クライマックス開始です。
□【獣神】マグロ
夜、にわかに色めき立つ中央区を進む。
数日に渡って開催される大オークションの初日は、区外から絶え間無く流れ込む人の波が特徴を形作っていた。
周囲を行き交うのはいずれも並ならぬ地位や財産を誇る上流階級の人また人。
第一印象からして庶民とは隔絶した一種のオーラを纏い、中央区のそのまた中央に座す会場へと歩を進めていく。
といっても徒歩で向かう者は少なく、大半は竜車の類に乗って悠然と大通りの真ん中を進んでいた。
いずれも贅を凝らした豪奢な装いは、自らの誇る富をアピールする目的もあってのことだろう。そうした車に乗る者こそが真の上流階級であり、歩道を行く者は彼らにとってすれば成り上がりの下賤に過ぎない――そう邪推してしまいかねない格差が両者にはあった。
「ま、私はその中でもより格下なわけだけど……」
とはいえ同じ歩道を進む彼らでも私よりずっと裕福なセレブなわけで、私は身を隠すように縮こまりながら歩道の更に端をぽつぽつと歩いていた。
日はすっかり沈んで肌寒く、夜の帳は星明りを翳らせることなく降り注ぐ。
昼間には日除けに纏っていた外套は、夜になると逆に内側からの熱を逃さない防寒具に早変わりだ。
文字通り昼は涼しく夜は暖かいこれらはカルディナでは広く普及したマジックアイテムで、どんな場所でも比較的安価で手に入る砂漠の必需品だ。
高級なものになるとデザインも洗練され、かつ常に快適な温度を保つというのだから便利なものだ。
私以外の人達が思い思いに纏う衣装はいずれもそうした加工が施されたマジックアイテムであり、一見して無防備に見えても私が纏う無地の外套よりもずっと優れた効果を発揮している……らしい。
私にとって意外だったのは、私がイメージする上流階級の姿とデンドロ内での実際の姿が大きく違うということだった。
言ってしまえば私がイメージする上流階級と言えば所謂マフィアっぽい黒スーツだとか、ハリウッドスターのドレスだとかそういうものなのだけど、この世界における高級な装いというのはそうした型に嵌まらない実に多種多様なものであるらしい。
少なくともリアルで一般的なスーツが普遍的な正装というわけではなく、一見して奇妙に思えるような出で立ちでも、それが周囲の認めるものであるならばその人にとっての正装として認知されるようだ。
つまり高名な戦士にとっての正装は鎧姿などであるし、魔術師の類であるならばローブなども正装として認められる。
そしてカルディナにおける上流階級の大半を占める商人達にとっての正装は、すなわち彼らが商う上で最適な装い……つまりは行商のための旅装といった、一見してそうは見えない出で立ちになる。
無論、見た目は別として質は極上なのだけど。あるいは同じ上流に属する者ならばすぐそれと分かるさり気なさこそが粋というやつなのかもしれないが。
ちなみにこれらの文化や風土はこの街の書店で購入したガイドブックからの情報だ。
都市一つごとに特色が異なり、また全国から様々な文化を持った人種が無数に訪れるカルディナでは知ってて損はない豆知識である。
そりゃあそうだよね。相手のこともわからないで商売ができるはずもないし。
こと商いにおけるカルディナ民の熱意たるや、凄まじいものがあると思い知る限りだ。
……とまぁそういうわけなので、通行証もある以上そう卑屈になる必要も無いのだが、それはそれとして周囲のセレブオーラに圧力を感じてしまう私である。
せめて目立たないよう隅っこを歩いてしまうのも許してほしい。たとえカトリ様が呆れた目で私を見ようとも!
だって同じ歩道を歩く彼らからして明らかにオーラが違うんだもん。区外で多く見かけた一般市民やその他大勢の観光客とは明らかに格が違う。
たまに見かける<マスター>も大半が非戦闘系で、おそらくは商人系統に就いて個人的な財を成したデンドロ長者だろうと思われた。
ちなみにデンドロ長者というのは、文字通りデンドロ内でジョブなり<エンブリオ>なりで莫大な富を築いた金持ちプレイヤーのことだ。
中には世界的にもトップランクの資産を誇る超弩級のプレイヤーもいたりするらしい。なんだっけ、マニ……なんとかさんとかいう人が中でも特に凄いとの噂だ。
あとラ……なんだっけ、アフロさんのお店で見せてもらった指名手配犯の一人もそうした<マスター>の一人だとか。
善きにせよ悪しきにせよ、金というものは持つ人は持っているようだ。
「あ、あれかな会場って。……ギデオンの中央闘技場と同じくらい大きい」
「建造物など富を表す上でうってつけであろうしな」
そんなこんなを考えながら歩いていると、目の前に巨大建築物が現れた。
決闘都市ギデオンの闘技場に似た、しかしそれとは違って天井の吹き抜けていないそれは、しいて例えるならオペラハウスに似ている。
しかしリアルのそれよりもずっと大きく、高く、また広く。デザインも一流のデザイナーが手がけたのか、素人目にも一目で凄いと知らしめる威風を堂々と放っていた。
まさしく芸術都市の面目躍如といったところだろう。街のモニュメントとしても相応しいそれは、紛れもなくカルカランの顔と言えた。
そんな巨大建築物への入り口へと、無数の人間が列をなして続いている。
私と同じくここまで歩いて来た人達は入場を今か今かと待ち侘びて、竜車に乗って訪れた者は待たされることもなくそのまま案内される。
前者は上流の端に掛かった成り上がりか運良くチケットを手に入れた観光客で、後者は主催側から招待状が届くようなVIP、ということだろう。
ここまで来る間にも薄々と感じていたことだけど、いざ入り口を前にするとより露骨に差が出るね。残酷なことだ。
かくいう私もそうしたその他大勢の一人なので、最後尾に並んで順番を待つ。
ごくたまに割り込もうとする姿も見えるのだけど、そうした連中は容赦なく警備兵に叩き出され最後尾へ連行されるか、酷い場合には退去されるなどしていた。
金だけでは参列するに値しないということだろう。人間なんだかんだいって一定のモラルが重要ということだ。
「チケットのご提示をお願いします」
「あ、はい、どうぞ」
そうして並んでいると、警備兵の一人がそう言ってチケットの有無を尋ねてきた。
彼の眼光は鋭く、あらかじめ臨検することで偽造チケットなどでの入場を阻止しているのだろう。
おそらくは高レベルの《鑑定》などによって判別しているのだろうが、世の中悪いことを考えるやつが尽きないものだ。
無論私はクジラさんから直々にもらっているので、憚ることなく即座に提出した。
「拝見します。――――!?」
「?」
提出したチケットを確認するなり、彼は表情を変えてチケットと私を交互に見た。
その顔には驚愕が張り付いており、それまでの厳とした雰囲気を一変させて口を開いた。
「恐れ入りますが、このチケットはどこで入手されましたか?」
「クジラさんから頂いたのですが……」
入手経路を問われてクジラさんの名前を出すと、彼は大きく目を見開いて慌てて頭を下げた。
その後も二度三度、名前や身分などの確認を取られる。
そして私を列から連れ出すと、そのまま長蛇の列を横目に最前列へと案内し始めた。
「大変失礼いたしました。マグロ様は招待状をお持ちですのでこちらからご入場が可能です」
「? …………あっ! そういうことですか!」
そこでようやく事情を察した私。
成程、クジラさんから貰ったチケットはVIP待遇のものだったらしい。
言われてみれば確かに、コンサートのメインを飾る人物から貰うようなチケットがその他一般人が買うものと同じなわけもなかったな。
おそらく先に入場管理の人に見せるべきだったのだろう。私の不手際だった。
VIPを一般客と同列に扱ったことを謝罪する彼には申し訳ないことをしてしまった。
彼らからしてみれば職務に関わる一大事だっただろう。場合によっては無礼を理由にクビを言い渡されるのかもしれないのだし。
畏まる彼に私も詫びながら一時謝罪合戦をしたりして、案内に従っているととある部屋に辿り着いた。
「何かございましたら何なりとお申し付けください。それでは失礼致します」
「あ、はい……」
そこは所謂ボックス席だった。ギデオンでも闘技観戦の折に何度か利用した、最高級ルームである。
大体の配置は私がよく知るギデオンのそれと大して変わらないようで、中央に面した窓からステージが一望できる。
テーブルには映像用のマジックアイテムが複数備え付けられていて、画面には無人のステージが各方面から映し出されている。
これでクジラさん……【歌姫】の姿を間近で拝めるということだろう。一般席の最前列以上に近く見られるこれこそがボックス席の特権の一つということか。
おそらくは音響に関しても眼下に広がる席以上に優れているに違いない。それが建築技術か魔法技術によるものかは知れないけれど、ボックス席ってそういうものだし。
「なんていうか……こんなとこまで至れり尽くせりとは思わなかったです……」
「ククク、そなたは運が良いのか悪いのか……」
いつの間にかメイデン体で寛いでいたカトリ様がそう言うが、間違いなく幸運だろう。
ていうかクジラさんと出会ってからというもの、まるでわらしべ長者のように最高級の待遇を得られているなぁ。主観では交換する藁すら持ってないのだけど。
ここまでされるほどのものか、歓待の数々に掛かったお金を思わず考えてしまう無粋な私には、はっきり言って過ぎたものだった。
でもまぁ、それはそれとして提供されたのなら素直に楽しんでおくのが吉というもの。
ふっかふかで座り心地の最高なソファに身を預け、備え付けの冷蔵用マジックアイテムからジュースを取り出しグラスに注ぐ。
勿論カトリ様の分を先に注いで、二人でソファに並んでグラスを傾ければ、たちまち私もセレブ気分というものだ。
「なんだか旅を勘違いしちゃいそうですよねぇ……最初の街でこんな贅沢覚えちゃったら、この先が辛くなるかも……」
夢のような一時。だけどこれで本番にはまだまだ遠いのだから困ったものだ。
しばらくすればここにクジラさんの歌が響き渡って、さらなる極上の中でこの優雅を味わえるのだ。
まったくもって贅の極みというものである。これでは何のための旅だかわからなくなるよね。
それを知ってか知らずか、カトリ様は相も変わらず悠然としたものだけど。
もしここで高級フルーツに味を占めたとしても、この先ではもう用意できませんよ?
「戯けたことを……、……来客だな」
「ふぇ?」
コンサート開始までの時間をゆったり楽しんでいると、ふいにカトリ様がそう言った。
私には聞こえないけれど、感覚の鋭い彼女にはわかったらしい。
席を立って扉を開け――ようとしたところで先に外から扉が開かれた。
「――マグロちゃん! 来てくれたんだぁ♪」
「クジラさん!?」
客はなんとクジラさんだった。
まさかの来客に思わず驚き、慌てて部屋に招き入れる。
「準備中じゃなかったんですか? ていうかわざわざ様子を見に来てくれたんですか!?」
「ちゃあんと来てくれたのか気になっちゃってぇ……スタッフさんにお願いして教えてもらったのよぉ」
あっけらかんと言い放つクジラさん。
本番直前に突如そんなお願いをされたスタッフさんには心で合掌しておこう。
彼らからすれば気が気でないだろうけど、こんなの断れるわけないもんね……。
「ていうか本番もうすぐなのにいいんですか? 普通は打ち合わせとかするんじゃあ……」
「言って聞くなら誰も苦労はしないというものだ。……ウチの馬鹿がすまんな」
「あ、カイトさん……お疲れ様です?」
「察しの通り、早くも疲れそうだ……」
ふとクジラさんの後ろからカイトさんが顔を覗かせた。
どうやら彼女を追ってここまでやってきたらしい。その顔には疲労の色が強く浮かんでいる。
コンサート前だというのにそうも疲れ気味なのは、彼女の我儘に振り回されているからだろう。
見知らぬスタッフの皆さんと同様に、彼にも心で合掌しておいた。
「どうしてもお前がいるかどうか気になったようでな。せっかくの時間を邪魔して悪かった」
「いえそんな……むしろそこまで気にかけてくれているなら光栄です、私。こんなの他の人に知られたら嫉妬で殺されちゃいそうです!」
カルディナが誇る世紀の【歌姫】に最高級ホテルの一室を提供されて、ディナーを共にし個人的に歌まで披露してもらって。
本人から直々にコンサートの招待状を貰った挙げ句、こうして直接会いに来てもらえるなんて……それこそファンからすれば血涙もののファンサービスだろう。
ていうか、単なる金銭で叶えられるとは思えないサプライズの数々だ。むしろ逆に私のほうが心配してしまうレベルだよこれ。
「ほんともう嬉しくて仕方ないんですけど……お二人こそほんとに大丈夫なんですか?」
「なんでぇ? お友達に会うくらい全然平気――」
「――なワケないだろう馬鹿め! 一目見れたなら即戻るぞ。裏方連中が右往左往しっぱなしだ!」
案の定大丈夫じゃなかったらしい。
クジラさんの耳を引っ張ってカイトさんが怒鳴りつける。
本当にもう破天荒というかなんというか、クジラさんでなければ到底許されない無茶っぷりなのだろう。
付き合いは短けれど容易に察せる彼女の振り回しっぷりに、思わず苦笑を浮かべてしまった。
「本当にお疲れ様です。……クジラさんもあんまり振り回しちゃ可哀想ですよ?」
「マグロちゃんまでぇ……ほんとはもっとおしゃべりしたいのにぃ」
「そういうわけなのでな、慌ただしいが急いで戻ることにする」
結局碌に会話もできないまま、彼らは部屋を後にした。
せめて通路まで見送ろうと扉を開け、名残惜しげなクジラさんの耳を引っ張るカイトさんが、ふと振り返って一言。
「……ああそうだ。非常口はあそこだ」
「? ありがとうございます……?」
唐突に非常口を指差した彼の意図が掴めず疑問符を浮かべる。
しばし間を置いて、おそらくこちらを気遣ってくれているのだろうと考え、訝しみながらも礼を述べた。
どうして唐突にそんなことを……いやまぁもし火災とかがあったときに分からないと困るけども。
まぁ、いっか。きっと彼が几帳面なのだろう。それにしたって気にし過ぎな気がしないでもないけど。
そう思って二人を見送ろうと手を振ったところで、今度はカトリ様が背後から言葉を投げかけた。
「
「カトリ様……?」
彼女の言葉もまた意図が掴めず、どういう思惑でそう言ったのか判然としない。
カトリ様の思惑は私が知る由もないことは多々あるが、それにしたってあまりに脈絡の無い一言。
その言葉が二人にとってどういう意味を持つのかはわからないが、言い放つカトリ様の表情は真剣そのものだった。
「マグロちゃん。
「え? あ、はい……もちろん……」
わからないまま、再会を求めるクジラさんの言葉に頷いた。
振り返った彼女の表情に、またぶるりと背筋が震える。
そして忘れていた妙な違和感を思い出し、その正体を掴めずに堪らず視線が泳いだ。
「戻るぞ、マグロ」
「戻るぞ、クジラ」
偶然被さった声に頷き、最後にもう一度頭を下げて部屋に戻る。
さっきまでの和気藹々とした空気は、いつの間にか消え去っていた。
◆◆◆
■???
「~~~~♪」
「上機嫌だな、
開幕を待ち望まれるステージの舞台裏へ続く道。
上機嫌に口ずさむ主の歌に彼は言葉を漏らす。
童女のように弾む女。
呟かれた言葉に振り返った表情は、常と変わらぬ嫋やかな笑み。
細く弧を描く双眸からは、しかし茫漠とした視線が何を捉えるでもなく彷徨う。
「そんなに気に入ったのか? アイツを」
「ええ……だってわたしの歌を好きだって言ってくれたから。
「好ましい人間だとは思うがな。世話焼きで人が好い。ガタイに見合わず子供っぽい、純朴なやつだ」
返ってきたのは喜び。
通わせた心の動きはカイト少年へとつぶさに伝わり、その想いを共有する。
喜びに満ちた彼女の意思に相槌打ちながら通路を歩き、やがて舞台裏へ辿り着く。
一斉に振り返ったスタッフの顔には安堵が色づき、忙しなく二人を案内しながら最後の詰めを進めていく。
開幕まで間もなく、急ぎ調子で着替えさせられるクジラの装いは蒼。
深い深い海の底のように、蒼くも昏い色彩をしたマーメイドドレスには、星が瞬くが如く装飾の煌めき。
その装いに合わせたカイトの衣装もまた、夜の帳が如く漆黒をした燕尾服。
二人並んで舞台袖へ控え、幕が上がるのを待っている間に、さらにカイトが口を開く。
「
「なぁに?
返ってきたのは哀しみ。
彼が彼女の名を。彼女が彼の名を。
この世界のものではない名を交わして、彼女の心は哀しみに満ちる。
否、それだけではない。
哀しみが心を満たした端から怒りが沸き立ち、続く高揚の楽しみが心の海をかき乱す。
あるいは憎悪。あるいは使命感。
今は亡き名の音を皮切りに、喜怒哀楽の四元素からさらに分化した感情が絶えず沸き立ち、渦巻き、彼女の心を混沌に染め上げていく。
あるいは狂気とも言えるその情動。
外面には顕れない精神の大波が荒れ狂い、満ち引きし、カイトの心へ伝播する。
内面を共有するが故に叩きつけられる狂った情緒の一切を、彼は眉一つ動かさず受け止める。
聴いてほしい――聴かないでほしい。
逃げてほしい――逃げないでほしい。
止めてほしい――止めないでほしい。
ありとあらゆる二律背反がクジラの中で渦巻き、歪な調和を導き出す。
それはさながら寄せては返す波のように、静寂と鳴動を繰り返して彼女の心を反復していく。
あまりに常軌を逸した精神構造。
その理由を知るカイトは、己が主の哀れを想い嘆息した。
(もう何も見えていない、か。だけど仕方ない、それが今の望みなら……)
彼の察した通り、最早彼女の目には何者も映ってはいなかった。
そしてその意志一つに全霊が傾けられたならば――従僕たる彼はただ従うのみ。
幾度となく告げた忠告も警告も、それを叫んだ深層心理が失われた今となっては彼の口から代弁されるべくもない。
平衡を曖昧と矛盾の彼方へ置き去りにした彼女が、心のどこかで叫んだ好ましき友への慟哭も今となっては――――
「開幕だ、
「ええ、
――――無限の想いを置き去りにして、幕は無情に上がる。
◇◇◇
□【獣神】マグロ
一度幕を上げた後は、ただただ圧巻だった。
司会の前口上と共に舞台袖から現れたクジラさんは、夜の海のような装いでカイトさんと並び口を開く。
伴奏は僅かに、弦楽のソロが奏でる最低限の旋律に合わせて紡がれた歌は、先日のディナーショーとはまた別格のそれだった。
曲調は物悲しく、突き刺さるような悲哀が胸の内から込み上げる。
去来する感情は離別か喪失か。例えようもなく愛しい半身を亡くした哀しみに暮れ、知らず涙が頬を伝う。
見下ろせば客席に座す聴衆は皆が皆ハンカチを手に目元を拭い、啜り泣く声が潮騒となってこの部屋まで届くよう。
人は歌だけでこんなにも感動を覚えられるものだったのか。
そんな驚愕の新事実を確信してしまうほどに、彼女の歌は空前絶後。
おそらく誰もがこのような悲恋が唄われるものとは思ってもいなかっただろう。
来る大オークションへの熱狂を忘れさせるほどの悲哀、ともすれば気分を台無しにされたと激昂する声すら本来上がるはずだ。
しかしそうした反感を問答無用に打ち砕く絶望的なまでの哀歌が、聴衆に選択肢すら与えずただ呑み込んでいく。
「うぁ……あう、えぐ……」
私自身、胸を満たす哀しみのあまりどうにかなってしまいそうだ。
流れる涙は視界を歪め、赤く腫れ上がる眼が熱いほどに痛々しい。
ハンカチで拭うことすら忘れて、哀しみに暮れるままに止めどなく流れる涙を必死に両手で拭っていく。
「マグロ」
「ひっく、えぐ……っく……」
カトリ様の声すら定かではないほど、沸き立つ情動が私を呑み込む。
あまりに哀しくて、私の身体が私のものではなくなってしまいそうで、ただただ胸を突く哀しみに身悶えする。
あるいはこれを
その言葉の通りに私の両手は胸へと添えられ――――
「正気に戻れ、マスター!!」
「えっ――――」
――――
「な、んで……痛――?」
「成程、
カトリ様の強打で強制的に正気へ引き戻された私が見たものは、胸に突き立てられた己の指だった。
痛みや正気の警告が意味をなさない自裁の動き。能動的な肉体限界を超越した、ただ哀しみという精神が肉体を凌駕して下される絶対命令。
指の爪先が沈み込む胸からは血が溢れ、その痛みが取り戻した正気を維持させていた。
「マスター、【オーバードーズ】を装備しろ。【高純度覚醒剤】の継続投与もだ! また支配されるぞ!」
そう指示を飛ばすカトリ様もまた、その支配に抗って冷や汗を流していた。
にわかに状況を飲み込めず、ただ彼女の指示が正しいと従って【オーバードーズ】を《瞬間装着》し【高純度覚醒剤】を継続投与する。
精神系状態異常を無効化すると引き換えに重度の病毒系状態異常を引き起こすそれを、【オーバードーズ】の力によってダメージ以外の症状へと変化させる。
倦怠が重くのしかかる身体とは裏腹に明瞭を取り戻した思考が把握した現実は、あまりに……!
「そんな……! なんで!? どうしてこんなことが……ッ!!」
窓から見下ろした眼下の光景はあまりに異様だった。
クジラさんの歌で引き起こされた哀しみのままに、自ら胸を引き裂いて悶絶する聴衆の姿が広がる。
老若男女を問わず、彼女の哀歌に聴き入っていた誰もが絶望に表情を歪め、ただ哀しみに暮れる心が肉体を支配して悲嘆の果ての自死を招いていた。
人は、哀しみだけを募らせるとこう死ぬのだろうか。
そう思わざるを得ない光景にふと、以前聞いた話を思い起こす。
「カルカラン市長の死因は……、――――!?」
――――胸部への大きな裂傷、及び出血多量によるショック死。
ありえないと振り払ったかつての思考に、顔が青褪めていくのが自分でもわかった。
この世のものならざる表情で死に果てていたという市長の死に顔。
それと思しき顔を聴衆の誰もが浮かべて……一人、また一人と悲嘆と苦悶を極めて死に絶えていく。
「――――クジラさん……ッ!!」
その果てに舞台で歌を紡ぐ彼女を見て――――私はようやく違和感の正体を悟った。
…………彼女は、誰も見ていなかったのだ。
常に浮かべていた表情。笑顔に弧を描く双眸の隙間から覗く眼光は、最初から最後まで冷たかった。
私と祭りを巡ったあのときも。
私と食事を共にしたあのときも。
彼女は一度として
むしろその逆――――
「あるいはそれだけではないのかも知れぬ」
「カトリ様……」
カトリ様は、珍しく憐憫を声に乗せて嘆息した。
「メイデンたる我が身の対――アポストルの<マスター>とは概してそういうものだ。
この世界への尋常ならざる怒り、憎しみが
この世を真と捉える<マスター>がある種の
ジャガーへと身を変じていく彼女の表情は、既に獣のそれとなって一見して読み取れない。
しかし絶体絶命の危機であることをその身で示し、私はそれに応えて背に乗った。
「
己がマスターの願いを叶える道具たらんと、一切の異論や反論を挟むことなく……
「だけどカイトさんは……クジラさんの道具のようには……!!」
「その振る舞いをあの女が望んでいたのだろう――当の本人が気づいていたかどうかは知れぬが、な」
ならばこの惨状は、彼女が望んだことだというのか!?
そんなこと……どうしたって信じられない! ……信じたくない……ッ!!
だけど現に彼女の歌は人々を死に誘っていて――――その罪過は抗いようもなく重い。
「すまぬな、マスター。余にもあれの本質は見定められなんだ」
「カトリ様は、二人がそういうものだと知っていたんですか……?」
「あのカイト某がアポストルだとは気づいていた。
しかしな、マスター。だからといって凶行を為すものとは限らぬ。
憎悪や怒りが奴らを生んだとして、その後の生がそれらを癒やすこともまたあるが故。
この世界を真と見ながら大悪を為す者もいれば、憎みながらもいつしか世界を認める者もいる。
……あの女が後者でなかったのは、マスターにとって悲運であろうが……な」
あまりに……あまりに残酷な言葉だった。
認めたくない事実だけが四方八方から襲ってきて、私の希望を打ち砕く。
だけど、今。
今も彼女が、彼女だけが知る理由によってこの凶行を止めないのならば――――!!
「彼女を止めるのが、私の役目だ……!!」
流れる涙は彼女の歌とは別の哀しみで止まらない。
意を決して手綱を――【ベレロープ】の手綱を取り、カトリ様へと指示を下す。
「カトリ様!」
「うむ。征くぞ、マスター!!」
窓をぶち破って、彼女の歌うステージへと駆け出した。
跳躍して駆ける宙空で、歌う二人の顔がこちらを向く。
そうして見せた表情は、彼女は子供のように嬉しそうに、彼はひたすら無表情で。
「――――
「お前たちがここにいる以上、こうなるしかないと分かっていたさ」
「クジラさん、カイトさん……!
「ああそうとも、こうするしかないと承知しているが故に!」
肉薄する瞬刻。
カイトさんの身体が突如として膨張し、姿を変え。
その巨体の背にクジラさんを乗せながら、悠然と空を泳ぎ出して天蓋を破る。
それは、その姿は。
打ち破られた天井。その上に広がる夜を泳ぐその姿は――――
「――――《
――――孤独な
To be continued