バレンタインでも甘くない
「ぬぅ…」
眠気眼を擦り、ゆっくりと起き上がる。
今日は、珍しく秘書艦の娘が来る前に起床できたな。
ここ最近、イベントも近いせいか、肩書きに見合わないほどの書類に忙殺されているので、こんな時間に起きられるのは珍しい。
…特にやることもない、さっさと着替えて執務室にでも向かうとしよう。
そう思い立ち、提督専用の軍服が掛けられている洋服箪笥に向かおうとした。
ゾワッ、と
嫌な予感がした。
言葉に表すのは難しいが、こう、人の危機感を最大限煽るような感覚。
咄嗟に私は、自らの本能に従って、目の前の箪笥に身を隠した。
息を潜め、その嫌な感覚が無くなる様に祈っていたその時。
ガチャり、と
私の私室のドアを開ける音、それと共に。
「提督、おはようございます。朝ですよ、起きてください」
という声が聞こえてきた。
この声は…扶桑か、彼女は今日の秘書艦だし、この部屋に来ていつもの通りに私を起こしに来てくれるのはなんの問題もない。
ならば何故、私はこんな所に隠れているのだろうか?
扶桑の様子は、先程の声を聞く限り、特におかしな所もない。
…急にこんな事をしている自分が恥ずかしくなり、私は箪笥から出る事にした。
「あら?提督?…なんでそんな所から…」
「あ、あぁ、いや、何でもない。本当になんでもないんだ。済まない」
「い、いえ、それなら大丈夫ですけれども…」
やはり彼女はいつもの通り、何も変わらない。
一体、何故あの様な悪寒がしたのかは分からないが…やはり、気のせいだったのだろうか。
だとしたら、私の勘も鈍ったものだ。
「提督、そう言えば、今日は何の日か、知っていらっしゃいますか?」
「今日が、何の日か…?」
…何か、あっただろうか、まずい、何も思い出せない。
今日は2月14日…2月の14日?一体、何だったか…
「…済まない、何も思い出せない、今日は何の日だ?」
「もう、提督ったら、今日は…バ レ ン タ イ ン で す よ ?」
「っっ!!」
扶桑の雰囲気が…変わった?
これは…先程感じた悪寒とまるて同じ感覚だ。
では、やはり、アレは私の勘違いなどでは無かったのか?
しかし、今日がバレンタインだと言うことは思い出したが、扶桑の様子がこんなにもおかしくなる理由がまるで分からない。
バレンタインと何か関係があるのか…?
「ふ、扶桑?どう、したんだ?」
「ふふふっ、いえ、何でもありませんよ。それで、バレンタインと言えば、チョコ、ですよね?」
「あ、あぁ、そうだが…」
「なら、提督、私のチョコを…受け取って、貰えますか?」
バレンタインと言えばチョコ、当然だろう。
だが、それと扶桑の様子もは全く関係ないだろう。
重い空気が部屋中に広がり、どんよりとした空間になる。
心無しか、気温も下がったように思える。
そんな不穏な空気になる様なことは、ないと思うのだが…
「あぁ、よ、喜んで受け取るとしよう」
「まぁ嬉しい!それでは、はい、私からのバレンタインチョコです♪」
彼女が私に差し出したのは、リボンが巻かれ、控えめな装飾が施されている、彼女らしさが滲み出ている紙包みであった。
小さめで、何が入っているのかは見当もつかない。
正直、今の扶桑を見ていると、これは受け取らずに今すぐにでも逃げ出してしまった方がいいかと思わんでもないのだが、それは彼女を大いに傷つけるだろう。
だから、それだけは駄目だ。
「提督、ワガママを言うようで申し訳ないのですが、今ここで、味見をしてもらえませんか?」
「…味見?」
「はい♪私も事前に味見はしたのですが、提督の舌に合うかどうかは不安で…今すぐ、確かめて貰いたいのです」
そういう理由なら、断る必要も無いだろう。
特に何も考えず、私は、貰った包み紙のリボンを解き、中身を開封した。
…何が出るのかと、内心、少し警戒していたのだが、出てきたのは至って普通のチョコだ。
「それでは…頂くとしよう」
「はい♪」
一言、言ってから、チョコを口に入れる。
…甘い、そして美味い。
味も何も問題は無い、チョコである。
警戒心を抱いていたのが馬鹿のようであった。
…ん?この味は…
舌に違和感、そして拒絶反応。
とっくに口内に浸透しているチョコ、いや、恐らく麻痺毒に驚愕する。
秘密諜報訓練の際に様々な毒を飲まされ、抗体を作った私だからこそ、一口程度の服毒には耐えられたが…恐らくこれは、とんでもなく強力な毒だ。
しかし、一体…
「な、何故、こんなものを…」
「……」
「ふ、そう、答えてくれ、何故…」
「ふふふふっ、提督が、悪いんですよ」
「…?」
「私は、これまで毎日のように貴方にアピールしてきました。私の恋心を、淡い、蕩けてしまいそうな感情を、それなのに、鈍感な貴方はいつもそれに気づいてくれないで、他の女ばっかりに目をかけて…貴方の事を一番好きなのは私なの、一番愛しているのは、この私なのに、それなのに提督はいつもいつも……、だから、ここで1度、私の気持ちを分かってもらおうと思ったんです」
「……」
「いくら鈍感な提督でも、ここまでされたら気づいてくれるでしょう?…そう、私は、提督、貴方を愛しています。この世界の何よりも、他の何よりも貴方を愛しています」
「…扶桑」
「だから、提督…私のモノになってください。他の娘達なんか忘れて、私だけの提督に…」
「……扶桑、お前の気持ちは、よく分かった」
「では…!」
「だが!だが、済まない…その気持ちに、答えることは出来ない」
「…どうして、ですか」
「…今は、戦中だ、お互いの命は常に危機に晒されている。いつ死ぬかもわからん世の中で、私は家族を作る勇気など無い。それも、その家族を戦場に送り出すなど…」
「…て、提督…」
「だが!」
「!」
「…だが、この戦争が終わり、平和になった世界ならば、私は安心して家族を持つことが出来るだろう」
「だから」
「私と一緒に、戦ってくれ、扶桑。そして、この戦争を終わらせよう…いつになるかも分からんが、な」
「て、提督…、はい、はい…私、頑張ります。一生懸命、努力します…!だから、提督、私と…」
「…待ってくれ、その続きは、この戦いが終わった後に、私から、やり直させてはくれないか?…私だって男なのだ、それくらいは…いいだろう」
「……!そう、ですね、その時を、楽しみにしています」
「あぁ、精々、私なりに精一杯やらせてもらうとしよう…さて、まずは、目の前の問題を片づけるとしよう」
「…はいっ!提督!」
そう言って私は、涙ぐむ扶桑の肩を抱いた。
彼女の気持ちを知った今、私の心は、今までにないほどに燃えている。
とにかく、この戦争を終わらせ、平和を手に入れよう。
全てはそこからである。
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潮騒の弾む海辺に、一軒の小さな家がある。
そこには、過去の大戦を終戦に導いた英雄と、その彼を支え続けた一人の女が住んでいるという。
その英雄と、女の恋模様を描いた話は、あまりにも有名だ。
愛を誓い合った二人の、長く、苦しい戦い。
終わらぬ戦争にいつまでも、諦めずに挑み続け、遂には全てを終わらせた彼と彼女の物語。
そんな二人は、かつての鎮守府の近くにある海辺にある家に腰を下ろし、静かに平和を甘受している。
時折、彼等と共に戦った戦友たちがふらりとそこに現れては、思い出話に花を咲かせ、今を語り合う。
当時は、英雄を狙っていた彼女達だが、今はその気配もなく、すっかり落ち着き、それぞれ家庭を持っている。
今という時代を作り出した本物の英雄には、あまりにも似つかわしく無い暮らしだが、彼等はその慎ましやかな暮らしに満足している。
曰く、「妻と共に居るのならば、私はどこでだって幸せであろう」との事だ。
熱々カップルである。
そんな二人は、今を作りし英雄と、それと共にある彼女は、今も平和に、日常を過ごしている。
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「…ぬぅ」
とても長い、夢を見た気がする。
何故だろうか、それは、私の記憶に深く刻まれているにも関わらず。曖昧で、いざ記憶の表面に思い浮かべようとしても、モヤが掛かったようで見えずらい。
しかし、何だかとても暖かくて…
「…いい、夢だったのだろうな」
と、素直に思った。
…着替えるとするか。
洋服箪笥に手を伸ばし、軍服を羽織る。
皺は…無いだろう。
よし、少し早いが…執務室にでも行くとするか。
そう決心した矢先、コンコン、とドアがノックされる音が聞こえてきた。
声をかけ、入室を促す。
確か、今日の秘書艦は…
「おはようございます、提督♪」