月の裏側を見た事は無い。だけど月の裏側を見るより難しいモノがある。
人の心の裏側は、他人には絶対に見えない。だってそれはその人じゃないから。
朗らかだと誰かが言った、だけど私の太陽には陰りが差した。
誰のせいだろうか、誰のせいでもない。
最初は話してくれるだけで良かったし、それで満足していた。
だけど、足りない。私は幼いから。足りなくなってしまう。
九月一三日。
じゃあまた明日、何時もと変わらない挨拶を残し彼はこの忌々しい部屋を去って行った。毎日その襖が最初に開かれるのは朝方の不規則な時間だ。そして次にその襖が開くのは、そろそろ日が暮れるなと感じる夕刻。日付に意味を見出さなくなってから、私は今日が何月何日かと言うのを気にしなくなっていたが、彼が訪れる回数は私に一日を刻み込む。今日は彼と出会って一月と二十四日、六十四日目だ。
彼は私の恩人だ、私生活を犠牲にして欠かさず此処へ足を運んでくれる。私と同じ境遇に成り得る少女が居ると知れば、まるで自分の事の様に葛藤し、悩んでくれる。例えそれが過去に引き摺られたモノだろうが、私はそれを責めたりはしない。
さて、何時までこの生活が続くのだろうか。私は死なない、ならば彼が死ぬか、愛想を尽かすか、それかこの世界が終わるか。
ピシっ、心の奥底の何処かでヒビが入った。
嗚呼、早く明日にならないか。明日になれば彼が語りかけてくれる、彼が触れてくれる、彼が私だけを見てくれる。嗚呼、私だけが彼を見てあげられる、私だけが彼に語りかけられる。
早く早く――。
九月十四日。
彼は昨日話題に上がった勇者部と接触出来た事を私に話してくれた。わっしーが元気そうに学園生活を送っていたと言う話を聞いて安心する。安心したし、途轍もなく嬉しかった。嬉しかったんだ。あれ、何故私は其処を強調しているのだろうか。
そう言えば、昨日は彼が退室する時間が何時もより早かった気がする。元々決まった時間に帰っていた訳では無いが、それでも昨日は早かった気がする。何故か――。嗚呼、決まっているかな。勇者部と接触し、彼女らと少しでも関わりを持つ事で、何か彼女らの為に出来る事は無いかと考えているのだろう。やはり、彼は優しい。集められたと言っても、私が言った通り勇者として選ばれる可能性は低いと思う。それでも彼は少しでも可能性があるのならと思い行動しているのだろう。
つまりもし勇者部の存在を知らなかったら、昨日はもう少し長い時間彼と居られたと言う事になる。
あれ?
ピシっ、また心の奥底の何処かでヒビが入った。
九月一五日。
彼は余り興味が無いと言っていた恋愛小説にハマっているらしい。私が教えたオススメの本を試しに読んでみると、これがまた面白くて徹夜してしまったと眠そうな瞳を浮かべながら欠伸をしていた。目が半開きで少し上半身がふらふらしている、少し休んで良いんだよと微笑みかけると、すまんと言い残し私の腹上へと突っ伏す。ずしっと、私の腹部に頭一つ分の重さが圧し掛かり、室内に聞こえるのは彼の寝息だけ。撫でてあげたい衝動に駆られながら私はこの至福の時を噛み締めていた。
何故彼が四六時中一緒に居てくれないのか、考えた事は何度もあった。こう言ってはなんだが、仕事はする必要が無いし、報酬も十二分に入っていると教えてくれた事がある。なら何故、ずっと、朝方から夕方などと言わず、ずっと私の傍に居てくれないのか。
駄目だ、彼にもプライバシーがあるし、それを私の我儘で奪うのだけは駄目だ。現に彼は毎日欠かさず会いに来てくれる、それでいいじゃないか。
嗚呼そう言えば今日は来るのが少し遅かった気がする。一昨日、夏凜ちゃんを病院に運び面倒を見ていたので彼が来たのは完全に昼頃となっていた。つまり、放っておけばもっと早く私の所に来れたんじゃ?あれ?
勇者部の面々と違って夏凜ちゃんは正式に勇者へ選ばれている。つまりもう神樹様へその身を捧げ、勇者としての恩恵を受けている筈だ。なら何をしても死なない、放っておいても死なない。
あれ?
ピシっ――。
九月一六日。
彼が去ってしまうのは、私の為だよね。もし彼が四六時中此処に居れば、恐らく現状は全く進展しない、残るのは私の自己満足だけ。全ての事情を知り、何の制約も無く動ける大人。四国全土で唯一の存在の彼がこれに関わる事で、何か動き出すかもしれない。
嗚呼、大人と言うのは重要だ、彼が夏凜ちゃんや勇者部と関わる上で、それは非常に重要なファクターになるだろう。同世代じゃダメだ、私の様な人間じゃない限り、先ず感情が率先してしまうし、合理的な判断だと思っていても手が止まる。若さ故の過ちって奴かな。
無論、大赦としては彼の存在は余り愉快では無い筈だ。私への抑止力としては十二分に働いているとは思うが、それ以外で縛る術が無いのだ。一般人の彼をどうにかするのは簡単だろう、下手な事を吹聴しようとするならば危害を加えて抑え込めば良い。
だから私は、大赦側に言った。
あの人に手を出せば、私は貴方達を――。
二か月前までの私ならば、貴方達を許さない。そう言っただろう。だって、それを言ってしまったら人として――。
ミノさんに聞かれれば、顔を顰めながら怒ってくれた筈だ。わっしーが聞いていれば、しっかりとお説教してくれた筈だ。
なら。
なら怒ってよ。お説教してよ。わっしー、ミノさん。
『あの人に手を出せば、私は貴方達を絶対に殺す。どんな手を使っても、根絶やしにしてやる』
九月二十七日。
聞けば、彼は勇者部との連絡手段を得たらしい。私と別れた後は、勇者部のお手伝いに勤しんでいると教えてくれた。夏凜ちゃんとも上手くやっているらしい。だけど、彼はそれで来るのが遅くなったり、帰るのが早くなったりはしなくなった。彼女達と会う前まで居た時間と同じ時間、私とお話しして帰っていく。最近来るのが早くなったねと言うと、園子のお陰で規則正しい生活になったからなと言いながら私の頭を撫でてくれる。
多分、様子がおかしかった私に気を遣ってくれているのだと思う。そんな表情や仕草はおくびにも出さなかったつもりだけど、見抜かれていたようだ。
話の内容は、基本的に勇者部や夏凜ちゃんの話中心になる。間には最近読んだ恋愛小説や、オススメのお話などなど。私がどうしても続きが気になる小説があると言えば、彼は明日買って来て読ませてやると言ってくれた。
九月二十八日。
彼は言った通り、私が気になっていた小説を買って来てくれた。朗読しようか悩んでいた彼だったが、そうだと手を突き椅子から立ち上がると、ベッドへ乗り出してくる。両手を背中と両足の下へ滑り込ませ、私を少し浮かせてベッドの中心からずらす。そして自身もベッドへと寝転がると、私の眼前で本を開きこれで良いかと尋ねて来る。
肩と肩は密着し、本を私の前へ広げる為に少し覆いかぶさるような体制になっていた。体が動けばこのまま唇を合わせる事も叶っただろう。これで良いよと言うと、彼は私の目線に合わせ文字を追う。ページを捲る為に、いちいち言葉に出すのも億劫だなと言った彼は、目配せでよろしくと私に提案してきた。
別に億劫でも無いのだが、彼は私がページを読み終わり、瞳を閉じて合図する事を確認する為に私を見てくれる回数が増えたので良いとしよう。
面白かった、やっぱり恋愛は王道な純愛に限る。事故でもう体が動かないと言われていたヒロインは、作家を目指す主人公の夢を邪魔したくないとお見舞いや世話を拒否していた。しかし、主人公はどんなに拒まれ続けようと毎日ヒロインの元へ通い続け、やがて奇跡が起きる。ヒロインの体が治るかもしれない手術が見つかり、そして成功。最後は結ばれハッピーエンド。
まあ、捻りがある訳では無いが、一少女である自分はこう言う恋愛に憧れるものだ。それにこのヒロインとの境遇が余りに似すぎている。彼の事は絶対に拒否しないが。
一緒に文字を追っていた彼は、そんな話の内容に少し気を遣ったのか感想を言わず本と閉じると共に枕へ頭を預け、天井を見上げる。
これが、園子の世界か。そう呟いた彼の言葉の意味を、私は直ぐ理解した。その通りだ、自分の見える世界は、この天井だけ。他には何も無かった。しかし、彼が来てくれてそれは一変した。天井だけの世界に人が加わった。モノ言わぬ天井と違い、確かな温もりを持った、人が。
十月十三日。
私の誕生日は八月三十日。その日は特別な事も無く、何時も通りに私の元へやってきた彼は、何時も通り帰っていった。その当時は気を遣わせるのが嫌で誕生日の事は伏せていたが、話の流れを断たないように誘導しつつ、その事を伝える。嫌な女だと思われたかもしれない、が、どんな形であれ彼に想って貰えるならそれで良い。
この頃、わっしーとミノさんとの想い出が、底の抜けた桶から流れ落ちる水のように抜けていくのを実感していた。人は小学中学高校大学と、様々な出会いや別れを繰り返しながら成長していく。まだわっしーとミノさんとしか深い繋がりが無い私だったが、此処で一日を過ごす度にその想い出が上塗りされていくのを感じた。
もし、今目の前にわっしーやミノさんが現れたなら、桶の底には板が敷かれ、水が注がれ始めるだろう。だけど叶わない、だから私は自分が自分で無くなっていっている事に恐怖を覚え始めていた。
十月十四日。
その日の彼は、私の前にプレゼント箱を差し出してくれた。手から少しはみ出す長方形の箱にはデフォルメされた猫の絵があしらわれており、水色の包装紙が猫の可愛さを引き立てていた。赤いリボンで結ばれたそれを誕生日プレゼントだとくれたその日から、私の心は完全に彼の事を掴んで離さなくなっていた。
紫色で着色されたバラの形のペンダントを、何時でも見れるようにとネックレス状にして貰ったと言う。首から垂れ下げられたそれを見つめた私はどんな表情を浮かべていたのだろうか。
十一月十五日。
私がこうしている間にも、彼は夏凜ちゃんや勇者部との親交を深めているらしい。夏凜ちゃんの家へ遊びに行って来たと言う彼に、やるね~と返事をしつつ、私が彼と夏凜ちゃんの間柄を茶化さなくなったのは何時からだろうかと考えていた。勇者部とも随分仲が良くなったと話を聞く。日中帯は私と一緒に居る為、休日に勇者部が行っている幼稚園での演劇や人形劇などには参加していないが、小物作りのお手伝いや動物の里親探しなんかは協力しているらしい。
それでも彼はしっかり私との時間を取ってくれる。初めて出会った日から、来ない日は一度も無い。ふと思った、もし彼が来なくなったら私はどうなるのだろう。あれ程釘を刺している大赦が何かするとは思えないが、事故や病気などは現実的に考えられる要因だ。
あ、でも。もし事故や病気で彼が寝たきりになれば、此処の部屋に入れて貰おう。
それならずっと、一緒に居られるから。
十二月三日。
彼に依存している事など最初から分かっている。だけど、それはいけない事なのか。私だってただの十三歳の女の子だ、誰かに甘えたいし構って欲しい。ちょっとばかりそれを表に出さないだけで、その辺の中学一年生と本質は何も変わらない。ストックホルム症候群、いや大分違う。吊り橋効果、これだろうか。
まあ、何でもいい。彼が居さえすれば、もうどうでもいい。
どうでも、どうでも――。
「どうでも……良い?」
どうでも良い筈なんて、無いのに。諦めきれない、やりきれない、押し潰されそうになる。未練と無念さが私の負の感情をなぞっていく。
会いたいよ、早く会ってお話したいよわっしー。けどわっしーは私の事を忘れてる。
なんで、誰が、でも。
茹だる様な夏が過ぎ、秋になってもまだ暑いと思っていたのだが、気付けば秋を通り越して冬が到来していた。冬だろうが夏だろうが園子の部屋は快適な温度で保たれている為、余り季節の変化を感じられない。園子自身にも変化は感じられないと思っていたのだが、少しだけ園子の反応に違和感を覚え始めていた。
俺が夏凜や勇者部の話をする時、決まって園子のリアクションが薄れる。無論園子は今までとほぼ同じ言葉を選んでいる為、言葉での変化は無いのだが、雰囲気というか何処か寂しげな表情を浮かべる様になった。
スマートフォンのディスプレイに目を落とすと、十二月三日の午後二時を表している。期末テストの対策で最近は勇者部の活動がお休みらしく、仲良く勉強会を行っているようだ。世界を救う勇者が赤点を取って補習などしていては目も当てられないからな。
その時、何かを園子が呟いていた気がした。聞き間違えかと思う程小さな声であった為、気のせいかと片付けようとしたがどうにも園子の様子がおかしい。思い詰めている、というより呆然としているといった感じだろうか。やがて誕生日プレゼントとして渡していたネックレスに視線を落とすと、満足げに微笑む。
かと思うとその表情には陰りが差し、今日の園子は随分喜怒哀楽が激しいなと思いその顔を眺めていると。
「わっしーと、会いたいな」
今度は確かに聞こえた。その発言自体に驚くところは無かったが、何時もの園子では無い。今まで何かあればはっきり口に出し、意志を伝えて来た園子には珍しい反応である。
「……園子」
「…………はっ、ごめんね~。またぼーっとしちゃってたみたい――」
「東郷に会いたいのか」
「ごめんね、聞こえちゃってたかな~」
「あー……俺に協力出来る事があったら言ってくれよ。力になるからさ」
「うん……ありがとう~。ごーさん」
耐えられる、まだ耐えられる。彼と話している時間はまだ乃木園子で居られる。わっしーとミノさんは大切な親友だし、かけがえのない仲間だ。そしてごーさんと仲の良い夏凜ちゃんや勇者部とも仲良くなりたいし、遊んでみたい。
まるで自分に言い聞かせるように再認識していく。
あれ?でも何で言い聞かせる必要があるんだろ、そんなの当然な事なのに。
あれ?なんでだろ~。