シエスタに顔を洗いましょうと言って連れてこられたのは、冷え込みの厳しい外だった。
太陽の顔を出さないこの時間。
吹く風は極寒の冷気を持ってサイトの身を凍えさせる。
「ひーっ!!」と身体を抱きしめて情けない声で鳴いた。
そんなもの一切構わず、シエスタはぐいぐいと背中を押してくる。
見るに、彼女は丈の長いメイド服だが、寒くはないのだろうか。
「さ、着きましたよサイトさん」
着いたのは竜の口から水の出る、いわば噴水のような水汲み場だった。
ジョロロと流れる水は逐次その下の受け皿に溜まっていく。
サイトは数秒それを見つめて、鼻をすすってからシエスタを見た。
見られたシエスタは首を傾げた。
見つめて見られて、僅かな沈黙。
その間にまた鼻が垂れていた。
「あ!」
突然シエスタが何かに気づいて声を上げる。
そして水汲み場の横に置いてあったバケツを拾ってきた。
「はい」
手渡されたそれをサイトは受け取る。
なるほど。これで汲めと。
幸い、水に氷は張っていない。
なら死なないだろう。
サイトは気合を入れてバケツで水を汲み取りにかかった。
拷問のような洗顔を終えて、サイトは部屋に戻ってきた。
そこで渡されたのは燕尾服である。
早く早くとドアの向こうから急かされながら、サイトは着て見る。
不格好でぶかぶかだ。
サイズが合っていない。
燕の尾のような裾がふくらはぎぐらいまである。
これはさぞ格好悪いだろう。
確かめたいが、サイトの部屋に鏡は置いていなかった。
「シエスタ―」
呼ぶ声でドアはすぐに開いた。
シエスタは笑顔のままサイトを見て、直後硬直した。
「どうよこれ?」
スケートのようにくるっと回る。
シングルアクセル。
それから、特にこれを見ろと主張して尻を振ってみた。
びらんびらんと裾が揺れる。
「…………」
言葉にならない声を漏らすシエスタは、ぎこちない笑顔のまま口をパクパクと開閉する。
満を持して発した声は凄く元気だった。
「お似合いですわ、サイトさん!」
満面の笑み。無駄に大きい声。どことなく胡散臭い。
「本当?」
尋ねてみれば「もちろんです!」と変わらない調子だった。
「さ、急ぎませんと本当に遅刻してしまいます!」
またぐいぐいと背中を押される。
本当にこれでいいのか?
その疑問は誰がどう見ても至極真っ当なもので、それに応えるべきシエスタはサイトの背中で肩を震わせていた。
ひっきりなしに人は動き、あちこちから湯気が立っている。
食器の触れ合う音や野菜を切る音。
時に怒声が聞こえる中でシエスタは声を張って呼びかけた。
「マルトーさーん」
厨房の真ん中で怒声交じりに指示を飛ばしていた中年がシエスタを振り返った。
「おお! シエスタ。そんでそっちが……」
マルト―の視線を受けてサイトは軽く会釈する。
吟味するようにマルトーはサイトを見た。
「悪いが自己紹介は後だ。シエスタ、教えてやんな」
「はい」
サイトさん、こっちです。
豪華な長テーブルの鎮座する広間は食堂らしい。
食器から燭台から何が何まで豪華絢爛。
貴族の暮らすこの学院で、貴族が一堂に会して食事をする場所だ。
当然のごとく意匠に凝っており、作られる料理も高価な食材をふんだんに作った一流のものだ。
漂ってくるシチューの匂いを嗅いだだけで、サイトは自分の腹の虫が鳴くのを聞いた。
……そういえば、朝飯食ってねえなあ。
意識すれば余計に腹は減ってくる。
しかしつまみ食いする暇すらない。
シエスタに教えられるままテーブルクロスの敷き方だとか、食器の並べ方だとかを教え込まれる。
とは言っても、まだ初日だから実際にサイトに与えられた仕事は食事を運ぶだけだ。
食事をが出来上がるまでの間、見て覚えろとひたすらに仕事を叩きこまれる。
シエスタの鮮やかな手さばきに感激してる間に、時間は随分経っていたらしい。
食堂から次々とパンやらシチューやらが運び込まれてきた。
「新入り!」
呼んだのはマルトーだ。
「お前も手伝え」
言われてシチューを二皿渡された。
出来立てアツアツのそれに、「アッチー!!」と悲鳴を上げて、辛うじて溢すことはしなかった。
大急ぎで手近な席に運んでいく。
その調子で無理やり渡されるシチューを運んでいたら、あっという間に全て運び終えてしまった。
その早さにはシエスタすら感心していた。早さの犠牲にサイトの手は真っ赤っかになった。
「ふーっ! ふーっ!」
赤くなった掌に息を吹きかけてを冷ましていると、急ぎやってきたシエスタが裾を掴んだ。
「サイトさん、こっちへ」
連れていかれたのは厨房である。
中は湯気とか人の熱気でムンムンだったが、同じように良い匂いも充満していた。
これでもかと腹の虫を刺激してくる。
ぐーっと鳴った虫にシエスタは微笑んで
「賄いですけど」
とスープとパンを持ってきてくれた。
そのやさしさにサイトは泣きそうになった。
決して美味くはないが、しかしその黒パンとスープが今のサイトには何よりも暖かかった。
大喜びでそれを食している内にシエスタは食堂に戻った。
いつの間にか厨房の外は話し声で賑やかになっている。
学院に通う貴族の子らが集まり始めたのだ。
ドアの隙間からチラッと伺うと、小生意気そうな集団がいた。
どいつこいつもテレビで見た成金みたいな雰囲気だ。
なんていうんだろう。何か見下されているように思える。
俺はお前なんかと違うんだという自負が身体の節々に現れているようだった。
大体が被害妄想である。
貧乏人のひがみと言うやつだ。
なんだかムカムカしてきたサイトは席に戻って食事を平らげた。
食欲が満たされたおかげで直前の被害妄想はどこかへいってしまった。
単純な男である。
サイトが食事を終え食休みしている席にずしずしと足音を響かせてマルトーがやってきた。
マルトーはぶすっとした顔でサイトの対面に座った。
腕を組んでサイトを睨むその顔は何やら思う所があるようだった。
「……えっと」
「…………」
何も言わないマルトーに、サイトは何を言えばいいのか思案する。
こんな時どうすればいいか。
生憎と、サイトはアルバイトの経験がなかった。
平均的高校生であるサイトに、こういう時どうすればいいのか経験則はない。
だからサイトは自分の思う所を恐れずに言ってみた。
「サイト・ヒラガです。よろしくお願いします」
わずかに、マルトーの険が和らいだ。
でも何も言わない。
サイトは少し焦った。
「その……俺、常識のないところがあって……迷惑かけてばかりだと思うけど……」
「…………」
「いろいろ教えてくれたら嬉しいです」
「…………」
やっぱりマルトーは何も言わない。
ダメかなこれ。
嫌われてるのかな。嫌われることなにかしたっけ?
あんまりに辛い沈黙にサイトが自分の至らないところを探し始めた時、重苦しくマルトーが口を開いた。
「一つ聞きたいんだが」
「なんでしょう」
「あんた貴族か?」
「違います」
「魔法は使えないのか」
「これっぽっちも使えません」
「生まれは何処だ」
「遠いところです」
「親御さんは元気か」
「元気だと思います」
「帰りたいとは思わないのか」
「帰りたくても帰れません」
「なんでお前さんここに来たんだ」
「ここに行けって言われたんです」
「貴族にか?」
「はい」
それっきり、マルトーは黙りこくった。
何を思っているのか、その眼は依然険しくサイトを見ている。
しかしなぜだろう。そこにはさっきまでと違う感情が渦巻いてる気がした。
これは……そう。
例えるなら捨てられた子犬を見ているような、そんな瞳だ。
そう思っていると、突然マルトーは席を立った。
あまりに唐突でかつ荒々しかったので、サイトはびくっと身をすくませた。
しかし、予想外にマルトーに掛けられた言葉は熱く優しいものだった。
「わかった! よくわかった兄弟! 安心しろ、分からないところは俺がきっちり教えてやる!!」
目から涙を流しながらマルトーはしきりにサイトの肩を叩いた。
「俺はコック長のマルトーだ。サイト、今日からここはお前の家だ! 何かあったら言え。俺でもシエスタでも誰でも良い! 出来る限り助けてやる!」
手の甲で眦を拭いながら、マルトーは熱く熱くサイトを抱いた。
何か勘違いされている気がする。
しかしすっかりマルトーの勢いに押され切ったサイトはか細く「ありがとうございます」と言うので精一杯だった。
「大変だったな! 頑張ったんだな!」と続きマルトーの抱擁は留まるところを知らない。
「よくやった。もう無理しなくていい!」となり、最終的に「どれ、キスをしよう」となったところでようやくサイトは声を荒げた。
「やめろぉ!!」
「遠慮するな、お前に報いたいんだ!!」
「酔ってんのかおっさん!!」
しばし二人の取っ組み合いは続き、がったんがったんと机と椅子が揺れた。
ついに押し負けてマルトーの唇がサイトの頬に届こうかという時、これまた荒々しく厨房の扉が開いた。
「ひいいいいいいいいぃぃっ!!!!?????」
「うっさいわね! なんなのよ!!」
双方の動きが止まる。
サイトが見たのは、可愛い顔を怒りに染まらせたルイズ。
今にして気付いたことだが、その髪色はエリィのそれとまるっきり同じだった。
顔立ちももしかしたら似ているかもしれない。
場違いに思うサイト。迫りくるそれに対する現実逃避である。
翻って、ルイズが見たのは青白い壮絶な顔で中年に圧し掛かられているサイトと、サイトに迫るキス顔の中年である。
後悔した。
開けたことを後悔した。
汚いものを見てしまった。こんなものを見るためにここに来たんじゃない。
何しに来たんだ、わたし……。