「知らない天井だ」
それは、アレンが覚醒してから初めて口に出した言葉だった。
全身が軋むように痛い。
身体を起こそうとしても、力が入らない。
動くのは精々、指先が曲げるのが精一杯。
ここは何処なのか。
まず誰がここまで運んだのか。
疑問は尽きぬ一方だった。
しかし、またもや意識が混濁しはじめ、睡魔が襲ってきたが、突然開かれたドアの音が、睡魔を引き剥がした。
「ああ、起きたのかい。いつ目覚めるか心配だったんだ」
部屋に入ってきた人物は、いかにも「英国紳士」を体現したような人であった。
「あの…俺は…」
「おっと、済まない。自己紹介が遅れたね。私はワトソン…ジョン・ワトソンというものだ。こう見えて元軍医でね、医学に対しては多少だが心得がある」
元軍医のワトソン。
どこかで聞いたことがありそうで、無い…はず。
「すいません、ここは…何処ですか?」
「ここはベーカー街さ」
ワトソンは紅茶を飲みながら、近くの椅子に腰掛けた。
「まさか本当にこの日が来るとはなぁ…」
と悲嘆そうな声で呟いた。
ワトソンは今、この日と言った。
反応こそ示さなかったものの、つまり、この事象は予言されていたということだ。
父が死に、ヴィル厶家が終わるこの日は全て何者かによって予測され、アレンはここにいた。
ふざけんな。
今すぐにでもここを飛び出し、とにかく遠いところ、誰にも干渉されない場所に行きたかった。
しかし、アレンの身体は思考とは裏腹に、全く動こうとはしなかった。
「くっ…」
「今は大人しくしておいた方がいい。元軍医の僕が保証する。無理にでも動けば、君は死ぬ。むしろなんであんなにボロボロで生きていられたのか、教えて欲しいくらいだよ」
「俺の怪我は、どれくらい酷かったんですか?」
「腹部貫通5箇所、肋骨4本骨折、右腕複雑骨折、左足捻挫、全身打撲、裂傷、擦過傷多数…ここまで傷付く方がすごいね」
ぶっちゃけるとそこまで怪我をした覚えがない。
しかし、アレンはただ燃え盛る自宅から逃げたところから記憶が無い。
逃げた後、ここに来るまでに何かしらあった。
ーーダメだ…何も思い出せない。
だが、そこに横槍が入ってしまった。
コンコンと部屋のドアをノックして新しい人物が現れた。
紳士のようであるが、妙に胡散臭い。
口にはパイプを咥えられている。
「まさか、またコカインを注射していたのか?何度もやめろと言っただろう」
「ほんの暇つぶしさ、ワトソン。事件がないとどうも落ち着かない…だが、久しぶりに厄介事が来たね」
声の主は明らかにアレンを厄介事と称していた。
いきなり厄介事扱いされるのは腹立たしかったが、事実なので否定できない。
というかそもそも顔すら見えない。
顔を知らない相手に小馬鹿にされるのは筆舌に尽くし難い程、怒りを覚えるものであり、アレンは顔を顰めた。
すると、声の主はワトソンから離れ、アレンの横たわっているベッドに近づいてきた。
その人物は横たわるアレンの顔を覗き込みながらこう告げた。
「はじめまして、アレン。私はシャーロック・ホームズというものだ」
「……は?」
あまりの衝撃に気の抜けた声が出た。
彼の者の名はシャーロック・ホームズ。
イギリス最高峰の名探偵。
何故そんな人物が今、自分の目の前にいるのか…全く見当がつかない。
「ホームズ?…なんで、え?」
「どうやら驚いているようだね」
ホームズはパイプの煙を吐き、なんでもなさそうな顔で突っ立っている。
しかし、アレンの反応は当然のことだ。
「君は知らなかったろうが、私たちと君のお父上は友人…とまではいかないが、まぁ、知り合いではあってね。『自分の身に何かあったら、倅を頼む』とスカーから依頼されていたんだ。私も彼には恩がある…それ我が国の王族、貴族様を裏切る訳にはいかないだろう」
なんとも胡散臭そうな口実だが、嘘をついている様子はない。
とりあえず怪我を治療してもらった上、保護してもらっている恩もある。
まずアレンがすべきこと、それは。
「その…助けてくださり、ありがとうございます」
その言葉を聞き、ホームズとワトソンは互いに目を合わせた後、大笑いした。
「なっなんで笑うんだよ!助けてもらって感謝するのは当たり前だろ!」
「くっ…はははは!いやいや、その言葉を彼の息子の口から聞くとは思わなかったよ!」
ホームズはまだ愉快そうにクスクスと笑っていた。
あの胡散臭い顔が自分を嘲笑っていると思うと、無性に腹が立った。
しかし、2人と話したおかげだろうか。
さっきまでの緊張感は霧散していて、力を入れることさえできなかった身体は、いつの間にか動くようになっていた。
ゆっくりとだが、ベットから這い出た。
「~~っ!!」
腹に空いた穴のあまりの痛みで声すら出そうになかった。
「あぁ!まだ動いてはいけない!…傷口が開けば、治りは悪くなる。無理をすれば悪化の1歩を辿ることになるよ」
駆け寄ってくるワトソンの肩を借りて、何とか立ち上がったが、腹部の包帯には血が滲んでいる。
「すいません…俺には、帰らなければならない、理由があるんです」
ヨロヨロと歩き、ドアのぶに手をかけたアレンにホームズは声をかけた。
「そんなボロボロな状態で何が出来るんだ?」
「それでも!」
と言いかけた瞬間、ホームズは高速でアレンを足払いした。
アレンは急な攻撃に対処できず、顔面から地面に倒れ込んだ。
「なっ何をしているんだ、ホームズ!相手は怪我人だぞ!」
「彼には死んでもらっては困る…まだ、スカーからの恩を返せていない。だから彼を止めた。それだけさ」
それに、と一言はさんだ後、
「父からのプレゼントを忘れているようでもあるし…ね」
ホームズはポケットから、淡黄色の液体が入ったフラスコを取り出した。
「っ!!血清!」
倒れ込んだ状態から顔だけ上げていたアレン。
「君の怪我の状況から、かなり激しい戦闘であったことがよく分かるが、運良く割れていなかったようであったので、こちらで確保しておいた。寝ている間にうっかり踏みつけて割ってしまっては元も子もないからね」
「返せ!」
グッと力を込め、一気に距離を縮めて、ホームズから血清を掠め取る。
だが、掠め取ったはずの血清は手にないどころか、全身に高速の打撃が叩き込まれた。
「っ!!ホームズ!」
強烈な激痛で受け身すら取れないまま床に叩きつけられそうになったアレンを、すんでのところで、ワトソンがその身体を受け止める。
「先に手を出してきたのは、彼だ。私はただ自己防衛しただけにすぎないのだがね」
「相手は怪我人だと何度も言っているだろう!」
その場で2人は口論になってしまったが、怒涛の勢いで迫る眠気に勝てず、アレンはそのまま夢の世界まで落ちていった。
このSSではシャーロック・ホームズ等の人物は実在した人として登場させています。コナン・ドイル氏はシャーロック・ホームズシリーズを書くことが、本当は嫌だったのではないかと、噂を耳にしたこともありますが、シャーロック・ホームズは面白い小説(個人的主観です)だと思っています。19世紀末のイギリスといったら、やはり出て来て欲しい人物だとも考えています。彼の小説はホームズ以外にも多数あります。『失われた世界』という本も有名なので、読んでみて下さい。