立ちは可愛いよりも、寧ろ綺麗と言って差し支えないほどに整っていた。
雪のように白い肌は月光に照らされて夜の黒に映え、染みひとつ見受けられない。夜に紛れる濡れ羽色の髪はサイドの低い位置で纏められていたが、陰鬱さは感じさせないほど艶を放っている。長い睫に彩られた夜空色の大きな瞳も、ハイライトが消えており今にも引き込まれそうだが、アンニュイさを醸しだしており、欠点どころかミステリアスな魅力を出している。口は紅を引いたようにーこの世界にそんなものがあるのかは分からないがー真紅な輝きを放っている。
詩人でさえも、彼女の魅力を半分も語れないに違いない。女性の少ないアインクラッドでは間違いなく五指に入るであろう麗人に話しかけ、あまつさえ腕とは言え身体に触れているという事実に、少年はヒヤリと背中を冷たいものが走るのを感じた。
「助けて頂いて本当にありがとうございます。
ですが、私はお金も特に持っていないので、お礼になるものはこの辺の物しか……。
もしかして、気に入るものがありませんか?」
「い、いや、そういう訳じゃないけど……」
本来であればかしずくことこそすれ、先程のように雑な対応をされていい女性、いや少女ではない。今からでも非礼を詫び、膝をつけた方がいいのではないか。そんなことを少年が考えていると、少女はこてりと細い首を傾げる。
あーとか、うーなどと、言葉にならない呻き声を挙げる少年に、少女は整った眉を潜めて少年を見つめる。
他人はおろか、女性との接し方など慣れていない少年は、少女の顔を見つめることしか出来なかった。
「他に欲しいものがございますか?
此方のもの以外で差し上げられるものと言ったら、後はこの貧相な躰くらいしか……」
暫く見つめ合っていると、ぽつりと少女は呟く。
予想外の発言に少年はぎょっと身動ぎして少女の瞳を見つめるが、そこに嘘をついたりからかったりしている様子はない。
少女の言葉に、少年の目は彼女の足元から顔までをゆっくりと辿る。自分と同じ服装をしているのにも関わらず、その布の下の艶かしい身体を想像してしまい、少年はぼんと顔を赤くした。貧相なと謙遜するが彼女は細身でこそあるものの、出ているべきところは出て、引っ込むべきところは引っ込んでいる。有り体に言えば、非常に女性らしい身体をしていた。
少年は口をはくはくと開け、情けない顔を晒す。少年はまだ14歳であり、大人な関係とは無縁であった。他人とのコミュニケーションが苦手と言うことも相まって、家族以外の女性と話をすることすらここ数年ほとんどない。
上手いかわし方も、冗談と笑い飛ばすだけの余裕も、是非にと断言するだけの甲斐性もなく。ただ声にならない言葉のみが二人の間を漂い、少年は気まずそうに顔を俯かせた。
「冗談ですよ」
幾ばくかの時が経って、くすりと聞こえた声は少年の硬直をさらさらと溶かした。
弾かれるようにして少女の顔を見ると、瞳は相変わらず暗く濁っていたが、口元は緩く弧を描き笑みを浮かべているのだと分かる。
少女が初めて見せた表情に、少年は鼓動が跳ね上がるのを嫌と言うほど自覚した。無表情でも綺麗な顔が、優しい色を添えるだけでこれほどまでに破壊力が変わるのかと嘆息する。
「からかうのはよしてくれよ」
自覚できるほどに情けない声を絞り出した少年は、今まで強張らせていた肩の力が抜けていくのを感じた。
戦場で緊張を解くなんてと呆れる自分がいる一方で、それを否定する自分がいる。
いつぶりか他人との関わりを嫌と感じないことに気付いた少年は、でも、と言葉を続けた。
「そうやって、笑っている方が綺麗だよ」
ピシリと音がしたと錯覚するほどに、少女は固まった。先ほどまで浮かべていた笑顔は消え、ぱっちりとした眼を見開いて少年を見つめる。
放たれた言葉は紛れもない本心であったが、少女の硬い表情に自分が何を口走ったのかを知り、少年もまた固まる。
虫の音と木々のさざめきだけが聞こえてくる湖畔は、より一層二人の間の沈黙を意識させた。
「ありがとう…ございます」
硬直から先に回復したのは少女の方であった。
錆び付いたロボットのように動きは不自然ではあったが、美しいカーテシーを披露した貌は、出会った時のように無表情に戻っていた。
「申し訳ありません、もうよろしいでしょうか?」
全くの感情を見せない少女の貌に少年が言葉を喪っていると、少女は再度一礼し踵を返して歩みを進めていく。
微笑みと無表情の落差から思考停止していた少年も、少しずつ遠くなっていく背中を見てようやく頭脳が解凍されていった。
「なあ。よかったら、俺とパーティーを組まないか?」
口から紡がれた言葉は決して大きいものではなかったけれど、歩みを止めた少女の背中に少年の口許は緩やかに弧を浮かべた。
「……何故ですか?」
少女は此方を振り向くことはしなかった。しかし立ち去ることもしなかった。
やがて返された少女からの問に、少年は口を開いたがすぐに唇を噛んだ。
明らかにビギナーな少女を見送って、今のような戦闘を続ける限りこの先確実に訪れるであろう死を見逃すことが人として忍びない。
クラインを見捨てた罪を、同じビギナーを手助けすることで少しでも償いたい。
ヒューマンリソースが限られた世界で、プレーヤーを闇雲に失うのは損失になる。
ビギナーでありながらβテスターである自分以上の力を見せる少女を生かすことは、この先自分の生存、引いては現実への帰還に大いに役に立つ。
誰一人心を許せる人間のいない世界で生きていくのが心細い。
少年の頭に浮かんだ理由は全てが正しいようで、それでいてどこか違っていた。
なぜか、という問に自分の想いがピタリとはまる解答は浮かばない。
しかし、ここで少女を一人で行かせたら、何故か後悔をする自分の未来だけははっきりと見えた。
「俺は……この世界を少しでも早く脱出したい。その為に、君の力が必要なんだ」
少年は半ば勢いで自身の口から出た言葉に納得した。
そう、自分は一刻も早くこんな世界からおさらばしたいのだ。
自分が生きて帰るのが最優先であり、本当の名前も何も知らない他人なんかに、全てが偽物のこの世界に何か感情を抱くはずがないのだ。
脳裏に浮かぶ、始まりの町で見た男臭い笑みは霞んで消えた。
「……名前」
貴方の名前は。
虫の音に掻き消えそうなほどに小さいその声は、少年まで届くことはなかった。
質問を問い返していたら、少女は立ち去っていたかもしれない。ここへ来て自己紹介もしてないと思い出した少年は、無意識のうちにそれを感じ取ったのかもしれない。
幸か不幸か、それは少女への返答として最適解だった。
「俺はキリト、君の名は?」
「私は、…アキラ。アキラと申します。
不束者ですが、よろしくお願いいたします」
まるで結婚の返事みたいだと、少年は、キリトは笑った。少女は、アキラは静かにキリトを見つめた。
湖に反射して浮かぶ満月が、波に揺れて静かに歪んだ。