馬車に乗るのは初めてだ。
少年は御者が馬を操るのを眺めてそう思った。
ゆっくりと過ぎ去るのどかな風景は、少年にとってあまり馴染みのあるものではない。
小鳥が囀り、蝶が舞う。燦々と輝く太陽。
吹く風ですらどこか新鮮に感じる。
広い馬車に、少年の他に客はいない。
それもそのはず。この馬車は少年のためだけに用意された物だった。
広い馬車は後3人は優に座れるだろう。
貸し切りだ。
最初こそ、この待遇にテンションが上がったものだったが、いくら進んでも変わらない平和な風景に退屈している。
今となっては、誰か話しでも出来る人が欲しかったなあと欠伸をこぼしながら思った。
トリステインに入って早二日。
聞いた話では目的地には三日あれば着くということだ。
あと一日。やることがないというのがこれほど苦痛だとは知らなかった。
うーんっと大きく身体を伸ばす。
小石を踏むたびにガタガタ揺れる馬車。
尻の痛みは昨日一日で限界を突破した。
「あー」
その場に寝てみる。
揺れは全身を苛んできた。
苛烈だ。
もうだめだ。死んでしまいそう。
少年がそう思った時、不意に馬車が止まった。
慣性で少年は座席から落ちる。
うつ伏せに落ちた少年。
いってえ、と鼻を擦っていると、御者の声が聞こえてきた。
「ダメだ」
「近くの町まででいいんです。お金なら払います」
「無理だ。他を当たってくれ」
誰かと話しているようだった。
こんなところで誰と。
そっと窓から覗いてみる。
同じ年ぐらいの黒髪の女の子がいた。
どうやら乗せてくれと言っているらしい。
金なら払うから乗せてくれないかと。
どうして御者が無下にしているのか分からない。
席なら空いてるし、乗せてやればいいじゃないかと。
しばらく覗いていると、ついに少女は諦めたらしく暗い表情できびすを返した。
少年はその顔を見て居ても立っても居られなくなって馬車を飛び出した。
「おいおっちゃん!」
その声にぎょっとした顔の御者。
少し離れた所で少女が振り向いた。
「乗せてやればいいじゃねえかよ。なんでそんな意地悪するんだ」
「い、いや、意地悪してるってわけじゃ……」
「なんか乗せられない理由でもあんのか?」
「は、いや理由と言いますか……その……」
曖昧な言葉に、少年の憤りは膨れ上がった。
「じゃあ乗せてやってもいいじゃねえか」
「……いいんですか?」
恐る恐る、御者は聞いてくる。
その態度の意味が分からないまま、少年は断言した。
「別にいいだろ」
「……それじゃあ」
離れた場所で少年たちを伺っていた少女を呼んだ。
「乗ってもいいってよ」
「いいんですか?」
「ああ、ただし代金はきっちり貰うよ」
少女は御者に代金を払い、馬車に乗り込む。
一足先に乗っていた少年の向かいに座った。
「よいしょ」と重そうな荷物を隣の席に下ろす。
そうして、花開くような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いや、そんな」
女慣れしていない少年。
こんな笑顔を向けられただけで、鼻の下を伸ばしてデレッデレだ。
「俺も退屈してたからさ。話し相手が出来て嬉しいよ」
よく見ればとても可愛い女の子だった。
別に女の子だから助けたわけではないのだが、しかしなんだろう。
得した気分だ。
「私で良ければ喜んでお相手します」
それから思い出したように、
「私シエスタって言います。……あなたのお名前は?」
その言葉で我に返った少年はシエスタの胸に向けていた視線を戻した。
「ああ」
と慌てながら一つ咳払い。
誤魔化せただろうか。シエスタの表情を見る限り気づかれてはいなさそうだ。
「おれ、平賀才人。こっちだとサイト・ヒラガになるのかな」
よろしくと人懐っこい笑みを浮かべるサイト。
シエスタは驚きのまま、数度瞬きをした。
「いや、貴族じゃないよおれ」
その言葉に、シエスタはほっと息を吐いた。
もしサイトが貴族だとしたら、馬車を止め、どころか乗り込んできたシエスタは首を刎ねられていてもおかしくはなかった。
「こっちだと名字があるのは珍しいんだってな」
カラカラと笑うサイト。
「こっち?」とシエスタは疑問に思ったが、その前にサイトが尋ねてきた。
「それよりも、シエスタはどうしてあんなところにいたんだ? そんな重そうな荷物までもって」
「ああ、いえ。何と言いますか……」
言いにくそうに、シエスタは口ごもる。
「馬車には乗ってたんです。ただ、一緒に乗ってた人に……その、触られそうになって……。我慢できずに飛び出しちゃいました」
お金片道分無駄になっちゃいましたとシエスタは茶化すように笑った。
サイトは相乗りしていた何某に怒りを覚え、シエスタのたゆんたゆんに揺れる胸を見て無理もないなあと共感し、はっと我に返って怒りに燃えた。
そこには自分への怒りも多分に含まれていた。
腕を組み「けしからんけしからん」と繰り返すサイト。
もちろん、シエスタはサイトの視線には気づいている。
「それで、この馬車はどちらまで行かれるんでしょうか。途中、町があるならそこで降りようと思うんですけど」
「えっと……。どこって言ったかなあ」
うーんと真剣に悩みだしたサイトに、シエスタは若干の危機感を覚えた。
まさかどこに行くかも分からない馬車に乗っていたのか。変人じゃないか。
しかしそれはすぐに雲散する。
「トリ……とりすた……トリステイン!」
「えっ」
「トリステイン魔法学院! ……って名前だったはず」
言う口は自身なさげで、語尾に至るまでに声音は小さくなった。
しかしシエスタは聞き逃すことはなかった。
トリステイン魔法学院。
くしくも、シエスタの目的地であり勤務場所でもある学院だった。
「学院に何か用事でも? どなたかに言伝とか」
「いや、とくにそう言うものはないけど」
「じゃあどうして?」
「行けって言われたから」
誰に?
シエスタはこれ以上踏み込むべきか迷った。
あそこはトリステイン王国の貴族が通う魔法学院だ。
自称平民のサイトが行っても門前払いになる可能性が強い。
それどころか捕まって投獄されるなんてこともありうる。
うーんとシエスタは悩んだ。
その間、サイトは澄んだ瞳でシエスタを見ていた。
まっすぐにシエスタを貫いた。純粋無垢な瞳がそこにあった。
ああ、ダメだ。
曲がりなりにも恩があるこの人を見捨てることはできない。
「奇遇ですねっ、私じつは魔法学院で働いているんです」
「え、そうなの?」
「はい。メイドとして、ですけど」
へーと感嘆詞。
感嘆の理由は奇妙な偶然が4に、メイドと言う単語に6だ。
メイド、秋葉原、メイド喫茶……。くぅ~っ!
対して、そんなことは知る由のないシエスタは営業スマイルを深めた。
「ところでサイトさんは魔法学院がどういう場所かご存知ですか?」
「いや、ぜんぜんしらない」
でしょうねと本音は隠す。
「学院には貴族様のご子息、ご息女様が通われています。なので入れてくれと言って入れてくれる場所ではないです。サイトさんは何かそういう身分を証明できるものはお持ちですか?」
貴族であれば何の問題もないのだ。
見るところサイトは変わった格好をしているが、貴族の好む金色の貴金属とか、綺麗な宝石は身に着けていない。
精々左手の高そうな手袋ぐらいだ。
しばし、うーんと悩んだサイトは、ピンッ! と思い至ってポケットをまさぐった。
「これはどうかな」
それは一通の手紙だった。
きちんと蝋で封がしてある。
その蝋にどこかの家の紋が押してあったが、シエスタにそれがどこの家の紋なのかは分からなかった。
「これはどうしたんですか?」
「出る時に渡された。これ見せれば大丈夫だって」
今度はシエスタがうーんと唸る。
高価な紙。蝋で封がしてあり、そこには家紋がある。
サイトに学院に向かうよう言ったのはまず間違いなくどこかの貴族だろうが、それにしてはサイトは何も知らされていない。
心配になるぐらい何も知らない。これはもう絶対にわざとだ。
平民を使って、用件を何も知らさず、貴族が裏に居る。
想像力逞しく、嫌な想像がいくつもいくつも浮かんでは消えていった。
「……なんか顔青いけど?」
「いえ、なんでもないです」
「大丈夫か?」
大丈夫、大丈夫です。
本心は全然大丈夫じゃないです。
やばいです。これやばいです。絶対やばいやつです。
思えば御者の態度からして普通じゃなかった。
貴族だからと思えばそうじゃない。でも裏には貴族がいる。
特別な任務を任されてるんだ。しかも密命。
本人も知らされてないぐらいの凄いやつ。
とんでもないことしてしまったかもしれない。
密命の途中に割り込んできた異分子。
始末される……!?
「あの、用事を思い出したので、途中の町で降ろしてもらえますか」
「え、もう町よらないけど」
「は……」
まっすぐ一直線に魔法学院まで。
いくつか町はあるのに、全部すっ飛ばして。
御者も眠らずに一晩馬を繰る。
こ、これはダメだ……!!
トカゲのしっぽにされる。
余計なことに関わってしまったがために、私もろとも。
あああああああああああああああぁぁぁぁ!!!!!!!!!
頭を抱えるシエスタを、サイトは不思議そうに見ていた。