午後5時44分。校内にウェストミンスターの鐘が鳴り響いた。閉校の合図だ。
同時に、私こと栗栖礼子はノートと筆記用具、参考書を片付け始める。既に図書室に他の生徒の姿はなく、校庭には慌てて道具を片付ける運動部員の姿がチラホラ見えるだけ。
私が通う八尺学園は、戦後間も無く設立された、中高一貫型教育型の私立校だ。仏教系の精神を信条とした郷土の名士数名の手で創立された学校で、 何の因果か、その中に私の曽祖父も名を連ねていた。以来、我が家は中等部までは必ず八尺学園に通うことになっている。
学業のレベルは県内の平均より、やや上といった程度だが、開校以来、スポーツ教育に熱心であることで知られている。だが、その割に下校時間は厳粛に守られていて、校長、教頭、学年主任が毎日欠かさず校内を見回りにやってくる。
そこで捕まると、説教が長いことを八尺生はよく知っているので、五分前には校外に退去するのが鉄則である。
時代がかった旧式の黒い詰襟学生服やセーラー服の群が、苔生した石造りの校門からパラパラと流れ出ていくのを見守りつつ、私もまた帰り支度を整えた。
我が校は基本的に全校生徒に、何らかの部活動に所属することを強制している。新入生は5月の連休明けまでに、なんらかの部活動へ入部届けを出すことを義務付けられ、帰宅部は認められていない。
しかし、在校生の誰もが毎日汗をかく健康的な青春を望んでいるとは限らず、その場合は文化系クラブに入部届けを出し、幽霊部員となるのが通例である。
学校側も実態は把握しているが、このご時世にまさか運動部以外認めないなんて方針で生徒が集まるはずもなく、ほんの十年ほど前に文化系クラブの設立が許可されて以来、ある程度なし崩し的にそうなったようだ。
その代わり、幽霊部員は委員会活動を優先的に割り当てられるのだが、それすら余り有効に機能しているとは言い難い。
ただし、運動系と文化系の予算の割り振りには大幅に差があるし、教師は何かと運動系クラブを推してくる。
これは、初代理事長が掲げた文武両道の精神に基づくもので、部活動=スポーツ活動だった時代の名残らしい。
まあ、去年の春に天文部への入部届けを出しながら、まだ一度も部室を訪れたことのない私には、どうでも良いことだが。
普段なら、放課後と同時にまっすぐ帰宅し、早めに宿題を片付け夕食を取り、後は夜半まで父に稼業の手ほどきを受けるのが常なのだが、恐らくはその稼業絡みの問題で、本日は不本意ながら自主的居残りを決め込むはめになったのである。
慌てて校門に殺到する生徒の群の最後尾で、靴箱から学校指定の革靴を取り出し、最後に愛用の日傘を開いて、夕暮れ時のきつい西日をしっかりと遮る。
そして、できるだけ自然に、ゆっくりと校門まで歩いた。
案の定、私が最後の一人のようだった。
「こんな時間まで、なにボヤボヤしてんの!早く帰れって……?栗栖、お前がこの時間まで居残りとか珍しいな…?」
バシバシと竹刀を地面にす叩きつけ、目を怒らせて生徒を追い散らしているのは、ジャージにポニテ生活指導担当、彼氏いない歴3◯年になろうかという体育教師の寺田真希絵である。
かつてスポーツ特待生として母校の陸上強化選手だった彼女は、今では陸上部顧問兼生活指導担当として辣腕をふるっている。
姉御肌で豪快なので、運動部系の女子に人気があるが、それが男を遠ざける要因ではないかと密かに噂されていた。
「図書委員の仕事が長引いただけです。寺田先生、さようなら」
「最近物騒だから、寄り道せずに帰れよ〜!」
背後で校門を閉ざされる音を聴きながら、私は足早に学舎から遠ざかった。
人通りの多い商店街を抜け、住宅地を通り過ぎ、徐々に街の灯りから遠ざかっていく。
やがて、田園地帯に差し掛かり、自宅に続く長い上り坂の手前で、私は歩みを止めた。
錆びた街灯の他には家の一つもない、田舎道。人の気配はおろか、先ほどまて耳にうるさかったセミの鳴声一つすらしない。
だが、私の耳はやや距離をとって背後をつけ回す、複数の足音を捉えていた。
まったく、授業中にも塀の外にチラホラと姿が見え隠れしていたもので、警察や学校関係者に見咎められて騒ぎになったらどうしようかと、気になって仕方がなかった。
さて、とりあえず、ここまでは狙い通り。
鬱陶しい太陽の光は海の彼方に落ち消えて、あたりは心地よい宵闇に閉ざされている。眼鏡に反射する西日の最後の名残を鬱陶しく思いながら、私はさしていた日傘をしっかりと折りたたんで、通学鞄にしまい込んだ。
そして、自身のスイッチを切り替える。
「…誰かは知りませんが、朝から付きまとわれて、些か不快です。望み通り、一人になって差し上げましたよ?」
背後を振り返れば、そこには数人の人影。
老いも若きも男も女も、およそ関連性の見当たらない集団が、暗闇の中に佇んでいた。
まるで、そこらから適当にかき集めてこられたかのように、彼らは取り止めがなかった。
共通するのは、生気のない顔、胡乱な目つき、そして全身に纏った酷い悪臭。まるで、大型の獣の死体が腐ったかのようなそれは、間違いなく彼ら自身から発せられている。
いったい何処から調達したのか知らないが、7月に入り夏の盛りを迎えたこの季節に「こんなもの」を一日中動かしていれば、然もありなん。
それが、私の機嫌を直撃した。
人通りが少ないとはいえ、市街地の近くで「こんなもの」を平然と扱う人間の神経に、不快感を通り越して殺意が滲み出る。
それを向けるべき相手は、ヨタヨタとした動作で近づいてくる男女の群のさらに奥で、佇んでいた。
「栗栖礼子、だな?」
問いかけるというより、断定する口調だった。
日が落ちて涼しい時分とはいえ、トレンチコートにソフト帽を目深にかぶり、怪しさを隠しもしない格好の不審人物。
こいつが哀れな連中を操っている術者か。わざわざ姿を晒したのは、こちらを舐めているのだろうか。
「捕らえろ、殺すな」
男が命ずるより早く、私は行動を完了していた。
学校指定の黒い通学鞄から取り出したのは、片手に収まるくらい小さなフラスコ瓶。
コルクの栓を取り去ると、中にみっちりと詰まったマシュマロのような白い球体が、勝手に瓶の口から飛び出した。
それは足元に転がり落ちると、急激に膨張と変形を始めた。
まず、白い肉球が爆発するように巨大化し、手のひらに収まる程度から、人の背丈を越えるほどに膨れ上がる。
さらに、種から植物が芽吹くように、白い触手が4対伸びたかと思えば、細い手足が形成された。
最後に、顔に相当する部位が胴体からボコボコと盛り上がると、薄い切れ目が縦横に走り、裂けて中から真っ赤な舌と、鮫のような牙を持った口中を覗かせる。
その場に現れたのは、生白い肌をした人型の怪物。フラスコの中で生まれた人造人間、ホムンクルスだ。
「そいつは殺さないように。残りは破壊なさい」
ホムンクルスに命令を下すと同時に、自身の肉体を強化する。
「Beat/鼓動せよ」
ドクン、と心臓の音が鳴り響き、血流が増速。酸素供給を強制的に増量させ、身体能力を強化する。この程度なら、切り札を使う必要もない。
ほぼ同時に走りだしていた私の体は、セーラー服のスカートを翻し、先頭の一人に後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
「Beaten/鎮まれ!」
接触の瞬間、靴の爪先から掌サイズの刃が飛び出し、中に仕込まれた術式が起動する。青白い光を放ち、瞬時に接触箇所を凍りつかせた。
関節の筋肉を凍結させられた「死者」はその場で転倒し、無様に手足をバタつかせた。さらに上から踏みつけて地面に貼り付け、凍りつかせると、ようやく動きを止める。
人間の死体に仮初めの術式を組み込んで、簡易な使い魔とする典型的な魔術だ。材料を調達するのが面倒だし、保存も効かないが、耐久性に優れている。
死人の筋肉に電流を流して操作するにせよ、適当な魍魎を憑依させ操るにせよ、痛みを感じず頭部や心臓といった重要臓器を破壊されても動き続ける。動きが遅いのが幸いだが、数がそろうと厄介だ。
倒すには丸ごと焼き払うか、可動部を破壊するか、あるいはこうやって氷結させるしかない。
こうして、非常識の時間が幕を開けた。
我が来栖家は遡ること九代、およそ二世紀前に、オカルト趣味をこじらせたあげく、身代を潰したイングランドの放蕩貴族を開祖に持つ。
バーミンガムに申し分のない所領を持っていたくせに、資金を湯水のように注ぎ込んで錬金術(アルケミー)にのめり込み、瞬く間に没落してしまったという。
オカルトに魅せられた無知な金持ちというのは、さぞや良いカモだったのだろう。出所の怪しい粗悪な品々ばかりつかまされて、悦に入っていたようだ。
だが、ただの馬鹿でもなかった。阿漕な連中に毟られて盛大に散財しつつも、奇跡的に本物の「魔法使い」の仲間入りを果たしたのだ。
「魔法使い」というのは、厳密には語弊があるのだが、分かりやすくいえばそういうことだ。世の中には、創作や御伽噺ではなく、超自然に干渉し、操る術が確実に存在する。
その力を称して、魔術と呼ぶ。
つまるところは、呪文を唱えて人を豚に化けさせ、箒にまたがって空を飛び、卑金属を貴金属に変える、そんな非常識の塊だ。
ただし、御伽噺と違うのは、そこには科学とは異なる、きちんとした法則があり、理りがあるということ。単にそれが大多数の一般人には秘匿されているだけなのだ。
では何故、秘匿されているかといえば、この魔術という代物が、それを知る人間の数が多ければ多いほど、効果が減じてしまうという厄介な技術だからである。
例え10の力を持つ魔術があったとしても、その技法を知る人間が二人いれば、効果は5に減ってしまう。三人ならば3.3、四人ならば2.5と、知られれば知られるほどに魔術の効果は減衰する。
故に、魔術を知る人間は少なければ少ないほど良い。
でなければ、今頃は科学に代わり魔術が発達した世界になっていたかも知れない。
まっとうな魔術師は世間に魔術を秘匿し、自ら学ぶためだけに魔術を研鑽し、やがて後継者にのみ伝授する。
魔術は一子相伝、ただ一人の後継者以外には、自身の子供にすら己が魔術を明かさないのが常識だ。
しかも、それは科学技術に比べて極めて効率が悪い。
例えば、先に例を挙げた卑金属の貴金属化など、スプーン一杯の金を生み出すのに、その何十倍ものコストをかけて手間と資材を消費しなければならないというトンデモナイ代物なのである。それはご先祖様も身代を潰すってものだろう。
魔術というのは、どんな分野のどんな系統であれ、このような不合理さがつきまとうのだ。
では、学ぶ意味などないではないか、単なる道楽に過ぎないのか、と言われれば、そうではない。
どれほどのコストをかけようとも、魔術でなければ未だ実現不可能な到達点は確実に存在する。
死者蘇生、不老不死、時間旅行、あるいは、あらゆる事象の原典、「万物の根元(arkhē)」への到達。
いずれも魔術を極めた先にあるという奇跡である。
それに魅せられ、群がり、幾世代も年月を積み重ねる群体。それを称して魔術師と呼ぶ。
世の魔術師はひたすらに魔術を研鑽し、自らの代で望む成果がでなければ、有りっ丈の無念と呪いを込めて、研究成果を後継者に託し、引き継がせる。しかも、より優秀な後継者を生み出すために、今で言う遺伝子操作なんてものまで、公然と使われて。
古い家系ならば、それこそ千年以上も、そんな報われない年月に費やしている。それが、魔術師の世界では家系の歴史の古さが評価に値するとされる所以だ。
我が家もその例に漏れず、初代から数えて何代かは、財産を食いつぶしながらうだつの上がらない研究の日々を送っていたそうだ。
だが、ついに嫌気がさしたのか、あるいは完全に破産したからか、四代前の当主の時代に、文明開化やら殖産興業やらでやっきになっていた日本政府の応募に飛びつき、この国にわたってきた。
所謂、お雇い外国人というやつだ。
表向きはアルコールや石けんなどの工業製品や、ワイン、ハム、チーズといった加工食品の製造指導に携わったそうだが、いずれも我が家が得意とする魔術、つまりは錬金術に関わり深い物ばかり。
アルコールや石鹸は実験には欠かせないし、食肉の加工処理も生体系の触媒(カタリスト)の作成には必須の技術だ。
破格の給金を貰いながら、研究材料をタダで手に入れられるのだから、おいしい仕事だっただろう。
ちなみに、この時期はちょうど欧米列強が植民地獲得競争にやっきになっていた頃であり、それに乗じて一旗あげようとしていた資本家達に紛れて、かなりの数の魔術師が極東にやってきたらしい。
何せ、欧州の主要な霊地や霊脈は千年以上も前から「協会」と呼ばれる古い魔術結社にがっちりと抑えられていて、成り上がりが食い込む余地などみじんもない。
そこで新興の魔術師達はこぞってアジアやアフリカ、あるいは新大陸に活路を求めた。
おかげでこの国にも、西にはとある大魔術儀式が定期的に執り行われる街があれば、東には世界有数の霊地を持つ一族がいたりと、魔術の本場、欧州には比べるべくもないが、それなりに魔術師が入り込んでいる。
もっとも、大半は寺社や陰陽寮といった、この国に古来から存在する既存の魔術結社によって、散々な目に遭わされ追い払われたそうだが、その点、我が来栖家はうまくやった。
下手に魔術に頼るのではなく、政府の有力者に根回しして、話術と交渉力を武器に、十分な規模の霊地を合法的に取得したのだ。
表向きには政府の仕事に必要な農場や工場建設の用地として確保するためと偽り、買収に税金と権力を使わせた挙句、二度の大戦の混乱期を利用して書類を差し替え、まんまと我が家の私有地にしてしまったというのだから、魔術師というより詐欺師のやり口だ。
そんなだから、同業者から「オカルト崩れの詐欺師の子孫」だの「魔術で舌を何枚も移植している」などと陰口を叩かれるのだが、まあ、些細な問題だろう。
ついでに、政府関係者から(恐らくは魔術を使って)聞き出した情報から、整備予定の軍事施設や工場用地、あるいは調達予定の発注案件など、将来的に旨みのある土地やら利権やらを手堅く押さえ、ささやかながら財産を稼いてくれたのである。
現代でいうところの、インサイダー取引というやつだ。まあ、世の資産家など、多かれ少なかれこうやって富を築いている。
おかげで、今代の私は何不自由なく魔術を研鑽できるというもので、ありがたい話だ。
しかし、念願かなったは良いものの、我が家はすぐに魔術の研究にばかり没頭するわけにはいかなくなった。狙う側から狙われる側へと立場が逆転したからだ。
我が家の歴史はせいぜい二百年、歴史の古さが評価に直結する魔術師の世界では、ルネサンス期以降にできた家は悉く新興の家柄に分類される。
分家や一門も存在しないため、規模としても大きくない。
先祖が放蕩者だったこともわりと知られていて、バカにされてもいる。
そんな来栖を与し安しと侮ってか、霊地や資産を狙って、フリーランスのはぐれ魔術師なんかが、時折、群がってくるのだ。
こんなふうに。
私は、足元に這いつくばっている死者の頭を、靴の踵で踏み抜いた。
ごきり、と固く薄い何かが割れる感触が伝わり、不快感が増す。
当然のごとく悲鳴は上がらず、バタバタと手足を蠢かせていた動く死体は、それでようやく動かぬ死体に成り果てる。
今のが、最後の一体だったらしい。
周囲には同じく動きを止めた残骸が、至る所に転がっていた。
大半は完全に凍りつき、白い霜に覆いつくされて、大地に縫いとめられている。
流石に私も息が上がっていた。
血流操作の魔術により、胎内の酸素供給量を一時的に増やすとともに、脳内麻薬の分泌を促すことで、痛みや疲労感を麻痺させているので、疲労感はそれほどでもない。いずれも我が家の得意とする魔術だが、あまり多用すると後日のしっぺ返しが恐ろしい。
体に怪我はないが、死者の腐った血でお気に入りの靴が汚れたのが、何より許せなかった。八つ当たりは存分にさせて貰おう。
私は眼鏡の位置を正すと、両脇をホムンクルスに抱えられ、締め上げながら、罪人のように引き立てられて来た男が喚いているのを一瞥する。
「は、話が違うぞ⁈来栖の後継者はろくに魔術も使えない出来損ないじゃなかったのか⁈」
うん、それは要求水準のやたらと高い父が、事あるごとに知人にそう吹聴して回った結果なのだが、あえて訂正する必要は感じなかった。
見た目はくたびれたサラリーマンのような、特に特徴のない男だ。強いて特徴をあげるなら、この男だけはまだ生きている。
つまり、か弱い女子中学生に、死者の群をけしかけて来た下手人である。
おおかた、私を人質に取ろうとしたのだろうが、相手を中学生と侮り、自ら姿を晒したのが運の尽きだ。
傍らのホムンクルスにも目立った損傷はない。
これは、父が自身の血と精液から生み出したもので、知性はなく簡単な命令しか受け付けないが、頑丈で馬鹿力な上に、フラスコにいれて小さくして持ち歩けるので、中々便利である。
護身用にと、小学校に通い始めた際に渡されて以来、外出するときには必ず持ち歩いている。
急ごしらえで雑な施術の死者など、いくら群がろうが物の数ではない。
男は何やら耳を塞ぎたくなる罵詈雑言を飽きることなく並べ立てていたのだが、
「オカルト被れのクルスの小娘が‼︎」
その一言は、流石にムカついた。
私はひとまず、その薄汚い口を閉ざすべく、男の股間を蹴り上げた。
「ギャァ‼︎」
途端に、生贄用の豚のように無様な悲鳴があがったので、少しだけ溜飲が下がった。
だが、すぐに蹴り足に伝わった臓器の潰れる感触の不快さに相殺される。
今の私の筋力は魔術によって強化されている。相手が魔術師だろうが、マトモに喰らえばこのとおりだ。
血の小便を垂れ流して小刻みに震えだした男を、ホムンクルスに命じて無理やり地べたに押し付けさせ、その頭に靴の踵を乗せた。先ほどの光景の焼き直しである。
「ま、まっでぐ、げぇっ!!」
普通なら激痛でまともに喋れないところだが、男は怯えた眼差しで叫んだ。腐っても魔術師だ。痛覚遮断か、自動治癒でも仕込んでいたのだろう。
男の懇願を意に介さず、頭蓋骨がミシミシと音をたて出すまで圧迫する。
「や、やべれ、やべでえぇええ!!」
もう何ミリか押し込めば砕けるだろう。
思わず、舌で唇を湿す。
その時は無自覚だったが、私の顔はきっと、加虐の快楽に歪んでいた筈だ。
だって、とても良い反応をするのだもの。
「…クヒっ」
つい、笑みが零れてしまう。
絶妙な手加減を発揮し、骨が砕ける寸前で、足先で男の体を乱暴に蹴り飛ばす。
再びの痛みに男が呻き、涙を流して泣き喚くのを、さらにおはじきのように蹴り飛ばした。
本当に良い声で鳴く豚だ。思わず、もっともっと痛めつけてやりたくなってしまったじゃないか。
ああ…っと、イケない。悪い癖が出るところだった。あたりに立ち込める血の匂いに酔ったらしい。
ひとまず相手の気力は削ったので、良し。こんなもので十分だろう。
今度は右手の爪で、自分の左手の指先を傷つける。赤い針頭のよいな血の雫が滲んでくるのを、男の口中へと落とした。
呪文を口にし、自身を魔術を扱うための機構へと組み替える。
「Beat/鼓動せよ」
途端に、男は静かになった。その瞳は焦点を失い、口は半開きのまま、血の混じった涎を垂れ流している。
簡単な暗示の魔術だ。本来は、一般人ならまだしも、魔術師相手には効きづらいのだが、自分の血を触媒に使った上に、相手は痛みで集中力を奪われていたから、抵抗されなかった。
「私を襲ったのは、何故?」
「来栖譲二への人質に使うためだ」
予想通りの答えだった。
魔術師は一子相伝、自らの家系の魔術を伝える後継者は重要である。一人前になるまで家の外には出さない家系もあると聞く。
私の身柄は単なる手札で、本命は父だろうとは思っていた。
「仲間はいるの?」
「いる」
「仲間は何処?」
「市内のホテル」
「ホテルの位置は?」
「一ノ宮の駅前にある東鳩イン」
受け答えが単調だが、私の魔術では、相手を催眠状態に落とさなければ効果が発揮されないので、あまり複雑な質問はできない。
これがより高度な魔術師ならば、相手の意識を保ったまま、思い通りに支配できるらしいが、今の私にはこれが精一杯である。
白状すると、精神操作系の魔術は、あまり得意ではない。
その後、仲間の人数、名前、得意とする魔術、やり口や目論見などを聞き出して、質問を打ち切った。
思ったより、相手は規模が大きい。対策をとる必要があるが、私が焦っても仕方がない。どうせ急がずとも、父は既に事態を把握しているだろうから。
使い魔は、その製作者と霊的なパスで繋がっていて、見たものや聞いたものを共有することができる。
私が父のホムンクルスを使ったのは筒抜けなので、今頃は必要な対抗策を打っているだろう。未熟な私の手が必要なら、すぐに連絡してくる筈だ。
ならば、今は事後処理を済ませる方が先決だ。
周囲には音が漏れないよう、簡易結果を張ってはいたが、あまり時間をかけすぎると、騒ぎが漏れる恐れがある。
「Beaten/鎮まれ」
再び魔術を使うと、男は完全に昏倒した。これで十二時間は目を覚まさない。
通学鞄から別の小瓶を取り出し、吸い口を向ける。すると、男の体がするりと小さな瓶の中に吸い込まれた。
これもまた父が手に入れ、手を加えたもので、単一機能に特化した限定礼装と呼ばれる魔術道具の一つだ。
生きた人間、それも魔術師からはそれなりに希少な使い魔や礼装が作れる。持ち帰れば、父が実験材料か何かに使うだろう。
後はこの死体の山だが、当然、放置はできない。
自宅近くで一般人に騒がれ、マスコミに群がられ、ワイドショーのネタにでもなったりしたら目も当てられない。
魔術は秘匿されるべきもの。
魔術の隠匿を怠り、協会に介入され、潰された魔術師は多いのだ。
結局、その場しのぎで近くの藪の中に埋めたのだが、痕跡を隠蔽し、人払いの魔術をかけ終えるまでに小一時間はかかってしまったのだった。
了