正十字学園、理事長室。
一見、きちんと整っているようにも見える個室には、場違いなほど奇妙な現象が起こっている。
ふわふわと宙に浮かぶ椅子。それに腰掛ける男。その周りには数枚の書類。個室の中が無重力空間にでもなってしまったかのような現象だが、男の周り以外は至って正常。まるで、男の周りだけが重力を忘れてしまったようだった。
「ようこそ、お待ちしてました──」
個室に招き入れられた小柄な背丈の人物に、男は声を掛ける。深々と真っ白な頭を下げ、一拍置いて上げられた顔はまだ幼く、両眼の紫色の瞳が男を見つめた。
男──メフィスト・フェレスは、周りに浮いた書類を手に取り目の前の人物に「残念でしたね」と声を掛け、それを紫眼を持つ人物に手渡す。書類には《不可認》とだけ赤く印されており、明らかな溜め息と共にメフィストの含み笑いが響いた。
「ヴァチカンは君の能力を簡単には認めてくれないようですねぇ。専門分野以外の知識をもっと身に付けよ、との事ですが...どうしますか?五十嵐要くん」
実戦経験もあるというのに可認も不可認もないだろうに...とは口には出さず、代わりに盛大な溜め息をもう一度吐き出すに留めた。事実、要はある分野のみを得意としており、その他の分野を御座なりにしていた為ほぼ無知の状態に近かった。知識を身に付けたかと言っても、誰しも簡単に就けるものでもない。
「とてつもなく面倒臭いですが、今年の祓魔塾に編入させて貰えませんか? それなら、独学よりも知識が身に付き易いと思いますし」
「塾長本人の前での発言とは思えませんね。そういうところは父親にそっくりだ」
「うわー...それは最悪ですね。改善に尽力を尽くします」
要の失礼極まりない発言にお咎めも無く、メフィストは1本の鍵を投げて寄越した。その鍵を使えば、どの建物にいてもどの国にいても目的地へと繋がる代物だという。しかし各建物の鍵が違うように、目的地によって鍵も変わる。要に渡したそれは、祓魔塾の建物に繋がるだけの代物。同時にそれは入塾OKの証でもあった。
「それはそうと、要くん。住居はどうするおつもりで?」
「それなら旧男子寮へ手続きが整っているはずですよ。荷物も届いてると思います」
「既に2名の男子生徒が使用していますが?」
「はい。確か、奥村兄弟ですよね? 弟の方は、現場で何度か見た事がありますよ」
メフィストが言いたいのはそれではない。いくら親族と言えども、要の危機感の無さに目を覆う。
「要くん。君──女の子、ですよね?」
「はい。そうですが?」
こてん、と首を傾ける仕草に思わず『萌え』を発動させてしまうが、なるべく表に出さないように歯を食いしばる。「んん゛っ」と声が漏れてしまったのは見逃してほしいと何かに願った。
「本当に、父親にそっくりだ......」
「ええっ? どこがですか!?」
◇
理事長に「早速試してみたらどうです?」と促され、内心ワクワクしながら、廊下へ続く扉に先ほど貰った鍵を差し込む。ガチャッと家の鍵を開ける時とほぼ同じ音の後、扉の向こう側の気配が変わったのを感じた。
ドアノブを捻って押し出せば、がらんとした薄暗い廊下が目の前に広がっていた。扉越しに理事長から「行ってらっしゃい」と送り出され、手を振るだけの返事をした。理事長を相手に、少し軽率な行動だったかな? ま、いいか。
気持ちに一区切り付けて、目の前に広がる長い廊下を進む。薄暗いと言ってもしっかりと明かりは点いているし、廊下の壁もコンクリートなどではなく綺麗に装飾されている。それでも薄暗いと感じるのは、この空間が悪魔の住処になっているからなんだろう。
しばらく進んでいると鐘の音が鳴った。その後に、すぐ側にあった教室らしき部屋から、正十字学園の制服を着た男女がぞろぞろと顔を出した。真面目そうな子もいれば、見た目が怖い子もいる。
「あれ? 君は誰でしょうか?」
僕そう問い掛けたのは奥村兄弟の弟の方だ。
何度か見かけた事はあったけど、それはこっちだけだったらしい。僕を見て「誰?」と訊ねる人間は大体初対面だからね。
「僕は五十嵐要。明日から祓魔塾に編入する者です。塾生の皆さんの中には初めましての人もいますけど、貴方とは初めましてじゃないですよ。奥村雪男くん......あ、先生と呼んだ方がいいですか?」
「では、君は実戦経験が?」
「はい。でも専門分野以外はただのド素人なので、塾生の1人として扱ってもらって構いませんよ」
何やら後ろの方で「子猫さんより小さい子、初めて見た」だの「実戦経験ある言うてたぞ」だの「何なのアイツ」だの「髪、白くねぇ?」だの、それぞれ思い思いの言葉を発しているけど気にしない。ていうか、誰だ「小さい」って言った奴。普段なら匂いで分かるのに、ここの臭いで掻き消されてよく分からない。
「──明日からよろしくお願いします、奥村先生」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
軽くお辞儀をした後、くるりと踵を返して塾生の方を向く。改めて、よろしくお願いします、と頭を下げた。
◇
奥村兄弟よりも一足早く旧男子寮に戻り、腐敗臭に塗れた身体を洗う為に浴室へと向かった。
旧男子寮とはいえ、昔は沢山の寮生がいて1つの浴室では足りなかったらしく、同じ階に2つ、少し離れた場所に1つ設置されているらしい。それぞれで違うお湯を張っている辺り、理事長のこだわりと考えていいんだろうか......? とにかく僕は、少し離れた場所にあるという浴室を使う事にした。
──それが1時間前。
風呂上がりの僕の目の前には、顔を真っ赤にした奥村兄弟の兄の方がいた。口をぱくぱくと池の鯉みたいに動かしてはいるけれど、ちっとも声が出てこない。こんな短時間に風邪でも引いたのかな?
僕が首を傾げると、奥村兄の肩がビクッと揺れた。
「キャーーーーッ!!!」
うん? なんで叫ばれたんだろう?
何か、しどろもどろに「なんて格好してんだ!」みたいに言うけれど、叫ばれるほど変な格好をした憶えは無い。そもそも、風呂上がりに出来る格好なんて限られているはずだし、僕はただ、髪を拭う為のタオルを頭に被っているだけだ。それに何か問題があるのだろうか?
うん。まあ、とりあえず──
「湯冷めする前に着替えたいんだけど」
なんなら見ていく?との僕の提案を無視して、奥村兄は逃げるように脱衣場から出て行った。それからすぐ後に、奥村弟の駆け付ける声がして脱衣場の外で何やら揉めているようだった。
着替えを済ませて扉を開くと、赤い顔のままぐったりした奥村兄と、青い顔で平謝りしてくる奥村弟に出会した。でも、何に対して謝っているのかが分からなくて、気にしていないと告げるととても安堵した様子で去って行く。僕は、それを見送ってから居室へ戻った。
僕に用意された個室に、届けられたダンボールが大小合わせて3つ。荷物の整理は明日にしよう。