それが私のスタイル。
□自室 羽鳥霞
結論から言おう。
□王都アルテア某所 マグロ
高空に投げ出され、自由落下の末に王都アルテアの門前に降り立った私は、様々な刺激の濁流に呑まれ嘔吐した。
現実での単なる視点移動にすぎない景色の変わり様とは違い、視点を移すにあたって様々に起こり得る各種物理現象が私に齎した刺激の数々は到底処理しきれるものではなく、エラーを起こした肉体は容易に私を不調に陥れた。
嘔吐するにあたってこみ上げる胃液の味だとか、焼ける喉元の不気味さだとか。
それらを全て言葉で表現するにはいくら時間を費やしても到底足りないのだけど、ここは敢えて"刺激"と総称しよう。
ともあれ、生まれて初めて真っ当な感覚を得た私は、門前に降り立ってしばらくした今も満足に立ち上がれず、まるで死体のように大地に身を投げざるを得なかった。
普通、あんな高空から着地すれば身体なんて木っ端微塵になってしまいそうなものだが、無事に降り立つまでを含めてチュートリアル、ということなのだろう。
それよりも重要なのは、今なお全身を蹂躙してやまない刺激だ。もし最初の部屋でチェシャさんの厚意を受けていなければ、この降り立つまでの間で既に意識を手放してしまっていたことだろう。
そうして大地に平伏すことしばらく。
どうにかこうにか刺激を飲み込み終えてよろよろと立ち上がった私は、改めて周囲の景色を受け止めた。
――そのときの感動を、私は未だに言い表すことができない。
土の香り。木々のざわめき。吹き抜ける風。
温かい、冷たい、涼しい、気持ち良い、重い、軽い。
誰もが当たり前のように感じ、しかし受け流している五感の彩りが、私にはこの上無い芸術にすら思えた。
ふと私は、足元に落ちていた石を拾い、握りしめた。
かつて現実で同様に動いたときはなんの感覚も受け取れず、加減知らずに力を込めた指がぽきぽきと折れたものだけど、今この瞬間には確かな圧迫を感じる。
圧迫感を得て、しかし違和。妙な不足を覚えて思考するうち、思い当たることがあってメインメニューを開いた。
「あ、あった。これをONにしないとだね」
見つけたのは痛覚設定だ。
デフォルトではOFFに設定されてあるこの項目を切り替え、再び石を握り締める。
すると今度は、大雑把に丸い石の各所に突き出た鋭角が私の手のひらを突き、得も言えぬ感触を生み出した。
「これが、
後になって振り返ってみれば、この瞬間こそが私を決定づけた契機だったのだと思う。
香りだとか、涼しいだとか、ごく一般的な感覚よりも、その痛みこそを最大に受け止めた自分。
好奇心は留まるところを知らず、握り締めるモノは自然と石からナイフに変わっていた。
持つべき柄も持たず、無知な赤子のように刃を握る。
裂ける皮膚、流れる血、じくじくとした熱と痛み。
その切っ先を真正面から見据えて、高鳴る衝動に従った。
「――あは。あはははははは……!」
意識してか否か、ナイフは私の左胸に突き立っていた。
急速に減りゆくHP、心臓の破損、急所攻撃等々、私に起きた様々なバッドエフェクトを簡易ステータスが映し出す。
そして
刃の突き立つ左胸を中心に、全身を駆け巡る今日一番の"刺激"に私は脂汗を流し、膝を折って崩れ落ちる。
痛み。痛み。痛み。ああ、これが痛いということ――!
成程、たった一箇所を小さなナイフで突いただけだというのに、それだけで無駄に大きな身体は途端に動かなくなった。
こんな、こんなものを皆は感じていたのか。
過去に私が握手を交わしたとき、誰もが顔を顰めて私の手を振り払った。あれもきっと
もちろん、この痛みが"本物"であるという確証はどこにも無い。
そもそもこの痛みは、現実であれば死を意味する痛み。そして死の先を知るものが誰もいない以上、この痛みが真に死の痛みであるかなど、誰にも証明できはしない。
今ここで死を迎える私は、本当の意味で死ぬわけではない。
"デスペナルティ"を負って現実へ帰還するだけで、完全無欠に私が終了してしまうわけではないからだ。
しかし、だけど。ただこの痛みだけは"本物"であると、去り行く私は信じたい。
――
強制ログアウトの間際、にわかに周囲が騒ぎ出すのを捉えた。
ああ、そういえばここは門前だったっけ。なら人通りも多いっけなぁ……。
薄れていく景色の中で、親切な誰かがなにかを私にしてくれているらしいのだけど、それは何の結果も出さずに光って消える。
感激のあまり、ついつい"自殺"してしまったけれど、この痛みを味わえたなら後悔は無い。
またすぐにログインすればいい――と私は思っていたのだけれど、
デスペナルティの代償は、二十四時間のログイン制限。
<Infinite Dendrogram>内時間において七十二時間、すなわち三日間の損失。
現実に立ち返った私は閉ざされた感覚の中で即座に後悔し、絶望した。
◇
たった二十四時間。
以前までの私ならいくらでも無為に消費できた時間だけど、一度<Infinite Dendrogram>の味を知ってしまった今になっては、到底堪え切れるものではなかった。
地獄のような二十四時間を経て、再度<Infinite Dendrogram>へログインした私。
再び降り立った王都の門前、今度はうっかり自殺してしまわないよう、確固たる意思を己に強いる。
メインメニューを開いてみれば、所持金がいくらか減っており、初期装備のナイフが失われていた。
これもデスペナルティということだろう。所持品をランダムにロストしてしまうことを私は完全に失念していたが、それはまぁいい。
所詮は初期装備、どうとでも取り返しがつくだろうからだ。
それよりも重要なのは、デスペナルティそのものの重さだ。
所持品のロスト――なんてものはどうでもいい。だが、現実に戻され、尚且つ二十四時間もそこで拘束されてしまうこと。
そもそも私にとって、この甘美なる刺激の存在しない"現実"とは、本当に現実だろうか? ――そんなわけがない。
"刺激"という絶対原則をこの身に焼き付けた以上、最早"
二十四時間の地獄を経て私は改めてその事実を思い知り、この<Infinite Dendrogram>で生きていく上でデスペナルティこそを最も忌むべき要素として設定した。
しかし一方で――私自身、非常に不可解であるとは重々承知しているのだが――あの"痛み"を忘れられない自分がいた。
デスペナルティは恐ろしいが、それに至るまでの痛みは拭い難く印象的で――正直に言うと、いっそ"魅力的"と言っても過言ではないほどに忘れられないものだった。
そう思うと私の手はごく自然にメインメニューへと伸び、初期装備を探そうと――ああいや、ナイフはロストしていたんだった。
代わりにまた石ころを拾って、思いっきり握り締める。すると手中から突き刺すような刺激――痛み。ああだけど、これじゃ全然。
むずがるように石を握った手を額に打ち付け、衝撃。視界がチカチカと明滅するような変化と、確かな痛み。ああだけどこれでもない。
ならば次はと手を振り被ったところで、私の手を止める何者かの介入があった。
「待ちなさい! 一体どうしたんだねキミは。いきなり自分を殴りつけたりして、思わず手を出してしまったよ!」
「えっ? あっ……」
「ここ最近の<マスター>の奇行は珍しくもないが、キミはいくらなんでも
「すっ、すみま……」
私の手を止めたのは、門前の番をしていた兵士……と思しき人だった。
あるいは騎士と言うべきか、白色の鎧を纏った彼は、このアルター王国に所属する者なのだろう。
口振りからして私達プレイヤー――<マスター>とは異なる、この<Infinite Dendrogram>の原住民、ティアンであることが窺えた。
「ひょっとしてキミは、三日前にここで自殺した<マスター>かい? その日当番だった者が噂していたよ。いくら恐れ知らずの<マスター>とはいえ、躊躇なく自殺した者は初めてだ――ってね」
「あっ、はい……そのとおりです……」
改めて指摘され、私はそこでようやく恥を悟り、思わず身を竦めた。
確かに彼らからしてみれば、いきなり目の前で自殺する人間がいれば、そりゃあびっくりするだろう。
今更ながら客観的に見て、自分がどれだけおかしな真似をしたのかがよく分かった。
しおしおと縮こまる私に、門番のその人はなんとも言えない苦笑いを浮かべて、諭すように言った。
「……まぁ、さっきも言った通り<マスター>の奇行は珍しくもない。我々ティアンとは事情を異にしているのも承知している。とはいえ、街中であのような真似は謹んでくれたまえ。我々としても出動せざるを得なくなるのでね」
「で、ですよね……」
まったくもってその通りだ。
少なくとも街中でうっかり自傷行為に移ってしまうのは厳に戒めよう。
「見たところキミは全くの初心者のようだね? ここ最近はキミのような新たな来訪者は決して珍しくない。だからある程度キミを手助けすることもできる。まずは王都へ入ってなんらかのジョブへ就くといい。生憎私は案内できないが、誰かに訊けば快く教えてもらえるはずだ」
そう言われてみて、そういえばまだなんのジョブにも就いていないことを思い出した。
このゲームは複数のジョブに就くことができ、それらのレベルを上げることで強化を重ねていくものだ。
就いた各種ジョブの合計を、そのまま合計レベルと呼び、大まかな強さの指標とする。当然、いろんなジョブのレベルを上げて合計値が高いほど強いというわけだ。
それを踏まえれば現在無職の私は所謂最低ラインにすら達してないわけで、合計レベルも堂々の0だ。
それなのにいきなり自殺を図るとは、私の事情が事情とはいえ随分と奇特に映ったことだろう。
ともあれ、こうして親切に教えてくれる者がいる以上、彼の提案に従うべきなのは間違いない。
私はこの<Infinite Dendrogram>を自由に生きるつもりだが、そのためにはまだ何の準備も整っていないのだしね。
私は親切な門番さんに何度も頭を下げてお礼を言いながら、いよいよ王都の中へと踏み入った。
◇
王都に踏み入った私は道すがら目的地を尋ね――実は結構、勇気を振り絞ったけど――無事到達。
そこで諸々の手続きを終え、晴れて第一のジョブに就くことができた。
選択したジョブはオーソドックスな【戦士】。他にも【蛮戦士】や【魔戦士】などの派生下級職もあったけれど、とりあえず奇を衒わずわかりやすい形でやってみようという試みだ。
最初のデスペナルティでいくらか減ったとはいえ、初心者向けの低質武器を買うだけの余裕はまだある。
寄った武器屋で相談したところ、まったくの不慣れであることを察した店主は、とても使い勝手がいいという棍棒の一種を提案してくれた。
成程、これなら握って振り回すだけでいいと。確かに刃物を使うとして、ちゃんと斬るにも最低限の扱いがあるというものだけど、これなら不格好でも当てれば最低限のダメージは与えられるはずだ。
私は意気揚々と店主に勧められるまま購入し、きちんと装備して街を出た。
生憎と防具は買えなかったが、こちらは幸運にもロストせず初期装備一式を保持したままでいる。
ウキウキと沸き立つ気持ちを抑えきれないまま、近くにあるという最下級モンスターの狩場へと向かい――見つけた。
いかにも初心者向けのお手本のようなそのモンスターの名は【リトルゴブリン】。
レベルにして1のまったくの初心者でも狩れるというチュートリアルモンスター一匹を前に、私は棍棒を構え――。
「ていっ!」 すかっ
「GIGYAッ!」 ボコッ
……あれ、おかしいな。
慣れてないからかな、もう一度!
「せいっ、はぁ!」 すかっすかっ
「GIGIッ!!」 ボコッドシャッ!
――全然当たらない……。
なのに向こうの攻撃はしっかり当たる。一撃で死なないあたりさすがチュートリアル用って感じだけど、痛みはバッチリ伝わってくる。
向こうは当然私を殺すつもりで殴っているのだから、その痛みは相当のものだ。私のHPが底値に近づくほどに、その痛みは飛躍的に増していく。
痛みそのものは、いくらでも我慢できるんだ。
むしろ痛みが増すほどに、その……はしたないかもだけど、実は気持ちよくなってきつつあったりするのだけど。
その痛みを乗り越えて攻撃に転じても、まるで当たらない。私も敵も全くの本気なのに、私の攻撃だけがへなちょこすぎて、まるでお遊びのようにすらなりつつある。
私のへなちょこぶりを敵もついに察したのか、ニンマリといやらしい笑みを浮かべて、いよいよ嬲り殺しにしてきた。
――地獄の二十四時間、再来。
◇◇◇
結論から言うと、私は失敗した。
この<Infinite Dendrogram>に期待したことではない。
そこで生きようとする私の目論見こそを失敗していた。
当初私は、この<Infinite Dendrogram>で自由に動き回り、華麗にモンスターを退治して、当たり前のように強くなっていくつもりだった。
武器を防具を、スキルを使いこなし、ゲームとして当然のように"戦う"。
そう、
ところが現実は、そんな幻想を真っ向から打ち砕いた。
率直に言おう。
およそ私に、世間一般的に"運動神経"と呼べる類の素養は、一切備わっていなかったのだ。
冷静にならずとも、よくよく考えてみれば当然の話だ。
私は今まで、ちゃんと動いた経験が皆無だった。
視覚と聴覚以外の全ての感覚を持たずして生まれてきた私は、"運動"というものを実感してこなしてきた経験が無い。
勿論、知識としては知っている。視覚と聴覚しか動かせない私の楽しみは、映像作品全般だったのだから。そこには当然戦闘を主としたものも含まれている。
だけどそれは、見聞きして知っているだけで、私の経験ではない。体験すらもしていない。
現実の私は日常の殆どを寝たきりで過ごし、食事も排泄も機械任せの人任せの、人形のようなイキモノだ。
そんな私が、五感を得たからといって……どうして他の人と同じように動けるものだろうか。
こうして自発的に立ち歩きできることさえもが奇跡なのに、そこから更に運動を――ましてや戦うための動きなどを、できるものか。
初の敗北、二度目のデスペナルティ。
二度目の現実という地獄を経て、そのときはまだ納得しきれなかった私は再び【リトルゴブリン】に挑むも……その結果は、惨敗。
私は、倒せて当然の相手にすら勝てない、そもそも戦いのステージにすら上がれない、究極的な"運動音痴"だった。
「……………………」
三度目のデスペナルティを終えて、ログイン。
二十四時間の地獄から解放されて五感を愉しむ身体とは裏腹に、私の心は晴れない。
或いはこれを"心の痛み"と言うのだろうか。肉体的なそれとは違い、物理的作用は一切無いにも関わらず、単なる痛みよりも尚耐え難い得も言えぬ感覚に、私は打ちのめされていた。
既に九日間もの時間を浪費してしまった私は、大きく出遅れてしまっていることだろう。
いや、それはいい。問題なのは独力ではそれに追いつけないという点だ。
最下級のモンスターとすら満足に戦えず、あまつさえ惨敗するような<マスター>。かといっておとなしく非戦闘系ジョブに就くこともせず、パーティに居れば寄生プレイ待ったなしのお荷物要員……。
そう、私は今でも戦いを諦めていない。
ログイン初日、自殺したとき。
ログイン二日目、初めて戦ったとき。
自分から、敵から激烈な"痛み"を味わった瞬間の絶頂を、私は未だ忘れられないでいるからだ。
あるいは最下級でありながら確かな殺気を伴って私を殺したモンスターへの……憧憬か。
いずれにせよ、私がこの世界で求めることと戦いは不可分であると言えた。
本音を言えば、私自ら矢面に立って直接戦いたい。
だけどそれは私の事情で叶わず、誰かに戦いを託すしかない。
そしてそんな私を戦闘へ連れて行ってくれる物好きな人間などおらず、私一人では赴くことすらできない。
つまるところ、私が求めているのは。
私という荷物を抱えて戦場へ赴き、
私の代行として戦いを繰り広げ、
私の糧となってくれる。
そんな、どうしようもなく都合の良い、一笑に付すべき度し難い戦力だ。
……或いは、こんなどうしようもない私を受け入れてくれる誰か、を。
「あるはず、ないよねぇ……」
我ながら本当にどうしようもない、わがままだ。
現実なら、父の雇った人員が私の言うとおりに動いてくれる。
だけどここにはそれがない。私は確かに"自由"を得たが、だけどそれを行使する力が無かった。
……諦めるしか、ないのかな。
でも、諦めたくないんだ。だって待ちに待った私の理想郷だもの。
せっかく手に入れたこの幸福を、追求せずに妥協したまま安穏と過ごすなんて……
「冗談じゃない――!!」
悔しさに唇を噛み切って、その痛みを味わった刹那。
『それがそなたの望みか。汝まことに度し難く、傲慢であるが……しかしその意気や良し』
どこからともなく、声が聞こえた。
それは確かな自信に満ちた女性の声音で、聞くだに圧倒されるような、モンスターの殺気とも異なる迫力の漲る言葉だった。
気づけば、左手の<エンブリオ>――卵型をした宝石が消え失せ、代わりに紋章が刻まれていた。
その意匠は、例えるなら"血を流す乙女"、だろうか。タロットの刑死者のようにも見え、随分と剣呑な印象に思える。
そして一方で私の前には……いつの間にか、見知らぬ少女が立っていた。
その造形はゾッとするほど美しく――その小柄に合わせるなら"可憐"と称すべきなのだろうが――冷徹な瞳の奥に燃え盛る炎を宿しているように見えた。
「そなたが願い、余が応えた。余はそなたの心の奥底より生まれしモノ。<エンブリオ>、メイデンwithガードナー――名を、テスカトリポカ」
――これが私の……
「末永くよろしく頼むぞ? 我が<マスター>よ」
これが私の、エンブリオ。
私の選択は、失敗ではなかった――!
動機的に察していた方が殆どでしょうが。
主人公の<エンブリオ>はメイデンでした。