プロローグ
冒険者ギルドの片隅にて、今日も今日とて騒動は起こっていた。
「あああ! あの、サトウカズマさん!? 違うんです、これはですね、ギルドの上の方からの命令でして…」
「あああ、私は依頼されただけですから! ああ、でもあの…カズマさんに憧れていたのは本当ですし、えーその…」 涙目になりながらぶるぶると全身を震わせて、顔を俯かせながらも何かに耐える一人の男。
「あ、あの、カズマさんってその…前から思っていたのですが、あの!」
新人の冒険者の女の子に煽てられ、ギルドの受付嬢に良い様に使われてクエストを受けさせられ、それでも見栄を張って先輩として格好をつけてみれば、待っていたのは新人と受付嬢のグルになっての騙し討ち。
二人の密会を偶然覗き見て発覚したその事実に、冒険者サトウカズマの怒りと悲しみは臨界点に差し迫る。
「「カズマさんって、そこはかとなくいい感じですよね!!」」
新人の女の子と受付嬢の保身からの中身のない称賛に、ついに怒りは臨界点を突破した。
両掌を差し向けてのスティールの連発。復讐の証を両手に握り締め、女二人に悲鳴を上げさせてから、職業的冒険者は滝の様に涙を流しつつ走り出す。もう一秒でもここに居たくはない。こんな裏切りの坩堝の様な場所に居るのはごめんなのだ。けっして、ギルドの職員にセクハラしてしまって、その報復が怖かったからではない。
途中、自分の仲間達とすれ違う。赤青黄色の三色揃った三人の女性達。冒険の時は頼もしく――は無いかもしれないが、辛い時はいつでも――何時でもその辛さを引き連れて来る疫病神達ではあるが、何度も死線を潜り抜けた果てに信頼関係ぐらいは構築できていると思っていた仲間達。多分、きっと、そこはかとなく、信頼しているはず。
その全員の目が笑っていた。嘲りの色を濃くした、見下す様な生暖かい視線である。信頼に罅が入る音が聞こえた。
確かに、ぽっと出の新人の女の子にかまけて最近放置気味だったかもしれない。煽てられて調子に乗って、面倒くさいクエストを押し付けられて来たかもしれない。自業自得だと言われても仕方ないし反省もしよう。
でも、騙されて傷つけられた時に、何も三人して爆笑しなくたって良いじゃないか。
「ちくしょーー! 女なんて、女なんて! 大っ嫌いだー!!」
「あっ、ちょっ! どこ行くんですかカズマ―!!」
仲間の一人、赤くてちっこい魔法使いの少女に呼び止められるが、それで止まる様な精神状態ではなかった。冒険者の男は涙を散らしながら、そのまま冒険者ギルドの扉を体当たりで開け放ち飛び出して行った。
残された女達は互いに顔を見合わせ、しょうがない奴だと苦笑を浮かべる。どうせ帰る場所は同じなのだし、自分達はもう少し酒場でのんびりしようと銘々席に座り直す。
「まったく、カズマはしょうがないですね。騙されていたのは同情しますが、調子に乗り過ぎなのですよ」
「……ん、まあ、私達も笑ってしまったからな。屋敷に帰ったら優しくしてやろうではないか」
「プークスクス! カズマさんったらなっさけない顔して逃げ出していったわ。私達を大事にしない罰が当たったのよ、いい気味だわ! すいませーん、しゅわしゅわおかわりくださーい、カズマさんのつけで!!」
どうせ明日になれば、また顔を合わせて騒がしい日常が始まるのだから。だから、彼女達は深く考えなかった。
明日も同じ毎日がやって来るなんて保証は、どこにもないと言うのに。
ギルドを飛び出して、前も見ずにがむしゃらに走り続けて、一体どこまで来たのか自分でもわからない。そもあても無く逃げ出してきたのだから、行先など何をいわんやである。
息が切れて、壁に手を突いてぜいぜいと喘ぐ。かなりの間走った気がするが、それでも涙は途切れずにぽたぽたと滴り、石畳の地面を濡らしていた。
辺りは人気も民家の明かりもあまりない路地裏の様だ。駆け出し冒険者の集まるここアクセルは、治安の良い街なので辻強盗に会う心配はないが、それでもあまりの人気の無さには不安を覚える。悲しみで弱まった心には特にだろう。
「ちくしょう……、あいつら……ちくしょう……」
酒場から逃げて来たので酒におぼれて逃げることもできやしない。今家に帰れば仲間の三人も帰っているかもしれないので、素直に屋敷に帰る気にもなれない。今はまさに路頭に迷っている気分だ。
「帰りたい……、もう日本に帰りたい……」
辛い事があると毎度呟いている台詞だが、今日ばかりは心底に故郷に帰るのを切望してしまう。それほどまでに今の彼は追い詰められていて、弱り切った心には癒しが欲しかった。
だが癒しと言っても、今は女性に近寄りたくない。もう誰も信用できないし、女には特にその気持ちが強かった。おかげで何時ものサキュバスのお店を利用するのにも、今は忌避感が出来てしまっている。
こんな気分の時は酒でも買いこんで、個室に引きこもってしまおう。家には帰り辛いから宿屋を利用して、一人で静かに飲み明かそう。
借金も返済し大金を手に入れたと言うのに、自分はなんでこんな事をしているんだろうと、よけい惨めな気分になりつつも、その足を行きつけの宿屋に向けようとして――
その場にへたり込んでしまった。路地の壁に背を預けて座り込み、脱力したまま気だるげに天を仰いだ。アルコールが入ったまま走ったせいか、頭がボーっとして全然立ち上がる気力が湧かない。
「はぁーあ……、人生にリセットボタンがあればいいのに……」
なんだかもう、無性に嫌な気分になってしまった。このまま何もかも投げ出して、いっそのこと何も知らない場所で一からやり直してしまいたい。別に知らない世界でなくても良い、この世界でも最初からやり直せれば、少しはマシな状態に出来るはずだ。
「やり直したい……。最初から……、チート貰って人生ウハウハのバラ色の生活が出来るようにやり直したい……」
思えば人生やり直しの再スタートで、腹いせに女神を特典に選んだことで大きく躓いてしまったのだ。せめてあの時に戻れれば、そうすれば今度は素晴らしい世界を満喫できる筈なのに! 誰でも良い、どうか自分にもう一度チャンスを、あの頃に戻ってやり直すチャンスをください!
胸の内で熱く叫んで、祈る様に瞳を閉じた。どうせかなわぬ願いだろうが、願わずにはいられないのだ。
「……では、その願い叶えてやろう」
唐突に目の前から声がした。男か女か、老いか若きか、くぐもっていて判別は出来ない。だが危機感だけは煽られる唐突な声であった。
目を見開いて声の方に向ければ、そこに居るのは全身をローブで包み込んだ異彩な姿。そのローブの中から掌が伸びてきて視界を覆われ――
「契約は成立した」
そこでカズマの意識は途切れた。
「佐藤和真さん、ようこそ死後の世界へ。貴方はつい先ほど、不幸にも亡くなりました。短い人生でしたが、貴方の人生は終わってしまったのです」
唐突に掛けられた声により、少年ははっと意識を取り戻す。
周囲を見渡せばそこは真っ白な部屋で、在るものと言えば小さな事務机と椅子が一つずつ。そしてその椅子には、蒼い髪の美しい女性が悠然と腰かけていた。
一見すれば、とても人が持ち得るとは思えない程の美貌。普段人と話す事も少なく、女人とまみえる事も無かった少年からすれば、戸惑ってしまう様な美人であるのは間違いない。
だが、何だろうか目の前の相手には、異性としての魅力をまるで感じない。それどころか、急速に頭も気持ちも冷めて行くのを自覚する。この女の見た目に騙されてはいけない、絶対に何かしら残念な要素を持っている。そんな確信めいた予感が胸中に芽生えていた。
そして彼女は自身の事を女神アクアと称し、若くして死に至ったものを導く役割を為していると語る。その口からは、如何にして少年――佐藤和真が死に行ったのかも語られた。
「私、長くこの仕事やってきたけど、こんなに珍しい死に方したのはあなたが初めてよ?」
日本人、佐藤和真はトラックとトラクターを誤認し、轢かれるはずもなかった少女を突き飛ばして怪我を負わせた。その上、自分は轢かれたと勘違いして、恐怖のあまり失禁して失神。そのまま心臓麻痺でぽっくり逝ってしまい、医者や看護婦達に笑われながら看取られたと言う。終いには駆け付けた家族ですらも、泣きだす前に吹き出す始末。
「やめろおおお! 聞きたくない聞きたくない! そんな情けない話は聞きたくない!」
それを聞かされた少年は頭を抱えて止める様に喚いた。さもあらん、己の恥を改めて聞かされて嬉しい者など居よう筈もない。それを語る女神が大爆笑しながらなので尚更である。
やっぱりこの女神の性格は最悪だった。可愛い顔してるからって何をしても許されると思いやがって――別に本人がそう言ったわけではないが、指差してまで笑われた方は恨み骨髄に徹すである。少年の中に、最早この女神に対しての尊敬やら憧れやらは微塵も無い。何時か泣かす――そう強く胸に抱かせていた。
「ねー、早くしてー? どうせ何選んでも一緒よ」
女神はその後、三つの選択肢を突き付けてきた。娯楽も何もない天国とは名ばかりの地獄で暮らすか、記憶を無くしてまた日本で赤子からやり直すか。それとも、剣と魔法の異世界に、チートな特典と共に転生するか。
「引き籠りのゲームオタクに期待はしてないから、なんか適当に選んでサクッと旅立っちゃって」
無論、選ぶとすれば異世界転生しかないだろう。もとよりゲームの類は、長い引き籠り生活で得意どころかライフスタイルにまで昇華している。実際に剣と魔法の世界に行けるのであれば、何を置いてもこれを選択しない手はない。
そして今は、女神が変なポーズで床にぶちまけた、転生者用のチート性能なスキルやアイテムの一覧を眺めている。
この特典達の厳選には手は抜けない。ここでミスをしてしまえば取り返しは効かないし、何より異世界転生のだいご味である俺TUEEEが出来なくなってしまう。
とにかく必死で頭を回転させ、少しでも有利になる特典を選び抜かなければ――
「何でもいいから、はやくしてーはやくしてー」
「さっきからうるさいな! こっちは今後の人生がかかってるんだぞ、そんな簡単に決められるわけないだろうが!」
それにつけてもこの女神、他人の人生がかかっていると言うのに不平不満タラタラである。出会った時から思っていたが、見かけはともかく中身の方は本当に最悪だ。
今まで溜まった鬱憤もあり、ついには荒い語調で言い返してしまった。
「ちょっと、ありがたくも麗しい女神様に向かってずいぶんな口の利き方じゃないの」
「なんかお前とは初めて会う気がしないんだよ。さっきからの態度で尊厳なんかも吹き飛んでるしな、良いからちょっと黙ってろ」
しっしっと犬でも追い払う様に手を振る。今はこんなのに構っている暇はないのだと、床に散らばる書類を拾い上げて再び読みふける作業に戻った。
しかし、それを許せるほどこの女神の度量は広くは無かった。
「なっ!? 本来なら姿を見られるだけで感謝される女神アクア様に向かって、黙ってろですって!? 社会不適合者のヒキニートの分際で、いい加減にしないと罰当てるわよ!」
キーキーキーキーと、金切り声で喚き立てる女神様。慎み深さなど最初から持ち合せていなかった様に、小さな事務机をバンバン叩いてがなり立てている。そのせいで、先ほどまで抓んでいた菓子類が飛び散ってしまっていた。
だけども少年は取り合わない。無視を決め込んで、ひたすら書類に集中集中。良さそうな特典の乗っている物は、他と分けて脇に置いておく。
そんな態度が更に癪に障ったのか、女神の叫びは更に苛烈になって行く。
「何よクソニートのくせに無視する気!? この引き籠り男! 童貞! 甲斐性なし! 馬鹿っ! 間抜けっ! えーっと……、大馬鹿ぁ!」
無視だ無視。どうせもう関わり合いにならないこんな女にかまけるよりも、この先一生付き合っていく大事な特典の方が重要に決まっている。少年は響いて来る雑音に負けず、また一枚書類を拾い上げて――
「そんなんだから将来を誓い合った幼馴染の女の子に捨てられるのよ! はんっ、不良の先輩のバイクの後ろに乗せてもらってるのを見かけて、ショックで引き籠りになるなんて器が知れるわね!!」
どうやって知ったのか、女神がそんなことを言い出した。死亡した理由も知っていたようだし、少年を罵倒する為にわざわざ彼の過去を調べたのかもしれない。仮にも女神ならばそれ位はできるのであろう。
言われた少年はぴくりと一瞬だけ反応して、しばしその動きを止めた。
そして、無言のまま立ち上がると、罵倒し倒して肩で息をする女神に向けて、酷く静かに語りかけた。俯いているのでその目元は見えないが、口元は緩く微笑んでいる様にも見える。
「持って行くモノって一つだけなら何でも良いんだよな……」
「ぜぇっ、ぜぇっ、何よ今更そんな事の確認? そうね、そのリストにない物でも問題は無いわ。って言うか、その前にこの私に謝って! 麗しい女神様を無視してごめんなさいって謝って!」
謝罪を求める叫びを聞き流しながら、少年は質問の答えに口元の笑みを強める。それから、酷く緩慢にその手が上がり、ぴっと女神の顔を指差した。
「持ってくモノ、決まったよ」
突然の少年の行動が出来ずに、喚いていた女神も思わず鼻白む。何の意図があるのだろうと顔に浮べ、ついでに頭の上にもハテナマークが浮かんでいる事であろう。
それでもようやく特典を決めたのかと思い、女神としての仕事を思い出してどっかりと椅子に座り直す。不機嫌さを隠しもしていないが、こんな気分を害する男などさっさと異世界に放り出してしまおう。その後は何処でのたれ死のうが知った事か。憤懣遣る方無しもありありと、目を閉じて男の続きの言葉を待つ。
「あんた」
少年は――佐藤和真は短くそれだけを呟いた。
その日、駆け出し冒険者の町アクセルに、とてつもなく神々しい神気と共に、水の女神が降臨した。
その気配は普通の人間には感じる事も出来ない物であったが、一部の悪魔、一部の魔族、一部の狂信者達、そして、魔王城の者達に、影響を与える事となる。
それは誰にも気が付かれない事ではあるが、この物語の始動を告げる物である事は間違いないだろう。始まりの鐘が鳴り響いたのだ。
「ねぇねぇ今どんな気持ち? 散々バカにしてた男に、異世界に持って行く者に指定されてどんな気持ち!?」
「嘘よ、こんなのあり得ないわ! 女神を連れて行くなんて反則よ! 無効でしょ!? 無効よねぇ!?」
「女神ならそのパワーでせいぜい俺を楽にさせてくれよなぁ!!」
「いぃーやあああ!! こんな男と一緒に異世界行きだなんて、嫌あああああっ!!」
「なぁーっはっはっはっ、はぁーぃ!!」
異世界入りは、勝利を確信した高笑いと女神の泣き声を引き連れて、今始まる。
世界をやり直すに際して、ルールが二つ。
ルール一つ目。
最初から再生される世界では、一週目の記憶は引き継がれない。よってこの制約について説明する意味は無く、契約者に告げる必要性は無い。
ただし、魂に刻み込まれた経験は消す事が出来ない為、それは違和感や既視感となって現れる。
ルール二つ目。
特等席から、やり直した世界を見物させてもらう。このこともまた、忘れてしまうため告げる必要性は無い。
以上二つをルールとし、契約者には世界をやり直してもらう。
「難儀な契約をしたものだね。せいぜい僕も楽しませてもらおうかな」
年若いとしか分からない中性的な声色で、誰にとはなしにそんな言葉が囁かれた。これは、『今は』物語の外からの言葉である。
発言者もまた、行動を開始した。