「あッ!」
我ながら情けない声を上げてしまった。しかし、平日の朝に目覚めて初めに見た物が、朝九時を示す時計だったなら、誰でもこうなってしまうのではないだろうか。と言っても直ぐに昨日の出来事を思い出し、一先ずは胸を撫で下ろす。大赦の連中はああ言っていたが、本当に大丈夫なのだろうか。
半信半疑で床へ放り出されていたスマートフォンを手に取り、スリープモードから引き上げてみる。携帯の着信履歴は一件も無く、もし大赦が何もしていなければ今頃十数件もの着信履歴が俺のスマフォのディスプレイを埋め尽くしていただろう。
念の為と、仲の良い上司へ電話をかけることを決め、アドレス帳から名前を探し出し指で触れる。数コール後にプツッとノイズ音が入り、電話の向こうからは知った声が届いてくる。
「おはようございます、生島です」
「おお、おはよう。なんか大変みたいだな。大赦のお役目だっけか?」
「ええ、いきなりだったんですが……そっちは大丈夫ですか?」
「んー、なんとか回すよ。で、何するのかって聞いても答えてくれないけど……お前も教えてくれねーよな」
「すみません。ご迷惑おかけします」
「おう、そっちも頑張れ。それじゃ、仕事が忙しくてな」
「はい、失礼します」
通話終了ボタンを押し、スマフォをベッドへと叩き付けるように置く。カーテンを閉め忘れた窓からは、容赦無く朝日が照りつけて来る。顔を顰めながらも、皺くちゃになったスーツを脱ぎ、洗濯籠へと放り投げた。そのままお湯を沸かそうと鍋に水を流し込み、ガスコンロの上へ乗せ火にかける。
シャワーを浴びている間に沸くかと考え、着衣している物をまとめて洗濯籠へと叩き込み、バスルームへ足を踏み入れる。お湯を頭から被りながら、カップ麺でも食べたら園子の所へ向かうかと思い、素早く頭と体を洗いバスタオルで全身を拭きあげる。
服装に少し悩んだが、少し青みがかったワイシャツを羽織り、スラックスへ足を通す。ネクタイをキッチリ締めると、買い置きしていたカップ麺の蓋を開け、お湯を流し込んでいく。
カップ麺が出来上がるまでの間、何か園子の暇つぶしになるようなモノは無いかと部屋を見渡すが、一人暮らしの男の部屋に、十三歳の女の子が喜ぶ品がある訳も無かった。
「……何かねえかな」
俺のぼやきに反応する者など居る筈無く、部屋の中にはカップ麺を啜る音だけが響いていた。
園子の居場所への移動手段として、電車、車、自転車、徒歩、様々なものがあるが、俺は徒歩を選択していた。普通にあるけば三十分もかからないし、その間に話のネタを考えることも出来る。
カモメが雲一つ無い青空を飛び回っている様子を見上げながら、少し感傷に浸りつつ海岸沿いを歩く。海開きはしているが、海水浴場として開かれていないその場所は、泳いでいる人間が一人も居らず、波の音とカモメの鳴き声が木霊するのみだった。
そんな中、泳いでいる人間は居らずとも、浜辺で何やら木刀を振り回している少女の姿は見つけられた。
「なんじゃありゃ」
灰色の髪を真っ赤なリボンで短く縛ったツインテール、勝ち気そうな釣り目に、両手に握られた木刀。俺はその少女を視界に捉えた瞬間、真っ先に銀の姿が脳裏を過るが、別人であることは無論承知している。
何故こんな平日の朝っぱらから誰も居ない海岸で木刀を振り回しているのだろうか。中学生の頃の自分にも同じ事が言えるが、俺はちゃんと学校には行っていた。
少し。いや、かなり興味がそそられたが、他人を寄せ付けないオーラが具現化していると言っても過言では無い少女の雰囲気に、邪魔をしては悪いと大人しく園子の元へ足を運ぶ事にした。
道中、その少女を見掛けた以外に変わった事は無く、まだ朝だと言うのに全身から噴き出てくる汗に悪戦苦闘していたくらいだろうか。自販機で冷たい飲み物でも買おうかと考えている内に、気付けば大赦の根城へと辿り着いていた。昨晩は完全に日が落ちていたのに加え、疲労の方が勝り呆けながら景色を見ていた為気付かなかったが、日本家屋を彷彿とさせる大層ご立派な屋敷ではないか。
荘厳な雰囲気に圧倒され、正門前で立ち往生していた俺を見兼ねたのか、屋敷の奥から若い青年が此方へ歩み寄って来る。歳は俺よりも下だろうか、短く切り揃えられた黒髪に、物腰の柔らかそうな表情を象徴する垂れ目、大赦の連中にしては妙な仮面を付けておらず、袴を見事に着こなした日本男児の会釈についこちらも応じてしまう。
「お待ちしておりました」
「……なんか、他の連中と雰囲気違うな、アンタ」
「そうでしょうか?何分まだ若輩者でして、先人の方々とはやはり見劣りしてしまうかもしれません」
その青年は、大赦の中で最初に素顔を見た男と言えるだろう。もしかして街ですれ違っているのかもしれないが、それを言い出したらキリがないので割愛しておく。
「……名前は?」
「これは失礼致しました。私三好春信と申します。以後お見知りおきを」
「俺に対する此処でのお目付け役か?」
「いえいえ、生島様が御役目を恙無く遂行出来る様、ご助力させて頂く為の存在だと認知して頂ければ」
食えない男だ、クソ丁寧な言葉遣いも背中が痒くなってくる。此方ですと言い踵を返した三好の背中を追い、屋敷の中へ足を踏み入れる。馬鹿でかい屋敷の中心、そこには普通の神社の何倍もの大きさの、詳しくないが社のような建物が鎮座している。その社の最奥に存在するその部屋は、襖を開ける前から何か禍々しい物が漏れてきそうな、嫌な感じが漂っていた。中に居るのは只の少女なのだが、部屋中に張り付けられている形代が主な原因だろう。
では、と言い残し、深々と頭を下げ去って行った三好の背中が見えなくなった頃、ノックするべきか否かに思考を巡らせていた。襖にノックもクソもあるかと直ぐに結論付け、入るぞと言いつつその忌々しい部屋へと足を一歩、二歩と踏み入れる。
「起きてるかー」
「おはようごーさん。起きてるよ~」
昨日と変わらず病床に伏せている園子へ手を振り軽く挨拶すると、そのオアシスへ近付いて行く。ベッドの脇へご丁寧に置かれていたパイプ椅子の存在には直ぐ気付いた。背凭れを右手で持ち上げ、椅子の形へと広げると、園子の右手が握れる程の距離へ椅子を置き、腰を降ろす。
「どう~?昨日はよく眠れた~?」
「一瞬だったな、のび太並の速度で寝た」
「ふふ、私も寝るのは自信あるよ~。立ったまま寝ちゃうくらい。あやとりも昔練習したから結構出来るんだ」
「射撃が上手けりゃモノホンののび太じゃねえか」
「射撃はわっしーの方が上手かったよ~」
「俺ものび太の真似してあやとり練習したけどロクに出来なかったな」
「私もカッコいい!と思って『銀河』練習したな~」
傍から見れば限りなくしょうもない会話だ、ドラえもんの話で盛り上がったのを皮切りに、昨今の漫画やアニメ、ドラマや映画の話に発展していく。世代が違う為中々噛み合うことは無かったが、小説の話になった途端目を輝かせた園子にまさかと尋ねてみる。
「うん。私、Webで書いてたんだ~」
「……奇遇だな、中々小説を書く人間と巡り合う機会なんて無いもんだけど」
そこで園子が小説を書くのが趣味だと判明し、それに関しては俺と話が合致していた。
「ごーさんも書いてるの?」
「ああ、小学生の時からな」
「へぇ~、大先輩だ~」
「つっても、小学生の時に書いたもんなんて人に見せられるレベルじゃなかったけどな」
「誰でもそうだよ~」
「結構思うんだけど、小説って絵と同じじゃないか?」
「絵?」
「書けば書くほど上手くなっていくし、一番思うのはそこで書き方に癖が出て来る所だな」
「あ~分かる~。人物の描写の仕方とか、一番顕著なのは言い回しだよね~」
「絵ほど露骨には分からないけど、人によっての書き方は無数にあると思う」
共通の話題が見つかり互いに熱が入る。小説の書き方談義から、恋愛小説推しの園子とバトル物推しの俺とでの言い争いや、女の友情と男の友情どっちが映えるか等々。
どれ程話し込んでいたのだろうか、気付けば小腹が空く時間になっており、ポケットから取り出したスマートフォンのディスプレイは、既に正午を回った事を俺に知らせる。
「腹減ったな、そう言えば園子は飯どうしてんだ」
「それが食べられないんだ~。私の場合手足だけじゃなくて、体の器官とかも捧げちゃってるから。うどんが恋しいよ~」
「不謹慎な事聞くけど、今の園子は絶対に死なないんだろ」
「うん、もう一年以上何も食べてないよ~。何なら今心臓も動いてないからね~」
聞けば聞くほど不憫になってくる。俺に出来る事はこうして話し相手になってやる事だけだが、歯痒さというものは払拭しきれない。
「なあ」
「なに~?」
「園子が一緒に戦った女の子、銀と須美ちゃんだったよな」
「うん」
「今、須美ちゃんは何処に居るかとかは分かるのか?」
「所在地は分かんないかな……勿論会いたいけど、大赦の人が会わせてくれないんだ~。それに、わっしーは私のこと覚えてないから、気まずい思いさせちゃうかも」
「じゃあ、須美ちゃんは銀の事も……か」
「最後にわっしーと話した時は、まだミノさんのこと覚えてたけど……多分、勇者に関係することは全部覚えてないんじゃないかな」
本当に園子は絶望の淵に立たされ続けているのだと痛感させられる。まだ遊んでも遊んでも遊び足りない小学生や中学生のこの時期に、たった一人こんな場所で過ごし続ける。自分に会いに来てくれる人も居らず、親友を亡くし、更には親友から忘れられた果てに、何を思うのか。辛いなんて三文字じゃ表し切れないようなモノが渦巻いているに違いない。
「そう言えば煙草は吸わないの?」
「ん?……ああ、一応気を遣ってたんだけど」
「私は好きだから、吸っちゃっていいよ~」
「変な奴だな。副流煙なんてロクなもんじゃないだろ」
先程までとは違い、その時の園子の表情はどこか浮かないものであり、何処か遠い所を見つめているように感じた。
「生きてるって感じられるの」
「ん?」
「こうしてごーさんと話す事も勿論そうだけど、煙草の煙一つでも、目の前で変化が起きてる。って言うのが堪らなく嬉しいんだ~」
「益々分からんぞ」
「上がった煙は無数の軌道を描いて天井に消えていく。普通の生活を送っていたら、目の前は変化だらけで気付かないけど、今の私にはそんな些細な変化が感じられるだけで嬉しいんだ~」
普通の生活という言葉が酷く重く感じる。それはそうだろう。指一本動かせず、こんな所に四六時中閉じ込められていたら常人なら直ぐ発狂してしまう。ぼーっとするのが得意と言っていたが、一年も自我を保ち続けていられるのは間違いなく園子自身の強さだろう。その歳不相応な達観具合も納得出来る。
どう返したものかと少し考えていたが、左手を園子の頭上へ優しく乗せ、包帯の上から優しく撫でてやる。嬉しそうに目を細めた園子は、まるで猫みたいだなと思いつつ、その日は園子が満足するまで頭を撫で続けていた。
「そういえば、浜辺の方に木刀を二刀流で振り回してる女の子を見掛けたな」
「へぇ~。…………可愛かった?」
「……何で第一声にそれが来るの?」
「いいから~」
「……まぁ、可愛かった」
「どれくらいかな?」
「まぁ……とても」
「へぇ~。その子ツリ目でしょ」
「…………」
「髪短いでしょ」
「…………」
「もしかして髪の色、灰色だったりして~!」
にやにやといやらしい視線を向けてくる園子の脳天へ、一発チョップを叩き込むと腰を上げ、パイプ椅子を折り畳む。まだ夏なので外は明るいだろうが、一般家庭は夕食を用意し始める時間だ。
「じゃ、また明日な」
「うん、またね~」
パイプ椅子を元あったベッド脇へ立てかけると、左手をひらひらと振りつつ部屋を後にする。社から出た辺りで三好と鉢合わせ、お帰りですかと尋ねて来る三好にそうだと答える。
三好が正門前に車を回してくるまでの間、俺は外壁へ凭れ掛かりながら、目の前を通りかかる通行人を視界で捉えつつ虚空を見つめていた。園子は絶対に治らないのだろうか、その疑問ばかりが頭をぐるぐる回る。病気ではないのだから手の打ちようは無さそうだが、逆に言えば相手は神様だ。毎日祈ってれば何時かは願いを聞き届けてくれるかもしれない。
「なんてな」
三好が運転する車の後部座席へ腰を降ろしながら独りごちる。例え俺が祈っても何も解決にならない、祈ってどうにかなるのだったら、世界はもっと笑顔に溢れているだろう。
彼が居なくなった瞬間、私は有らん限りの溜息を吐いた。また明日の朝まで退屈な時間が続くのかと思うと、溜息の一つや二つ出てしまうものだ。最初は少し怖い印象もあったが、話してみると案外親しみやすく、流石はミノさんの師匠と言った所か。
「ねぇねぇ、ミノさん。家に帰ったらいつも何やってるの~?」
「そうだなぁ……弟の世話だったり、イネスに行ったり、師匠の所に行ったり――」
「師匠?」
「アタシの師匠だよ。ちょっと変わった人だけど、良い人なんだよこれがまた。イネスで出会って擦り寄ってみると絶対ジェラート奢ってくれるし!」
「へぇ~。歳は近いの~?」
「んー、倍近く離れてる筈なんだけどな~。でも弟とも遊んでくれたり、勉強見てくれたり、稽古したり、お世話になりっぱなしだよ」
「むふふ……成程――」
「ねえ、何の話をしてるの?」
「ミノさんの婚約者さんの話だよ~」
「だぁぁぁぁ!誰が婚約者だ!」
まだ一年程しか経っていない筈なのに、随分昔のことに思える。もうあの三人で手を繋ぐことは永遠に無い。その事実を思うだけで押しつぶされそうになってしまう。つい一昨日まではそんなことばかり考えていたが、今は明日何を話そうか、明日は何時来るのだろうか。という明日を思うことばかりだ。
いきなりこんな場所へ呼び出されたのにも関わらず、彼は文句の一つも言わず自分とお話をしてくれた。更には自分の生活を犠牲にしてまでも、自分に会いに来てくれている。無論その事には負い目を感じてしまうが、それ以上に誰かに依存したいという欲求が強かった。
「……おやすみ」
勿論返事が返って来る訳では無いが、そろそろ布団へ入ったであろう彼へ送る言葉として、私はあえて口に出し、目を閉じた。