自分の名前が分からない
冗談だと言って否定して欲しかった
しかし、息子は今にも泣きそうな顔をしていた
目覚めた高町真の言葉に衝撃を受けた高町桃子。
震える手でナースコールを押して、医師を呼んでもらい異常を伝えた。
直ぐに彼の診察を行った後、彼女と一緒に診察室に向かい、神妙な面持ちで結果を伝える。
「熱中症の影響で、記憶が混乱しているのかも知れません」
「混乱…ですか?」
「断定は出来ませんが…」
「そんな…」
「とりあえず様子を見て、後日また病院に来て下さい」
「分かり…ました」
彼の弱気な物言いに桃子の不安は益々大きくなる。
特に気にするほどでも無いのなら、こんな複雑な表情で話はしない。
失意のまま診察室を出て、息子が待っている病室に戻った。
「あ…あの…ごめんなさい」
「謝らなくていいのよ。怖かったでしょう?」
「…」
「辛いなら泣いていいから。我慢しないで…真」
ベッドに腰掛けていた真が、申し訳無さそうに頭を下げた。
そんな少年の体を優しく抱き締めて言い聞かせる桃子。
自分が何者かさえ分からなくなった苦しみは計り知れない。
だからこそ、母親として息子に対して出来る事をする。
背中を擦られていた少年は、その言葉を聞いて声を押し殺して泣いた。
入院の必要は無い為、病院を後にして、自宅に向かっていた2人。
記憶を失っている少年は、家の場所も家族の顔も名前も分からない。
せめて母親から離れないように繋いだ手を握り締めるのだった。
「おにいちゃんとおかあさん!おかえりなさい!」
「ただいまなのは」
「た…ただいま」
自宅に到着した真と桃子を出迎えたのは、栗色の髪にツインテールが特徴的な少女。
頭を撫でながら笑顔で返した母親と、辿々しい言葉遣いで応えた息子。
「おかえり。母さんから熱中症って聞いてたが大丈夫か?」
「暑いんだから気を付けないと」
3人の会話が聞こえて、リビングから黒髪の少年と少女が出て来た。
弟が熱中症で倒れたと母から連絡を受けていた恭也と美由紀。
「だ、だいじょうぶです」
「…どうしたんだ?」
「事情は後で話すから。今は真を休ませてあげて」
「?分かったよ」
家族に敬語を使う少年を見て只事ではないと判断する。
何かが起きたのかと心配して真に尋ねていた恭也。
言葉に詰まっていた息子の代わりに会話に割り込む桃子。
母親の様子を見た2人は、疑問を感じながらも問い詰めたりはしなかった。
「恭也と美由紀はリビングで待ってて」
「おかあさん。わたしは?」
「悪いけど、お部屋で良い子にしててね?」
「うん。わかった」
恭也と美由紀をリビングに向かわせて、なのはの頭を撫でて自室に戻らせる。
桃子に連れられて廊下を歩いて、部屋の前のドアノブを捻って扉を開けた真。
中央には畳が設置してあり、その上に布団が敷いてあった。
息子に部屋で休んでおくように告げてリビングに向かった彼女。
普段から使っている場所だが、記憶の無い彼にとっては初めて訪れる場所と同じだった。
誰もいない事を実感して、部屋の隅に設置してある机の椅子に座り物思いに耽る。
高町桃子のお陰である程度は落ち着いたが、混乱していないといえば嘘になる。
記憶を無くしている事を知っているのは母親だけ。
他の家族に正直に話せば良いのかさえも分からない。
今の自分に不安を解消させる方法は無い。
彼女の言葉に従って、一旦眠り頭をスッキリさせる方が良い。
そう結論を出した真は、座っていた椅子から離れて、畳の上に敷いてある布団に入ろうとした矢先、誰かが部屋の扉をノックしている事に気付く。
「ど、どうぞ」
「はいるね」
「えっと…その…」
突然の来客に動揺しつつも、中に入る事を促した少年。
部屋の主の了承を得た高町なのはがドアノブを捻り部屋に入る。
こんな時、普段の自分はどんな言葉を掛けるのか知らない。
言葉に詰まって、情けなさ三割増しの兄を見た妹は笑ってポケットに手を入れた。
「おにいちゃん。てをだして」
「…うん」
何が起きるのか分からないが、なのはに従い手を差し出した真。
「はいどうぞ」
「?」
そして、少女は少年の手の平にポケットから取り出した飴玉を乗せた。
彼女の行動が理解出来ずに素っ頓狂な面持ちで首を傾げる。
「これあげるからげんきだしてね」
「あ、ありがとう」
妹が飴玉をプレゼントしてくれた事に気付いて慌てて感謝する。
「にゃはは。いつものおにいちゃんでよかった」
(あれ?どうしてこんなことをしてるんだろう?)
お礼の言葉を述べると同時に、自分でも意識しない内に妹の頭を撫でていた。
この行動は日々の習慣だったのか今の彼には知る由もない。
普段通りの兄の仕草に、心の底から安堵していた妹。
2人が帰宅して出迎えた時、言い様の無い不安を感じていた。
家族の中でも特に仲が良かった為、誰よりもその変化に敏感だった。
勿論、記憶を失って間もない彼に、少女の胸中を察せる道理は無い。
一方、高町家が所有する道場に訪れていた高町恭也と高町美由紀。
静まり返った空間で、先程から黙々と素振りを続けていた少年。
そんな彼とは異なり、窓に腰掛けて月を眺めていた少女。
高町桃子から聞いた話の内容は、彼等の想像を超えており、あまりにも重く苦しかった。
「恭ちゃん…真は大丈夫なの?」
「分からない」
空を仰いでいた彼女の言葉に対し、木刀を振る手を止めて応える。
弟の記憶喪失は深刻な問題であり、楽観視など出来る状況ではない。
苦しそうに話す母の姿を思い出して、木刀を握る手に力が入る。
「あんまりだよね。久しぶりに友達と一緒に遊んだら記憶喪失って…」
朝に見た弟の笑顔が鮮明に残っている。
月を眺めていた美由紀は俯いた状態で話し掛けていた。
その声が微かに震えている事に気付いて沈痛な面持ちを浮かべる恭也。
「恭ちゃんはさ…真に友達が殆どいないって知ってるでしょ?」
「ああ」
「司君と佐久夜ちゃんだけだよ。昔から友達でいてくれたのは」
高町士郎の不在の影響で、常に家事を一手に担っていた高町桃子。
恭也と美由紀は彼女の手伝いをしており、忙しい生活を送っている。
母親の負担を増やしたくない高町真は、我儘一つ言ったこともない。
妹の面倒を普段から見続けてた彼は、同じ組の人間と遊ぶ機会に恵まれていない。
唯一、司・エメリッヒと紅神佐久夜だけは、真の友達で在り続けてくれた。
「どうしたらいいの?」
美由紀の瞳から零れた涙が頬を伝って床に落ちる。
今後を想像するだけで怖くて堪らない。
「…その為の家族だろ」
「恭…ちゃん」
「俺だって怖いさ。だけど、真はもっと怖いに決まってる」
「うん…そうだね。そうだったね。ごめんね恭ちゃん」
泣いていた彼女に真剣な顔付きの恭也が応えた。
考えだしたらキリが無いほどに問題が多すぎる。
しかし、記憶を失った当の本人である真はもっと怖いはずだ。
その事を再認識して、涙を拭い彼に謝った美由紀。
せめて今は家族として弟を支えると決意した2人だった。